此の世ならざる川がある。

 穏やかに流れる川を沿うように石造りの灯籠が建てられているが、火は灯されていない。
 此方(こちら)側には蒼い竜胆(りんどう)が、川を隔てた向こう側では彼岸を冠する紅い花が咲き乱れているのが、月明かりによって薄暗闇の中であっても朧気に眺めることが出来る。
 草花が生い茂っているにも関わらず辺りからは虫の奏でる音はひとつもせず、生きとし生けるものにとっては不気味さを感じるだろう。

 そこは三途の川であるのだが、生者達が話に聞く光景からはあまりにもかけ離れている。
 もしこの川の様子を彼らが目の当たりにしたとしても、誰も三途の川だとは思わないだろう。
 それほどに、そこは静寂に満たされた、穏やかな空間だった。

 ふと、湿った風が吹き、此岸(しがん)の草花を撫でていく。
 咲き乱れる竜胆が揺れるたびに、ちりん、ちりん……とまるで風鈴のように澄んだ音を奏で始めた。
 同時に、生者の訪れるはずのない川のほとりで、呆然と彼岸の先を見つめていたすず(・・)の短くも乱雑に切られた白い髪も風に吹かれて小さく靡く。
 彼女が音に誘われて此岸を振り返ると、竜胆の群生地の上空で淡い光がふわふわと舞い、川向こうの彼岸へと向かって行こうとしている。
 すずが青と黒の色違いの両瞳でよく眺めると、それは光を宿した鬼灯(ほおずき)だった。

「ひとの魂が、また彼岸に向かって逝くんだね……」

 鬼灯はひとつだけでない。数多の鬼灯が、彼岸の向こうの死後の世界を目指して飛び立っている。
 彼女はその様子を静かに見守っていた。

「どこかで、戦があったのかな……」

 靡く髪を耳に掛けて、すずが切なげに溢す。
 穏やかな空間であっても、悲し気に揺れる彼女の心を凪ぐことは出来ない。

 鬼灯は彼岸の上空に辿り着くと、実を弾くように光り輝き、その実を散らした。
 彼岸花の群生地へ残光がぱらぱらと散っていく様子は、まるで花火の名残を感じさせる。
 数多の命の散り際が彼女の顔を淡く照らすと、時折涙の軌跡が輝いていた。

「私……も……」

 すずは誘われるように一歩、川に向かって足を踏み出す。

「……すず!」

 彼女を引き止めるように、すず以外に誰もいなかった空間に男の切実な声が響く。
 その瞬間、火の灯っていなかった灯籠が一斉に辺りを照らし始める。

「……っ」

 物悲しそうに名を呼ばれ、すずは我に返ったようにぴたりと足を止め、俯いた。

「すず、逝くな!」

 黒色無地の喪服を纏う体格の良い男が、竜胆畑の近くに現れた。
 和装を死者を表す左前に着付けており、額には二本の角が生えている。
 青みを帯びた白い髪の鬼のことを、おそらく誰もが青鬼と呼ぶだろう。
 しかし、ただひとり……すずを除いて、生者は彼の姿を臨むことが出来ない。
 彼は、三途の川の番人の鬼だからだ。

「竜胆様。私ね、離婚したの」
「……」
「でもそのあとずっと監禁されて……。生きていても、竜胆様が望んでくれたように歩んでいくことは、もう出来ない……」

 俯いていた彼女は、自身が竜胆と呼んだ青鬼へと振り返る。

「だからもう……死なせて……」
「っ!!」

 飛び立った鬼灯の最後のひとつが音を立てて散り行くと、その残光が迷子のように呟くすずを仄かに照らす。
 風が凪ぎ、清廉な音を響かせていた竜胆の花達までもが静かになると、灯籠に収まる蒼い鬼火がぱちぱちと小さく爆ぜる音だけが残る。

「生き永らえらせてくれて、ありがとう……」
「すず!! やめてくれ!!」

 三途の川へと足を踏み入れようとしたすずの腕を、青鬼が必死な形相で引く。
 そのまま此岸の方へと引っ張られたすずは、すずを抱えたまま竜胆畑の上に倒れ込んだ青鬼の胸に飛び込んでしまう。
 起き上がろうとしたすずだが、青鬼は彼女を抱きしめたまま放そうとしない。

「竜胆様……?」

 ずすの異端の蒼い右眼と生まれながらの黒い左眼で見つめる先には……。

「逝かないでくれ、すず……っ!!」

 金色の右眼と……彼女と同じ左眼をした鬼が、精悍な顔つきに似合わぬ涙を浮かべていた。
 それは、すずが初めて目の当たりにした、彼の涙だった。