煉魁は、あやかし国を飛び立つと、人間界に降り立った。
 黒い羽目板のある木造の蔵が立ち並び、タイヤが三輪の車が石畳の街道を走っていた。
 若い女性は袴を着て、楽しそうにお喋りに興じている。男性は和装や洋装が入り混じり、学ランに高下駄を履いて音を鳴らして闊歩している者もいる。
 そんなところに、銀色の長い髪をした眉目秀麗な男性が、薄い紫を帯びた白地の着物で立っているのだから異様に目立つ。
 煉魁は周囲の街並みを一瞥すると、「ここじゃないな」と一言呟いて飛び立った。
 いきなり人間が空を飛ぶように移動していったので、そこにいた人々は騒然となった。

 一足跳びをして向かった先は、祓魔一族の住む山奥だった。
 (ひのき)(かし)の木が整然と並び、光を吸い込んだ生い茂った緑に囲まれている。木々を刈り込むように、大きな屋敷が点々と立ち並び集落を形成していた。

(ここが琴禰の生まれ育った場所か)

 さきほど煉魁が降り立った都会とは違い、静かでのどかな場所だった。
 煉魁がどこに行こうか逡巡していると、集落の中でもひと際大きな屋敷から澄八の気配を感じた。さらに、多くの村人が集まっているらしく、祓魔の力がその屋敷に集中していた。

(何をやっているのだ?)

 煉魁は気配を消して大きな屋敷の外に降り立つ。
 中では数十人の村人が一堂に会していた。集落の中で一番大きな屋敷とはいえ、あやかしの御殿ほどの大きさはないので、人々はぎゅうぎゅう詰めで座っていた。
 部屋の一段高くなった上座には、老輩の女性が鎮座している。
 そして、その側には腕に包帯を巻いた澄八が神妙に座っていた。

(なんだ、あいつ。降り立つのに失敗して怪我したのか。間抜けな奴だ)

 恋敵の不運に溜飲が下がる。
 何を話しているのか耳を澄ませると、琴禰と自分に関することだったので、心臓が大きく脈打った。

「琴禰が裏切ったというのは本当か!」

 紺色の着物を羽織った男が野次を投げるように言った。

「はい。琴禰は、あやかし王と結婚していました。最初は血の契約を遂行するためだと思ったのですが、どうやら本気で恋に落ちてしまったようです」

 澄八の言葉に、煉魁は眉を顰める。

(裏切り? 血の契約? 琴禰は澄八と駆け落ちするのではないのか?)

 家族含め、祓魔一族に殺されかけたと聞いていたので、琴禰は祓魔には戻らず、澄八と駆け落ちのような形で暮らす予定だと思っていた煉魁は、話の内容についていけなかった。

「あやかし王に恋をしたとは、やはり琴禰をあの場で殺しておくべきだったのじゃ。あの女は祓魔を滅亡に導く厄災じゃ」

 老婆の言葉に、煉魁は怒りが湧き上がる。
 今すぐ部屋に乗り込んで、祓魔一族を根絶やしにしてやりたいほどだ。

「お言葉ですが、大巫女様。あの場で琴禰に攻撃をしていたら、殺されていたのは我々ですよ? それはここにいる皆さんも分かっているでしょう?」

 澄八の言葉に、村人たちは目を逸らして黙り込む。

「だが、琴禰と、あやかし王が手を組んだら、我々などひとたまりもないでしょう。現状はむしろ悪化しているのでは?」

 村人の一人が言った。すると澄八は勝ち誇ったような顔で語り出した。

「あやかし王はまだ何も知りません。僕が琴禰の力を暴発させればいいのです。そうすれば、あやかしの国に甚大な被害をもたらすことができて、なおかつ琴禰の命も奪えます。あやかし王は琴禰を寵愛しているので、もしかしたら琴禰を助けようとして自らの命を犠牲にする可能性だってあり得ます」

(なんという男だ)

 ここまで性根が腐った男だとは思わなかった。琴禰が何と言おうと、絶対にこの男の元にだけは行かせられない。

「あやかし王が人間のために犠牲になるわけがないだろう」

 嘲笑する野次が飛ぶ。
 澄八はむきになって反論した。

「二人は心の底から愛し合っていました。琴禰は、あやかし王を守るために自らを犠牲にして、僕を殺そうとまでしたのです。あの虫一匹すら殺せない軟弱な琴禰が、ですよ?」

「それは琴禰の話であって、あやかし王まで琴禰を心から愛しているとは限らないだろ」

「いいえ、あやかし達の話によると、あやかし王の方が執心しているそうです。国中から反対されても琴禰の結婚を押し切ったらしいです。琴禰のためなら何でもしそうなくらい溺愛しているように見えました」

 村人たちは顔を見合わせて、首を傾げている。半信半疑といった様子だ。
 一方、澄八の言葉を聞いた煉魁は、手で口を抑え呆然としていた。

(琴禰が、俺を守るために澄八を殺そうとした?)

 愛し合っているのではなかったのか。
 澄八と結婚したいから離縁してくれと頼んだのは嘘だったのか。
 なぜあんなに泣いていた。
 琴禰は、何を守ろうとしていたのだ。
 煉魁は我慢できなくなって、風を切るように手を下から斜め上に掲げた。
 すると、強烈な突風と力で屋敷の瓦部屋が吹き飛んだ。
 壁もろともなくなり、村人たちは呆気に取られた。
 煉魁は彼らの頭上に飛び、冷酷な瞳で見下ろした。

「あれは?」

 村人が煉魁に気が付き、指をさす。

「あやかし王!」

 澄八が恐怖の面持ちで声を上げた。

「あれが、あやかし王? まるで人間みたいじゃないか」

 言い伝えとは、まるで異なる姿に、恐怖よりも驚きが勝っているようだ。

「血の契約とはなんだ。答えなければ、今すぐお前たちの息の根を止めてやる」

 煉魁は眉間に縦皺を入れると、剣幕を抑えた声で言った。
 村人たちはようやく自分たちの置かれている状況を理解し、悲鳴を上げて逃げようとしたが、見えない結界が張られていて、逃げ出すことができない。

「血の契約は決して破ることのできない誓約じゃ。琴禰は自らが助かるために、あやかし王を倒すという血の契約を結んだのじゃ」

 大巫女が立ち上がり、煉魁を見上げて言った。

「契約を破ろうとするとどうなる?」

「その者の意思に関係なく契約は発動される。琴禰は澄八と契約を結んだので、澄八の意思一つで琴禰の力は暴発する」

 大巫女の言葉に、澄八は得意気な笑みを漏らした。

「暴発すると琴禰は死ぬのか?」

「そうじゃ」

「契約を失効させるためにはどうしたらいい?」

「契約者を殺せばいい」

 サラリと言った大巫女の発言に、澄八はぎょっとなり、慌てて言葉を付け加える。

「僕を殺したら、その瞬間に血の契約は発動されて琴禰も死にますよ!」

 この契約は澄八に得のように思えるが、殺される危険もはらんでいる。
 琴禰が死んでほしくない者にとっては澄八の盾となるが、逆に琴禰に死んでもらいたい者にとっては剣となる。琴禰を殺すことより、澄八を殺す方がたやすいからだ。

「ふむ、なかなか厄介だな、血の契約とやらは」

 煉魁は顎に手を当て考え込んだ。
 澄八を殺せば琴禰も死ぬ。
 だが、放置していれば澄八が力を発動させて琴禰は死ぬ。
 そして琴禰の力が暴発すれば、あやかしの国はただでは済まないだろう。

(なるほど、琴禰が守ろうとしていたのはこれか)

 泣きながら離縁してくれと懇願してきた琴禰の様子を思い出し、その隠された思いに胸が痛くなる。

「琴禰が死んだら契約はどうなる?」

「その場合は、契約は失効。互いの寿命が尽きても同じことじゃ。血の契約はあくまで当人同士の意思が尊重される」

 大巫女の言葉に、煉魁は苦々しげに口の端を上げた。

「当人同士の意思ね。そのわりにはあまりにも琴禰が不利ではないか?」

「血の契約を持ちかけたのは澄八じゃからな。澄八が得になるように契約を結ぶのは当然じゃ」

「僕のためというよりも、祓魔一族のためですよ。それに、琴禰は契約を拒むことだってできた。最終的に同意したのは琴禰自身です」

 澄八は得意気に言った。

「なぜ琴禰は同意した」

 煉魁の言葉に、皆が一様に目を泳がせた。
 真実を言えば、煉魁が激昂するのが想像できたからだ。

「それは……」

 大巫女が答えようとすると、澄八が被せるように言葉を遮ってきた。

「僕が答えましょう。祓魔を滅亡に導く厄災だと言われた琴禰は、その汚名を払拭するために血の契約を結んだのです。祓魔にとって厄災ではないと証明するためには、それほど大きな覚悟を示す必要があったからです」

「殺されかけていたからか?」

「そうです、琴禰が生き延びるために必要な提案でした」

 澄八は、血の契約を結んだのは琴禰を救うためでもあったと煉魁に思われるように、巧妙に先導していた。

「そもそも、なぜ俺を倒す必要がある。俺が死ぬと困るのは人間たちの方だろう?」

 煉魁の言葉に、村人たちはざわついた。
 あやかし王が死ぬと人間が困るなんて聞いたことがなかったからだ。

「え、いや、厄災を落としているじゃないですか」

 戸惑いながら答える澄八に、煉魁は真実を告げる。

「何のためにそんなことをするのだ。俺はそんな嫌がらせをするほど暇ではない。いや、暇ではあるが、そんな悪趣味はない。むしろ妖魔が人間界に行かぬよう牽制している。俺がいなくなったら人間界は妖魔だらけになるぞ」

 初めて聞く話に、澄八含め、村人たちは狼狽(ろうばい)し、周りの反応を窺うように辺りを見回した。
 これまであやかし王は醜い怪獣のような姿をしていると聞いていたのに、目を奪われるほどの美しさだったし、言い伝えは嘘だったのかと疑い始めていた。

「妖魔が人間界に来て何が悪いのじゃ。それこそ祓魔の出番ではないか。妖魔を退治できるのは祓魔だけ。祓魔一族は人間界で大いなる力を発揮し、絶大な権力と金を手に入れることができるのじゃ」

 大巫女の言葉に皆が驚いた。大巫女の側で仕えていた女が、信じられないと言った顔で問いかけた。

「大巫女様は、全てをご存知だったのですか?」

「ふん、愚問じゃ」

 皆は顔を見合わせてひそひそと話し出した。
 人間界に厄災をもたらすあやかし王を討ち取ることが、祓魔一族の念願だった。しかし実際は、妖魔という厄災が人間界に降り立たないように守ってくれている存在だった。

「意思一つで契約が発動されると言っていたが、発動の際に術式は使わなくても可能なのか?」

 煉魁の問いに、ハッとした澄八がすぐさま答える。

「はい。血の契約は意思に反応して効力を発揮します。琴禰が僕を殺そうとした時も、意思に反応し血が固まりました」

「つまりは、逆にいうと意思が絡まらなければ血の契約は発動されないのだな。琴禰が自分から命を絶とうとすれば血の契約がそれを制するが、殺され力尽きて死ぬ場合にはそれは発動されない」

「そういうことです」

 煉魁は、初めて出会った時に琴禰が死にかけていた時のことと、殺してくださいと懇願された時のことを思い出した。
 血の契約は、あくまで当人同士の契約。外的な力は関係しない。

「ふむ、大体のことはわかった。ゆえに、お前はもう用無しだ」

 煉魁が手をかざすと、澄八の体は見えない紐で拘束されたかのように動けなくなり、倒れ込んだ。
 それと同時に結界は解かれ、逃げ出すことができなかった村人たちは四方八方に駆け出した。

「何をした!」

 澄八が叫ぶと、煉魁は冷酷な眼差しを向ける。

「要はお前を動けなくして寿命が尽きるのを待てば良いのだ」

「そんなことをしていいと思っているのか⁉ 僕の意思一つで琴禰の命はないのだぞ!」

 すると煉魁は見下すように微笑んだ。

「動けなければ術を使えないのだろう、お前は」

 澄八は目を見開いて、青ざめた。

「意思一つで発動ができるのであれば、人間界に降り立った瞬間に発動していたはずだ。しかし、お前はしなかった。小賢しく慎重なお前が発動を遅らせた理由は、術を使えなくなっていたから。その腕の怪我のせいだ、違うか?」

 幼稚で愚かな王だと侮っていたが、全てを見破られていたことを知った澄八は、悔しさに歯を食いしばった。

「それに、お前が嘘をついたとき、村人たちは俺から視線を外した。実にわかりやすい」

 村人たちが逃げないように結界を張っていたのはそのためだったのかと澄八は驚いた。
 能ある鷹は爪を隠す。賢い者ほど普段は愚かに振る舞うものだと思い出したが、後の祭りだ。あやかし王は澄八より、一枚も二枚も上だった。

「仮に今後、何らかの手段で術が使えるようになり、琴禰の力を発動させたら、俺は必ずお前を殺す」

 煉魁は怒りに満ちた目で澄八を見据えた。
 琴禰を殺すことは、すなわち自分の命を失う引き金となる。そう理解した澄八は、恐怖に慄いた。

「さて、それではあやかしの国に戻るとするかな。琴禰を安心させて思いっきり愛するとしよう」

 先ほどまでの残忍な表情と打って変わって、煉魁は嬉しそうに頬を緩ませた。

「待ってください! 琴禰の力を発動させないと誓います! だから動けるようにしてください!」

 澄八は無我夢中で切願した。

「信じられぬ」

 煉魁は一刀両断した。

「血の契約を失効させる方法を考えます。だからどうか……」

「俺は今すぐ帰りたい。動けるようになりたければ死ぬ気で失効させる方法を見つけることだな」

「必ず見つけます! だから……」

 澄八が言い終わらないうちに、煉魁は飛び立った。
 後に残された澄八は横たわりながら、いつもと変わらぬ空を仰いだ。

「くそう!」

 澄八の怒りに満ちた悲痛な叫びは、祓魔の村に響き渡った。