◯
同じ頃。兼嗣は川のせせらぎを耳にして目を覚ました。霧に包まれた薄暗い河辺で、彼はのろのろと上半身を起こす。
「くそ。あのジジイよくも……」
と、自分の口から出たその声に、違和感を覚える。なんとなく、いつもより声がずいぶんと高い気がする。
「あれ?」
再び発したその声も、やはり高かった。まるで子どものような。
「どうなってるんや?」
彼はぺたりと地面に座り込んだまま、己の両手を胸の前で開いてみせる。
小さい。幼子のような手のひらが、目の前に晒されている。
「ちょっと待て。もしかして」
あることに思い当たり、彼はすかさず川の方へ体を寄せる。そうして穏やかに揺れる水面の上に、ずいと身を乗り出す。
鏡のように反射したそこに映っていたのは、小学校低学年くらいの少年——幼き日の兼嗣の姿だった。
「おいおいおい。俺、体が縮んでるやんけ。どうなってんねん。これもジジイの仕業か!?」
よく見れば服装はいつものスーツではなく、昔よく着ていた浴衣だった。青と白のストライプ柄で、ご丁寧に下駄まで履かされている。
「ふざけやがって。おいジジイ! 出てこいや! どこに隠れとんねん!」
張り上げた声は何度もこだまして、やがて虚空へと消えていった。返事はない。
まずいな、と思う。
ここはおそらく黄泉の入口。時治の呪いに巻き込まれて、意識だけがこちらの世界へ迷い込んでしまったのだろう。そしてここから現世へ戻るためには、自分一人だけではどうすることもできない。
「おい天満。おらんのか?」
試しに腹違いの弟の名を呼んでみるが、やはり反応はない。はぐれたのか、そもそも彼はこちら側へ来ていないのか。
さてどうするか、と考えるより先に、体が動いていた。彼は小さな体でその場に立ち上がり、川とは反対の方向へ歩き出す。
アテはないが、とにかく今は動くしかない。その場でじっとしていても、誰も助けには来ないのだから。
(なんか、昔のことを思い出すな……)
自分がいま、子どもの頃の姿をしているからだろうか。兼嗣はぼんやりと昔の記憶を掘り起こす。
あのときも、誰も助けてはくれなかった。本家の屋敷で、こちらの味方をする者はほとんどいなかった。
物心がついた頃には母に連れられて東京を飛び出していたが、呪詛返しの力を継いだこともあり、本家からは何かと呼び出しがかかる。
東京へ向かう度に、体が震えた。次は一体何をされるのか。特に、あの獅堂には……。
「おい」
不意に、すぐそばから声が降ってきた。どこか威圧的な少年の声。
ハッと兼嗣が顔を上げると、目の前にはいつのまにか、見覚えのある男が立っていた。年齢は小学校の高学年くらいだが、背丈はこちらより一回りも二回りも大きい。見慣れた黒っぽい袴姿で、ライオンの鬣のような癖のある赤毛を持つ。
「お前、性懲りも無くまた来たのか。本家の人間でもないくせに、勝手に屋敷に入ってくんなって言ったよなぁ?」
その懐かしい声を耳にするだけで、全身が萎縮する。
「し、獅堂……?」
思わず声がひっくり返りそうになった。
永久獅堂。本家の次男坊であり、二十年前に死んだはずの少年がいま、目の前にいる。