すずが竜胆と呼ぶ男との出会いは、彼女がもっと幼かった頃……黄泉還しの能力に目覚めるよりも昔のこと。

 それまで木に登っていたはずのすずだが、いつの間にか眠ってしまったようだ。
 ふわふわとした優しい何かに包まれるような、不思議な感覚がする……彼女はそう思った。
 しかし、突然何かに引っ張られたような感覚がしたかと思うと……。

「きゃっ!」

 柔らかい地面のようなものに放り出されたようで、衝撃に彼女は叫び声をあげた。
 すると、すぐそばから声が聞こえてきた。

「……珍しいな」

 聞いたことのない低くも優しさを伴う声に、彼女は恐る恐る目を開く。
 すると、眼の前にいたのは澄んだ蒼い両瞳(・・・・)の精悍な顔つきの青年だった。

「迷子の魂か」

 一見無表情のようで冷たい印象を受ける青年だが、彼は困った様子を滲ませてすずを覗き込んでいた。
 青年の蒼みを帯びた白髪の襟足は少し長く伸ばされており、額からは二本角が飛び出ている。
 彼は人ならざるもの、つまり……。

「青鬼様?」
「……ああ、俺は鬼だ」
「ここはどこ?」

 確かついさっきまでは、木に登っていたはずだ。
 美味しそうに実っていた柿の木があったので、熟して落ちて潰れてしまう前にもぎ取ろうとしていた。
 それなのにこの場所からは、今までいた場所とは違う雰囲気が感じられる。
 それに青鬼は、すずのことを迷子とも言っていた。

「私、迷子になっちゃったの?」

 すずが起き上がってあたりを見回すと、そこは蒼い竜胆が咲き乱れる幻想的な空間だった。

「わぁ……。お花がきれい……」

 鬼の存在を恐れるどころか、近所の住民と話すようなすずの気軽さに、青鬼は呆気に取られていた。
 この頃のすずは、まだ好奇心旺盛な元気な少女だった。

「青鬼様がいるってことは……」

 直前まで木を登っていたことを思い出し、彼女は「もしかして私、死んじゃったのかな……」とぽつりとつぶやいた。

「ここは……地獄?」

 鬼の存在と彼の喪服から、すずはここは死後の世界だろうと判断し、首を傾げる。

「いいや」
「じゃあ……天国?」
「……どちらでもない。ここはその入口だ」
「そうなんだ……?」

 彼は近くにある川を指さす。

「三途の川の存在を、聞いたことがあるだろう?」
「うん」

 川の向こう岸には、紅い彼岸花が咲き乱れている。
 すずたちのいるこちら側とは、正反対の空間。
 川を隔てたこちら側は現世に近く、あちら側は幽世なのだろう。

「じゃあ私、あの川を越えれば良いんだね?」

 川に向かって迷いなく歩き出そうと一歩踏み出したすずの服を、青鬼が慌てて握り締めて引き止める。

「あ、いや……」

 彼自身、何故すずを引き止めたのか分からない様子で戸惑っていた。

 そして、聞き分けの良すぎるすずの疑問に、青鬼が言いよどむ。

「お前は、死への抵抗感がないのか?」
「うーん……」

 すずは少し考えて青鬼の問いに答える。

「みんな寿命が短いでしょう?」
「……ああ。ひとの命は、儚い」

 餓え、争い、病……。様々な原因により、すずが生きる時代において、人間の寿命はとても短かい。

「だから私も、いつ死んでもおかしくないって思っているの」
「……」
「私が死ぬのより、私が大事なひとが死ぬほうがいや。みんな健やかに生きて欲しいの」

「もちろん、死にたいとは思わないけどね」と付け加えたすずを前に、青鬼が息を飲む。
 目を見開いて、その蒼い瞳ですずを凝視した。

「お前は、迷子ではなく……」
「え?」
「そうか。……誘われたのか」
「青鬼様?」

 すずの言葉を待たずにひとり納得した青鬼が、自身の右目に触れる。
 どうしたのだろうと思ったすずが背伸びをして上目遣いに観察してみると、彼の右まぶたの上に小さな傷跡が残されていたのが見えた。

「い、痛いの?」
「いいや。手当をしてもらった故、問題ない」
「青鬼様、青鬼様」
「うん?」

 子供のすずがちょいちょいと手招きをすると、青鬼がすずに目線を合わせようとしゃがむ。
 すずが手を伸ばした瞬間、青鬼が警戒した素振りを見せたが、彼は抵抗しなかった。
 伸ばされたすずの手は、青鬼が触れていたまぶたの上の傷痕に触れた。

「いたいのいたいの、飛んでいけー!」
「痛くはないのだが……」
「でも傷跡があるよ」
「古傷だからな。もう傷まない」
「それなら良かった」

 にこっと微笑んだすずに、青鬼が俯いて照れくさそうにしている。

「ついこの間、矢で射られてまぶたを怪我した鹿さんがいたの」

「青鬼様と同じところ」と言ってすずが右まぶたの上を指さすと、男はなんとも言えない複雑そうな表情で頷いた。

「……そ、そうか」
「だからあの鹿さんまだ大丈夫かな? って思っちゃたんだけど。そうだよね。青鬼様は鹿さんじゃないものね」
「……」

 またもや気まずい様子で押し黙ってしまった青鬼を気にせずに、すずは朗らかに微笑む。

「あの鹿さんも、青鬼様みたいにきれいな蒼い目をしていたから、つい重ねて見ちゃったのかも」
「……お前は、鬼を前にしても恐怖を感じないのか?」
「うーん、なんでだろう? 青鬼様は、どこか優しい雰囲気がするから……かな?」
「……そうか」

 すずの答えにほっとした様子で頷くと、青鬼が彼女の頭を撫でた。

「生きとし生ける者達は、とても脆く……儚いものなのだな」

 ちりん、ちりん……と風鈴のような音と共に、彼女たちの足元の竜胆が風に揺れていた。

「お前は死にかけたのだ。しかし、死ぬにはまだ年若い。そして……」

 青鬼はしゃがみこんですずに顔を寄せると、額から飛び出す角の側面を何気ない仕草でコツリとすずの額に合わせた。

「……そして、お前は恩人なのだ」
「私、青鬼様と会うのは初めてだよ?」
「……だが、お前は俺の、恩人なのだ」

 青鬼の恩人と言う言葉に、すずはこそばゆい気持ちになる。

「このまま彼岸に送りたくは、ない……」
「でも私、死んだんだよね?」
「しかし……死なせたくは、ないのだ」

 青鬼の感情を堪えるような声と、悲しそうに揺れる蒼い瞳に、すずが心配そうに彼を見つめる。

「だから、お前を送り還そう」
「え?」

 すずの右目が、青鬼の左手によって覆い隠された。

「青鬼様? 私の眼は痛くないよ?」
「ああ、分かっている。……竜胆と、呼んではくれないか?」
「竜胆様?」
「ああ」
「私はすず」
「すず……」

 竜胆に優しく名を呼ばれ、すずが幼心ながらもドキドキする。

「すずよ。生きてくれ……」
「いいの?」

 鬼である竜胆に生を願われ、すずが驚いた様子で応える。

「ああ。俺が、生きていてほしいんだ」

 竜胆がそう呟くと、すずの右眼のまぶたを覆っていた手に角を寄せる。

「いたいのいたいの、飛んでいけ」

 すずが先ほどしたことを返すように、竜胆が呟く。
 するとその瞬間、すずのまぶたががほんのりと暖かくなった。
 竜胆がまぶたから手を放すと、すずが不思議そうに首を傾げる。

「あれ?」
「……痛かったか?」
「ううん。いまのなに?」
呪い(まじない)だ。すずの息吹きが永らえるようにと……」
「ありがとう、竜胆様!」
「さあ、現世へ戻るといい」

 鬼の竜胆が立ち上がると、竜胆畑に風が吹き込み始めた。
 すずの身体が、風によって川とは逆の方向へと押し出されようとしていた。

「あっ、竜胆様! また会える?」
「……ああ。すず、健やかでな……」
「うん、またね!」

 ちりん……と音が鳴り響く中で、寂しそうな様子の竜胆に見送られ、すずは三途の川から追い出される。

 すずがハッと我に返った頃には、彼女は現世の落ちた木の下で仰向けに倒れていた。

「ここは……あれは……夢、だったのかな?」

 すずが呟くと、遠くの方から寂しそうな音の残響が続いているような気がした。