春夏秋冬の草花が描かれている襖仕立ての鏡面から、朝日が差し込んでいた。
煉魁は目覚めると、頭だけ持ち上げ頬杖をつきながら、隣でしどけない姿で眠っている琴禰に目を落とした。
長い髪の毛から少しだけ見える、白く艶やかな肌。
毎夜堪能しているにも関わらず、目に入ると欲情してしまう。
疲れたのか、ぐっすり眠る琴禰の頭を撫で、こめかみに口付けを落とす。
琴禰の最近の様子がおかしい。だが、原因は分かっていた。あやかしの国に入ってきたあの優男のせいだ。
煉魁は一目見た時から澄八が気に食わなかった。理由は本人にも分からない。強いて言うなら男の勘だろう。
さっさと放り出してやりたいところだが、琴禰にお願いされては無下にはできなかった。
琴禰が望むことなら、何でも叶えてやりたい。それが、自分の本意ではなかったとしても。それが、煉魁の愛だった。
それと、もう一つ、煉魁には気になることがあった。琴禰の強すぎる力についてだ。
出会った当初は文字通り力尽きていたので分からなかったが、琴禰の潜在能力はそんじょそこらのあやかしよりも強い。
ほとんど力が回復してきた今では分かる。琴禰の力は強すぎる。異常ともいえる。
力の強い宮中のあやかしでさえ倒せるほどの力を持った人間など聞いたことがなかった。
祓魔は人間界でも特別な一族だと知ってはいたが、それにしても強すぎるのだ。
琴禰は一体、何者だ?
琴禰から、辛い過去のことは聞いていたが、もしかしたらもっと深い何かを抱えているのかもしれない。
それが何か琴禰に聞いてみたいとは思うが、辛そうな琴禰の顔を見ると、かわいそうでとてもそんなことできないのだ。
となると、聞けるのはただ一人。あやかしに入って来たあの男。
いけ好かない奴だが、琴禰の過去を知る人物だ。何かを知っているに違いない。
煉魁は眼光を鋭くさせ、起き上がると、鍛え上げられた体に着物を羽織った。
煉魁は、まずは人間の男がどんな人物なのか遠くから探ってみることにした。
男はまだ体力が回復していないにも関わらず、積極的に外に出て宮中内を探索しているようだ。
優しそうな雰囲気と物腰の柔らかさ、そして甘い顔立ちをしているので、侍女たちの人気は高いようだ。
しかし、男の目が笑っていないことに煉魁は当初から気が付いていた。
(胡散臭そうな男だな。だが、女はこういう腹黒い男に弱い)
俺の方が何倍もいい男だな、と煉魁は思う。
「そういえば、あの男の名はなんだったか。すら……ちがう、すみか、するめ……」
「澄八ですよ」
「ああ、そうそう、澄八だ!」
名前を思い出すのに没頭していたら、目の前に観察対象の澄八がいた。
「何をさっきから覗き見しているのですか、あやかし王」
「覗き見とは失礼だな。ここは俺の国だ。何を見ようと俺の自由だ」
煉魁は澄八の前で腰に手を当て背筋を伸ばした。
煉魁の方が炭八より頭半分くらい大きい。自らの優位性を誇示していた。
「確かに何を見ようと勝手ですが、するめはないでしょう。気になる相手の名前くらい覚えておくものですよ」
澄八は口の片端を上げ、呆れるように言った。
「気になる? 俺がお前ごときを?」
ごときと言われたことに、澄八は憤懣たる思いだった。
物腰は柔らかいが、澄八は矜持がとても高い。
「僕は、琴禰の初恋の人ですから」
「琴禰の初恋?」
煉魁は眉を顰める。
「おや、聞いていませんでしたか? てっきりそれを聞いていたから僕に嫉妬して、敵情視察にやってきたのかと思ってしまいました」
これまで下手に出ていた澄八だったが、昨日の琴禰との会話で、自身の方が優位だと分かったので態度が大きくなっていた。
「は? 俺が嫉妬? お前より何もかもが勝っている俺が嫉妬なんてするわけがなかろう」
これには当然、澄八の怒りに火がついた。
言い返そうと口を開いた瞬間、煉魁から殺気のような恐ろしい威圧感が放たれていたので、慌てて口を噤む。
絶対に怒らせてはいけない相手だと判断した澄八は、先ほどまでの高慢な態度は隠し、柔和な笑みを浮かべる。
「確かにあやかし王に勝てる相手はいませんよね。ちょっとした冗談ですよ。人間界では自分より立場が上な方に、わざとこういう冗談を言って相手と親しくなりたいという意思表示をするのです。そして、偉大な方はその冗談を受け流し、器の広さを証明したことで、周りから尊敬されるという流れです。つい癖で申し訳ありませんでした」
相手が潔く謝ってきたのに、ここでさらに怒ったら己の狭量さが際立つ。
さらに澄八は遠回しに、軽い冗談で怒るなんて器の小さい人のやることだと非難しているが、こう言われたら大体の人は怒りを鎮めざるを得ないことを計算した上での発言だ。
しかしながら、煉魁にはまったく効いていなかった。
「琴禰の初恋の人だからって調子に乗るなよ。俺は嫉妬なんてしていないからな! 分かったな!」
澄八を指さし、憤怒を隠そうともせず言い放ち、そして立ち去った。その姿は、まるで子どもが喧嘩の際に悪態をつくかのようである。
(あれ思いっきり嫉妬しているだろ。逆に隠す気ないだろ)
澄八は呆気に取られながら一人残された。
(あやかし王は暗君なのか?)
愚かで幼稚な王だと判断することもできるが、澄八の勘はそれを否定していた。
(あやかし王は良くも悪くも感情のまま直感で動く性質だ。洗脳や謀られるような失敗はしない。僕の最も苦手とする部類かもしれない)
澄八は巧妙に取り入るのが上手い。些細な言動から心を操り、自分の優位な方向に持っていく。
しかし、あまりに自己が確立していて軸がぶれない人は、澄八の思うように動かせないので苛々する。
(琴禰は僕のことが好きで、あやかし王の命を狙っている。僕に嫉妬し怒りを露わにしているあやかし王を見て、嘲笑ってもいい状況なのに、なんだ、このすっきりしない気持ちは。どうして負けたような気分になる)
澄八は苛々した表情で、親指の爪を噛んだ。
一方、琴禰の過去を聞き出そうとしていたはずの煉魁は、澄八が琴禰の初恋の人だという衝撃の事実を知ってしまったので、うっかり本来の趣旨を忘れていた。
(あいつが、琴禰の初恋の人だと⁉ 俺は信じないぞ。だが、もしも本当だったとしたら……めちゃくちゃ羨ましい!)
思いっきり嫉妬していた。
これは琴禰に問いたださなければいけない案件だと判断した煉魁は、そのまま真っ直ぐ宮殿へ向かった。
「琴禰!」
大きな音を立てて妻戸を開けた煉魁だったが、室内には誰もいなかった。
「奥様なら調理場へ行かれましたよ?」
通りかかりの侍女が言う。
煉魁は振り向き、不機嫌そうな表情で侍女に聞いた。
「調理場? なぜ」
「知らなかったのですか? 最近奥様は自分の分は自分で調理し召し上がっているのですよ」
琴禰は王妃となったのだから、何もせず優雅に過ごしていればいいのに、掃除に庭園の手入れに、今度は料理にと忙しない。
一体どうしてそんなことをしているのだと思って、煉魁は調理場に行ってみることにした。
広い調理場には、何人もの料理人たちが食材の下ごしらえをしていた。
その中で、着物の袖をたすき掛けし、白い割烹着を羽織った琴禰が、扶久と楽しそうに料理を作っていた。
料理人達が煉魁に気づき、手を止めて頭を下げる。その様子に気が付いた琴禰は入り口の方を見た。
目が合うと、琴禰は嬉しそうに微笑んで包丁を置いた。
煉魁は中に入ると、あやかし達を下がらせた。
「料理を作っていたのか?」
「はい。あやかしの食材は面白いですね。人間界の食材と変わらないのもあれば、見たこともない野菜や果物もあって、調理法も独特なものもあります。でも、どれもとても美味しいので、皆さんに教えてもらっていたのです」
琴禰の声が弾んでいた。とても楽しそうだ。
「どうして俺には作ってくれないのだ」
「だってまだ、人前に出せるような腕前じゃありませんし、もっと上手になってから召し上がってもらおうと思ったのです。まだ失敗してしまうことも多いので」
あやかしの調理器具は霊力で火をつけ加減を調整するので慣れるまで時間がかかりそうだったのだ。
「琴禰の作った物なら、失敗作でも食べたい」
煉魁が甘えたように言うので、琴禰は笑って食材に手を伸ばした。
「わかりました、今から作りますね。失敗しても怒らないでくださいよ」
「怒るわけがないだろう。不味くても全部食べる」
琴禰は困ったように笑いながら食材を選び始めた。
「嫌いな食べ物はありますか?」
「茄子と海鼠と干しぶどうと、軟らかな食感があるものが苦手だ」
「なるほど、けっこうありますね。では、それを使った料理にしましょう」
「え」
煉魁が嫌そうな顔をしたので、琴禰は笑った。
「冗談ですよ。煉魁様が好きなものは調理人たちから聞いているので、それを作りましょう。でも、好き嫌いは駄目ですよ。私が煉魁様の食事を作るようになったら、苦手なものも出しますからね」
「なかなか容赦ないな」
「煉魁様の健康を思ってのことです」
琴禰は慣れた手付きで野菜を切り始めた。薄く均等な大きさに小気味よい速さで切っていくので、煉魁は感心した。
澄八のことを聞きにきたはずなのに、言いだす機会を失ってしまった。
けれど、琴禰と二人きりでこうしていられるのは何より楽しい。
「出来ましたよ」
黒椀に青菜と共に美しく盛り付けられた鯛の煮つけと、からっと揚がった山菜の天ぷら。赤味噌汁に小さな土鍋で炊いた白米が御膳に並べられた。
どれも手間暇がかかり時間を要しそうなのに、あっという間に出来上がったので煉魁は驚いた。
「凄いな」
「お口に合えば宜しいのですが」
箸を取り、一口食べると、あまりのおいしさに目を見張った。
「とても美味だ!」
思わず大きな声が出る。お世辞ではなく、本当にびっくりするくらいおいしかった。
「ああ、良かった。あまりお待たせするのもあれなので、品数は少ないですが、ちゃんとお時間をいただければ、いつも煉魁様が召し上がっているような御膳を準備したいと思います」
「何でもできるのだな、琴禰は」
「いえ、祓魔にいた頃は、目が悪いし体も思うように動かず、鈍くさくていつも怒られてばかりでした」
琴禰は少しだけ顔を歪ませながら無理をして笑みを作った。
もう過去のことで、なんでもないことのように振る舞っているが、心に受けた傷はまだ癒えていないことを知り、煉魁は人知れず胸を痛めた。
「琴禰に優しくしてくれる者はいなかったのか?」
琴禰は記憶を引っ張り出すように天井を見上げて言った。
「あ~、澄八さんだけは優しかったです」
食べていた手が止まる。
意図せず聞き出す形となってしまった琴禰と澄八の関係性。
初恋の人、という煉魁にとっては不快極まりない言葉を思い出し、味噌汁で流し込む。
「その、澄八という奴はあれか? 琴禰にとって、その、は、は、はつ……」
「はつ?」
琴禰は、こてんと首をかしげた。
「初恋とか、そういう類の……」
煉魁の言葉に、琴禰の顔はわかりやすく真っ赤になった。
煉魁は大きな棍棒で殴られたかのような衝撃を受ける。
「いえ、あの、違うのです。澄八さんは、私の妹の婚約者だったので、そんな関係ではなく……」
「つまり、琴禰の片思い的な?」
再び琴禰の顔が赤くなる。
今度は撞木で鐘を鳴らすように、何度も頭を打ち付けられたかのような衝撃が煉魁を襲う。
自分で聞いておきながら毎度自爆している。
「あの、でも、その時はあの人のことをよく知らなかったのです。表面的なものしか見てなかったというか、そこまで多く話すこともなかったですし」
呆然自失の様子の煉魁に、必死で弁解してくれているのは分かるものの、初恋やら片思いやらは否定しないので、その優しさが心を抉る。
煉魁は自らを立て直そうと、琴禰の作ってくれた御膳を勢いよく平らげた。
「あいつには料理を作ってやったことはあるのか?」
「いいえ、家族にだけです」
煉魁は心の中でよし、と喜んだ。
「では、手を繋いだことは?」
煉魁は琴禰の手に触れ、指先を絡めた。
「ないです。触れたことすらありません」
煉魁は甘美な色気を含んだ瞳で琴禰を見据え、手を握っていない方の手で、琴禰の唇を撫でた。
「では、口付けしたことは?」
「あるわけがありません。だから、そのような関係性では……」
琴禰が最後まで言い終わらないうちに、煉魁は琴禰の唇を奪った。
情熱的な口付けは、すぐに唇を割って口腔内を蹂躙する。
「んっんっ」
息継ぎをすることさえ許されないような激しい口付けは、あっという間に二人の温度を高くする。
「お前は俺のものだ。頭のてっぺんから足の爪先まで、全て俺色に染めてやる」
煉魁は琴禰を自分の膝の上に座らせ、向き合う体勢で舌を絡ませる。
そして、着物の裾を割って入るように手を侵入させた。
「んっ!」
太腿に手を這わせられた琴禰は抗議の声を上げようにも、唇が塞がれているので言葉にならない。
身をよじって抵抗の意思を見せても、煉魁は琴禰をきつく抱きしめているので膝から降りることもできない。
「嫌か?」
煉魁はようやく唇を離し、欲するような目で問いかける。
「こんな所では……」
「では、場所を変えればいいのだな?」
琴禰は息も絶え絶えに小さく頷いた。
煉魁は琴禰を横抱きにして立ち上がると、愉悦の笑みを浮かべた。
「いいだろう。他の男のことなんて忘れさせるくらい、琴禰の体に俺を刻み込んでやる」
そう言うと煉魁は琴禰を横抱きにしたまま、周りに見せつけるように宮中内を歩き、宮殿へと連れて行った。
そして寝台に琴禰を横たわらせると、体の上に覆いかぶさり、嫉妬で燃えた目で悪戯な笑みを携えて言った。
「俺なしではいられない体にしてやる。覚悟しろよ?」
いつも以上に激しく琴禰を求める煉魁。
それが、琴禰を強烈に想う嫉妬心からきていることは明らかだった。
(私はすでに煉魁様のことしか考えられないのに)
伝えようにも、煉魁の熱情が激しくて、嬌声しか上げられない。
その日は日中から部屋に籠りきり、二人が出てくることはなかった。
澄八は苛々していた。
あやかしの国に来てから一週間が過ぎていた。その間に体力も回復し、人間界に戻れる日も近い。
それなのにも関わらず、琴禰は一向にあやかし王を討つ気配がないからだ。
機会は山ほどあるはずだった。あやかし王は琴禰に虜で隙だらけだ。
寝ているあやかし王の心臓を一刺しすれば全てが終わる。
あやかし王の力は強大で、命を奪える者などこの世に存在しないと思われているほどの絶大な権力者だが、唯一の弱点は琴禰だ。
琴禰ならば殺気を完全に消し、屈強な体に一刺しを加えられるほどの力を持っている。祓魔一族の宿願がついに果たされる時がきたにも関わらず、肝心の琴禰が何も動かない。このままでは何も起こらずに人間界に追い返される日がきてしまう。
焦る気持ちが、澄八の苛々を助長させていた。
澄八が、あやかしの国に来ることになったのは、琴禰の様子を探るためだった。血の契約を結んでいるので、琴禰が死んでいないことは澄八には分かる。
琴禰が、あやかしの国に行くときに作った縄のように細い道を辿り、命からがらやってきたのである。
当初は祓魔五人衆であやかしの国に乗り込む算段だったが、澄八以外は途中で力尽きた。
澄八も、琴禰と血の契約を結んでいなければ辿り着くことはできなかっただろう。縄は澄八を受け入れ、手の平に吸い付くように澄八を補助した。なぜなのかはわからないが、考えられるとすれば血の契約しか思い浮かばない。
永遠に続くかのように思われた縄を辿って登る作業は、凄絶な鍛錬のようだった。力尽きた者たちは落ちていったが、下には結界を敷いていたし、元々の力が強いので死ぬことはないだろう。
彩雲に輝くあやかしの国を真上に仰ぎ、下界を見下ろすと、まるで人間界が地獄のように汚れた世界に見えた。
厄災の元凶であるくせに天上の美しい場所に住んでいるなど図々しい奴らだ。一刻も早く殲滅し、人間界に平和を届けてやりたい。そうすれば自分は英雄となり、祓魔で一番の権力者になれるだろう。
人々から崇拝され、富も権力も手にした自分の姿を想像した澄八は、口元を綻ばせた。
しかし、なかなかその日はやってこない。
澄八との結婚を匂わせれば、琴禰は喜び勇んであやかし王を倒すと思っていた。
嫌々あやかし王と結婚したと思っていたが、あやかし王を見つめる琴禰の顔は、まるで恋する乙女のように幸せそうだった。
最初は反対されていた二人の結婚も、祝福するような雰囲気になっているという。
二人の仲睦まじい様子が周りを変えた理由のようだ。
そして、澄八はようやく、ある一つの仮説に辿り着く。
(琴禰は、あやかし王に恋をしているのではないか)
そう考えると、全ての辻褄が合う。
殺す機会は山のようにあるのに、決行しない理由。あやかし王より優位な立場にあるはずなのに、なぜか負けているような気持ちになること。
苛立ちや悶々とする気持ちの背景には、琴禰の裏切りが影響しているのかもしれない。
(血の契約を破るつもりか)
澄八は段々と怒りが募っていった。
(もしも裏切るつもりなら命はないと思え)
◆
琴禰は一枚の文を手にしながら、思案に暮れていた。
庭園の片隅で腰をおろしながら、一人ぼうっと空を見上げる。風がさやさやと草木を揺らしていた。
文にはこう書いてあった。
『今夜、白木蓮の木の下で待っている。澄八』
まるで恋人同士が逢引きするような内容だ。
澄八は、あやかし国にいるにも関わらず、会うことはほとんどなかった。
琴禰があまり出歩かないからという単純な理由と、煉魁が澄八を琴禰に近づかせないようにしていたためだ。
澄八は王の宮殿には立ち入るどころか近寄ることさえ禁止されているにも関わらず、あやかしの警備をかいくぐって琴禰に文を届けに来たのである。
いつものように庭園の手入れをしていた琴禰の前に突然現れ、文を手渡して颯爽といなくなってしまった。
そんな状態で渡されたので、内容を断ることもできず琴禰は困っていた。
(夜に一人で出歩いたりしたら煉魁様に不審に思われる)
不審どころか過保護な煉魁は、心配して付いてきてしまうだろう。
(かといって本当のことは言えないし)
煉魁は澄八に嫉妬している。
そんな中、『こんな文が渡されました』と言ったら、激怒するに決まっている。もちろん、会うことは禁止されるだろうし、警備も強化されるだろう。
(でも、私に会わないという選択肢はない)
血の契約を交わしている以上、澄八の機嫌を損ねることは避けたい。
琴禰は血の契約を完全に理解しているわけではなかった。決して破られぬ誓いで、契約に反したら強制的に力が発動するということしか知らない。
つまり、契約違反に気づかれたら終わりだということだ。
でも、例え強制的に力を発動させても、琴禰の力では煉魁を倒すことはできない。それが分かっているから澄八も強制的に発動はしてこないのだろう。
勝機があるとすれば、煉魁が寝入ったところに不意打ちで心臓を一刺しにする。それくらいしか勝つ方法はない。
そして、その方法ができるのは妻である琴禰だけだ。
(裏切りを決して気付かれてはいけない。そのためには、この誘いを何がなんでも叶えなくてはいけない)
試されているような気がした。琴禰の真意を。
煉魁を騙して、澄八の元へ駆けつけることができるのか。
(どうやって煉魁様の目を盗み、澄八さんの元へ行こう)
琴禰は庭園に植えられている草花に目をやった。鮮やかな黄色の水仙の花が風にそよそよと揺れていた。
(これだわ!)
琴禰は意を決し、水仙の葉をちぎった。
◆
「琴禰! 大丈夫か⁉」
琴禰の体調が優れないと聞いた煉魁は、仕事を早々に切り上げて宮殿へと駆けつけた。
いつも二人で寝ている寝室ではなく、宮殿の端にある畳敷きの小部屋に布団を敷いて、琴禰は横になっていた。
額には大粒の汗をかき、呼吸が乱れている。とても辛そうな様子に、煉魁は胸を痛めた。
「一体琴禰に何があった⁉」
あやかしの侍医に煉魁はきつく問う。
白い髭をたくわえた侍医は、ふさふさの髭を所在なげに撫でながら言った。
「それが理由はわからないのです。食中毒に似た症状なのですが、琴禰様と同じ食事を召し上がった方々はなんともないので、考えられるとしたら毒を盛られたか」
「毒だと⁉」
煉魁はこめかみに青筋を立てて言った。
「しかし毒であれば遅くとも三十分から一時間くらいで症状が現れるはずなのですが、琴禰様が食事を召し上がられてから数時間は経っております。これほど長い潜伏期間で、このような急性期のような症状で発症する毒を私は知りません」
煉魁は眉を顰めたまま、心配そうに琴禰の頭を撫でた。
「かわいそうに、こんなに苦しんで」
「解毒剤や嘔吐剤は飲ませたのですが、なかなか吐く気配がなく……」
侍医は困ったように言った。
「命は大丈夫なのか?」
「胃の中のものをすっかり吐いて、数日安静にしていれば問題ないでしょう」
「そうか。ところで、なぜ琴禰はここで寝ている? 寝室の方が広く寝心地も良いだろう」
「それは琴禰様のご希望です。厠に近い所で、ゆっくり一人で寝たいとおっしゃっておりました。私もここの方が何かと便利だと思います」
「なるほど」
琴禰は吐き気を猛烈に我慢している状態なので、言葉を発することができなかった。
吐いたら楽になることは分かっているが、楽になってしまっては計画が潰れる。
水仙には毒がある。猛毒なのは球根で、葉はそこまで毒性はないと思っていたが、実際に口に入れると気が飛びそうになるくらいの苦しさだった。
「大丈夫だ、琴禰。俺が今、楽にしてやるから」
煉魁は琴禰の頭に手を添えると、ほんのり温かい光を放った。
(え⁉)
これに困ったのは琴禰だった。治されては意味がない。煉魁は治癒の力も使えることを失念していた。
「完治まではいかないが、だいぶ楽にはなっただろう?」
琴禰の額に浮かんでいた大粒の汗は消え、はち切れそうな頭痛も弱まった。
「煉魁様……」
「うん、ゆっくり休め」
煉魁はとても優しい表情で琴禰の頭を撫でた。強烈な吐き気と頭痛がおさまったら、急激に眠気が襲ってきた。
瞼を閉じると、安心したように煉魁と侍医は部屋を出て行った。
本当に寝てしまっては、待ち合わせ場所に行くことができないので、気力で起きていた。あとは時間を見計らって外に出るだけだ。
煉魁は心配そうに度々琴禰の顔を見にきたが、寝ているのを邪魔してはいけないと思ったのか長居せずにすぐにいなくなった。
そして夜は更けていき、煉魁も寝室で寝入ったことを気配で感じ取った。
(今よ)
琴禰はおもむろに起き上がると、人型に切り取った白い紙を取り出した。
祓魔一族の最も得意とする術式、式神だ。
紙に力を込めると、小さな人型の紙は、どんどん大きくなり人間の姿となった。そしてその姿は琴禰そっくりだ。
「あなたはここで寝ていて」
琴禰の形をした式神は返事をすることなく、布団に潜り込み目を瞑った。
(式神は喋れないけれど、寝ているだけなら気付かれないでしょう)
そして琴禰は自分の気配を完全に消し、部屋を出て行った。
外に出る前に、厠で胃の中のものを全て出し切った。強烈な吐き気はおさまったが、まだ頭は朦朧としている。体の中に毒が吸収されてしまったらしい。しばらく引きずりそうだが、こうもしないと煉魁の目を欺くことはできなかった。
(ごめんなさい、煉魁様)
心の中で煉魁に詫び、そして白木蓮が咲いている場所へと向かった。
夜は更け、真っ暗な宮中で中空の細い月の明かりだけが闇を照らしている。夜の底冷えは、吸う息が胸を刺し、体の弱った琴禰には沁みた。
月明かりの下で、白木蓮の花びらが空に向かって咲いていた。高木は堂々と梢を突き立て、涼やかな風が純白の大輪を揺らし、香を吹き送る。
その大木の下で、澄八が腕を組んで物憂げに立っていた。
「遅かったね」
「申し訳ございません。煉魁様が寝静まるのを待っていたものですから」
水仙の毒と式神を使ったことを話すと、澄八は満足気な笑みを見せた。
「さすがだね。そこまでして僕に会いたかったの?」
澄八は琴禰の頭を撫でた。
「……はい」
ここまで自分の体を犠牲にしたのは、澄八のためではなく煉魁のためだ。
血の契約は発動させない。命を懸けても煉魁を守る。
「じゃあ、僕に口付けして」
「え⁉」
耳を疑った。まさかそんなことを要求されるとは思ってもみなかった。
「僕が好きなのだよね?」
澄八はまるで琴禰を試すような鋭い目付きだった。
「あ……でも、さっき胃の中の物を全部吐いてきたので」
澄八は汚そうに顔を顰めた。
吐いていて良かったと心から思った。
「ねぇ、琴禰。本当に僕のことが好きなの?」
澄八は琴禰に距離を詰めてきた。
琴禰は目を泳がせて、半歩下がる。
「あの、臭いのであまり近づかない方が良いかと。好きな方を汚したくはありません」
疑われないように、澄八のことを好きだと嘘をついた。
しかし、澄八はさらに鋭い目付きで空いた距離を詰めてくる。
「琴禰が好きなのは、あやかし王でしょ?」
確信を突かれて、背筋が凍った。
(どうしよう、気づかれていた)
「そんなわけありません」
琴禰は半笑いで澄八の目をじっと見つめて言った。
(絶対に隠し通すのよ)
嘘は苦手だが、ここは何が何でも嘘を貫き通さなければいけない。
煉魁につく嘘と違って、罪悪感はなかった。
「では証明してみせて」
「証明と言われましても、何をすれば?」
「今宵、あやかし王を殺すのだ」
全身から血の気が引いた。
震えそうになる唇から、やっとのことで言葉を吐き出す。
「今宵は無理です。私は体調が悪く、一人で寝ていることになっています。真正面から対峙しても勝てないことは澄八さんにも分かるでしょう?」
「じゃあ、明日決行して」
「でも……」
「言い訳はやめろ!」
澄八に怒鳴られて、恐怖に慄いた琴禰の肩が上がる。
「僕はもう帰らないといけない。あやかし王の首を祓魔への土産として持って帰りたい」
煉魁の首を持って高笑いをする澄八の姿を想像し、心の奥底まで冷えびえする思いだった。
(そんなこと絶対にさせない)
「善処しますが、あやかし王は勘がとても鋭く、私が不穏な動きをすると起きてしまうのです」
琴禰の嘘に、澄八は不敵な笑みを浮かべながら、琴禰の白磁のような滑らかな頬に指を這わせた。
「あやかし王の隣ですやすやと寝ている琴禰の力を、僕が強制的に発動させたらどうなるかな?」
あまりに恐ろしい言葉に、琴禰は目を剥く。同時にくすぶる熾火のような怒りが体を熱くさせる。
「あやかし王に重傷を負わせることができるだろう。それに、あの無駄に絢爛豪華な宮中も吹っ飛び、多くのあやかし達は死ぬ。これは祓魔の歴史の中でも大健闘だ。やる価値は大いにある」
「つまり、私に死ねと?」
力の強制発動はすなわち、自爆のようなものだ。
「僕がこの国にいるうちに、あやかし王を仕留めないのならそうなるな」
澄八は琴禰の退路を奪った。
裏切れば死が待っていると、暗に匂わせていた。
(このまま穏やかで幸せな日々を過ごしたいと願うのは、しょせん叶わぬ夢だったのね。煉魁様を傷つけようとする者は誰であっても許せない)
ふいに脳裏に浮かんだことは、とても恐ろしい行為だった。
これまでの琴禰なら、絶対に思い浮かばない考えだ。
叶わぬ夢を叶える方法。それは……。
(彼を殺すしかない)
澄八を殺す。すなわちそれは、血の契約を断ち切ること。
震える手で、覚悟を決めた。
だが……。
(体が、動かない)
まるで全身の血が固まったように動かなくなった。人形のように顔が真っ白になり硬直した琴禰の変化に、澄八は恐怖に顔を歪めて後ずさる。
「さては琴禰、僕を殺そうとしたな。血の契約は決して破れぬ誓い。僕を殺そうとしても流れる血がそれを制する。自死しようとしたところで同じことだ」
なんて恐ろしい契約なのだろう。
澄八は力を発動させて琴禰を殺すこともできるのに、琴禰は澄八を殺せない。あまりにも琴禰に不利な契約だ。
生き延びることに精一杯で、よく考えずに結んでしまったことが悔やまれる。
殺すことも自死することもできないなら、どうすればいいのか分からない。
一番大切にしたい人を、誰よりも愛する人を傷つけることしかできないなんて。地が割れて飲み込まれそうになるくらい絶望的な心持ちだった。
人形のように固まった琴禰の瞳から涙が伝う。
琴禰の裏切りを確信した澄八は、身の危険を感じて徐々に琴禰から遠ざかった。
「最初から琴禰に選択権はなかったのだ。僕が死ぬことはすなわち、血の契約が発動されることを意味する。殺そうとしたって琴禰は血の契約から逃れられない!」
澄八は口の端を上げて大声を張ったが、肝は冷えていた。
血の契約によって琴禰に殺されることはないと分かっていても、頭の良い澄八は瞬時に最悪の想定を考える。
琴禰自身は手を加えることはできなくても、他の者なら澄八を殺すことは可能だ。例えば琴禰が全てをあやかし王に告げれば、澄八を殺すことは容易である。
血の契約はあくまで当事者同士のもの。それに琴禰が気付けば澄八の命運は絶たれる。
だが、澄八を殺すと同時に血の契約は発動される。澄八を殺すということは、力が暴発して琴禰も死ぬことになる。澄八が寿命を全うし天寿を迎えたら、それは契約者の意志によるものなので契約は発動されないが、志半ばで命を失えば契約は発動される。
あやかし王は琴禰を愛しているから、おいそれと手出しができないにしても、もしもその事実をあやかし達が知ったらどうなる?
厄介者が二名同時にいなくなるのなら、願ったり叶ったりではないだろうか。
あやかしの国に被害が起こることを懸念したとしても、琴禰をどこか遠くに幽閉するか、雲の上から人間界に突き落とせばいい。いくらでも対策の仕様がある。
それに気が付いた澄八は逃げるようにその場を去った。
(琴禰が完全に寝返ったとしたら、僕の身も安全ではないということだな。早くこの国を離れ、琴禰もろともあやかしの国を撃破しなければ)
澄八は大巫女様の言葉を思い出していた。
『あの者が祓魔一族を滅亡に導くだろう』
もしかしたら本当に、琴禰が祓魔を滅ぼすかもしれない。
圧倒的優位のはずなのに、澄八の心に一抹の不安が残る。そのような最悪な状況を想定し、慎重を期さねばならない。
澄八はそうやって成り上がっていった男だった。
一方、澄八が逃げるようにその場を立ち去った後、琴禰の体に血が通い、動けるようになった。
琴禰の体は今や、存在自体が激甚の火種のようなものだ。
いつ暴発するかわからない。澄八がこの国にいる間は発動させないとしても、人間界に戻れば身の安全は確保されるため、いつ発動させたとしてもおかしくない。
絶望しかない現実に、琴禰は打ちのめされた。
(やっぱり私は生まれてきてはいけなかった)
頭の芯がくらくらする。膝から崩れ落ち、地面に手をついて嗚咽を漏らした。
(私の存在自体が厄災なのよ)
幸せになってはいけなかった。
あやかしに着いた時に、誰にも見つけられることなく死んでしまえば良かった。
生きたいと願ってはいけなかった。
(ごめんなさい、ごめんなさい、煉魁様)
琴禰がどんな選択をしたとしても、煉魁を傷つける結果となる。
煉魁が心から琴禰を大切に思ってくれていることは十分伝わっている。
琴禰が別れを告げたら、どんなに傷つくだろうか。
『ようやく、生きている実感がする。ありがとう』
嬉しそうに微笑んだ煉魁を思い出し、心が痛んだ。
(どうして出会ってしまったの)
愛しあわなければ、傷つくことも傷つけることもなかった。
大好きなのに。どうして……。
失意のやり場のなさに怒りさえおぼえる。
涙がとめどなく溢れるのをとどめることもできず、どうすることもできない現実を受け入れるしかない。
不穏な色をした波打つ雲が月を消していく。
彩雲の上に存在するあやかしの国。その上にまた雲があり、月もある。
なんて不思議な場所なのだろうと思う。
神々が住む天上のように美麗なこの国を破壊させることなんて許せない。
あやかし王が守るこの国を、命を懸けて琴禰も守ることを決めた。涙で濡れた顔を上げ、睨み付けるように空を仰ぐ。
(立たなければ。この国を守るために。煉魁様を守るために)
部屋に戻った琴禰は、寝ている自分の姿をした式神を紙に戻し、布団の中に入った。
心身共に疲れ切っていて、精神は過敏になっているものの目を閉じれば泥のように眠ってしまいそうだ。
今後の動きを考えると少しでも体を休めておいた方がいい。
澄八が、あやかしの国にいる間はまだ大丈夫。琴禰は気を失うように眠り込んだ。
目が覚めると夕方になっていた。
驚くほど寝てしまったようだ。けれど、おかげで体はだいぶ良くなっていた。
起き上がって部屋から出ると、扶久が駆け寄ってきた。
「起きたのですね! お体は大丈夫ですか?」
「うん、だいぶ良くなったみたい」
扶久がほっとしたような笑みを見せる。
扶久とはすっかり仲良くなった。日本人形のように表情が乏しく怖い印象だった扶久だけれど、話してみると案外気さくで面白い。
友達のいなかった琴禰にとっては、初めてできた友人のように感じていた。
しかし、もう離れなければいけない。
「湯殿に入りたいわ」
「はい、今すぐ準備しますね!」
湯を準備している間に、軽い食事を取った。
体にたまっていた毒素もなくなり、生き返るようだ。
湯を浴びて、髪に香油を塗ってもらっている中、扶久が世間話のように何気なく言った内容に衝撃を受ける。
「そういえば、あの人間の男性、もう人間界に帰ったらしいですよ」
「え⁉」
数日後には戻るかもしれないとは思っていたけれど、こんなに早いとは想定外だ。
琴禰が突然震え出したので、扶久は手を止めた。
「琴禰様? 大丈夫ですか?」
「扶久、煉魁様は、いえ、あやかし王は今どこにいるの?」
「さあ、気ままなお方ですからねぇ。でも、もうすぐ帰って来ると思いますよ」
扶久は無垢な笑顔を浮かべ、再び髪を梳かし始めた。
(もうすぐ、この生活が終わる)
琴禰は自分の手を握りしめて、溢れだしそうになる感情を抑えつけた。
身支度を終えた琴禰は、寝室で煉魁を待っていた。
もうすぐ帰って来るという扶久の言葉通り、日が沈む前に煉魁は帰ってきた。
寝室に入ってきた煉魁は、琴禰の姿を見ると、俯きがちに目を逸らした。
「もう体は大丈夫なのか?」
「はい。ご心配お掛けしました」
「いや、元気ならいいのだ……」
気のせいか、煉魁の方こそ元気がないように見える。
不自然に空いた距離。けれど、そちらの方が、都合が良かった。
琴禰は手の平から血が出そうになるくらい強く拳を握った。大きく深呼吸をして、吐き出す。
「お話があります、あやかし王」
いつものように名前ではなく、あやかし王と距離を取られたような呼び名で言われた煉魁は、訝しそうに琴禰を見る。
「なんだ?」
煉魁の声はいつもより低かった。
「私と離縁してください」
「私と離縁してください」
琴禰は真っ直ぐな瞳で煉魁を見つめた。
煉魁はまるで、時が止まったように感じた。可愛らしい唇から一番聞きたくない言葉を吐かれたのだ。
胸に深く突き刺さった言葉の刃は抜けそうもない。
(やはり、そうか……)
昨夜煉魁は、琴禰と澄八の逢引きを見てしまった。
厠へ行く琴禰の気配を感じ、目が覚めたのだ。
全てを吐いてしまった方が良いと侍医から聞いていたので、少し安心した。
琴禰の様子を見に行くために部屋を覗くと、琴禰は布団に入って安らかに眠っていた。
襖を閉めようとした時、何かの違和感に気が付いた。
煉魁でなければ誰も気が付かないであろう術式の気配だ。
(これは、祓魔の力?)
煉魁は琴禰に近付き、布団をはぎ取った。しかし、琴禰はすやすやと眠り、起きる気配もない。
(これは琴禰ではない)
しかし、琴禰の術式だ。つまり琴禰は、自らの意志でいなくなったのである。琴禰の姿に似せたものを寝かせ、煉魁を欺こうとしてまで。
何事もなかったかのように布団をかぶせ、煉魁は外に出た。
後を追おうにも、琴禰の気配は消されている。
(さすがだな、琴禰)
煉魁は苦笑いを浮かべると、神経を研ぎ澄ました。
木の葉のざわめき、土が踏まれた足跡。自然のわずかな変化から、琴禰の居場所を探る。
(あっちだ)
一足飛びで向かうと、そこには澄八と琴禰がいた。
やたらと距離の近い二人を見て、煉魁はその意味を知る。
(あいつに会いに行くために部屋を抜け出したのか?)
その理由は考えるまでもない。
二人の関係はただの幼馴染ではないということだ。
二人の間には、何か強烈な絆のようなものを感じ取っていた。
あやかしの国に、琴禰を探しにやってきた澄八。
そして、澄八を好きだった琴禰。
(そうか、そうだったのか……)
煉魁はこれ以上二人を見ていたくはなくて、静かに寝室に戻った。
そして今。
離縁を告げられた。
信じたくない現実が、目の前に差し出された。
「それは、澄八と一緒になりたいからか?」
煉魁は呆然と佇みながら聞いた。
琴禰は、煉魁がそんな勘違いをしていることに驚きつつも、その方が、都合がいいかもしれないと思った。
「……はい」
琴禰の胸は引き裂かれそうになるほど痛かった。
しかし、煉魁も同じように痛かった。いや、琴禰以上に抉られるように苦しかった。
「あいつはもう人間界に帰った」
「はい。ですから私も、人間界に帰ろうと思います」
そうくるとは思わなかった。
昨夜、二人が逢引きしていたのは、人間界に戻って一緒になる約束をしていたのかもしれない。だから急に、こんな……。
「人間界に戻ったら寿命が短いのだぞ? ここにいた方がいいだろう。ここなら何でもある」
「でも、人間界は私の故郷です」
「殺されかけたのだろう? そんなところに戻っても、また傷付くだけじゃないか!」
煉魁は悲痛な面持ちで声を荒げた。
「澄八さんが、私を守ってくださいます」
煉魁は言葉を失った。
命が短くなろうとも、再び虐げられるとしても、それでも澄八の元に行きたいというのか。
(それほどあいつが好きか)
やはり、種族の壁は越えられないのだろうか。
幸せだったのは、愛し合っていると思っていたのは、自分だけだったのだろうか。
煉魁は、足元が崩れ落ちたかのように不安定になり、ふらふらとよろめいた。
琴禰の幸せのためなら、何でもしてやりたい。
琴禰が望むことなら、何でも叶えてやりたい。
琴禰のためなら、自分の命すら投げ出せる。
だが、この願いは受け入れることはできない。
「駄目だ、離縁は認めない」
煉魁は、はっきりと拒絶した。
「そんな!」
琴禰は顔を上げ、煉魁に詰め寄る。
「人間界に戻ることも許さない。琴禰は俺の側にいるのだ」
「それは駄目なのです、それはできないのです! 煉魁様!」
琴禰は懇願するように切迫した面持ちで叫んだ。
「必ず幸せにする。約束する。だから俺の側にいろ、琴禰!」
幸せにする自信があった。
誰よりも琴禰を愛しているし、生涯愛し続けると誓える。
あの男の元にいけば、琴禰は不幸になる。あいつは腹黒い邪な気が内側から漂っている。琴禰を幸せにできるとは思えない。
琴禰の幸せを一番に願うからこその言葉だった。
琴禰は煉魁の目を見つめたまま、大粒の涙を零した。
溢れ出る涙に、煉魁はたじろぐ。
抱きしめてあげたいが、嫌がられるかもしれないと思い、手を引っ込める。
琴禰は止まらない涙を隠すように、両手で顔を覆った。
そして、信じられない言葉を呟く。
「離縁していただけないのなら、いっそ私を殺してください」
心が凍り付く。
(それほどあいつが好きか……)
煉魁は、深い絶望の闇に突き落とされた気分だった。
これほど強く望んだことはなかった。他には何もいらない、琴禰がいればそれだけでいいのに。
たった一つの願いさえ叶わない現実を前に、虚無感に襲われる。
「死ぬことも、離縁することも、人間界に帰ることも許さない」
非道な煉魁の言葉に、琴禰は膝から崩れ落ちた。
声を上げながら泣く琴禰を見下ろすことしかできない。心の冷たさが体に伝染していき、指先が凍えるように冷たくなっていた。
「煉魁様、私は、私は……あなたを殺すために花嫁になったのです」
琴禰の告白に、煉魁は目を見張る。
涙で濡れた瞳は、見る者が胸をつかれるような苦しみに満ちたものだった。そして琴禰は、狂おしげに驚くべき真実を口にした。
「私は、あやかし王を殺す命を受けて、この国にやってきたのです。結婚してほしいと願ったのは、妻になればあなたの隙が生まれると思ったから。あなたの懐に入るためです。私は裏切り者の大悪党です。どうかこの首を斬り落としてください」
嘘を言っているようには思えなかった。
これまでの不可解だった琴禰の謎が、一気に紐解かれたような気がする。
(そうか、琴禰は最初から俺のことを好きではなかったのか)
真実を知ってすっきりとした気持ちと、脱力感。
裏切られていたことを知っても、憎いとは思えなかった。むしろ愛しい。それでもなお、琴禰を愛している。
「大悪党であればお前に自由はない。ここにいるのだ、いいな?」
琴禰は絶望の眼で煉魁を見上げていた。
涙が止めどなく溢れている。
琴禰にとっては、一番辛い罪の償い方法なのかもしれない。
それが分かったところで、手放す気はなかった。
煉魁は宮殿に結界を張っていった。言葉通り、琴禰を逃がさないためだ。
「何をしているのですか!」
琴禰は顔面蒼白になりながら詰め寄った。
「琴禰が諦めるまで、ここから出ることを許さない」
とてつもなく強力な結界だ。琴禰の力の強さは分かっているので、念には念を入れて何重にも見えない結界を張っていく。
「やめてください! 私は行かなければならないのです! ここにいてはいけないのです!」
澄八と人間界で落ち合う約束でもしていたのだろうか。
琴禰の焦りようは緊迫していた。
「今後はここに入れるのは俺だけだ。逃がす者が現れては困るからな」
「煉魁様お願いします。ここから出してください」
「早く諦めることだな。仮にここから出られるようになったとしても、あやかしの国からは出られないぞ。永遠に」
「煉魁様! れん……」
琴禰の言葉を遮るように、煉魁は部屋から出て行った。
部屋に一人残された琴禰は、絶望感と焦りで頭が混乱していた。
(どうしよう。いつ力が爆発するか分からないのに)
この強力な結界内で爆発すれば、被害はこの宮殿だけで抑えられるのではないか。
いや、そんなに甘くない、と琴禰は頭を振って自分の考えを否定する。
(誰も傷つけたくないのに)
無能のままであれば、こんなに悩まずに済んだのに。
自分だけが傷ついて終われた。誰かを傷つけるくらいなら、自分が傷ついた方が心は軽い。
(煉魁様に血の契約のことを話すべき?)
真実を告げれば、自分を殺してくれるだろうか。
いや、たぶん無理だろう。
むしろ同情して、何が何でも琴禰を救おうとするだろう。あの方は、そういうお方だ。
血の契約は、決して破れぬ誓約。だからこそ、強い効力が発揮される。
琴禰の裏切りを知った澄八が、いつ仕掛けてくるかわからない。
人間界に辿り着き、己の安全を確認したらすぐに発動させるだろう。
発動を遅らせる理由はない。むしろ、発動を早める理由なら山ほどある。
(一体どうすれば……)
琴禰は頭を抱え込んだ。
宮殿に結界を張った煉魁は、腕を組みながらどこに行くでもなく宮中内を歩いていた。
突然張られた強力な結界に、あやかし達は驚いていたが、あやかし王がいつにもまして不機嫌な様子なので、誰も理由を訊ねる者はいなかったし、話し掛ける者さえいなかった。
煉魁は感情のままやってしまった自分の言動を少し後悔していた。
(あんなことをやって、俺は一生琴禰に恨まれるのだろうな)
大嫌いな相手と結婚し続けなければいけない琴禰の気持ちを思うと、それが琴禰の幸せになるのか疑問だった。
とはいえ、ああでもしなければ琴禰は今すぐにでもいなくなってしまいそうな気がした。そして、一生会えなくなるような予感もした。
これでいいとは思えない。しかし、これ以外に方法が思いつかない。
(琴禰は俺を殺すためにあやかしの国にやってきたと言っていたな。どうして人間は俺を目の敵にしているのだ? そしてなぜ琴禰がその役目を負うことになった?)
まだ知らない真実が隠れていそうで、煉魁は胸騒ぎがした。
(人間界か。これまで全く興味はなかったが、いってみるか)
煉魁は立ち止まり、遠くを見つめた。迫り出した夕闇の中で、その瞳が光線のように輝いた。
煉魁は、あやかし国を飛び立つと、人間界に降り立った。
黒い羽目板のある木造の蔵が立ち並び、タイヤが三輪の車が石畳の街道を走っている。
若い女性は袴を着て、楽しそうにお喋りに興じていた。男性は和装や洋装が入り混じり、学ランに高下駄を履いて音を鳴らして闊歩している者もいる。
そんなところに、銀色の長い髪をした眉目秀麗な男性が、薄い紫を帯びた白地の着物で立っているのだから異様に目立つ。
煉魁は周囲の街並みを一瞥すると、「ここじゃないな」と一言呟いて飛び立った。
いきなり人間が空を飛ぶように移動していったので、そこにいた人々は騒然となった。
一足跳びをして向かった先は、祓魔一族の住む山奥だった。
檜や樫の木が整然と並び、光を吸い込んだ生い茂った緑に囲まれている。木々を刈り込むように、大きな屋敷が点々と立ち並び集落を形成していた。
(ここが琴禰の生まれ育った場所か)
さきほど煉魁が降り立った都会とは違い、静かでのどかな場所だった。
煉魁がどこに行こうか逡巡していると、集落の中でもひと際大きな屋敷から澄八の気配を感じた。さらに、多くの村人が集まっているらしく、祓魔の力がその屋敷に集中していた。
(何をやっているのだ?)
煉魁は気配を消して大きな屋敷の外に降り立つ。
中では数十人の村人が一堂に会していた。集落の中で一番大きな屋敷とはいえ、あやかしの御殿ほどの大きさはないので、人々はぎゅうぎゅう詰めで座っていた。
部屋の一段高くなった上座には、老輩の女性が鎮座している。
そして、その側には腕に包帯を巻いた澄八が神妙に座っていた。
(なんだ、あいつ。降り立つのに失敗して怪我したのか。間抜けな奴だ)
恋敵の不運に溜飲が下がる。
何を話しているのか耳を澄ませると、琴禰と自分に関することだったので、心臓が大きく脈打った。
「琴禰が裏切ったというのは本当か!」
祓魔五人衆のうちの一人、右眼に眼帯をした肉付きの良い建比良が野次を投げるように言った。
「はい。琴禰は、あやかし王と結婚していました。最初は血の契約を遂行するためだと思ったのですが、どうやら本気で恋に落ちてしまったようです」
澄八の言葉に、煉魁は眉を顰める。
(裏切り? 血の契約? 琴禰は澄八と駆け落ちするのではないのか?)
家族含め、祓魔一族に殺されかけたと聞いていたので、琴禰は祓魔には戻らず、澄八と駆け落ちのような形で暮らす予定だと思っていた煉魁は、話の内容についていけなかった。
「あやかし王に恋をしたじゃと? やはり琴禰をあの場で殺しておくべきだったのじゃ。あの女は祓魔を滅亡に導く厄災じゃ」
老婆の言葉に、煉魁は怒りが湧き上がる。
今すぐ部屋に乗り込んで、祓魔一族を根絶やしにしてやりたいほどだ。
「お言葉ですが、大巫女様。あの場で琴禰に攻撃をしていたら、殺されていたのは我々ですよ? それはここにいる皆さんも分かっているでしょう?」
澄八の発言に、村人たちは目を逸らして黙り込む。
「だが、琴禰と、あやかし王が手を組んだら、我々などひとたまりもないでしょう。現状はむしろ悪化しているのでは?」
村人の一人が言った。すると澄八は勝ち誇ったような顔で語り出した。
「あやかし王はまだ何も知りません。僕が琴禰の力を暴発させればいいのです。そうすれば、あやかしの国に甚大な被害をもたらすことができて、なおかつ琴禰の命も奪えます。あやかし王は琴禰を寵愛しているので、もしかしたら琴禰を助けようとして自らの命を犠牲にする可能性だってあり得ます」
(なんという男だ)
ここまで性根が腐った男だとは思わなかった。琴禰が何と言おうと、絶対にこの男の元にだけは行かせられない。
「あやかし王が人間のために犠牲になるわけがないだろう」
屈強な体の熊野久が心底あざ笑いながら言った。
澄八はむきになって反論する。
「二人は心の底から愛し合っていました。琴禰は、あやかし王を守るために自らを犠牲にして、僕を殺そうとまでしたのです。あの虫一匹すら殺せない軟弱な琴禰が、ですよ?」
「それは琴禰の話であって、あやかし王まで琴禰を心から愛しているとは限らないだろ」
「いいえ、あやかし達の話によると、あやかし王の方が執心しているそうです。国中から反対されても琴禰の結婚を押し切ったらしいです。琴禰のためなら何でもしそうなくらい溺愛しているように見えました」
村人たちは顔を見合わせて、二人の話を聞きながら首を傾げている。半信半疑といった様子だ。
一方、澄八の言葉を聞いた煉魁は、手で口を抑え呆然としていた。
(琴禰が、俺を守るために澄八を殺そうとした?)
愛し合っているのではなかったのか。
澄八と結婚したいから離縁してくれと頼んだのは嘘だったのか。
なぜあんなに泣いていた。
琴禰は、何を守ろうとしていたのだ。
煉魁は我慢できなくなって、風を切るように手を下から斜め上に掲げた。
すると、強烈な突風と力で屋敷の瓦屋根が吹き飛んだ。
壁もろともなくなり、村人たちは呆気に空を見上げる。
煉魁は彼らの頭上に飛び、冷酷な瞳で見下ろした。
「あれは?」
村人が煉魁に気が付き、指をさす。
「あやかし王!」
澄八が恐怖の面持ちで声を上げた。
「あれが、あやかし王? まるで人間みたいじゃないか」
活津が信じられないものを見るように言った。
言い伝えとは、まるで異なる姿に、恐怖よりも驚きが勝っているようだ。
「血の契約とはなんだ。答えなければ、今すぐお前たちの息の根を止めてやる」
煉魁は眉間に縦皺を入れると、剣幕を抑えた声で言った。
村人たちはようやく自分たちの置かれている状況を理解し、悲鳴を上げて逃げようとしたが、見えない結界が張られていて、逃げ出すことができない。
「血の契約は決して破ることのできない誓約じゃ。琴禰は自らが助かるために、あやかし王を倒すという血の契約を結んだのじゃ」
大巫女が立ち上がり、煉魁を見上げて言った。
「契約を破ろうとするとどうなる?」
「その者の意思に関係なく契約は発動される。琴禰は澄八と契約を結んだので、澄八の意思一つで琴禰の力は暴発する」
大巫女の言葉に、澄八は得意気な笑みを漏らした。
「暴発すると琴禰は死ぬのか?」
「そうじゃ」
「契約を失効させるためにはどうしたらいい?」
「契約者を殺せばいい」
淡々と言った大巫女の発言に、澄八はぎょっとなり、慌てて言葉を付け加える。
「僕を殺したら、その瞬間に血の契約は発動されて琴禰も死にますよ!」
この契約は澄八に得のように思えるが、殺される危険もはらんでいる。
琴禰が死んでほしくない者にとっては澄八の盾となるが、逆に琴禰に死んでもらいたい者にとっては剣となる。琴禰を殺すことより、澄八を殺す方がたやすいからだ。
「ふむ、なかなか厄介だな、血の契約とやらは」
煉魁は顎に手を当て考え込んだ。
澄八を殺せば琴禰も死ぬ。
だが、放置していれば澄八が力を発動させて琴禰は死ぬ。
そして琴禰の力が暴発すれば、あやかしの国はただでは済まないだろう。
(なるほど、琴禰が守ろうとしていたのはこれか)
泣きながら離縁してくれと懇願してきた琴禰の様子を思い出し、その隠された思いに胸が痛くなる。
「琴禰が死んだら契約はどうなる?」
「その場合は、契約は失効。互いの寿命が尽きても同じことじゃ。血の契約はあくまで当人同士の意思が尊重される」
大巫女の言葉に、煉魁は苦々しげに口の端を上げた。
「当人同士の意思ね。そのわりにはあまりにも琴禰が不利ではないか?」
「血の契約を持ちかけたのは澄八じゃからな。澄八が得になるように契約を結ぶのは当然じゃ」
「僕のためというよりも、祓魔一族のためですよ。それに、琴禰は契約を拒むことだってできた。最終的に同意したのは琴禰自身です」
澄八は得意気に胸を張る。
「なぜ琴禰は同意した」
煉魁の言葉に、皆が一様に目を泳がせた。
真実を言えば、煉魁が激昂するのが想像できたからだ。
「それは……」
大巫女が答えようとすると、澄八が被せるように言葉を遮ってきた。
「僕が答えましょう。祓魔を滅亡に導く厄災だと言われた琴禰は、その汚名を払拭するために血の契約を結んだのです。祓魔にとって厄災ではないと証明するためには、それほど大きな覚悟を示す必要があったからです」
「殺されかけていたからか?」
「そうです、琴禰が生き延びるために必要な提案でした」
澄八は、血の契約を結んだのは琴禰を救うためでもあったと煉魁に思われるように、巧妙に先導していた。
「そもそも、なぜ俺を倒す必要がある。俺が死ぬと困るのは人間たちの方だろう?」
煉魁の言葉に、村人たちはざわついた。
あやかし王が死ぬと人間が困るなんて聞いたことがなかったからだ。
「え、いや、厄災を落としているじゃないですか」
戸惑いながら答える澄八に、煉魁は真実を告げる。
「何のためにそんなことをするのだ。俺はそんな嫌がらせをするほど暇ではない。いや、暇ではあるが、そんな悪趣味はない。むしろ妖魔が人間界に行かぬよう牽制している。俺がいなくなったら人間界は妖魔だらけになるぞ」
初めて聞く話に、澄八含め、村人たちは狼狽し、周りの反応を窺うように辺りを見回した。
これまであやかし王は醜い怪獣のような姿をしていると聞いていたのに、目を奪われるほどの美しさだったし、言い伝えは嘘だったのかと疑い始めていたのだ。
「妖魔が人間界に来て何が悪いのじゃ。それこそ祓魔の出番ではないか。妖魔を退治できるのは祓魔だけ。祓魔一族は人間界で大いなる力を発揮し、絶大な権力と金を手に入れることができるのじゃ」
大巫女の言葉に皆が驚いた。大巫女の側で仕えていた麻羅が、信じられないと言った顔で問いかけた。
「大巫女様は、全てをご存知だったのですか?」
「ふん、愚問じゃ」
皆は顔を見合わせてひそひそと話し出した。
人間界に厄災をもたらすあやかし王を討ち取ることが、祓魔一族の念願だった。しかし実際は、妖魔という厄災が人間界に降り立たないように守ってくれている存在だった。
「意思一つで契約が発動されると言っていたが、発動の際に術式は使わなくても可能なのか?」
煉魁の問いの答え方いかんによっては、自分にとって不利になることに気が付いた澄八がすぐさま答える。
「はい。血の契約は意思に反応して効力を発揮します。琴禰が僕を殺そうとした時も、意思に反応し血が固まりました」
「つまりは、逆にいうと意思が絡まらなければ血の契約は発動されないのだな。琴禰が自分から命を絶とうとすれば血の契約がそれを制するが、殺されたり、力尽きて死ぬ場合にはそれは発動されない」
「そういうことです」
煉魁は、初めて出会った時に琴禰が死にかけていた時のことと、殺してくださいと懇願された時のことを思い出した。
血の契約は、あくまで当人同士の契約。外的な力は関係しない。
「ふむ、大体のことはわかった。ゆえに、お前はもう用無しだ」
煉魁が手をかざすと、澄八の体は見えない紐で拘束されたかのように動けなくなり、倒れ込んだ。
それと同時に結界は解かれ、逃げ出すことができなかった村人たちは四方八方に駆け出した。
「何をした!」
澄八が叫ぶと、煉魁は冷酷な眼差しを向ける。
「要はお前を動けなくして寿命が尽きるのを待てば良いのだ」
「そんなことをしていいと思っているのか⁉ 僕の意思一つで琴禰の命はないのだぞ!」
すると煉魁は見下すように微笑んだ。
「動けなければ術を使えないのだろう、お前は」
澄八は目を見開いて、青ざめた。
「意思一つで発動ができるのであれば、人間界に降り立った瞬間に発動していたはずだ。しかし、お前はしなかった。小賢しく慎重なお前が発動を遅らせた理由は、術を使えなくなっていたから。その腕の怪我のせいだ、違うか?」
幼稚で愚かな王だと侮っていたが、全てを見破られていたことを知った澄八は、悔しさに歯を食いしばった。
「それに、お前が嘘をついたとき、村人たちは俺から視線を外した。実にわかりやすい」
村人たちが逃げないように結界を張っていたのはそのためだったのかと澄八は驚いた。
能ある鷹は爪を隠す。賢い者ほど普段は愚かに振る舞うものだと思い出したが、後の祭りだ。あやかし王は澄八より、一枚も二枚も上だった。
「仮に今後、何らかの手段で術が使えるようになり、琴禰の力を発動させたら、俺は必ずお前を殺す」
煉魁は怒りに満ちた目で澄八を見据えた。
琴禰を殺すことは、すなわち自分の命を失う引き金となる。そう理解した澄八は、恐怖に慄いた。
「さて、それではあやかしの国に戻るとするかな。琴禰を安心させて思いっきり愛するとしよう」
先ほどまでの残忍な表情と打って変わって、煉魁は嬉しそうに頬を緩ませた。
「待ってください! 琴禰の力を発動させないと誓います! だから動けるようにしてください!」
澄八は無我夢中で切願した。
「信じられぬ」
煉魁は一刀両断した。
「血の契約を失効させる方法を考えます。だからどうか……」
「俺は今すぐ帰りたい。動けるようになりたければ死ぬ気で失効させる方法を見つけることだな」
「必ず見つけます! だから……」
澄八が言い終わらないうちに、煉魁は飛び立った。
後に残された澄八は横たわりながら、いつもと変わらぬ空を仰いだ。
「くそう!」
澄八の怒りに満ちた悲痛な叫びは、祓魔の村に響き渡った。
なんとか結界を破って外に出ようとしていた琴禰は、体力を使い果たし座り込んでいた。
(どうすればいいのだろう。いつ力が発動されてもおかしくないのに)
焦燥感が増すが、力が発動される気配はない。
澄八はもう人間界に降り立ったはずなのに、おかしい。
(裏切りに気づかれた今、私を生かしておく理由なんてないのに。むしろ、早々に始末しておきたいはず)
澄八の考えがわからない。先延ばしされればされるほど、悪い方向に進んでいるような気がして怖かった。
そんな時、遠くに行ったのか気配のしなかった煉魁が、宮殿に戻ってきた。
(煉魁様! 私に近付かないで!)
琴禰は強く願ったが、煉魁は迷うことなく寝室に入って来た。
「お待たせ、琴禰」
煉魁はとても優しい声で言った。琴禰を労わる気持ちが感じられて、再び涙が溢れてくる。
「近寄らないでください!」
琴禰は自分の体を抱きしめ、大きな声で叫んだ。
「もう大丈夫だ。澄八は俺が拘束した」
涙を流しながら、顔を上げる。言葉の意味をはかりかねていると、煉魁は慈しむような眼差しで琴禰に近付いてきた。
「血の契約は発動されない。もう恐れなくていいのだ」
「どうしてそれを?」
煉魁は座り込んでいる琴禰を、そっと包み込むように抱きしめた。
「人間界に行って、全てを聞いてきた。契約の発動には術式が必要となる。おそらく澄八は手を使って術を使うのだろう。澄八は手を骨折して術が使えなくなっていた。だが念のため、体を動かせないようにしてきたから、あいつは一生術を使えない」
琴禰は煉魁の胸の中で、何度も瞬きをした。
確かに澄八は、というか祓魔師たちは術式を行うときに、指に印を結んで構える。式神など高度な術式は、白紙などを用いる必要がある。
琴禰は力が強いので、あやかしのように術式を用いなくても力を使うこともできるが、それは異能だからだ。
術を使わずに車を持ち上げることができ、祓魔の力では考えられないことをやってしまったから排除された。
血の契約を発動させるという大きな力が必要な時は、澄八の力では術式を用いず発動させることはできないだろう。
どうして澄八は力を発動させなかったのか理由がわかったけれど、体を動かせないようにしてきたとはどういうことなのだろう。
「腕を拘束してきたのですか?」
「いや、念のため手足も動けなくさせてきた。まあ口は動くので餓死することはないだろう」
なかなか非道な行いだ。つまり、澄八は一生寝たきりの状態になったということだ。
「だからもう、恐れることはない。安心して俺の側にいろ」
にわかには信じがたいことだが、力の発動がされないということが、煉魁の言葉が真実であるという何よりの裏付けだ。
琴禰は体から力が抜けていくのを感じた。
「煉魁様、嘘をついていて申し訳ありませんでした」
「何を言う。一番辛かったのは琴禰だろう?」
煉魁の言葉に、琴禰の目から温かな涙が零れ落ちる。
「離縁してくださいって言ってごめんなさい」
「うん、もう二度と言うなよ」
離縁に関しては煉魁も相当まいったらしく、苦笑いしていた。
琴禰を心から大切に思っていることが伝わってくる。
「お側にいてもいいのですか?」
琴禰は潤んだ瞳で煉魁の顔を見上げる。
「ああ、一生側にいろ」
煉魁は琴禰の唇を奪うように口付けした。
―― 人間界。
手足がまったく動けなくなった澄八は、灰神楽家に運ばれ、布団に寝かされていた。
絶望の淵の中で、澄八は諦めてはいなかった。
不幸中の幸いか、頭と口は動く。起死回生の一手はないかと思考を巡らす。
そして桃子は、寝たきりとなってしまった婚約者を見捨てなかった。
我儘で見栄っ張りな桃子の性格上、寝たきりとなってしまった男など早々に捨てるかと思いきや、優しく介抱する姿を見て、両親たちは胸を痛めながらも感心していた。
昔から桃子には甘かった両親なので、澄八が寝たきりとなってしまっても、桃子がそれでも一緒になりたいと言うなら受け入れてやろうと話していたほどだ。
「澄八さん、お粥を持ってきました」
お盆の上に、小さな土鍋と取り皿を載せ、桃子は部屋に入ってきた。
顔は動かせるので、横に向ける。
「桃子が作ったのか?」
「いえ、お手伝いさんが作ったものです」
「そうか、それならいただこう」
以前、桃子が作ったものを食べて大変な思いをしたことがある澄八は、桃子の料理を警戒している。
桃子も料理は大嫌いなので、『もう作らなくていいよ』と澄八に言われて、ほっとしていた。
桃子は畳の上にお盆を載せると、粥を取り皿によそい、ふうふうと息を吹きかけた。
そして澄八の上半身を起こし、背中を壁にもたれかけさせて、痛くないように壁と腰の間に毛布をいれてやる。
これだけで大変な重労働だ。桃子は額にうっすら汗をかきながら、冷ました粥を匙に掬って、澄八の口に入れる。
「熱くはないですか?」
「うん、ちょうどいい」
桃子は安堵の笑みを漏らすと、再び粥に息を吹きかけた。
(桃子にこんな面があるとは、意外だな)
家事能力皆無で、贅沢好きな我儘娘。
正直にいって、結婚にはあまり乗り気ではなかったけれど、こんな体となってしまった今、選り好みしている場合じゃない。
(桃子を俺の手足として使い、血の契約の失効方法を調べさせるか)
まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
絶対的に優位な立場にいたはずなのに、少しの不運で形勢逆転された。
まだ力が完全に回復していなかったのに、焦って人間界に戻ったのがいけなかった。
落ちた時に手を骨折していなければ、今頃琴禰は暴発し、あやかし国に甚大な被害をもたらすことができたのだ。
(おのれ、あやかし王、絶対に許さない。だが、あの強大な力。葬り去ることができないなら、手下となり人間界の頂点に僕が君臨するのも悪くない)
澄八は口の端を歪め、腹黒い笑みを浮かべた。
その時だった。
屋敷の外で何やら言い争いになっている複数の声がした。
「どうしたのかしら」
桃子は立ち上がり、外の様子を見に行こうとして襖に手をかけた。
『ぎゃー!』
まるで断末魔のような悲鳴が聞こえた。
「お母親の声だわ!」
「待て!」
桃子は声のする方に駆け出して行きそうだったので、澄八が止める。
「何が起きているのかわからない。桃子は僕を抱えて裏口から逃げろ」
「私一人ではとても……」
「式神を作ればいいだろ。早く!」
桃子は軽く頷くと、震える手で着物の衿に手を入れる。祓魔師はたいてい何かあった時のために形代を肌身離さず持つしきたりがある。
桃子は形代を取り出したものの、手が震えてしまって、床に落としてしまった。
「何をやっている! 急げ!」
澄八に叱責された桃子は、涙目で形代を拾う。
すると、襖が壊れるくらい大きな音を立てて開かれた。
先頭に腰の曲がった大巫女。それに付きそう麻羅。
そして後ろには祓魔五人衆の姿があった。しかし、今は澄八がいないので四人衆となっている。
祓魔四人衆の中でも一番力の強い屈強な熊野久の手には、血に濡れた大きな日本刀があった。いましがた、誰かを殺してきたのは一目瞭然だった。
桃子は畳に膝をつきながら、恐怖に満ちた目で彼らを見上げる。
「まさか、お母親を殺したの?」
震える唇で問うと、日本刀を持った熊野久が自慢気に答えた。
「母親のみならず、家政婦も父親も皆殺しにしてきたぞ!」
桃子の目は絶望に染まる。そして、次は自分の番であることを悟った桃子は、立ち上がって逃げ出した。
「待て、俺を置いて行くな!」
澄八が叫んだ瞬間、桃子の背に深々と刀が突き立てられた。
「逃げられると思うなよ。一家全員皆殺しだ」
熊野久は舌なめずりをして、突き刺した日本刀を引き抜いた。その瞬間、血しぶきが部屋中に広がり、澄八の顔に鮮血がかかった。
血だまりの中に横たわり、絶命した桃子を見て、澄八は祓魔一族に裏切られたことを知る。
「僕は祓魔のために尽くしてきたのですよ! それなのにどうして!」
「祓魔のためとは笑わせる。お前はいつだって自分のためじゃ」
大巫女が侮蔑の眼差しで澄八を見下ろす。
「大巫女様は我々に嘘をついていたのだ! あやかし王は厄災などではなかった。それなのにお前たちはまだ大巫女様に仕えるのか⁉」
大巫女を説得するのは無理だと思った澄八は、祓魔四人衆に向かって言った。
すると、年長者で祓魔五人衆をいつもまとめていた活津が、冷淡で底意地の悪い顔を浮かべながら答えた。
「確かに祓魔の中では大巫女様に異を唱える者が出てきたようであるが、我らは大巫女様の考えを支持する。妖魔が街に溢れかえれば、我らに頼らざるを得ないだろう。我らの時代の幕開けだ」
澄八は絶句した。
しかし、もしも澄八が動けていたら、彼らの考えに同調していた。だが今は、その考えを認めることはできない。自分の命が懸かっているのだから。
「ぼ、ぼ、僕を殺しても、あやかし王は死なない! それどころか琴禰を殺され、あやかしの国も破壊されたら、あやかし王は怒って祓魔を潰しに来るかもしれない!」
「否、あやかし王に会うて確信したぞ。あやつは琴禰に心底惚れておる。血の契約が発動されたら、己の命が犠牲になろうとも、琴禰を守ろうとするであろう。琴禰の元に、あやかし王がいる今が絶好の機会なのじゃ」
「で、で、でも、でも!」
動けない澄八は、必死に大巫女を説得しようと頭を回転させる。
(考えろ、考えろ! 俺の一番の武器である頭は動く。殺されてたまるか!)
「澄八よ、お前は自分が賢いと思っておるな。だが、お前はただの小賢しい男に過ぎない。血の契約が長年禁忌とされた理由が分からないのじゃろう? こんなに便利な術なのに、なぜ誰も使ってこなかったのか。あまりにも危険な術で、その強大な力ゆえ、命を奪われる者が後を絶たなかったからじゃ。人智を超越した力を浅はかに使うとどうなるのか。それが分からないとは、愚かな童よ」
大巫女は不気味に微笑み、日本刀を持った熊野久が澄八に近付く。
澄八は、嫌だ嫌だと駄々をこねる子どものように首を振り、顔面蒼白で半狂乱となった。
「やめろ、やめろ、やめろぉ~!」
澄八の絶叫と共に、胸に日本刀が突き刺さる。そして、血の契約は発動された。
大きく心臓が動いたと同時に、全身の血流が烈しく荒れた。
琴禰は煉魁の横で眠りについていた。
もう何も心配がなくなり、安心して深い眠りに入っていたところだった。
それは煉魁も同じだ。疲れ切っていた二人は、寝台の中で身を寄せ合いながら穏やかな寝息をたてていたのである。
(血の契約が発動された)
それはすなわち、琴禰の死と同時に周りの者たちに甚大な被害を与えるということだ。
(爆発する)
頭は起きてはいるものの、体はまだ眠ったままだった。目も開いていないし、指先一つ動いてはいない。ゆえに、煉魁も気付くことはできず、まだ眠ったままだった。
全身の血がふつふつと沸騰するように跳ねている。それに伴い、眠っていた力が溢れだす。
(駄目、抑えられない)
だんだんと息が苦しくなる。考えている暇はない。
(煉魁様を、あやかしの国を守らなければ)
不思議と琴禰の頭は冷静だった。焦りも、悲しさも、寂しさもなかった。
やらなければいけないことは一つだったからだ。
命を懸けて、愛する人が支えてきたこの国を守る。
琴禰は溢れ出る力を使って、眠った体のまま祓魔村に転移させた。
琴禰が目を開けた時、そこには日本刀が突き刺さったまま絶命している澄八と、血に染まって横たわる桃子がいた。
突然現れた琴禰を見ると、瞳に畏怖を浮かべながら驚き固まっている大巫女とその介添えの方、そして祓魔四人衆。
その状況を見て、何が起こったのかを琴禰は瞬時に理解した。
そして大巫女も、琴禰が現れたことにより起こる最悪の事態を、瞬時に理解した。
大巫女が声を上げようと口を開いた刹那、琴禰の体は爆発した。
琴禰の体から稲妻のような光が激流のように空へ立ち昇る。
それと同時に、暴風が祓魔の村を飲み込み、辺りは一瞬で漆黒の闇と化した。
雲がうずまき、唸るような音をとどろかせる。木々も風も大地でさえも、怒りに震え咆哮する大蛇のように空に呼応した。そして、蓄えた力を放出するように、一気に地上に厄災が落とされる。
その様はまるで、大きな落雷が無数に投下されたような威力だった。
激しい稲妻と雷鳴が空を覆い、暴風によって屋敷が粉々に吹き飛ばされる。
恐ろしく凄惨な状況のさなか、琴禰はまるで誰かが覆いかぶさってきたかのような温かな感覚に包まれた。
(死ぬということは、こういうことなのかしら)
不思議だった。
死ねば思考も体の感覚も失い、無になるものだと思っていた。
しかし、琴禰は考えることもできるし、体の感覚もあるのだ。
どれほどの時が過ぎたのだろうか。
琴禰はずっと、海とも空とも宇宙ともいえる漆黒の闇の中を静かに浮遊していた。
外の世界は神が荒れ狂っているかのように騒がしい。しかしながら、琴禰は大いなる母体に守られながら、生を待つ胎児のように、ただ穏やかにそこにいた。
ただ目を瞑っているだけのような奇妙な感覚だった。
そうしてしばらくすると、外は異様なほどの静寂に包まれた。
全てのものが破壊し尽くされたのだろう。
(起きなくちゃ)
琴禰は目を開けることができた。けれど、開けることが怖かった。
目を開けたとき、そこには何が待っているのだろうか。
どうやら自分は生きているということは分かるけれども、だからこそ怖かった。かといって、一生このまま目を瞑っているわけにもいかない。
琴禰は恐れながらも、ゆっくりと瞼を開いていった。
視界が捉えた世界は、まるで神の怒りをかった愚かな者たちの末路のように悲惨な状況が、ただただ広がっているばかりだった。
空は闇から明けたばかりで、景色は水墨画のように厳かに、うっすらと白ばんでいた。
地面は黒い煤で覆われ、琴禰の住んでいた屋敷は無残に砕け散っていた。
折れた柱、地に伏した屋根、散らばった屋根瓦。
さらに、遠くに見える屋敷は長屋門もろとも砕け、見る影もなかった。村は、原型を留めておらず、山は火で覆われていた。
そこかしこに、人が倒れているのが見える。
そして、琴禰に覆いかぶさるように倒れている見慣れた人物。
琴禰の心臓が大きく波打った。
薄い紫を帯びた白地の着物は、黒く汚れていた。
信じたくない気持ちの中、震える手でうつ伏せに倒れている体を仰向けにさせる。
長い髪が地面に扇のように広がり、美しい顔が露わとなった。
「煉魁……様」
琴禰にとっては地獄よりも残酷な光景だった。
震える唇で愛しい人を呼ぶ。
どうしてここに煉魁がいるのか。そして自分はなぜ生きているのか。
その理由の答えを頭に浮かべただけで、発狂して意識を失いそうだ。
震えるほどの恐怖に心が支配される。身を切り裂くように辛い現実から逃れたい。
思考を遮断しようとしているのに、涙で視界が歪む。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ」
琴禰は泣きながら、首を横に振った。
こんなの嫌だ、耐えられない。こんな最悪な結末を受け入れられるわけがない。
「嫌だ、嫌だ、嫌だあああ!」
煉魁を抱きしめ、琴禰は腹の底から叫ぶ。
大人しい琴禰らしからぬ、怒りと絶望に満ちた心からの咆哮だった。
状況から、煉魁が琴禰を守ったことは一目瞭然だった。
爆発の瞬間、誰かに抱きしめられたように感じた。あれは、煉魁だったのだ。
身を挺して煉魁は琴禰を守った。だから、今、琴禰は生きている。
けれど、こんな悲惨な状況を作り出した張本人が、のうのうと生きていけるはずがない。
(厄災、私は、厄災……)
まるで津波や竜巻、稲妻などありとあらゆる天災が落とされた後のように、村は壊滅状態だった。
『あの者が祓魔一族を滅亡に導くだろう』
大巫女の予言の言葉を思い出す。
まさにその通りとなった。
祓魔は滅亡した。琴禰の力によって。
そして厄災は、あやかし王の犠牲によって生き残った。悪夢のような結末だ。
「煉魁様、こんなの嫌です。私はあなたを守りたかったのです。煉魁様が生きて笑っていてくれたら、それだけで私は幸せだったのです」
煉魁を抱きしめ、子どものようにしゃくり上げながら泣いた。
煉魁は人形のように白く整った顔立ちを崩さずに目を閉じていた。
「ずっと側にいるって言ったじゃないですか。私を置いていかないでください」
胸が苦しく息ができない。
煉魁がいない世界で、たった一人生き延びたところで、何があるというのだ。
それならせめて一緒に逝きたかった。
どうして、どうして、どうして。
琴禰が生き残ったところで、誰も喜ばないのに。自分自身でさえ望んでいないのに。
耐えることができない胸の苦痛に押しつぶされ、頭が真っ白になり体から力が抜けていく。
倒れるように煉魁の胸に顔を押しつけた。このまま死んでしまいたかった。
すると、煉魁の胸から、とくんとくんと心臓が動く音がした。
「え?」
涙で濡れた顔を上げる。
すると、煉魁の指先がわずかに動いた。
「煉魁様? 煉魁様!」
琴禰の呼びかけに反応するかのように、煉魁の瞼が小刻みに動き、そしてゆっくりと瞼が上がった。
「琴禰? 良かった、生きている」
煉魁は、琴禰を瞳に映すと、小さく微笑んだ。
「それは私の台詞です、煉魁様」
琴禰は泣きながら煉魁に抱きついた。
悲しみの涙から一転して、喜びの涙が溢れだす。煉魁の温もりを感じると、急に心が軽くなり、安らいでいく。
(煉魁様、煉魁様、煉魁様)
心の中で何度も愛しい方の名前を呼ぶ。
ようやく、まともに息が吸える気がする。
幸福感でいっぱいになり、生きていてくれたことに感謝した。
煉魁は自力で上半身を起こし、胸の中で声を上げて泣く琴禰をそっと抱きしめた。
琴禰を守ることができて良かったと、まずは安堵した。
そして煉魁は顔を上げると、村の惨状を見渡した。
朝焼けに染まった空が、闇を押し退け金色の光をだんだらに照らしている。
暴発する琴禰の力を抑えるように手は尽くしたが、それでも被害は甚大で、村は一面焼け野原だった。
まばらに点在する横たわる人々は死体だろうか。
煉魁は琴禰だけでなく、命ある者を救おうと力を使った。
しかし、さすがに救うことはできなかったかと心を痛めていると、黒く炭となり横たわった大木の影から、ひょっこりと小さな生き物が現れた。
しっぽを傘の柄のように立てながら近付いてくると、琴禰の足に体をこすりつけてきた。
「きゃっ!」
びっくりした琴禰が顔を上げると、「ニャー」と目を細めて呼びかける。
「茶々! 無事だったのね!」
琴禰は茶々を持ち上げると、もふもふの体に顔を沈めた。
「なんだ、その生き物は」
煉魁は、眉を寄せ不審なものを見るように目を細めた。
「猫ですよ。そういえば、あやかしの国では猫を見ませんでしたね。初めて見るのですか?」
「いや、あやかしにも動物はいるが、宮中にはいないからな」
「ああ、なるほど。そうだ! 茶々をあやかしの国に連れて行ってもいいですか⁉」
「え」
煉魁は明らかに嫌そうな顔を見せるも、琴禰は嬉しさに興奮して気付かない。
「ほら、ここにいても住めるような場所も食べ物も何もないじゃないですか。いいですよね! 煉魁様!」
もはやお願いですらない。決定事項のように言われて、煉魁は渋々頷いた。
「やった~! 茶々、ついに私達家族になれるよ!」
満面の笑みで喜ぶ琴禰を見て、煉魁も自然と口角が緩む。
すると、茶々が隠れていた大木の影から、三匹の子猫が次々に顔を出した。
「わ~、あなた達も元気だったのね! 前より大きくなっている!」
「まさか、こいつらも一緒に?」
煉魁が恐る恐る聞くと、琴禰は当然のように言い切った。
「もちろんです」
「はは、だよな」
煉魁は乾いた笑みを見せた。
すると、死体だと思っていた横たわった人々が意識を取り戻し、起き上がり始めた。
まだ意識が朦朧としているのか、この状況を理解できていないようだ。
「良かった、村の人々も生きていたのですね」
「そうみたいだな」
煉魁は救えなかったと内心悔しい思いでいたが、安堵した。
しかし生きていたとはいっても、この村の状況では今後再興に大変苦労するだろうことが容易に想像できた。
(琴禰を傷つけたのだ。それくらいの苦労はしてもらわないといけない)
そして、暴風で吹き飛ばされたのか、遠くの方で横たわっていた大巫女と麻羅、そして祓魔四人衆も起き上がった。
その姿を見て、琴禰は青くなって煉魁の裾を握りしめた。
こんな惨状にした原因の琴禰に彼らが何と言うのか。琴禰は怯えているようだった。
しかしながら、彼らの様子は変だった。
「ここはどこじゃ。お前ら誰じゃ」
「婆さんこそ誰だよ」
頭を強く打ったのか記憶がないらしい。小競り合いをし始めた彼らを見て、琴禰の力んでいた力が抜ける。
「記憶を失ったにも関わらず、喧嘩し出すとは相変わらずな奴らだな」
煉魁は呆れたように言った。
「暴発の前に亡くなっていた人達も生き返るのですか?」
「それは無理だろう。死んだ者を生き返らせることは俺にだってできない」
「そう、ですか」
琴禰は残念なような、ほっとしたかのような複雑な気持ちになった。
血まみれで倒れていた桃子と澄八。恐らく殺されたのだろう。
祓魔の闇を垣間見た気がした。
「これ以上ここにいるのもなんだし、そろそろ俺達は帰ろうか」
煉魁が立ち上がる。
「帰るって、力はもう戻っているのですか?」
琴禰は暴発で力を使い果たしてしまったし、力が蘇りそうな気配すらない。
煉魁は立ち上がったものの、「う~ん」と言って、腰に手を当て、空を仰ぎ見た。
「力を補給しなくては。だが、幸いなことに、すぐ側に俺の力の源がある」
煉魁は意味ありげに微笑んだ。
不思議そうなきょとんとした顔で見上げていると、煉魁が琴禰を抱き上げ、唇を重ねた。
「んんっ!」
唇を奪われ、驚く琴禰に構わず、煉魁は何度も角度を変えて唇を堪能する。
煉魁がとても楽しそうに口付けしてくるので、琴禰も笑顔になった。
「俺の奥さん、これからもずっと一緒だ」
琴禰を抱き上げて、煉魁は喜びに満ちた顔で言った。
「はい、ずっと一緒です」
そして再び口付けする。
「それにこれからは猫の家族も増えますよ」
琴禰が嬉しそうに付け加えると、煉魁の顔が曇る。
「どうして少し嫌そうなのですか」
「いや、そんなことないよ」
不服そうな琴禰に、煉魁は素知らぬ顔で目を逸らす。
「力も補給されたし、帰ろう、俺たちの住む場所へ」
「はい!」
琴禰は元気よく返事をした。
こうして無事にあやかし国に帰った二人だが、人間界での出来事はすぐにあやかし達に知れ渡ることとなり、ちょっとした騒ぎになっていた。
なにせ、あやかし王が死にかけたのである。騒ぎにならない方がおかしい。
臣下たちにうるさく問い詰められた煉魁は、ちょっとだけ話を盛って彼らに伝えた。
――あやかし国を滅ぼそうと企んでいた祓魔一族は、あやかし国に強大な力を持つ琴禰を送り込んだ。しかし琴禰は、あやかし王とその国の素晴らしさに感動し、祓魔を裏切ってあやかし国を守ることを決意する。
そして祓魔の陰謀によって力を暴発させられた琴禰は、あやかし国を守るため人間界を犠牲にした。
自らの命を犠牲にし、故郷を捨ててまであやかし国を守ろうとした心意気に感動し、琴禰を守るために強大な力を使った。——
話自体はほとんど事実なのだが、噂とは尾ひれが付くものである。
いつの間にかどんどん話が大きくなっていき、あやかし国を命懸けで守った人間と、あやかし王の無敵な力と愛の奇跡という美談に仕立てあげられ、あやかし国でこの話を知らない者はいないほど広まった。
さらに琴禰は、人間でありながらも強大な力を有する者として一目置かれるようになった。あやかし国では、美しさと力の強さが何より尊ばれる。そして故郷を捨て去り、あやかし国を守ったという出来事は、あやかし達の心に深く響いた。
脆弱な人間と結婚したと落胆していた者達も、あやかし愛に満ちた絶大な力を持つ人間と結婚した見る目のあるあやかし王ともてはやすようになった。
最強無敵なあやかし王の逸話と相まって、結婚を歓迎する動きがどんどん広まっていった。
そんな時、大王から呼び出しを受けたのである。
「嫁と一緒に挨拶に来いだと?」
渡り廊下で、秋菊に呼び止められ、大王からの伝言を聞いた煉魁は眉を寄せて聞き返した。
「はい、結婚したのに挨拶に来ないとは何事だと怒っていらっしゃいます」
「内緒にしておけと言っただろうが」
「今やあかし国で二人のことを知らない人などおりませんよ! もう隠しておくことなど不可能です!」
秋菊の言葉に、それもそうかと納得して、顎に手を当てて考え込む。
「俺だけじゃ駄目か?」
「嫁と一緒に、と大王様はおっしゃっておられます」
「むむむ」
実の父親に内緒で結婚してしまった罪悪感と、なにより琴禰に酷い言葉を浴びせるのではないかという恐れがあった。
「一旦、保留にしておいてもらえないか?」
「駄目です」
秋菊は強い口調で言い切った。
(これは本気で無理な時だな)
「とりあえず琴禰にも意見を聞いてみないと……」
「本日の宵の口までにお越しくださいね」
「待て、行くと決まったわけでは……」
「決定事項でございます」
秋菊はお辞儀して、早々に背を向けて歩いていってしまった。
断固とした強い意思を感じる。
これはいつものように、のらりくらりとかわしてはいけない案件だと煉魁は悟った。
(はああ、気が重いな)
とりあえず、琴禰と話し合いをするために宮殿へと向かう。
しかし、最近の琴禰は宮殿に留まらず、宮中内を自由に出歩いているので、いるとは限らない。
あれから琴禰は、目に見えて明るくなった。
心配事や罪の意識が消えたこともあるだろうが、猫を連れてきたことも大きいと煉魁は見ている。
宮殿内に入ると、琴禰が猫に餌を与えているところだった。
愛情いっぱいの表情で猫たちを見つめる琴禰。とても美しい横顔だが、少し猫に嫉妬する心も生まれる。
「琴禰」
呼びかけて振り向いた琴禰は、煉魁の顔を見ると満開の笑顔になった。
『勝ったな』と煉魁は密かにほくそ笑む。
「どうしたのですか」
琴禰は小走りで近寄ってきた。可愛い。
「いや、実は……」
言い淀む煉魁を見て、琴禰は不安そうに小首を傾げた。
(さすがに、そろそろ言っておかなければいけないだろう)
煉魁は覚悟を決めて、大王の話をした。
「え、お父様がいらっしゃるのですか⁉」
琴禰はまずそこに驚いた。
「うん、まあ、病気で長いこと伏せっているが」
「じゃあ、お母様もいらっしゃるのですか⁉」
「いや、母は俺を産んですぐに亡くなった」
「そうだったのですか……。煉魁様も人間のようにご両親の元から産まれてきていたのですね」
感慨深げに呟く琴禰を見て、煉魁は『俺をなんだと思っていたのだ』と疑問が生まれる。
「あやかしも病気になるのですね」
「そりゃそうだろう、生老病死は生きるもの全てに訪れるものだ」
琴禰はまだあやかしについて知らないことが多すぎる。
あやかしを神か何かと誤解しているような所があるので、今度あやかし国を案内して説明しなければいけないなと煉魁は思った。
「それより、父が挨拶に来いとおっしゃっているらしいが、どうする?」
「どうするも何も、行かないといけないでしょう!」
琴禰は当然のことなので、驚いて言った。
「そうなのだが、何を言われるかわからないぞ」
煉魁が危惧していることの意味が分かり、琴禰はしょんぼりと項垂れた。
「確かに。あやかし王が人間と結婚するなんて、お父様からしたら悪い意味で衝撃でしょうね」
「驚愕しすぎて病が悪化しないか心配だったのだが、挨拶に来いと怒っている元気があるようだから少し安心した」
「私は何を言われても大丈夫です。反対されても、もう結婚してしまいましたし」
琴禰は薬指にはめられた指輪を見せて笑った。
「そうだな、もう何を言われてもどうすることもできないよな」
煉魁も歯を見せて豪快に笑った。
琴禰は気が弱そうに見えて、案外肝が座っているところがある。
琴禰に背中を押された気がした。
「いつ行くのですか?」
「今日の宵の口までに来いと言われている」
「わあ、早速ですね。急いで用意しますので待っていてください!」
そうして琴禰はすぐに扶久を呼び支度を始めた。
待っている間、暇だったので猫と遊ぼうかと近寄ってみたが、背を逆立てて威嚇されるので触ることもできない。
扶久にはすっかり慣れたのに、煉魁は今もなお警戒されているようだ。
琴禰は正絹に色鮮やかな様々な糸で美しく織られた花模様の着物に着替え、髪も上げている。薄い化粧を施し、華やかな簪をつけていた。
「綺麗だ」
煉魁は思わず本音が零れた。
「結婚のご挨拶に行くので、失礼のないようおめかししてみました」
琴禰は少し恥ずかしそうに下を向いた。
「まるで結納に行くみたいだな。俺達は色々と手順をすっ飛ばしたから」
「あやかし国にも結納という文化があるのですね」
琴禰は感心したように言う。
「言っておくが琴禰。あやかしの文化を真似して取り入れたのは人間界の方だからな」
「ええ、そうなのですか!」
「うん、まあ、今はいい。後々それらは教えるとして、挨拶が先だ」
「そうですね、行きましょう」
二人は仲良く手を繋ぎながら、大王が療養する殿舎へと向かった。
煉魁は少し緊張しながら、螺鈿細工の装飾が施された障子戸を開けた。
「失礼いたします」
煉魁の後に続いて中に入った琴禰は、部屋の造りの重厚さにまず圧倒された。
床の間の欄干には鳳凰や舞鶴が生き生きと描かれ、床柱は名品である黒柿が用いられていた。
そして畳には珍しく、寝台を使用していた。ずっと伏せっていると言っていたので、布団より寝台の方が、寝起きが楽なのだろう。
上半身だけ起き上がり、寝台の背もたれに寄りかかった老輩の男性の目には険があり、痩せているが上背が高いので威圧感がある。
「父上、起き上がっていなくても大丈夫です」
煉魁が駆け寄ると、大王は余裕のある笑みで制した。
「大丈夫。煉魁のお嫁さんが来ているのだ。見栄を張らせろ」
大王はとても嬉しそうな笑顔で琴禰を見据えた。
琴禰は、顔を赤らめながら慌てて頭を下げた。
「琴禰と申します。ご挨拶が遅れてしまい大変申し訳ありませんでした」
「悪いのは当然俺です。琴禰は今日まで俺に父上がいることすら知らなかったのです」
煉魁も琴禰の横に並んで頭を下げた。
すると大王は、愉快そうに目尻を下げた。
「煉魁が全て悪いことは知っている。どこで育て方を間違えたのか、傍若無人になってしまって、皆が振り回されている。すまないね、琴禰さんも苦労をしているだろう?」
「いいえ、とんでもないです。煉魁様はとても優しく仲間思いの男気のある御方です。恐縮してしまうほど私を大切にしてくれています」
琴禰は優しく微笑んだ。褒められた煉魁は満更でもないらしく嬉しそうだ。
「互いをとても思い合っているのが伝わってくるよ。煉魁は素晴らしい女性と結婚したのだね」
大王の言葉に、琴禰と煉魁は驚いて目を見開いた。
人間と結婚したことを怒っていると思っていたからだ。
怒鳴られるのを覚悟してきたので、まさかの好意的な反応に面食らってしまう。
「私は煉魁に幸せになってほしかったのだよ。これで安心して逝ける」
「父上、縁起でもないことを」
煉魁が諫めると、大王は口を大きく開けて豪快に笑った。
「ははは、いよいよもう駄目かと思っていたが、二人のことを知ったら自然と元気が湧いてきたのだよ。まだしぶとく生きられそうだ。琴禰さんのおかげだよ」
「勿体ないお言葉です」
いつもより快活で肌艶も良く機嫌がいい大王を見て、煉魁はほっと胸を撫でおろした。
「ところで」
大王はそれまでの柔和な雰囲気から一変して、鋭い眼光を際立たせた。
「琴禰さんのためにも、きちんと結婚式を行って国民に披露した方がいい」
「いえ、私は煉魁様と一緒にいられるだけで十分ですので……」
琴禰は恐縮して首を振った。すると、煉魁が思いのほか大王の提案に食いついてきた。
「そうですね、今なら好意的に受け入れてくれそうです。なにより、俺が琴禰の花嫁姿を見たい」
煉魁は魅惑的な笑みを浮かべ、琴禰を横目で見た。
琴禰は恥ずかしくなって咄嗟に俯く。
「国民もさぞ喜ぶだろう。こんなに可愛い方が、あやかし王の花嫁になってくれるのだから」
そうして結婚式と披露宴を行う話があれよ、あれよと決まっていき、長居をするのも体に障るので早々に部屋を下がった。
「まさかこんな展開になるとは思いませんでした」
宮殿へ戻る道すがら、琴禰は少し興奮した様子で言った。
人間界でもあやかし国でも疎まれ続けてきた忌み子である自分が、花嫁として歓迎される日がやってくるなど思いもしなかった。
幸せになってはいけないのだと全てを諦めていたのに、次から次へと幸せが降って来る。
幸せ慣れしていない琴禰にとっては、素直に嬉しいと思う感情の前に、戸惑いがやってくるのだ。
「俺もそうだ。だが、言われてみれば確かに必要なことだよな。俺達は二人で勝手に結婚してしまったから」
「あの結婚式も、私にとっては宝物のような思い出です」
満開の桜の木の下でした指輪交換を思い出し、琴禰はうっとりと顔を緩ませた。
「そんな思い出を、これからもたくさん作っていこう」
煉魁は琴禰の肩を抱いて引き寄せた。
「……はい」
この瞬間も琴禰にとっては幸せな思い出だ。
煉魁と共に過ごすひと時全てがご褒美だ。
胸の中から溢れ出る愛しさを感じて、思わず目を潤ませてしまうほど幸福な時間。
(幸せ過ぎると、泣きたくなるものなのね)
初めて知った感情だった。
辛く苦しい涙ばかり流していたのに、喜びの涙もあるのだと不思議な気持ちだった。
そして、閣議決定の末、結婚式と披露宴は約一ヵ月後に行われることとなった。
その間に、琴禰は専門の教師が数名つき、あやかしの文化や歴史、礼儀作法について学ぶこととなった。
あやかし国の実態は、祓魔で聞いていたこととまるで違っていた。
あやかし国が厄災を落としていると聞いていたが、実際は妖魔が人間界に入り込まないように見守っている役割をしていることを知った。
そしてあやかしは、天上(神々の住居と中つ国(人間の住居)と黄泉(妖魔の住居)から独立しながらも、それらを併せ持った中間的な存在なのだという。
だから、あやかし国は、淡くおぼろげな彩雲の上に建っているのである。何物にも染まらず、何者でもない。そんな不確かで神秘的な存在があやかしなのである。
異国の文化を学ぶのかと身構えていた琴禰だったが、ほとんど日本文化と変わらなかったので拍子抜けした。
というのも、はるか昔に大罪を犯して人間界に落とされたあやかしがいたのだという。そのあやかしが、農村地帯で未開発だった日本にあやかしの文化を取り入れて発展させたのだ。
そしてその者の子孫が祓魔であり、特別な力を持つことになった。また、祓魔があやかしを憎むのは、大罪を犯して迫害された恨みが残っているからだと言われている。
(真実というのは、自分の目で見るまで分からないものなのね)
知らなかったことを学ぶことは楽しい。祓魔では、あまり外に出してもらえなかったので、学ぶ機会が乏しかった。
読み書きはできるが、ほとんど独学に近い。琴禰は水を得た魚のようにどんどん吸収していった。
そんなある日のこと。
煉魁は、都の大路にある辻の市を探索してみないかと琴禰を誘った。
「行きたいです!」
琴禰は目を輝かせて返事をした。
「よし、では目立たないように平民の服装に着替えて出発しよう」
まるで変装してお忍びに行くようで、琴禰は胸を躍らせた。
実際のところ、その通りなのだが、煉魁はあえて言う必要はないだろうと思った。
気構えてしまって楽しめなくなるのは可哀想だと思ったからだ。
琴禰は麻の青緑色の着物に、髪を三つ編みに結んで上から領巾のような頭巾を被った。
そして煉魁は、黒の着物に黒の布で目から下を覆っていた。
「煉魁様、それ逆に目立ちませんか?」
全身黒ずくめで、明らかに怪しい人だ。
「そうだが、俺の顔は目立ちすぎる」
琴禰は内心で『確かに』と頷いた。あまりにも美しく整った顔で、内側から光が放たれているかのように肌も綺麗だ。
怪しい人と敬遠される方がまだましなのかもしれない。
とはいえ、煉魁はそういう意味で言ったのではなく、あやかし王だと気が付かれる方が厄介だという意味だった。
宮中を出るのは初めてではないものの、いつもあやかしのいない辺鄙で二人きりになれる場所しか行ったことがなかったので、琴禰は浮足立っていた。
煉魁と並んで歩くことも新鮮だ。
新婚夫婦というよりも、まるで交際したての恋人同士のお出かけのようだ。
ただ隣を歩いているだけで高揚する。
煉魁は、いつもは早歩きなのに、琴禰の歩幅に合わせて歩いてくれている。そんな見えない優しさを感じ、琴禰は密かに胸をときめかせているのである。
煉魁の大きな肩を見ていると、そっと触れたくなってきた。邪魔だと思われないか憂慮してしまう気持ちと戦いながら、琴禰は勇気を出して煉魁の着物の裾をそっと掴んだ。
すると、それに気が付いた煉魁が驚いたように琴禰を見る。
琴禰は急に恥ずかしくなって、手を離してしまった。すると、煉魁はすかさず離した手を握る。まるで離さないと言いたげに、指を絡めた。
煉魁は目を細めて微笑みを落とす。その笑顔があまりにも優しくて、琴禰は胸がいっぱいになった。
琴禰は少しだけ頬を赤らめながら、嬉しい気持ちを表すように、はにかんだ笑顔を向けた。
その笑顔がとても可愛くて、煉魁は目を見開いたまま固まる。
(俺の嫁は可愛すぎる)
(煉魁様、素敵)
二人は顔を染めながら、互いに直視できずに目を背けた。
しかしながら、繋いだ手はしっかりと握り合っていたのだった。
人々が集う市は、にぎやかで様々な品物が交換されていた。色鮮やかな織物や漆器。そして、あやかし達の風貌も華やかで、彩りに満ちている。
宮中のあやかししか接することがなかった琴禰にとって、庶民であるあやかしを見ることは新鮮な驚きだった。
まず、見た目が妖魔に近い。それに、感じる力も弱々しい。
宮中のあやかしは、精鋭の選ばれし者たちなのだとわかった。
しかしながら、怖いとか不快だとか、そういう気持ちは一切湧かなかった。むしろ、戻ってきたような肌に馴染む感覚がある。
「賑やかで楽しいところですね!」
琴禰は弾むような足取りで、目を輝かせながら通りを見ていた。
一方の煉魁は、黒い布を目元まで持ち上げて顔を隠しながら、ゆったりと歩いていた。先ほどから、あやかし達の目が刺すように煉魁に向けられていた。
恐らくだが、気付かれている。しかし、察しが良く良識のあるあやかし達は、これはお忍びで来ているのだなと思って、気付かないふりをしてくれている。
「わあ、色々なものがあるのですね。醤油の焦げたいい匂いがします」
琴禰はくんくんと鼻を鳴らす。
煉魁が匂いの元を探すと、穀物を薄く伸ばし円形の形にして、網の上でじっくり焼かれた煎餅が店頭の一角に並んでいる。
「食べてみるか?」
「いいのですか⁉」
琴禰の目が大きく見開かれる。
「もちろんだ」
煉魁は笑いながら焼き煎餅を二個注文し、小さな飾り玉と交換した。
よほど高価な物だったのか、店主は手の平に置かれた飾り玉を二度見して、
「毎度あり~!」
というご機嫌な声と共に、紙で半分包まれた焼き立ての煎餅を煉魁に手渡した。
歩きながら、熱々の煎餅を頬張る二人。
仲睦まじい姿を、あやかし達はこっそり観察して微笑み合うのだった。
それから琴禰と煉魁は、様々な品物を見て、最後には、朱塗りの櫛と飾り玉を物交し、楽しく過ごした。
あっという間に日が暮れて、店から暖簾が外されてきたので、琴禰達も帰ることにした。
「は~、今日はとても楽しかったです。連れてきてくださりありがとうございました」
「俺も楽しかったよ」
「こんな素敵なお櫛を買ってくださり、ありがとうございます。大切に使いますね」
琴禰は朱塗りの櫛を大事そうに両手で持ち、胸に当てた。
とても似合っているので、煉魁は眦を下げる。
「琴禰はまるで、初めて買い物に来た少女のように何を見ても興奮していたな」
「実際その通りです。人間界にいた時も都会に出ることなんてほとんどなかったですから」
煉魁は『そうだったのか』と驚きながらも腑に落ちる心持ちがした。
琴禰の置かれていた状況があまりにも不憫で心を痛める。
(これからは、俺がたくさん楽しい経験をさせてやる)
美味しい食べ物も、綺麗な着物も、特別な体験も何もかも。
(琴禰の初めては全て俺がもらう)
煉魁は密かに心に決めたのだった。
「それにしても、あやかしというのは様々な方がいらっしゃるのですね」
見た目にしても、力の強さにしても、色々だった。
「そうだ。庶民の寿命は人間より少し長いくらいじゃないか?」
「そうなのですか⁉」
琴禰は驚愕して聞き返した。
「力の強さによって寿命も変わる。例えるなら、木を想像してみてほしい。樹齢何百年も誇る大木もあれば、数十年で朽ちる木もある。場所によっても寿命は変わる。あやかし国の中で最も力が強い場所が宮中ゆえ、宮中にいるだけで寿命が延びる」
「肥料が違う、みたいなお話ですか?」
「土地の力の強さもあるし、強大な力を持つ者の側にいるだけで生命力が増す。だから、琴禰も人間ではあるが、宮中に住むあやかしと同様に長く生きられるだろう。そもそも、元から持っている力も強いしな」
「でも煉魁様。私は血の契約によって力が暴発した日からまったく力が使えなくなってしまったのです。失われたのではないでしょうか?」
琴禰は少し心配そうに言った。
「いや、眠っているだけだ。また必要な時が来れば力は戻るだろう」
煉魁の言葉は、まるで大巫女の予言のように聞こえた。
(どうして私は、こんなに力が強いのかしら。祓魔というより、まるであやかしのよう)
疑問に思いながらも、もう悩む必要のないことなので、すぐに気持ちを切り替えた。
人間だとしても、あやかしの方々は琴禰を受け入れてくれている。
それだけで十分だった。
宮中が近づいてくると、煉魁は顔半分を覆っていた黒布を、煩わしそうに外した。
「疲れましたね。久々にたくさん歩いたので、足が重たいです」
「ゆっくり湯に浸かるとしよう。もちろん二人で」
煉魁は悪戯な笑みを浮かべた。
「ふ、二人で、ですか?」
「もちろんだ。よく足を揉んでやる。他の場所も念入りに」
「大丈夫です! 自分でできます!」
「遠慮するな」
二人は相変わらず仲睦まじい様子で宮の大門に入っていったのだった。
前代未聞のあやかし王と人間との結婚の儀は、それは盛大に行われた。
宮中の最奥にある大きな神殿の中で、琴禰は白の綺羅裳を纏っていた。髪には翡翠や瑪瑙の玉飾りが垂れ飾られ、顔の周りでちらちらと揺れている。そして、琴禰の隣で佇む、豪奢な漆黒の羽織袴を着こなした煉魁は、一幅の絵のように麗しい姿だった。
厳かな雰囲気の中で儀式は行われ、終わると国民向けの祝賀御礼の一般参賀が興行された。
美しい人間の花嫁を一目見ようと、各地からお祝いに駆けつけた大勢のあやかしが集っていた。
当初は結婚に反対されていたのが嘘のように、あやかし国はお祝いの空気で溢れていた。
あやかし達の大歓声を浴びると、琴禰は緊張した面持ちで手を振った。
(幸せすぎて怖いくらい)
不安気に煉魁を横目で見ると、煉魁は慣れた様子で歓声に応えている。
琴禰の視線に気が付いた煉魁は、優しく微笑んだ。
『大丈夫だ、自信を持て』と目で言われた気がして、琴禰は背筋を張った。
(大丈夫、私は幸せになっていい。煉魁様が側にいる)
琴禰は不器用ながらも笑顔を見せる。すると、歓声が一際大きく上がった。
結婚式から数日後、琴禰は衝撃的な事実を知る。
「茶々って、白猫だったのね」
驚きを通り越して、いっそ感心しながら呟いた琴禰に、茶々は「ニャー」と目を細めて返事をした。
茶色の猫だから、茶々と名付けたのに、今では綺麗な白猫なので不釣り合いな名前になってしまった。
あやかし国に連れてきた当初は、洗っても汚れが落ちきらなかったのか、うっすら茶色が残っていた。しかし、毎日櫛で梳かしていたら汚れていた毛がなくなり、本来の白い猫に変貌を遂げた。
「どうしましょう、改名する?」
茶々に聞いてみるも、返事すらせずに無視して毛繕いに勤しんでいる。
「困ったわ。でも、茶々も急に名前を変えられても困惑するわよね」
『茶々』と呼ぶと、『ニャー』と返事をする。とてつもなく賢い猫だと琴禰は思っているが、扶久に言わせると『返事をする猫はいますよ』と大して驚いていない様子だった。
宮殿内を縦横無尽に我が物顔で寛ぐ猫たち。
三匹の子猫たちも、すっかり大きくなった。
元気でやんちゃな白茶色の虎鉄と、三毛猫の美々、そして車に轢かれかけた八割れの最中。
全て琴禰が名付けた。
あやかし国には、動物を飼うという習慣がないらしく、最初は困惑されたが、今ではすっかり馴染んで可愛がられている。
けれど、なぜか煉魁と猫たちは相性が悪いらしく、いまだに警戒されている。
煉魁の力が強すぎるのが影響しているのだと思うが、猫と煉魁との微妙な距離感は見ているとなかなか面白い。
煉魁の方は仲良くなりたいと歩み寄っているのだが、どうにも上手くいっていない。
たまに、煉魁が猫に揶揄(からか)われているように見える時もあるので、琴禰は笑ってしまう。
完璧な俺様王である煉魁を困らせることができるなんて、さすが猫様だ。
最近、煉魁がこれまでより仕事に精を出すようになったらしく、琴禰は臣下たちから感謝されていた。というのも、琴禰が、
『お仕事を頑張る殿方って素敵ですよね』
と何とはなしに呟いたからだ。
国を上げての盛大な結婚式をしてからは、さらに公務に意欲的になった。
責任感が生まれたのか、はたまた琴禰に良く思われたいためか、よく分からないがやる時はやる男なのでとても頼もしい。
琴禰も料理を一生懸命学んで、毎日立派な御膳を作っている。
煉魁はもちろん、侍女たちにも好評なので、お菓子を作って配るなど大忙しだ。
日の光が差す絢爛豪華なあやかしの宮中を歩いていると、琴禰の存在に気が付いたあやかし達が足を止め、にこやかな笑顔で会釈してくれる。
こんな日が来るなんて、まるで夢のようだ。どこに行っても邪魔にされ、疎まれ、排除されていた。
にこやかに挨拶をされるたび、ここにいてもいいと言われているようで、感謝の気持ちが湧き上がってきて泣きそうになるのだ。
琴禰が滅ぼした祓魔の村は、復興に一苦労しているらしい。
というのも、最も頼りになる大巫女と、祓魔四人衆は記憶がないので何もできない。他の者達も祓魔の力が消えてしまったそうで、ただの人間と変わらなくなった。
祓魔の特別な力があるから富を手に入れていたのに、それがなくなってしまったので地道に村づくりをしていくしかないからだ。
それを聞いても、琴禰は心を動かされなかった。もう終わったことだ。
彼らがどんな生活をしていても、琴禰にはもう関係のないことだと思った。
琴禰の居場所はあやかしで、この地で一生生きていくと決めた。それが琴禰にとって最大の幸せである。
宮中の端にある大きな練兵場で、煉魁が衛兵の鍛錬に付き合っていると聞いた琴禰は、そこに向かっていた。
宮中は広すぎていまだに把握しきれていない。花嫁修業の時に教わった宮中の地図を、頭の中で必死に思い出し、なんとか辿り着いた。
広大な用地に、多くの衛兵が鎧を着て、剣の稽古をしていた。
特別な力を持っているのに剣を扱うのかと不思議に思って見ていると、どうやら剣に力を込めると一太刀で建物を斬れるほどの威力を出すことが可能らしい。
祓魔も式神を使うので、力の弱い者ほど道具を用いた方が、力の発現を自在に操れるのだろう。
(祓魔も元は、罪を犯したあやかしが、人間と交わったことで特別な力を持つことができたから、発力源は同じなのかもしれないわね)
起源が一緒なら、琴禰にも、あやかしの力が使えるようになるかもしれない。
料理をする時になど便利なので使えるようになりたいが、力は一向に目覚める気配はない。
そんなことを考えながら見ていると、空を飛ぶように跳ね、まるで華麗な踊りを舞うかのように剣を操る者が現れた。
薄い紫を帯びた白地の着物が天女の羽衣のように宙に舞い、豊かな銀色の髪が靡いていた。
(はわわわ、素敵……)
琴禰は目を奪われて恍惚に酔いしれた。
この世のものとは思えないほど美しい姿。飛ぶように空を駆ける者などあやかしの国でも珍しい上に、まるで体の一部かのように剣を自在に操れる者など一人しかいない。
皆が呆気に取られて、あやかし王を眺めている。
『さあ、これをやってみろ』と言われても、誰も真似できない。
あやかし王が地面に着地すると、割れんばかりの喝采が鳴り響いた。琴禰もつられて拍手を送る。
すると煉魁は、遠くの拍手の音に気が付いたのか、練兵場の隅でこっそり見学していた琴禰に気が付いた。
目が合った琴禰は、慌てて物陰に隠れる。
「どうした、琴禰。こんなところにいるなんて」
一瞬のうちに煉魁は琴禰の後ろにいた。
「いえ、あの、練兵場にいると聞いて、差し入れを持ってきました」
振り返って、風呂敷に入れていた物を差し出す。
「差し入れ?」
煉魁は風呂敷を受け取ると、興味深そうにそれを眺めた。
「はい。おはぎを作ったのです。あやかしの調理器具では失敗してしまうことが多かったのですが、ようやくまともに作ることができました」
煉魁はその場に胡坐をかき、風呂敷を広げた。中には重箱があり、蓋を開けると美味しそうなおはぎが並べられていた。
「おぉ、美味そうだ!」
煉魁の目が輝く。
「食べていいか?」
「はい。お口に合えばいいのですが……」
謙遜する琴禰だが、料理の腕前は、あやかしの料理人も唸るほどのものだ。一口頬張ると、上品な餡子の甘味と柔らかなもち米の風味が絶品だった。
「うん、さすがだな!」
煉魁は声を張り上げて言った。
「ああ、良かったです」
琴禰もほっと安堵した。
「こんな美味しい差し入れを持ってきてくれる嫁がいる俺は幸せ者だなぁ」
煉魁はしみじみと呟く。
(こんな美しい夫を持つ私も幸せ者です)
琴禰は心の中で拝むように言った。煉魁の美しさは、まさに人外の美しさ。神々しすぎて拝んでしまう。
琴禰も煉魁の隣にちょこんと腰を下ろした。
「今日はどのくらいで帰ってこられますか?」
「訓練が終わったら帰れるぞ。それとも、もう切り上げて一緒に帰るか?」
「いいえ、稽古を教える煉魁様の姿があまりにも美しかったので、もう少し見学していってもいいですか? 邪魔にならない所にいますので」
煉魁はおはぎを頬張りながら、まばたきを繰り返した。
「もちろん、いいぞ。そうか、かっこよかったか……」
少し照れ臭そうな顔をして、煉魁は呟いた。俄然、やる気になったのは言うまでもない。
琴禰は突然、煉魁の肩に頭を乗せた。
控えめに甘えるような仕草に、煉魁の胸の心拍数が上がる。
「煉魁様は、誰よりもかっこいいです」
偽りのない本音だった。
毎日一緒にいるのに胸の高ぶりを感じる。遠くから見ても見惚れてしまう。夫婦なのに、こんなにときめくのはおかしいのではないかと思うくらい、好きな気持ちで溢れていた。
それはもちろん、煉魁も同じことで、毎夜抱いているのに、肩に頭を乗せられたくらいで胸が高鳴ってしまう。
今すぐ寝殿に連れ込んで組み敷きたい欲求と戦っているほどだ。
「さて、残りはあとで頂くとする。琴禰にかっこいい姿を見せねばいけないからな」
煉魁は重箱の蓋を閉め、風呂敷で巻いた。
琴禰は鍛錬の続きを見られるので、目を輝かせた。
「と、その前に」
煉魁は立ち上がる前に、琴禰に口付けをした。軽い口付けかと思いきや、思いのほか長いので、琴禰は終わらせようと身を引いた。
すると、煉魁は琴禰を抱き寄せて、舌で無理やり唇を開かせ、咥内に侵入してきた。
まさか練兵場の片隅でそんなに激しい口付けをされると思っていなかったので、驚いて離れようとするも煉魁はさらに激しさを増す。
衛兵達からは見えない物陰にいるとはいえ、さすがに激しすぎる。
琴禰の体を知り尽くしている煉魁は、一気に琴禰の体温を上昇させる。
頬が高揚し、潤んだ瞳で煉魁を責めるように見つめる琴禰の色っぽさに、背筋がぞくりとする快感を覚える。
「それでは、いってくる」
唇についた琴禰の口紅を親指で拭いながら、満足気に立ち上がる。
腰がくだけるように、力が入らなくなった琴禰を置いて、煉魁は何事もなかったかのように衛兵達の元へ戻っていった。
(煉魁様ったら……)
少しだけはだけた着物の衿を直して、恨みがましく煉魁の後ろ姿を見やる。
しかし、たまに見せる少しいたずらっ気を秘めた瞳の煉魁もたまらなく好きなのだ。
ご機嫌で気合の入った煉魁は、剣を持つと一際大きく空に舞った。
まるで白竜のように中空にくねらせた体を遊ばせ、流星のように剣光をたなびかせる。
その姿は誰にも真似できない唯一無二の美しさだった。
【完】
最後まで読んでいただきありがとうございます。
あやかし和風ファンタジー、いかがだったでしょうか。
人間界は大正時代をモチーフにし、あやかしの国は古事記を参考に作りました。
王道の和風ファンタジーを書くぞと意気込んで挑戦した本作でしたが、やはり後半は生粋のファンタジー小説好きが暴走した感は否めないのですが、それも含めて楽しんでいただけたら嬉しいです。
連載中は、更新すると、いいねを押してくれる読者様がいらっしゃり、その方達のために毎日更新頑張りました。
本当に支えていただきました。感謝の気持ちをどうしても伝えたくて、あとがきを書いている次第です。
本作が皆さまの楽しいひと時の一助となっていますように。
及川 桜