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 弥生はこれまでの被害の状況を一つ一つ並べていったが、どの場合でも犯人の顔は見えなかったのだと言った。誰かに小石を投げつけられたという軽いものから、駅のホームで線路に突き落とされたという危険なものまで。

「私、やっぱりこのまま殺されるんでしょうか」

「そう悲観してはいけません。まだ犯人の狙いも何もわかっていないのですから」

 一度気分転換をさせた方がいいかと、天満は散歩を提案する。彼女の同意を得て公園の中をあてもなく歩いていくと、やがて南側にある博物館の方へ出た。

「うおおお。子規(しき)記念博物館! もう何年も中に入ってないなぁ」

 道の先に現れた灰色の四角い建物に、天満は胸を躍らせた。
 松山市立子規記念博物館。小説『坊っちゃん』の著者である夏目漱石と並んで、俳人・正岡子規(まさおかしき)はここ松山を代表する偉人である。

「観光、好きなんですね」

 ふふ、と弥生は小さく笑った。天満にとっては初めて見る彼女の笑顔だった。どうやら散歩の提案は正解だったらしい。

「いやあ、旅行には目がなくて。ほら、普段と違う景色を見るのって、なんだか新鮮で良いじゃないですか。非日常っていうか別世界というか。お気に入りの場所に何度も行くのも良いですけど、知らない土地をあてもなく彷徨うのも好きですね。普段抱えてる悩みとか色々なものから解放されて、全部どうでも良くなるっていうか……」

 そこでハッと我に返る。

「す、すみませんベラベラと。年甲斐もなく、ついはしゃいでしまいました」

「いえ。気にせんといてください。そうやって楽しそうに話してるのを見ると、なんかホッとします」

 弥生の笑みは消えていない。どうやら少しずつ心を開いてきてくれているようで、天満も思わず安堵の笑みを漏らす。

「でも意外でした。東雲さんにも悩みとかあるんですねえ」

「そりゃあ人間ですからね。誰だって悩みの一つや二つくらいあるでしょう。だからこうやって、普段抱えているストレスを自分の好きなことで発散しているんですよ」

「そんなに観光が好きなんでしたら、博物館も見ていきます?」

「いやいや。あの静かなスペースで会話するのは気が引けるので。それに、外をぶらぶらするだけでも楽しいですよ。松山は好きな街ですから」

 そのままさらに歩き続けていくと、道の先には石造りの鳥居が見えてきた。せっかくだからお参りしていこうと、二人はそちらへ足を向ける。

「げっ。すげー長い階段……」

 神社の入り口には軽く百段は超える石段があり、天満はげんなりとした顔でてっぺんを見上げた。その反応を面白そうに眺めながら、弥生は一足先にと上り始める。

「お先に行っちゃいますよ。早くついてきてくださいね!」

「あっ。弥生さん、そんな殺生な」

 さすがは十代。途方もなく長い階段を一つ飛ばしでどんどん上っていく。天満もそれに続いたが、最上段に着く頃にはとうに息が切れていた。

「ふふ。東雲さん、なんだかお爺さんみたい」

 ニコニコと年相応の笑顔を見せる彼女の姿は、最初に見たときとはかなり印象が変わっていた。きっと、こちらが本来の彼女なのだろう。()()さえなければ、彼女はこんなにも平凡で愛らしい女の子なのだ。