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 同じ頃。兼嗣は川のせせらぎを耳にして目を覚ました。霧に包まれた薄暗い河辺で、彼はのろのろと上半身を起こす。

「くそ。あのジジイよくも……」

 と、自分の口から出たその声に、違和感を覚える。なんとなく、いつもより声がずいぶんと高い気がする。

「あれ?」

 再び発したその声も、やはり高かった。まるで子どものような。

「どうなってるんや?」

 彼はぺたりと地面に座り込んだまま、己の両手を胸の前で開いてみせる。
 小さい。幼子のような手のひらが、目の前に晒されている。

「ちょっと待て。もしかして」

 あることに思い当たり、彼はすかさず川の方へ体を寄せる。そうして穏やかに揺れる水面の上に、ずいと身を乗り出す。
 鏡のように反射したそこに映っていたのは、小学校低学年くらいの少年——幼き日の兼嗣の姿だった。

「おいおいおい。俺、体が縮んでるやんけ。どうなってんねん。これもジジイの仕業か!?」

 よく見れば服装はいつものスーツではなく、昔よく着ていた浴衣だった。青と白のストライプ柄で、ご丁寧に下駄まで履かされている。

「ふざけやがって。おいジジイ! 出てこいや! どこに隠れとんねん!」

 張り上げた声は何度もこだまして、やがて虚空へと消えていった。返事はない。
 まずいな、と思う。
 ここはおそらく黄泉の入口。時治の呪いに巻き込まれて、意識だけがこちらの世界へ迷い込んでしまったのだろう。そしてここから現世へ戻るためには、自分一人だけではどうすることもできない。

「おい天満。おらんのか?」

 試しに腹違いの弟の名を呼んでみるが、やはり反応はない。はぐれたのか、そもそも彼はこちら側へ来ていないのか。
 さてどうするか、と考えるより先に、体が動いていた。彼は小さな体でその場に立ち上がり、川とは反対の方向へ歩き出す。
 アテはないが、とにかく今は動くしかない。その場でじっとしていても、誰も助けには来ないのだから。

(なんか、昔のことを思い出すな……)

 自分がいま、子どもの頃の姿をしているからだろうか。兼嗣はぼんやりと昔の記憶を掘り起こす。
 あのときも、誰も助けてはくれなかった。本家の屋敷で、こちらの味方をする者はほとんどいなかった。
 物心がついた頃には母に連れられて東京を飛び出していたが、呪詛返しの力を継いだこともあり、本家からは何かと呼び出しがかかる。
 東京へ向かう度に、体が震えた。次は一体何をされるのか。特に、あの獅堂には……。

「おい」

 不意に、すぐそばから声が降ってきた。どこか威圧的な少年の声。
 ハッと兼嗣が顔を上げると、目の前にはいつのまにか、見覚えのある男が立っていた。年齢は小学校の高学年くらいだが、背丈はこちらより一回りも二回りも大きい。見慣れた黒っぽい袴姿で、ライオンの(たてがみ)のような癖のある赤毛を持つ。

「お前、性懲りも無くまた来たのか。本家の人間でもないくせに、勝手に屋敷に入ってくんなって言ったよなぁ?」

 その懐かしい声を耳にするだけで、全身が萎縮する。

「し、獅堂……?」

 思わず声がひっくり返りそうになった。
 永久獅堂。本家の次男坊であり、二十年前に死んだはずの少年がいま、目の前にいる。