壁際にあった棚にぶつかり、飾られていた物がバラバラと床に落ちる。それには構わず、彼女はもつれそうになる足を必死で動かす。しかし廊下に出たところで何かに(つまず)き、派手に床へと倒れ込んだ。
 四肢を投げ出したまま、頭だけを動かして振り返ると、開け放された(ふすま)の向こうからぬっと母の目が覗く。

「あ……あ……」

 ゆらゆらと近づいてくる母の姿に、弥生は瞬きすらできなかった。
 殺される。殺される!
 再び立ち上がろうとしたものの、体が言うことを聞かない。腰が抜けてしまったようだ。

「いや……お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい!」

 包丁を握る母の手が、ゆらりと頭上へ掲げられ、こちらへと迫ってくる。弥生は恐怖でギュッと目を瞑り、やがて来る衝撃に備えた。しかし、

「弥生さん!」

 暗い廊下に天満の声が響く。
 まだ衝撃はやって来ない。恐る恐る目を開けると、目の前に立つ母は包丁を掲げたまま動きを止めていた。背後から、天満が羽交い締めにしている。

「があああ……ああああッ!」

 まるで獣のような咆哮を上げる母。天満の腕を振り解こうと暴れる度に、長く伸びた髪が乱れる。

「弥生さん、冷静になってください。これは『呪詛』。あなたが自ら生み出した呪いです!」

 天満は包丁の切っ先を気にかけながら叫ぶ。

「私が、生み出した……」

「そうです! あなたは、母親が死んだのは自分のせいだと思っていた。潜在的に罪の意識を抱えて生きてきた。そして先月の誕生日、あなたはあの遺書の一節を読んで、それまで心の奥底に留めていた思いを抑えられなくなり、呪いを生み出した。あなた自身を殺そうとする呪い——それが、この呪詛の正体です。この女性は、あなたの母親ではありません!」

 母親ではない。その言葉に、弥生は震える瞳で目の前の女性を見上げる。
 髪を振り乱し、奇声を上げて暴れる、痩せた喪服姿の女。手にした包丁の切っ先は、絶えずこちらを向いている。

「で、でも、東雲さん。母は、私のせいで死んだんです。私を恨んでるんです。なら、こうして私を殺しに来たっておかしくないやないですか。人の心が呪いを生み出すなら、この呪詛は、母が生み出したものやないんですか?」

「弥生さん、思い出してください。あなたのお母上は、実の娘を殺そうとするような冷酷な母親でしたか!?」

 その問いに、心臓が跳ねる。
 脳裏に過ったのは、いつもやわらかな笑みを浮かべていた母の顔。
 あの人は、実の娘を殺すような、そんな残虐なことはしない。母は誰よりも優しくて、あたたかくて。どれだけ体が辛い時でも、娘のことを一番に思ってくれていた。
 
「ああああ……あああああッ!」

 一際大きな奇声を上げた女性は、ついに天満の拘束を振り解く。勢いで吹き飛ばされた天満は廊下の壁に背中を打ちつける。その彼の胸を目掛けて、女性は刃を振り下ろした。

「東雲さん!」

 ドッ、と鈍い音が壁を揺るがせた。
 女性の握る包丁は、天満の胸の中心に深々と突き立てられていた。