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 霧の立ち込める薄暗い河原に、嗚咽(おえつ)が響いていた。

「無様だな。大の大人が泣くとは情けない」

 まるで感情のこもっていない声で時治が言った。彼の視線の先で、地面に四つん這いになって泣いている男性がいる。
 無論、兼嗣だった。彼の体はすでに元の大人の姿へと戻っていたが、スーツが汚れるのも構わず全身を震わせてしゃくり上げる様は幼い子どものようでもある。

「右京さんは……俺のせいで死んだんや」

「そうだ。右京はお前を生かすために死んだ。お前さえいなければ、あの娘は死なずに済んだのだ」

「なら……二十年前のあの日、ほんまなら俺が死ぬべきやったんや。俺が死ななあかんかったのに、なんで」

 自分のせいで彼女が死んでしまった。本来なら自分が死ぬべきだった。自罰的なその思いはやがて、兼嗣の全身から黒い(もや)となって立ち上る。
 きたか、と時治は身構える。兼嗣が呪いを生み出していく。黒い靄はみるみるうちに質量を持ち、人の姿を形成していく。そして、

「よお、兼嗣」

 黒い靄は人型のシルエットとなり、兼嗣に語りかける。まだ声変わりを迎えていない少年の声。

「あの時はよくもまあ上手く生き延びたもんだな。でももう逃がさねえぞ」

 聞き違えるはずがない、獅堂の声だった。もはやトラウマに近いその声色を耳にしながら、兼嗣は顔を上げることもできない。

「今日こそは俺があの世まで連れてってやる。地獄で右京に詫びるんだな」

 シルエットはどんどん大きくなり、人の背丈の何倍にも膨れ上がっていく。天まで届くかと思われたその勢いが止む頃には、高さ十メートルはあろうかという真っ黒な怪物が出来上がっていた。
 怪物はのっそりと鈍い動きで片足を持ち上げたかと思うと、それを兼嗣の頭上へと持っていく。このまま踏み下ろせば、兼嗣は立ち所に圧死するだろう。しかし彼はもはや顔を上げようともしない。

「武藤家の倅よ。ここで死ぬつもりか? 自らの生み出した呪いに殺されたとあれば、それは自殺と変わらない。現世に戻ることは二度と叶わんぞ」

 そんな時治の忠告にも耳を貸さず、兼嗣はその場を動こうとしなかった。巨大な足は容赦なく彼の頭上へと迫る。そして、

「兼嗣!」

 今にも踏み潰されようとした刹那。どこからともなく現れた影が、兼嗣の体を掻っ攫うようにして駆け抜けた。
 直後、ドスン! と巨大な足が地面を踏みつける。

「あっっっぶねえぇー……」

 冷や汗を流しながら、すんでのところで兼嗣を救い出したのは天満だった。彼は危機を脱したのを確認すると、両腕で抱え上げていた兼嗣の体をペッと地面に投げ捨てる。

「おい金ヅル。いつまで凹んでるんだよ。このままじゃ殺されるぞ。しっかりしろ!」

 天満は苛立ちを露わにするが、対する兼嗣はその場に転がったまま起き上がろうともしない。

「天満か……。余計なことすんなや。俺はここで死ぬんや。……いや、死ななあかんねや」

「てめえ、ふざけたこと言ってんじゃねーぞ」

 脱力したままの兼嗣の胸ぐらを掴み、無理やりに顔を上げさせる天満。

「右京さんがどんな思いで、お前を助けたと思ってる。あの人が身を挺して守ってくれたその命を、お前は投げ捨てようっていうのか!?」

 その言葉に、兼嗣はわずかに瞳を揺らす。だが、迷いの色を拭えないその目は天満の方を向いていない。
 そうこうしている内に、怪物は重苦しい雄叫びを上げ、またしてもこちらへと近づいてくる。大きく開かれた巨大な手が、平手打ちをするようにこちらへと迫る。
 天満はチッと舌打ちすると、再び兼嗣の体を安全な場所へと突き飛ばした。そのまま眼前まで迫った巨大な手のひらの衝撃を全身で受け止める。
 ドッ、と重い音を立てて、天満の体は横方向へと弾き飛ばされた。そのまま十数メートルの弧を描いてから、地面へと叩きつけられる。
 着物ごと全身がずるむけになり、視界が赤く染まる。おそらくは致命傷に近い。しかしこれだけのダメージを打ち返せば、あの巨大な怪物にも太刀打ちできるかもしれない。

「……永久流・呪詛返し!」

 痛みと鉄の味に染まる口を無理やりに動かして、天満が叫ぶ。途端、彼の全身が青い光を放ち、それは怪物の体をも飲み込んで爆発を起こした。激しい土煙が、その場一帯に吹き荒れる。

「やったか!?」

 瞬時に体を回復させた天満はその場に立ち上がり、期待を込めた目で煙の先を見た。
 だが、

「まだだな」

 そう答えたのは時治だった。
 彼の言った通り、土煙の晴れたその場所には、変わらず巨大な黒い怪物が立っていた。わずかにダメージを受けているようにも見えるが、おそらく致命傷には程遠い。