朝が来る前に、君の素顔が見てみたい


         *

 次の日、もはや日課となった通知音で意識が覚醒する。
 金曜日くらい、ゆっくりと寝かせてほしいのに。今日を乗り切れば休みという日に、寝不足で学校を過ごすのは結構しんどい。
 二回目の通知音が鳴り、いつものように着替えて親を見送る。台所にあったバナナを一本手早く胃に流し込み、支度を済ませた。玄関の前でスマホを開く。彼女から送られてきた文章を見て、開けかけたドアを一度閉める。

『今日は制服で来て! 出来れば、お洒落して!』

 一体、彼女は何を言っているのだろうか。制服でお洒落ってどうしろというのだ。画面を眺め、思考を止めていると、ポンッという軽い音と共にトークが更新される。

『ちなみに今日の私は一段と可愛いです』

 続いて送られてきた画像は、彼女の自撮りだった。うっすらと化粧をしているようだ。
 彼女はメイクなんて野暮ったいことしなくても十分だと思っていた。しかし、実際にその姿を見ると、花も実もある彼女が一層色づいて見える。
 チャットを打つ画面を開き、やっぱり諦める。きっと、僕の反論は通らないだろう。
 部屋に戻り、制服に着替え直す。コートを羽織り、マフラーを付け、一応登校用の鞄も持った。制服にお洒落なんてやりようがない。仕方なく、洗面所でワックスを付ける。固定用のスプレーを一周。本当は一度、髪を濡らし、乾かしてから付けたいところだが、どうせ海風ですぐ乱れるのだ。あまりこだわらなくても大丈夫だろう。
 一体、どうして彼女の気まぐれにここまでしているのだか。

 べたつく手をお湯で乱暴に洗い流し、急いで家を出る。幸い、今日は海沿いでも風がほとんど吹いていない。髪が崩れることは無さそうだ。
 彼女の姿は既に暗がりの中に浮かんでいた。スマホの明るいライトが彼女の白磁の肌を照らす。

「お待たせ」

「おっ、来たね。おはよう」

 いつもよりじっくりと全身を下から上まで眺め、彼女は頷く。

「よし、いいでしょう。合格!」

 満足げな表情で親指を立てる彼女を見ても、その意図は掴めない。

「一体、何をするつもり? 制服ってコート着てても寒いんだけど」

「それを言うなら、私なんてスカートなんだよ? ま、慣れちゃったけどね」

 彼女は特に何かをするってわけでも無さそうだったから、いつも通り隣に腰かける。
 凍える空気を吸い込むたびに喉が張り付くように乾き、肺がちくっと痛む。耳鳴りのような鈍痛も結構不快だ。

「それにしても、やっぱりまだ寒いねえ」

 暗い視界の端で彼女の手が揺れた。僕との間をぽんぽんと叩く。もう少し近くに来いということらしい。恥ずかしさもありつつ、拒むのも違う気がして、彼女のすぐそばまで移動する。
 今日は風が無く、潮の香りが薄いせいか、彼女からふわっとした甘い香りが鼻腔をつく。
 彼女が僕をじっと見ていた。まだ辺りが暗くて良かったと少し思う。

「……どうした?」

 彼女がはっとしたように顔をそらす。

「なんでもないよ。ほら、寒いでしょ? おすそ分け」

 そう言って、彼女は腰に巻くようにしていた浅黄色のブランケットを広げて、僕の膝へかける。

「あと、これも半分ずっこね」

 ブランケットの中で彼女の手が触れる。じんわりと温もりが手を伝う。小さなホッカイロだった。

「あ、りがとう……?」

 多分、目に見えてどぎまぎしていたであろう僕に、彼女は小さな笑いを零す。

「どういたしまして」

 それから、やっぱりいつもみたいに他愛のないことを話した。今日の体育は持久走だから憂鬱だとか、テニスコートで煙草の吸殻が見つかって大騒ぎだったとか。きっと何日も経てばあまり思いだせなくなるような会話。
 不思議と退屈を感じない。そもそも、夜明け前は何かをするような時間ではないと思う。一日の始まりに備えて、ゆっくりと流れる合間の時間。何をしたって時間の無駄とか思わなくて、どうせすぐに忙しない朝が来るのだから。

「それでさ、野々宮ちゃん曰く、自分の彼氏がすごいイケメンらしくてね。画像送られてきたんだけど、どう思う?」

 見せられた画面には、二人の学生が写っている。観覧車の中で、互いに身を寄せ合って撮られたものだった。制服で隣町の高校だと分かる。

「どう? 同じ男の子の意見は」

「うーん、どうだろう……。何様だよって思われるかもだけど、とんでもないイケメンってわけじゃないと思う」

 別にブサイクってわけでもないし、特段整っているわけでもないように思える。頭一つ抜けた人って、同性から見ても満場一致になるわけで、写っている男性に関してはそこまでではないように感じた。言ってしまえば普通だ。

「そっか、やっぱり野々宮ちゃん盛ったなあ。校内一イケメンとか言うから気になったのに」

「秋永さん的にはどうなの?」

「ん? 何が?」

「いや、だからこの男性」

 妙な間の後、彼女はスマホを引っ込める。

「あー、うん、どうだろ。私、そこらへん疎いからなあ……。結局、大切なのは内面でしょ。そうだよね?」

 随分と曖昧な口ぶりだった。

「まあ、そうなんじゃない? 入りが顔からだとしても、性格とか合わなかったら続かないだろうし」

「だよね、だよね! そう言ったらさ、野々宮ちゃんってば顔が良かったら何でも許せるって言うんだもん。おまけに音子も早く彼氏つくりなとか言われた! マウントだよ! マウント!」

 彼女が膨らませた頬は、白みだした世界のおかげでほんのりと色づいている。

「秋永さんなら、すぐに恋人くらい出来るでしょ。この前も告白されたとか言ってたような」

「私、正直あんまり恋愛に興味ないんだ」

 冗談、というわけでは無さそうだった。少なくとも、僕から見れば彼女は本当にそう思っているように感じる。

「僕も興味ないから、分かる気がする」

「そっか、それは好都合」

「どういうこと?」

 彼女はおもむろにスマホのカメラアプリを起動させる。

「いやさ、ちょっとムキになっちゃてね。彼氏つくりなって言われた時に、いるもんって言っちゃったんだよ」

「……あぁ、なるほど。だから、制服着てお洒落してこいってね」

「理解が早くて助かるよ。こんなの頼める人が限られてくるからさ。それに、」

「それに……?」
 
 背景の海で、遠くの船が汽笛を鳴らす。画面に映った彼女が僕を横目で見る。

「多分、負けてないはずなんだよね。私には分からないけど、クラスのみんなが言ってるの聞くとさ」

「今、とんでもなく失礼なこと言ってるよ?」

 彼女がにっと笑う。そして、おもむろに僕の顎に手を添えて頬をつまむように押した。その瞬間、スマホが軽い音と共に瞬く。

「はい、真似して?」

「え、真似……?」

 何を真似しろというんだ。撮影ボタンの上をせわしなく彷徨わせる彼女の指を見て、余計に焦った。
 よく分からないまま、自分の頬を押し掴む。それを見て彼女が声をあげて笑う。その拍子に彼女の指がスマホに触れ、カシャッと軽快な音を鳴らす。瞬きの後、画面に写真が表示される。自分の変な顔より、彼女の自然な笑みに目が吸い寄せられた。

「そ、そうじゃないって、くふっ……ふふっ……」

「いや、だって真似しろって……」

「こうだよ、こう」

 彼女が僕の手を取り、そして自分の頬へと持っていく。彼女の顎先に手のひらが触れ、そのまま指が頬へと寄せられる。
 心臓が取れるかと思った。手を伝う彼女の熱に左腕が痺れる。真冬なのに背中にはじんわりと汗が滲んだ。

「ほい、ちーずっ!」

 スマホが二度、瞬く。画面に写し出される僕は、見事に引き攣った笑みを浮かべていた。おまけに半目だ。酷すぎて乾いた笑いが零れる。

「よし、これで朝の海デートってことに出来るでしょ!」

「あ、これでいいんだ……」

「え、気に入らなかった? 決め顔とかやっとく?」

「……いや、別にいい」

 まだ熱の残る左手を眺める。握って、閉じて、何度か繰り返した。

「いやらし~」

「な、何が!?」

 僕の左手を取って、彼女がごしごしと握った拳で擦る。

「はい、証拠隠滅! 安心してよ、学校の人たちには絶対に見せないからさ。というか、見せたら私も困る」

「当たり前だよ。僕だって色々と困る」

 彼女は僕を見て、何を浮かべたのか小さく笑う。まだ鼓動のうるさい僕は、必死に凪いだ波の行方を目で追っていた。
 スマホが震える。見ると、彼女からさっきの写真が送られてきていた。

「二人の秘密、また増えちゃったね」

 これが計算なら、末恐ろしい人だ。きっと、無自覚なんだろうけど。

「勝手に増やさないでもらえると助かるんだけど」

「まあまあ、いいじゃん。私は恋愛とかより、こういう方が楽しくて好きなんだけどなあ」

 僕も彼女も互いに隠している。誰しもが、全てを曝け出せるわけじゃない。親にだって隠し事をするくらいだ。それが当たり前。欺いて、欺かれて、自分すらも誤魔化して生きている。
 こうして毎朝彼女と過ごすことで、いつかは互いの秘密に触れてしまうのだろうか。それは堪らなく怖いことだし、恐ろしい。きっと気まずくなって、もしかしたらこの関係も無くなるかもしれない。そんなことになるくらいなら、僕らは隠し事を続けるべきだ。人はそうやって日々を生きているんだから。
 彼女の手帳を見てしまったのは、それから数日後の朝のことだった。

         *

 遊びに行くと言っても、僕らの町に高校生が休日に過ごすような施設は無い。チェーン店はファーストフード系しか無いし、カラオケやボーリングだって高校生にとっては財布が痛い価格の個人経営の店ばかりだ。
 ただのよくある田舎の観光地。それも、電車で少し行ったところにもっと有名な観光地が存在する。そんなおまけのような場所。
 生まれ育った町ながら、どこに観光要素があるんだと思ってしまう。駅前には廃れた土産屋と干物屋、観光客からぼったくる高値の食事処が数件。町中には観光施設があるわけでもない。山と海、それと温泉だけがこの町を観光地だと言い張らせる要因だ。
 ただ、それは他の観光地も一緒なのかもしれない。住めば都。声を大にして言いたい。それは全くの真逆だ。
 電車を乗り継ぎ、一番近い『街』と言える場所まで四人で来た。都会と定義するにはいささか規模に欠けるが、どうせ夕方までだらだら過ごすだけだろう。

「わーっ、久しぶりに来た! 何か色々と変わってるね!」

 今日も眩いばかりの注目を浴びる秋永さんを、まるで犬のリードを引くように止める田上さん。

「まず何するか決めようよー」

「おっと、それもそうだ。じゃ、何したい?」

「私はやっぱりカラオケとか行きたいなぁ。奏汰とおとうとくんは?」

 二人の視線が向く。

「あー、カラオケね……」

 奏汰がちらっと僕を見る。そっか、カラオケなんて行く機会が無いから、自分が音痴なことを忘れていた。

「僕、歌うの苦手なんだ」

 奏汰がそっと息を吐いたのを見て見ぬふりした。

「そっか。まあ、私は何でもいいんだけどね」

 (しき)りに前髪を直す田上さんの意識は今日も奏汰に向きっぱなしだ。当の奏汰は気づいていなそうだけど。
 つまり、僕と秋永さんはダシに使われたわけだ。奏汰一人を誘っても断られるだろうから、複数人それもなるべく奏汰が来そうな面子を選んだ。そうでなければ、秋永さんはともかく、僕が誘われることなどありえない。

 ひとまず、ファミレスで今後の行き先を決めることになった。当たり前のように僕の隣に座る奏汰。田上さんにちょっとだけ恨めしそうに見られた。

「それにしてもほんと顔そっくりだね。黙ってたらどっちがどっちか分かんないや」

「あー人生で何度も聞いた言葉だ。双子なんだから当たり前だろ」

「性格は全然違うのにね。胸に張り紙でもしておいて欲しい」

「それ本当に分かりみしかない!」

 田上さんの言葉に秋永さんが大きく頷く。

 基本的には何人になろうと僕の立ち位置は変わらない。誰かに話を振られるまでは口を挟まないし、気を遣われたらいち早く察して自分から話す。奏汰は僕のことをよく分かっているから、その分よくしゃべってくれるし、田上さんはもはや僕のことは眼中にない。今日、僕が気にしなければいけないのは秋永さんだけだ。
 不意に彼女の視線が僕に向いた。一瞬、心の中で身構えるも目は合わない。どうやら僕を見たわけではなさそうだ。僕の後ろに席なんかなく、ただ白塗りの壁があるだけだから、それもおかしな話だけど。だって、僕の顔を見たのなら目が合うはずだ。それなのに、彼女の瞳には僕の鏡像は映っていない。

「はぁー、クリスマスも正月も彼氏と過ごしてみたかったなあ」

 行き先を決めるはずの話は見事に脇道に逸れ、やはりと言うべきか田上さん主導で恋愛トークへと向かっていた。

「ここら辺じゃ、クリスマスに行くようなところもないでしょ」

「もー、奏汰は分かってないなあ。どうせ冬休みなんだから、一緒に旅行とか行ってさ、イルミネーション見たり、初日の出見たり色々あるでしょ。ねっ、音子もそう思うでしょ?」

 秋永さんは念入りに冷ましていた紅茶を一口、口に運ぶ。

「ん? 私はおうちデート派」

「それもめっーちゃ分かる! いいよね! 一人暮らしの相手の家でだらだら映画とか観るの!」

「たがみっち、それって何でもいいってことじゃん。ははっ、ウケる」

 奏汰の一言に田上さんはやけに嬉しそうな表情を見せる。しかし、それに気が付いているのはどうやら僕だけのようだ。

「それなのに、結局今年も家族と過ごしたんだよ? マジあり得ない。JK最後の一年だってのに!」

「栗原くんとか誘ったら絶対に来るんじゃない?」

「あ、それはそう。あいつも彼女欲しがってたぞ?」

「いや、二人ともマジで言ってるの? 栗原だよ? いがぐりだよ?」

 何か栗原が可哀そうになってきた。でも、彼はそういうポジションの存在で、彼自身もそれを受け入れているように見えるから、むしろいいのか。そんな訳の分からない妄想にふける。

「みんなは恋人欲しくないの?」

 田上さんの言葉に一気に現実へと戻された。

「えー、俺はめんどいからいらね」

「私はびびっと来る人がいればやぶさかでもないかもね。まあ、そんな人いないんだけど」

「えー、何それ。音子ならすぐに彼氏出来るのに、もったいない!」

「私はいいの。それより、奏弟くんは?」

 結局、僕の番は回ってこないものだと思ってたのに、秋永さんがしれっと僕に向きを変える。

「……僕も別に欲しいとは思わないかな」

「ふーん、何かみんなしけてんね。でもさ、好みくらいはあるでしょ?」

「俺は特になーし。そもそも考えたこともない」

 空になったコップをくるくると回す奏汰。これを見て、退屈だと分かるのは僕だけだろう。

「僕も同じく」

「そりゃ、そう。俺らは双子だから、好きなやつも一緒のはず。俺らが恋したのは唯一、幼稚園のあやか先生だけだもんな」

「いや、僕別に好きじゃなかったけど……」

「嘘だろっ!? こんなところで双子に差が出るなんて……」

 奏汰がドリンクバーを取りに席を立つ。つられて僕もほとんど無意識についていく。流石に三人にされるのはごめんだ。

「音子は?」

 去り際に二人の会話が聞こえた。

「んー? 私はねえ、私の全部を受け入れてくれる人かな」

「うっわぁ~、おもっ」

 盗み見た秋永さんの表情は冗談を言った風には見えなかった。重い、軽い、そんな話ではないんじゃないかな。漠然と、そんなことを思ってすぐに頭の隅に追いやった。


 ファミレスを出た後、僕らは近くで開催しているリアル脱出ゲームへと向かった。二人一組になって閉ざされた密室でクイズや謎解きをして、脱出を目指すという内容らしい。
 流石は日曜日というべきか、整理券を渡され、それまでは女子二人の買い物に付き合わされることになった。
 僕が退屈に感じるということは、隣で陽気に田上さんと話す奏汰も同じなわけで、やっぱりこそっと僕を見る。

「あー、えと……僕、次の美術で使う筆買ってきていいかな?」

「俺もこの前、調子乗って筆折っちゃったんだった。つーわけで、ちょっと買ってくるわ」

 渡りに船と言わんばかりに奏汰が食いつく。というか、奏汰のために船を出したのだから、乗船してもらわなきゃ困る。
 二件ある雑貨屋の遠くの方へと向かう。

「助かった。そろそろ疲れてきたところだったから」

「別に。筆を新調しなきゃいけなかったのは本当だし」

「そっか。でも、とりあえずこれで時間潰せるかな」

「……うん」

 結局、脱出ゲームの整理券時間ぎりぎりまで雑貨屋に居座り、戻ることにした。

「もーどこまで行ってたの? 時間ジャストとか他の女子にしちゃ駄目だかんね?」

「待ち合わせじゃないんだから。ほら呼ばれてる。いこーぜ」

 入場口はニ叉路で、二組計四人が同時に入れる仕組みになっていた。すっと横に奏汰が移動してくる。

「あ、ちょいちょい。そうじゃないでしょ」

 田上さんが慌てて止める。当たり前だ。この脱出ゲームを提案したのは田上さんだ。きっと事前に色々とプランを練ってきていたのだろう。

「奏汰もおとうとくんも頭良いでしょ。私たち、二人とも馬鹿。つまりさ、」

「たがみっちひどーい。私、サスペンスドラマとかよく見るのに」

 秋永さんの的外れな抵抗はもちろん田上さんには届かず、結局奏汰と田上さん、僕と秋永さんで入場することになった。
 ここまでする田上さんに、流石の二人も気が付いたようだ。奏汰が田上さんに見えないように重く息をついたのを僕は見逃さなかった。しかし、こうなってしまっては、僕は奏汰の手助けは出来ない。それにここから先は二人の問題だ。僕は別に田上さんの邪魔をしたいわけじゃないのだから。
 そんなことより、僕は自分のことで精いっぱいだった。

「なるほど……奏弟くんは気が付いた?」

「まあ、最初から」

 平常心、装えているだろうか。

「最初っていつなのさ。もしかして、今日ずっと?」

「最初にそうかなって思ったのは二か月前。確信したのは二週間前くらいかな」

「えっ!? そんな前からだったの? 全然気づかなかった……」

 やけに凝った装飾の一本道を進むと、一室にたどり着く。中には探偵の服装をしたキャストがいて、ルール説明を受けた。脱出率は十五パーセントらしい。約七組に一組の割合だ。
 結果から言うと、僕と秋永さんは時間をかなり余して脱出に成功した。そうは言っても僕はあまり役に立っていない。ほとんど秋永さんが謎を解いてしまった。
 キャストの人曰く、ここまで早いのは珍しいらしい。

「いやー、難しかったね」

「ほとんど秋永さんが解いてたじゃん。すごいよ、僕は全然分からなかったのに」

「ふふん、勉強が出来なくても、閃きはピカイチだったね。自分でも知らなかった」

 得意げに語る彼女を視界に収めつつ、奏汰と田上さんを探す。どうやらまだ出て来てはいないみたいだった。

「まだかかりそうだし、どっか入って待とうか」

「……うん」

 奏汰に連絡を送っておいて、近くの喫茶店に入る。陽の傾き始めた時間帯ということもあって、思ったよりも空いていた。

「私、紅茶のホット。奏弟くんは?」

「えっと、同じやつで」

「おーけー。あっ、チーズケーキも食べちゃお」

 注文を済ませ、店員が離れると必然と沈黙が訪れる。それまで気に留めなかった店内を流れるクラシックがやけに耳に滞留した。

「なんか、ごめんね。今日来てもらっちゃって。こういうの苦手でしょ?」

「いや、秋永さんが謝ることじゃないでしょ」

「たがみっちは友達だから、一応ね」

 彼女は容姿だけじゃなく、中身まで優れているのかと思わざるおえない。友達のために謝るって軽い感じでも中々出来ることじゃない。

「どうせ家に居てもやることなかったし、画材も買えたから」

 なんてつまらない会話だろうか。自分から話題を振ることも出来ない、返答も面白くない。これが奏汰ならば、きっと退屈させない話題を提供出来ていたのだろう。頭の中で妄想を広げ、諦める。僕には出来ないことだ。

「奏弟くんって口堅い?」

「堅いというか、柔らかくする相手がそもそもいない」

「じゃ、いっか。実は私も今日来るの結構めんどくさかったんだ」

 秋永さんは笑いながら言った。彼女はアクティブな人間だと思っていたから、すごく意外だった。

「でもさ、先週は用事あるって断っちゃったから、今日は行かないとって。こういうの、空気読みみたいなもんじゃん?」

 急に彼女に妙な親近感が湧いてくる。てっきり、彼女は二割側だと思っていたから、空気を読むなんて無縁のことだと思っていた。
 結局、二割の人たちも色々と考えてポジション取りをしているということだろうか。

「あんまりみんなで遊びに行くとか、そういうの得意じゃないんだよね。ボロが出そうになる」

「ボロって?」

 彼女はティーカップを口元に添えて、「あっ……」と声を漏らす。

「音痴だったり、映画黙って観てられない……とか?」

「なんで疑問形……」

「と、とにかく、大人数でどっか行くのはあんまり好きじゃないの」

 腑に落ちない理由だったけれど、秋永さんとはそれを言及するだけの関係ではないから、素直に相槌を打っておいた。

「それにしても恋人かあ。みんなそういうの好きだよね」

「もう高三だからね。最後に青春したいんじゃないかな」

「まあ、そうだよね。大学生ってなんだか大人なイメージだし。恋愛だって、ちょっと泥臭くなりそう」

 彼女の言わんとしていることは分かる。近くに大学が無いから、僕らの大学生のイメージは少しずれているのかもしれない。しかし、大学生が大人に感じるのは全くの同意だ。
 早くなりたいような、もったいないような。大人になったら、その先はずっと大人のままだ。子供に戻ることは出来ない。

「でも、中学生の頃って高校生が大人とまでは言わないけれど、すごく遠い存在というか、自分たちとは全くの別物に感じなかった?」

「それ分かるかも! こんな風になる自分が想像出来なかったし」

 やっぱり、みんな考えることは同じなんだろうか。
 ないものねだりとはちょっと違う。高一の時に高三の自分は想像は出来るくせに、高三の今、大学生になった時の自分を想像出来ない。環境が変わり、それによって自分もがらりと変わってしまう気がして、でもどんな風に変化を遂げるのか分からない。

 妄想してみる。私服でキャンパスの門をくぐり、自分で選んだ講義を受ける。関わらざるおえない箱庭のような人間関係は無くて、全てが自分次第。きっと、一人暮らしになるだろうから、帰ったら自分で家事をして、多分アルバイトとかもするのだろう。億劫な歴史だとか、使いもしない数学なんてやらず、とにかく自分の興味のある分野だけ勉強する。
 その全てがのっぺらぼうで、まるで自分に置き換えることが出来ない。たった一年後にそんな風に自分がなっているなんて想像もつかなかった。ましてや、進学せずに働いている姿はもはや妄想すらできない。知りえないことは、頭の中で思い浮かべることが出来ないのだから。
 
 眼前の彼女も同じように頭の中で映像を流しているのだろうか。ティーカップの中身をじっと見つめ、黙している。
 不意に、彼女が言葉を零す。

「怖いね……」

「えっ?」

 僕の小さな反応に、はっとした表情で顔を上げる彼女。

「今の声に出てた?」

 頷くしかなかった。

「気にしないで」

 彼女は一言、そう呟いた。
 多分、またボロが出たというやつなんだろう。

         *

『釣りってやったことある?』

 彼女から初めて夜に届いたメッセージはそんな文面だった。
 随分と回りくどい言い方だ。そして、とても分かりやすくある。だから僕は納屋に閉まった釣り竿を捨ててないことを思い返し、返信した。

『あるよ』

『やってみたい』

『随分と急だね』

『旨い物は宵に食えってことだよ。魚食べれないけど』

『じゃあ、思い立ったが吉日でよかったじゃん』

『正論ぱーんちっ!』

 僕と彼女はメッセージのやり取りでさえ、面白みの無い会話だ。絵の海月がコミカルにパンチをしているスタンプが送られてきて、思わず一人で笑ってしまう。

 時計に目を向けると、夜の八時をちょうど回ったところだった。釣具店はもう閉まっているし、明日の朝ではまだ開店していないだろう。
 渋々、適当な服に着替えて家を出た。なんてことのない時間のはずなのに、すごく新鮮な気持ちになる。見ている景色は夜明け前と違いが分からない。真っ暗で、時折通過する車のライトだけが、ノスタルジックな雰囲気を壊す。けれど、空気が違った。匂いなのか、鼻から吸い込んだ空気はやけに重たく思える。朝の空気はとても軽い。きっと、誰に言っても伝わらないのだろう。

 少し歩き、海岸沿いの釣具店に向かう。やっぱりシャッターは降りていた。横をぐるっと回って裏口の戸を叩く。ややあって、向こう側から足音が聞こえてきた。気怠さが伝わってくる不規則な歩調だ。
 建付けの悪い古めかしい扉が鈍い音を立てて開く。目元に大きな隈を刻んだ男性が姿を見せた。

「こんな時間に誰だ……って思ったら、なんだ加嶋(かが)じゃねーか」

「お久しぶりです。先生」

「……まあ、入れや」

 ぼさぼさの髪を掻きながら背を向ける先生。その指先は黒く滲んでいた。
 中学三年の時の担任であり、元教師。確か、二十八歳とか言ってたっけ。僕らが卒業すると共に、一身上の都合ということで教員を辞めた変わり者だ。生徒に理由は告げられなかったけれど、僕は先生がなぜ公務員という安定な立場を自ら降りたのかを知っている。

「どした、さみぃから早くしろ」

「お邪魔します」

 後ろ手で扉を閉める。
 先生の猫背な後ろ姿には、担任だった時の生真面目な雰囲気は残っていない。でも、僕はこっちの姿の方が似合っていると思ってしまう。

 何を聞くでもなく、先生は廊下の突き当りの部屋に入る。後に続いて足を踏み入れると、たばこの臭いが微かに鼻につく。木造の一室には似合わない大きなデスクトップパソコンと、付随する機材が最初に目に入る。デスク横に置かれた紙束、横にずらしたキーボード、代わりに正面に置かれた大きなタブレット板。確か、液タブと言うんだったか。先生はパソコン前の椅子に身体を沈めた。

 僕はいつもの如く、大きな本棚の横に置かれた藍色のソファーに腰を降ろす。

「最近、来なかったじゃねえの」

「もう四月で高三になりますからね。色々と忙しいんですよ」

「おいおい、もうそんな経つのか。早ぇなあ。進路は決めたのか?」

 真っ先に聞くのが進路な辺り、教師癖がまだ抜けきっていないように思える。もっとも、教え子が目の前にいるのだから、当たり前なのかもしれない。

「東京の大学にしようかと」

「双子揃って?」

「志望校は別々なんで、一人暮らしになりますかね。別に一緒に住んでもいいけど、もう大学生ですし」

 先生は何を考えているのか、天井の木目をぼんやりと眺め、煙草に火をつけた。ちょろっと開けた窓から逃げるように消えゆく煙。

「大学か。いいんじゃね? 俺が学生時代で一番楽しかったの大学の時だからな。きっと楽しいはずだぞ」

「そうなんですか?」

「まあ、俺も加嶋と同じようにこの町で育って、田舎に飽き飽きして都会に出た口だからな。一人暮らしは気楽でいいぞ。男友達と徹夜でゲームしたり、彼女が入り浸って半同棲みたいになったり、実家じゃ考えられないことばっかりだったな」

 随分と懐かしそうに語るけれど、先生からしたらまだたったの数年前の話のはずだ。六年かそこいらなのでは。と思ったけれど、僕だって六年前といえばまだ小学生。妙に納得した。小学生の頃なんて、確かに懐かしい。遠い昔のように思える。

「想像出来ないんですよね、大学生の自分」

「そりゃ、そうだろ。想像出来たら面白くもなんともねえ」

 先生は手元の紙に目を落とし、興味無さそうに言った。

「そういうものですか」

「俺だって、教師になったばかりの時は今のこんな自分なんて想像出来ちゃいなかったよ。教え子に言うのもなんだが、教師になったのは言っちゃえば何となくだったからな」

 相変わらず、先生は僕の中の教師像というものをことごとく破壊してくれる。

「大人になるって何ですかね」

「おいおい、急に人生相談かよ。俺が担任の時にしてくれよ、そういうの」

「いや、なんというか、恥ずかしいじゃないですか」

 先生は短くなった煙草を灰皿に押し付け、窓を閉める。古めかしいエアコンの稼働音が一気に大きくなった。

「分からなくないけどな。俺だって思春期があったわけだし」

「……それで、どうなんですか?」

「大人ねえ……」

 先生は考えるように首を傾げた。

「一般的には思慮分別があるとか、心身の成熟ってことなんだろうが、聞きたいのはそういうことじゃねえよな?」

「まあ、はい……」

「じゃあ、俺にも分からん」

 あまりにもあっさりと切り捨てられ、あっけらかんとしてしまった。そんな僕を見て、先生が続ける。

「加嶋の言う大半の大人は、自分のことを大人だなんて思っちゃいねえよ。少なくとも、俺はまだ自分のことを大人だなんてこれっぽっちも思わないね」

「どうして、なんですか?」

「気が付いたら、こうなっていただけだ。ベルトコンベアーみたいに流されて大学の四年間が過ぎ、周りを真似して別に熱意もクソも無い教師という職に就いて、まだ学生気分のまま中学生の面倒見て」

 先生は少しだけ言い淀んだ。僕をちらっと見て、まあいっかと言うように息を吐く。

「俺も加嶋くらいの時は教師ってどう見ても大人だったんだよ。そりゃ、そうだろ。あんなに来る日も来る日も教養を垂れ流して。どうやっても逆らえないし、こっちが何かすりゃ、聖人君子の如く正論を語って怒って正す。だろ?」

 これは頷いてもいいものなんだろうか。

「た、確かに?」

「でもよ、実際に自分がその立場になったら分かるんだよ。結局、ろくでもない人ばかりだってな。俺みたいに人の目気にして、なんとなしになったやつだっていっぱいいるし、飲み会になったら愚痴大会。教師間のいざこざは日常茶飯事。もっと言えば、喧嘩沙汰で逮捕された教師までいやがる。どこが大人なんだよって話だろ?」

 これも繕うってことなんだろうか。空気読みの延長。むしろ、学生時代の箱庭生活は社会に出た時の予行演習とでも言うのか。
 本棚を目でなぞる。棚一杯に陳列された少女漫画。もう三分の一ほどは読んだだろうか。外では口が裂けても言えないが、読んでみると結構面白い。何なら、少年漫画とか青年漫画より僕は少女漫画の方が好みだ。

 脱サラして、実家の釣具店をしながら少女漫画家を目指す人。それが、先生――芦馬(あしば)恭治(きょうじ)というわけだ。
 教師の時の風格は薄れ、隈も一層濃くなった。それでもその姿が似合ってしまうのだ。自分を曝け出すって、怖くないのだろうか。もちろん、今の自分が思春期真っただ中で、この気持ちもそれに由来するものだと分かっている。では、この思春期はいつ終わりを迎えるのだろうか。明日か、一年後か、もしかしたら十年経ってもまだ続いているかもしれない。
 少し、怖いなと思ってしまった。

 一体、僕はどうなりたいのだろう。それすら分からない。迷って、悩んで、立ち止まり続けている。踏み出したと思ったのに、結局その場で足踏みをしているに過ぎない。
 だから、逃げるように誰もいない灯台を登った。死にたい、とはやっぱり思っていなかった。でも、僕が死ねば色々と解決するのではないか。その一心があって、傍から見ればそれは希死念慮を抱く人と同じに見えて、だから彼女は「順番待ち」なんて言ったのだろう。

「先生はどうして漫画家になろうと思ったんですか?」

 今度は先生と目が合う。

「教師の時、思ったんだよ。あー、このままこの生活が定年まで続くのかってな。想像して、次の日には辞表を出してた。……ただただ、もったいないなあってな」

 重たげな瞳が、じんわりと小さな火種を蓄えているように見えた。
 遅くなる前に、先生は僕を追い出すように帰した。来た時と何ら変わらない夜道を歩く。やっぱり、ちょっと空気がもたついていた。
 帰り際に先生が言った言葉が耳を離れない。

「若い時の苦労は買ってでもせよ。ありゃ、間違いだ。正しくは、若い時の一歩は勇気が無くてもさっさと踏み出せ、だな」

 それってつまり、思い立ったが吉日なのではないだろうか。

         *

 大方の予想通り、フードパックに入った砂交じりの磯目(イソメ)を見て彼女は間抜けな悲鳴を上げた。まだ真っ暗な堤防を一歩後ずさりにして、僕を睨みつける。

「きんっっっも!」

「そんなこと言われても……」

 似つかわしくない言葉遣いが、如何に彼女が動揺しているのかをよく表していた。
 絡み合って団子状になった磯目を一匹掴み、釣り針に括り付ける。肩越しに恐る恐ると見ていた彼女がまた小さく声を漏らす。

「魚って、こんなの食べるんだ……」

「そう言われると、魚の方が気持ち悪いのでは?」

 もう一本の竿にも餌を付け、片方を彼女に手渡す。

「うへぇ……」

 最大限に手を伸ばして竿を受け取る彼女。

「それじゃあ投げれないでしょ」

「いや、だってさ糸がぷらぷらして……ひぃっ! こっち来ないで!」

 釣り針の揺れに合わせて左右に身体を振る姿は、シャドーボクシングでもしているんじゃないかと思えてじわじわこみ上げるものがある。

「両手を右肩の上に持ってきて、後は竿を前に振るだけだよ。流石にテレビとかで見たことあるでしょ?」

「で、でもさ、それだと糸は後ろに行くわけじゃん?」

「そうだけど?」

「このミミズみたいなのが、急に針から外れて私に襲い掛かってくるかもしれない!」

 すごく真剣な眼差しで言うものだから、可笑しくて口角がひん上がった。思わず声が漏れる。すると、彼女は白磁の頬を膨らませ、「笑い事じゃないよ!」と言ってよこす。

「まあ、確かに活きが良いとたまに噛むよ」

「ほらほらぁ!」

 今の話は別に繋がっていないような。そう思いながら僕は自分の竿を放った。仕掛けが放物線を描いて遠くへと飛んでいく。リールが糸を吐き出し、水面に波紋を浮かべると同時に鳴りやむ。

「はい、たまに軽くリール巻いて」

 竿を彼女に手渡す。代わりに彼女の持っていた竿を受け取ってそれも放る。

「ねえ、どんなのが釣れるかな」

 揚々とした面持ちの彼女には申し訳ないが、冬場の朝マズメは釣果が望めない。ましてや、僕だって釣りなんて幼い頃にかじった程度だ。一匹だって釣れるとは思っていない。

「さあね。カサゴとか、三月に入ったからアジとかじゃないかな。後はやたらクサフグが釣れるけど」

「へえー、楽しみだなあ」

 案の定、三十分経ってもかかる気配すら見えない。今のところ彼女が二回ほど根掛かりで地球を釣ったくらいだ。
 東の山向こうが白み始める。世界が藍色に色づき、海鳥と烏のやかましいパレードが始まった。
 釣りをしながらというものの、僕と彼女の朝は竿を持っているということ以外は何ら変わらない。二人の間をぽつぽつと中身のない話が行き交うだけだ。

「釣れないねえ……」

 彼女が囁くように呟いた僅か数秒後、竿を握る手にわずかな振動が届いた。そして、竿の先端がほんのちょっとしなる。

「……来たかも」

「何が?」

「いや、何がって魚」

「えっ、ほんと!?」

 十分にじらし、竿を一気に振り上げる。山なりに曲がるカーボン製の竿と、手に伝わる抵抗するようなブルっという振動に当たりを確信した。

「はい、こっち持って」

 彼女の竿を片手で奪い取り、手早に自分の竿を渡す。

「いいの? え、でもどうしたら」

 釣りをしたいと言い出したのは彼女だ。僕が最初に釣ったって意味が無い。それよりも、早く糸を巻かないとバラけてしまう。
 竿を置き、彼女の手に自分の手を添える。そのまま彼女の手を握ってリールを手早く回す。

「わっ、ちょっと重いかも!」

「そりゃ、かかってるからね」

 抵抗が感じられる糸が徐々に手前に絞られていく。そこでようやく自分のしていることに気が付いた。とっさに手を離す。じんわりと残る熱に手汗が滲む。

「ごめっ……」

「何が? それより、まだ?」

「多分、もう少し。まだ巻いて」

 ほどなくして、海面に影が揺らぐ。

「な、何か見える!」

 やがて、それは姿を鮮明に見せた。するっと宙に飛び出た手のひらより少し大きい魚が宙ぶらりんでぴちぴちと尾を動かす。

「わぁーっ! ど、どうすればいい?」

「糸を持って、そのままこっちに引き寄せて」

 彼女は言われた通り手を伸ばし、糸を手繰り寄せる。磯目は駄目だけど、魚は大丈夫なようだ。じゃなかったら、釣りがしたいなんて言わないか。そんなことを地面をぴちぴちと跳ねる魚に独り語り掛ける。
 当の彼女は何故か随分と息が上がっており、達成感に満たされたような充足した表情をしていた。

「と、とったどー! ね、これ何て魚?」

 僕は魚の口元を抑え、針を取って海水を汲んだバケツに入れる。暗緑色の背に、銀白色の腹。背中を沿うように生えるトゲのある堅い鱗。

「マアジかメアジか……。何にせよ、アジだね」

「おぉー! これが噂のアジですか。って、そんな有名な魚釣っちゃったの!?」

「アジは比較的どこでも釣れるポピュラーな魚だよ」

「ふむふむ、君は食いしん坊だなあ」

 まじまじと眺める彼女は思いだしたかのように急いで鞄を漁る。ぼろぼろと荷物が顔を見せては鞄から出てくる。リップやら、ノートやら、そんなのお構いなしにスマホを取り出して、僕に手渡す。

「ね、持ってるとこ写真撮って! SNSにあげたい!」

「いいけど、背中はトゲがあるから気を付けて持ってね。普通に手が切れるよ」

「噛んでくるミミズと言い、釣りって危ないんだねえ」

 ミミズじゃなくて、磯目な。と心の中で独り言ち、彼女に持ち方を教える。

「うわっ……ぬめぬめしてる。ちょっとグロイかも……。早く撮ってぇ」

「はいはい、ちょっと待って」

 (かじか)む手でスマホを落とさないように支え、彼女に向ける。フィルター越しに映る彼女はちょうど明けた空に負けないくらいの眩しい笑みを浮かべていた。無意識に惹きつけられる。まるで、僕には毒のように感じた。
 何枚か写真を連射しておく。

「うへぇ、生臭い……。手、洗ってくる!」

 そう言い残し、彼女は小走りで一目散に手洗い場へと行ってしまった。
 とりあえず、何とか一匹でも釣れてよかった。じゃなかったら、彼女は満足しなかっただろうし、僕はわざわざ餌まで買いに行った無駄足を踏むところだった。
 強い風に彼女の鞄から覗いたリップクリームが転がったのを、咄嗟に手で押さえる。危うく海に落ちるところだ。跳ねる心臓をなでおろし、少し考える。飛ばされても厄介だと。散らばる彼女の荷物を鞄に戻していく。
 まとめられていない化粧品やら、お菓子のごみなど、どうやら彼女は整理整頓が苦手らしい。
 その時、一冊の分厚い手帳が風でパラパラとめくれる。見るつもりはなかった。ただ、目に入ってしまっただけ。思わず手を止める。

『――迫子(さこ)杏南(あんな) 同級生二組
 黒髪肩くらい、おさげメイン、たまにポニテ。色白。スカート腿くらい。
 身長同じくらい(156㎝)。細身。右手首にほくろ。胸Cくらい。声:高めちょいハスキー。
 呼び方:ねこ

 ――佐藤(さとう)賢人(けんと) 同高一個下
 黒髪短髪、硬そう。セット無し。よく腕まくり。日焼け肌。制服着崩し無し。
 身長結構高い(178㎝くらい)。細いけど筋肉質。右首付け根にやけどの跡。ピアス穴右あり。声:結構低い。
 呼び方:あきなが先輩

 ――須藤(すとう)先生 数A
 黒髪センター分け、セットあり。肌色普通。指輪あり。眼鏡あり(黒縁)。藍色スーツ。ワイシャツはストライプメイン、たまに無地。
 身長ちょい高い(172~174㎝くらい)。細身。整髪料の匂い(リキッド系)。声:ちょっと低め。
 呼び方:あきなが
 ※宮野(みやの)先生と間違いやすい! 注意!

 ……』

 開かれたページにはびっしりと書き綴られていた。人の名前、特徴。それもかなり詳しく。知っている名前もたくさんある。恐る恐るページをめくってみると、他のページも同じようにずらっと実在する人の特徴が書き記されていた。
 あまりに奇妙な手帳に口は開けど言葉が出ない。理解のし難いものだった。けれど、見てはいけないものということは間違いないはずだ。
 彼女は人物観察が趣味なのだろうか。だとしても、わざわざ書き残すのは趣味が良いとは言えない。むしろ、かなり不気味だ。そうではなく、他の理由でこの手帳を制作している。何の根拠も無く思った。
 言葉にならない複雑な感情がわだかまる。そして、同時に気になった。なぜか、見たら後悔するような気がした。けれど、僕の手は止まらなかった。ゆっくりとページを遡る。そして、その名前を見つけた瞬間、息が詰まるような感覚に陥る。

『――加賀奏汰 同級生一組
 黒髪耳にかかるくらい。前髪横流し。セット無し。肌色普通。着崩し無し、ワイシャツボタン一つ開け。
 身長ちょい高め(175㎝くらい)。細身。双子。声:普通くらい。よく通る気がする。
 呼び方:ねこ、たまにあきなが。
 ※間違いやすい! マジで注意!

 ――加賀奏弟 同級生一組
 黒髪耳にかかるくらい。前髪横流し。セット無し。肌色普通。着崩し無し、ワイシャツボタンたまに一つ開け。
 身長ちょい高め(175㎝くらい)。細身。双子。声:普通くらい。よく通る気がする。
 呼び方:あきながさん。
 ※間違いやすい! 超注意!

 ……』

 何を感じたわけでもないけれど、少し複雑な気持ちになった。他人からの外見の評価を文字にして見る機会なんてそうあるものじゃない。人には、少なくとも彼女には僕らはこの文章の通りの人物なのだろう。当たり前だが、書いてあることはほとんど一緒だった。

 なぜ、彼女はこんなものを書いて、持ち歩いているのだろうか。人の趣味にとやかく言う性格ではないけれど、ただ純粋に気になってしまった。

「ありゃりゃ、見られちゃったか……」

 風に吹かれて飛んでいきそうな小さな呟きに、(ふけ)る意識が引き戻される。顔を上げると、彼女が少し離れて立っていた。その表情にいつもの明るさは無く、どこか理知的に見える。きっと端正な顔立ちのせいだ。この状況は関係ない。そう信じたかった。
 世界から音が消える。やかましいくらいの海鳥の声も、波のさざめきも、自分の鼓動の音すら聞こえない。

「それ、」

 彼女の透き通った声だけが、僕の世界を支配する。手元のノートが音もしない風でめくれた。

「……ごめん。風で飛ばされそうだったから……」

 自分の声がまるで水中の音みたいだ。くぐもって、やけに反響する。自らの口元から発されたはずなのに、すごく遠くに聞こえた。

「そっか。ありがとうね」

 彼女は真顔を崩し、口元をきつく結んで、それからいつも通りの笑みを零す。
 今さら、中身は見ていないなんて言い訳が通じるはずは無いし、したくもなかった。僕には理解しがたい物だけど、きっとこれは彼女にとって秘密であり、とても大切な物のはずだから。

「返すよ。誰にも話さないから。でも、本当にごめん」

 彼女は何も言わずにノートを受け取った。優しい手つきで表紙を撫でる。

「……何も聞かないの?」

 どきっとした。聞かないのではなく、聞けない。触れてほしくないであろうことに足を突っ込む勇気は、僕には無かった。だから、彼女から聞かれて痛いくらいに心臓が瞬いた。

「聞かない方がいいのかなって思って……」

「やっぱり、君は優しいね」

「そんなんじゃない。憶病なだけなんだよ」

「私が優しいと感じたんだから、それでいいんだよ」

 後ろめたさに、彼女の顔は見れなかった。
 彼女は堤防の縁に腰を掛け、足を投げ出す。いつかのように隣に来いと手で地面をぽんぽんと叩く。横に並んで座る彼女は、やけに涼し気な表情で僕を見つめた。不思議だ、やっぱり彼女とは目が合わない。その瞳の中に、僕の表情が見えない。

「ねえ、今どんな顔してるの?」

「えっ……?」

 くみ取らなければいけない意味があるのだろうか。でなければ、理解の出来ない質問だった。

「笑ってるわけはないよね。怒ってる? それとも、しょんぼりしてる? 大穴は変顔かな?」

 まるで他愛のない話だとでも言いたげな、軽い物言いだ。

「言ってる意味が、よく分からないんだけど……」

 彼女はふと柔和な笑みを浮かべる。その表情が、どうしてか僕にはとても辛そうに思えた。笑っているはずなのに、瞳の奥は悲しそうで。大げさに言えば死期を悟った囚人のようだった。

「私、人の顔が見えないんだ」

 自虐じみた微笑みに、なぜか胸が痛んだ。怖くて、中々言葉が出ない。そんな僕を、彼女はじっと待ってくれた。

「……言葉通りに受け取っていいの?」

「そうだよ。私は生まれつき自分以外の人の顔が認識できないんだ」

 ちかっと水面が輝いた。初陽が彼女の素顔を照らす。気が付けば、山向こうから陽が覗いていた。
 初めて彼女と迎えた朝はちょっぴり生臭く、とてもじゃないけれど最高とは言い難いものだった。

         *

 彼女は『相貌失認(そうぼうしつにん)』――別名『失顔症』という病気らしい。人の顔が覚えられない、分からない。生まれつきの先天性と、事故や何らかの要因によって起こりうる後天性があるみたいで、彼女はその前者だった。
 症状は個々によって差があるようで、ある人は顔は分かるけれど覚えられない。また、ある人はじっと注視すれば認識できるなど、千差万別みたいだ。
 彼女は自分以外の他人の顔に煙がかかっているという、症状としては重度のものだった。目や鼻、眉など顔のパーツすら分からず、体つきや髪型、特徴的な癖、話し方など色々な要素を踏まえて人を認識しているらしい。
 そう教えられ、彼女が会った時に必ず全身をすっと見る癖も、まさに今大事そうに抱えているノートにも納得がいった。同時にどこかやりきれない思いを覚える。
 当の本人はむしろ伝え足りないようで、僕が話す隙すらなく、諳んじるようにすらすらと語り続けた。

「私はめっちゃひどいタイプらしいけど、病院の先生曰く百人に一人はこの病気らしいよ。最初は悲劇のヒロインだなんて思ったけど、結構ポピュラーなんだよね実は」

 つまり、僕らの学校内でも三人程度は彼女と同じ病気ということになる。しかし、僕は『相貌失認』という病気だと自負する人には今まで出会ったことがなかった。もしかしたら、彼女と同じように隠しているだけかもしれない。しかし、大半は軽い症状の人が多いらしく、人の顔を覚えるのが苦手程度の認識で、自らがれっきとした病気だと知らない人もたくさんいるのだろう。

 口が重たい僕は、彼女の話にひたすら相槌を打つに過ぎない。聞いていい範囲の見定めがずっと出来ないでいた。

「大変な病気なんだね……」

 ややあって、結局そんなありきたりな感想を述べるしかなかった。

「別に大変とか感じたことないけどなあ」

「つ、辛くはないの?」

「だって、生まれつきなんだもん」

 何の嫌みも含まず、彼女は即答した。そう言われれば、そうなのかもしれない。つらい、大変、そんな憐憫な考えは僕のエゴだ。彼女の日常を、僕が勝手に暗澹だと解釈してしまったに過ぎない。

「見えないのは顔だけなんだよね……?」

「そうだよ。なんでだろうね。髪型とか、服装は鮮明に見えるのに。だから、声とか、髪型とか、服装で人を見極めるんだよ」

 だから灯台での彼女は最初に敬語だったのか。僕が制服を着ていなかったから、見ず知らずの人だと彼女は判断したわけだ。彼女がクラスの全員に態度が変わらないのも、もしかしたら人を間違えないようにするためなのかもしれない。

「みんなだって、後ろ姿とかの時はそうやって判別するでしょ? 同じだよ。私はそれを正面からでもやっているだけ」

 分かりやすい例えに、ようやく彼女の世界を少しだけ想像することが出来た。それが生まれつきとなれば、確かに悲観することもないように思える。しかし、それでもやっぱり僕はどうしても可哀そうだと感じてしまう。失礼なことなのは分かっている。でも、すぐにこの考えを割り切るのは難しい。だって、僕には今だってこうして人を容易に見初めさせる彼女の顔を見れているのだから。

 聞いてみたかった。でも、聞いちゃいけないことだった。もしかしたら、彼女を傷つけるかもしれない。それでも、天秤にかければ本当にわずかに傾いてしまった。勇気なんてもちろんない。臆病風に吹かれ続けてきた僕だ。でも、これだけは聞かなくてはならなかった。

「そ、その……いじめとか、そう言うのは……」

 訥々と話す僕に、彼女は「残念ながら、ね」と呆れたように息をつく。

「小学生の時に一度だけクラスのみんなにバレちゃったんだよ。隠してたつもりだったんだけど、当時は要領も悪くて、よく人を間違えちゃってたし」

 バケツの中でじっとする魚に、彼女は壁越しにツンと突く。水面がわずかに揺れるが、当の魚はじっと身を静かにさせたままだった。

「ここで大層な作品だとすれば、私は壮絶ないじめにあうわけ。頭から水被ったり、ノートびりびりに破かれたり。先生は見て見ぬふりしちゃってね。そうなってれば、それこそ別の意味で飛び降りたくなってたのかもしれないかな。そんな別ルートも、多分あったんだよ」

「でも、そうはならなかったんでしょ?」

 彼女は目を伏せる。いじめが無くて良かったはずなのに、すごく悲しそうに見えた。

「そうだね。私は主人公でもヒロインでもないからね。でも、結果的に私は傷ついたんだよ?」

「……どうしてって、聞いてもいいのかな」

 彼女は僕を見てくすっと笑う。また優しいやつとか思われたのだろうか。この話題を彼女から引き出した時点で、僕は悪いやつなのに。

「ただ、ひたすらにみんな優しかったんだ。変に気を遣われてさ、とにかく豹変したみんなの優しさが気持ち悪くて、辛くて、こんな思いをするならちゃんと隠し通そうって決めた。結局、またバレちゃったけどね」

 彼女が僕に向き直る。僕は動けないままでいた。

「おはよう! あっ、私、夏奈ね。音子ちゃん気を付けて。今日、飯田先生初めて見る服着てたから」

 わずかに高くつくった声だった。そこに感情は見えない。

「どう? これ毎日色んな人にやられたよ」

「僕なら……きっと、辛いと思う」

 どうしてこんな時ですら、ありきたりな言葉しか出てこないのだろう。きっと僕は人の感情の機微に疎いのだ。もっと、相応しい言葉があるはずなのにそれが出てこない。

「私は普通でいたいだけなのに、ね……」

「普通じゃないってのは、僕もある意味では一緒だから、ちょっとだけ分かるかも」

 僕の言葉に彼女はきょとんとし、ややあって思いだしたように声をあげる。

「そうじゃん! 私たち、似た者同士ってこと?」

「どうだろ。ある意味では、そうなのかな」

「こんなところにいたのか同志よー!」

 バケツの魚がやけにせわしなく回遊し始める。すっかり昇った太陽を見て、多分遅刻だなと思った。でも、そんなことどうでもよくて、僕はぱたりと倒れて背中を地面につけた。
 彼女は嬉しそうな顔で僕を真似て寝転がる。
 空が近い。手を伸ばしても届きそうとは言わないけれど、もしかしたら何か物を思いっきり投げたら、その青い壁にぶつかって落ちてくるかもしれない。こんなにも開放的な場所なのに、窮屈で息苦しく感じた。

「あーあっ!」

 急に隣の彼女が大きな声を出した。横目で彼女を見る。彫刻像のように綺麗な鼻筋がまっすぐ上を向いていた。

「どうしたの?」

「本当、とことんドラマとか漫画みたいにならないなって。私は生まれつきの病気が原因で、小学校からずっといじめられ続ける悲劇のヒロイン。そして、海でしょげていたところをなぜかいつも一緒にいてくれる男の子。そして、二人は恋に落ちて愛の逃避行――。どう?」

 少しだけ、昔の記憶がフラッシュバックした。奇しくも、同じく小学生の時だ。

「ありきたりだね。あんまり面白くなさそう」

「だよね~。でも、やっぱりちょっと憧れるなあ。子供のまま抗う感じ? 逃避行ってそういうことじゃん? 全てを投げ捨てて、その人との時間を止めるために現実から逃げるんだもん」

「随分とロマンチックな言い回しだね。僕はひねくれてるから、ただ現実から逃げているように思えるけど」

 そう、今の僕みたいに。

「知らないの? 逃げるが勝ちって言葉があってだね」

 小学生でも知っていることわざを彼女は自慢げに語る。

「三十六計逃げるに如かず、ね」

「なにそれ?」

「逃げるが勝ちの元ネタ的なやつ」

「頭良いのやめてよー。恥ずかしいじゃん」

「わざとだよ」

「性格悪いなぁ。嫌な大人みたい」

 笑いながら彼女は言った。ノートを開き、何かを書きこむ。見てはいけない気がして、目をそらした。
 波の音に乗せてぽつりと呟く。

「……何書いたの?」

「ん? 君が性格悪いってね」

「うわぁ……」

「嘘だよ。本当は博識って書いた」

「性格悪いね」

「ふふんっ、お返しです」

 無邪気に笑う彼女は、とても綺麗だった。そう感じた僕は、やっぱりまだ罪悪感に駆られていた。
 今日も教室は騒がしい。
 喧騒が背景に漏れ聞こえてくる中、本をめくる。慣れたもので、この騒がしさの中でも僕は自分の世界に入りこむことが出来ていた。
 それでも、流石に目の前で繰り広げられるどよめきはかき消せない。僅かに耳を傾けながら、文章を目で追う。

「みなさーん、俺は奏汰の蛙化ポイント見つけましたよー! ゲコゲコッ!」

 栗原の大きな声に僕は一瞬、本から目を離した。当の奏汰は苦笑いを浮かべている。それを見て、もう一度目を落とす。

「えー、ちょっと気になるかも」

 やっぱり、田上さんが食いつく。
 四月になり、ようやくコートを手放せる時期になった。三年になろうともクラスは変わらないし、また一年、この箱庭が続く。新しく一からクラスの位置取りをしなくて済むから、僕は結構嬉しかったりする。

「だからさ、ポテトじゃなくてナゲットを選んだんだよ。ありえないだろ? 普通、ハンバーガーにはポテトだろ! はい、蛙化ー!」

 やっぱり、くだらない話だった。

「何それ、どうでもいいー。ってか、栗原が蛙化とか言ってんのまじうける」

「流行ってんだろ? 女子の間で」

「もう古いしー。そもそもそんな流行ってないから」

「なんだよ、ちょっと勉強したのに」

「蛙の勉強? 毬栗の勉強してた方がいいんじゃない?」

 奏汰の横槍に大きな笑いが起こる。果たして、何人が本気で面白いと思っているのやら。
 時計に目を向けると、まだ昼休みは三十分以上残っていた。
 ふと教室の外を見ると、窓越しに二組の芹沢が通り過ぎるところだった。彼は奏汰をひと睨みして、僕に目を向ける。首がくいっと斜め上に向く。背筋を冷たい震えが走った。
 奏汰は多分、芹沢(せりざわ)に気が付いていない。それでも、僕が席を立つと一瞬ちらっと視線を寄こす。
 いつものように芹沢は二人の取り巻きを添えて、先に行ったようだ。わき腹がずくっと痛む。
 教室を出る時、秋永さんとすれ違った。

「どっか行くの?」

「……ちょっと、図書室に」

「そか」

 受験を控えた大事な一年。僕はあまり思っていないけれど、奏汰はどうなのだろう。双子なのに、僕には奏汰のことがよく分からない。だから、波風は立てたくない。問題なんて、起こしたくない。()()()の奏汰はもう見たくなかった。
 校舎を出て、裏坂を上る。急こう配な坂道の上にはテニスコートがある。最近は煙草の吸殻が落ちていたとかで、わざわざ昼休みまで教師が見回りをしていたから、呼び出されたのは久しぶりの事だった。
 テニスコートは二段に分かれている。芹沢と取り巻きの二人はその上段で、細い煙を立ち昇らせていた。
 石段に足をかけたところで、彼らは僕に気が付いたようだ。その瞳が気怠るげに僕へと向く。制服の下の肌が粟立っているのが分かった。震える身体を必死に押さえつける。

「なあ、」

 階段を登り切った途端、芹沢がその大きな体躯を持ち上げて僕に詰め寄る。

「これチクったのお前じゃねえよな?」

 芹沢が短くなった煙草を指で弾く。足下に転がったそれは、まだ赤い火が小さく点っていた。

「……違う、けど」

「じゃあ、男テニの奴らか。めんどくせぇことすんなよな」

 大柄な身体がゆったりと近づいてくる。フェンスが背中に当たってややけたたましい音を立てた。
 刹那、みぞおちに鈍い衝撃が走り、息が漏れる。明滅する視界。よろめく身体を取り巻きに抑えつけられた。息がうまくできない。短く、犬のように口を開けて小さく声をあげるしかなかった。ようやく喉がかっぴらいて大量の空気が肺になだれ込むと、涙がじわっと滲んだ。痙攣したように震える腹筋はまるで怯えている心の内が体現されているみたいだ。
 また、この時間が始まった。
 左のわき腹に芹沢の脛が突き刺さる。僕は変に堪えることなく、そのまま横っ飛びに地面へと倒れた。浅い息を繰り返し、何とか零れそうになる涙を堪える。
 呼吸に合わせて、蹴られた箇所が鈍く疼く。見えない鈍器で殴られ続けているみたいだ。

「やっぱり、顔ムカつくな……」

 冷酷な眼差しで見下ろす芹沢を、ただただ見返すしかなかった。
 百九十の伸長と、筋肉付きの良い身体相手に僕が一縷(いちる)の抵抗すら出来るはずもなく、再び腹に鈍痛が走る。転がった際に口に入った砂利が、涎と共に咳に塗れてコートに滴った。
 執拗に腹や背中を(なぶ)られ、その度に僕は小さな呻き声と息を漏らす。
 その間、芹沢は何も言わなかった。もう僕を見てすらいない。彼が見ているのは、僕と全く同じ外見の奏汰だ。周囲の目を集めるようになってしまった奏汰を芹沢は疎ましく思い、そして、恐れている。
 僕も芹沢も憶病でいじっぱりだ。
 教師にチクられたり、校内で後ろ指を指されるのを恐れて、奏汰ではなく僕を痛めつける。僕なら、誰にも言わないし、言えないと思っているからだ。

「あいつがデカい顔してんの、ほんっとうに腹立つんだわ」

 そう言いながら、芹沢は転がる僕に腰を掛け、煙草に火をつける。九十近い重さが背にのしかかり、僕は無意識にえずいていた。硬い地面に爪を立てて掴むようにもがく。口の中を切ったのか、砂利に混ざって鉄の味がした。
 随分と温いいじめだ。
 ただ芹沢が僕をひたすら蹴って殴るだけ。取り巻きには何もさせない。それはきっと彼が力を誇示したいがためだろう。取り巻きもそれが分かっているから、ただ見て従うだけ。
 昼休みが終わるまで、じっと耐えていればいい。慣れてしまえば、別にそこまで辛くはなかった。

「おい、明日の昼も来いよ」

 チャイムのきっかり五分前に、芹沢は一言残して校舎へと戻っていった。
 春の温かな風が砂交じりの頬をなぞる。ずきずきと痛む身体を起こし、砂を叩き落とす。制服に少し跡が残ったけれど、これくらいなら問題ない。
 本当に手温い。だから、大丈夫。
 芹沢は臆病者だ。きっと過去の残像を追っているのだろうけれど、あの茅野(かやの)にはなりきれていない。

「――チクったら、小学校の時の事全部バラしてやる」

 その一言を予防線に張り、僕へのいじめが始まった時から分かっていたことだ。自分だって、過去が露呈してしまえば困るはずなのに。
 それでも、こんなちっぽけな痛みで奏汰を守れるのなら、それでいい。卑怯な僕が考えそうなことだ。あの時の過ちを正したいがためという、ただの勝手な償いに過ぎないというのに。

         *

 小学五年の頃、僕らのクラスは崩壊していた。それでも、大きな問題にならなかった。なぜなら、茅野(とも)が五年二組を支配していたからだ。
 大袈裟な響き。しかし、クラスの様を客観的に見てもそう言い表すのが的確だった。
 果たして、クラスの三分の一がいじめられている状況は、〝いじめ〟と呼んでいいのだろうか。だから僕は、自分たちはいじめられていたのではなく、支配されていたのだと思っている。
 茅野は親の事情で東京から転校してきた。普通、転校生がいじめられそうなものだが、茅野は違った。転校してきた初週から既に取り巻きをつくり、クラスの顔となっていった。
 彼は別に身体が大きいわけでもないし、特別容姿が整っているわけでも無い。至って普通の十歳の男の子だ。ただ、人を見る目があった。自分に逆らえなそうな弱者を味方につけ、一人では敵わないであろう芹沢を多人数でいじめた。
 いじめの内容については、特に語っても仕方がない。言ってしまえば、テンプレート的なものだ。物を隠し、昼休みは教室を締め切って円を描くようにして対象を囲んで床に這いつくばらせる。放課後は公園で全裸にひん剥いて暴行。

 そんな期間を二週間ほど続け、茅野は芹沢に言った。
 ――湯之原(ゆのはら)を連れてきたら、仲間に入れてやる。
 湯之原は僕から見て、クラスで芹沢の次に体格が良い人だった。そして、芹沢と入れ替わるように湯之原へのいじめが始まる。
 湯之原へのいじめはやっぱり二週間で別の人に移り変わった。次の標的はクラスで三番目に身体の大きな男の子だった。
 狡猾で、上手いやり口だと思う。最初にクラスで一番強そうな人物を多人数で捕まえ、その後は徐々に上から一つずつゆっくりと摘んでいく。二週間という期間は、きっとぎりぎり一人で耐えられる長さなのだろう。そして、自分より立場の弱い人物を売れば、自分へのいじめは終わる。だから、連鎖は止まらない。
 茅野のいじめは男子と並行して女子にも行われていたらしい。そっちに関しては、僕はあまり知らないが、結果的にクラスの三分の一が、茅野とどんどん膨れ上がっていく取り巻きによっていじめを受けた。
 途中から、誰も疑問に思わなくなっていたんだと思う。それより、次は自分なんじゃないかという不安だけが、日々を埋め尽くしていた。
 きっと、担任も早いうちに気づいていたはずだ。そして、見て見ぬふりが自分の立場(キャリア)にとって最善だと判断した。担任すらも、茅野の意のままだった。

 そして、小学六年。卒業の二週間前。いじめの対象だった白木(しらぎ)に茅野は言った。

「次は加賀のどちらかを連れて来い」

 昼休み、茅野が言い放った言葉に、僕はただ教室の端で奏汰と一緒に震えることしか出来なかった。ついに順番が回ってきてしまった。あと少しで卒業だというのに、神様はどうしてこんな仕打ちをするのだろう。
 もはや、僕らの中で茅野は神様よりも大きな存在になっていた。人の強い悪意に晒されたことのない僕らは、抵抗の術を知らない。なまじ理性を持ち合わせる年頃だから、親や先生に相談するなんてことは逆に出来なかった。そういう人間を茅野は選んでいたのだ。だからこそ、二年近い期間、茅野の独裁が続いた。その最後の締めくくりが、僕か奏汰のどちらかだったというだけの話。

 この時の僕には、奏汰のことを考える余裕なんて無かった。これまで繰り返し行われた非道の数々を思い起こし、その被害者を自分に置き換えて絶望する。これから卒業まで、耐えなければいけない。その覚悟だけはあった。

 床に這った白木が恐る恐る立ち上がり、ゆっくりと僕らに向かってくる。その瞳は安堵と歓喜に満ちていた。多分、その瞬間僕は白木のことが嫌いになった。でも、仕方がないことだ。誰も茅野には逆らえない。逆の立場なら、僕も白木のような恍惚とした醜い表情を浮かべていたのだろう。
 袖口をぎゅっと奏汰が掴んでくる。既に吃逆をしながら涙を垂れ流していた。奏汰は僕と全く同じ。僕の分身。ならばこそ、きっとその胸中も僕と同じで絶望と恐怖に塗れているはず。
 一歩、僕が前に出るだけで済む。白木は別にどっちでもいいのだろう。だから、自分の背に奏汰を隠してしまえばいい。白木に目で訴えるだけでもいい。
 ぐにゃりと歪む視界の端で、茅野が見えた。その瞬間、僕は踏み出そうとしていた足が固まってしまった。動かしたくても、ぴくりともしない。全身が硬直して、自分の息遣いだけが荒々しく脳内をかき乱れる。

 目の前で白木の手が伸びた。ゆっくりと近づくその手は僕の側をすり抜け、奏汰の腕を掴んだ。

「あっ……」

 その瞬間、僕は安堵してしまった。同時に金縛りが解ける。
 奏汰と目が合う。そして、彼はそっと僕の袖口から手を放す。
 胸の奥で、何かが水泡のように浮かび上がって弾けた。
 視界がぶわっと滲んだ。溢れ出した涙が止まらなくて、歪んだ視界で連れていかれる奏汰に必死に手を伸ばす。酷い罪悪感と、醜い後悔が遅れて次々と湧き立った。
 伸ばした手が、空を掴む。
 こんな時ですら声が出せない自分の弱さに、心底嫌気が差した。


 その日から、奏汰へのいじめが始まった。
 カーテンを閉め切って暗くなった教室。机が押しのけられて開けた空間の中心に奏汰がいた。奏汰を取り囲むように群れる支配者たち。もちろん、茅野だけが一歩前に躍り出ている。
 泣きながら上履きの裏を舐める奏汰。それを見て茅野は心底つまらなそうに奏汰の脇腹を蹴り飛ばす。横向きに倒れてうずくまる奏汰に向けて、さらに何度か足を振り抜く。
 奏汰のすすり泣く声だけが、しんしんと教室に響いた。僕を含む大勢が、それを見て見ぬふりして息をひそめている。
 全員が分かっていた。これはあってはいけないことなのだと。もはや当たり前になった光景を前にしても、その共通認識が変わることは絶対にない。ただ、どうしても動けない。光の遮られた薄暗い空間で、声を発することがどういうことなのか、みんな理解している。
 見ていて何もしないのは加害者と同じ。そんなことを言えるのは、この恐怖を経験したことがない奴らの戯言だ。

 午後の授業は頭に一切入ってこなかった。家まで帰った記憶も曖昧だ。
 一体、誰が何を間違えたのだろうか。どうすれば、茅野に悟られずに奏汰を助けられるのか。そんなことを数日考え続けた。
 結局、答えなんて出るはずがなく、その間も奏汰へのいじめは続く。

 日を追うごとに奏汰の目から光が失われていった。それを傍らで見続け、僕もどうにかなりそうだった。その感情に、僕はまた自分への苛立ちが募る。
 素直に罵倒してもらえたなら、どんなに良かったのだろう。しかし、奏汰は僕に何も言わなかった。罵りも、懇願も、泣き言も一切。

 その日の朝は、いつも家を出る時間に奏汰が部屋から出てこなかった。電気が消された家が静まり返っている。朝なのに、なぜか真夜中のようだった。
 階段を上がる。なぜか音を立てないように慎重だったことを覚えている。部屋の前で薄く深呼吸をして、軽くドアを叩く。返事はない。

「……入るよ?」

 部屋の中は廊下よりも暗かった。奏汰はベッドの隅で膝を抱えてこちらを見ている。僕にすら怯えているように見えた。その姿にようやく、僕は微かに怒りという感情を覚える。

「……学校、どうする?」

 僕が訊いていい事じゃない。けれど、気が付いたら言葉が出ていた。

「た、体調悪くて。……休もう、かな」

 奏汰の掠れた声に舌が泳ぐ。少しほっとした自分がいた。

「奏弟も、や、休んだら……?」

「僕も休んじゃったら、お母さんとお父さんに疑われちゃうよ」

「で、でも……」

 僕も奏汰も分かっている。奏汰が学校を休めば、おのずと標的が僕に移り変わることを。

「……大丈夫。僕は大丈夫だから」

 奏汰へ向けて、というより逃げ出しそうな自分に言い聞かせるように反芻した。こういうのはあまり深く考えちゃ駄目なんだ。どうせ、待っているのは地獄の日々。それなら、せめて恐怖の上に張った薄氷のような怒りの分だけでも、満足させておきたかった。
 
 幸いだったのは、僕がある程度心を意図的に閉ざせる性格だったこと。苦痛に対して耐えることが難しくなかったことだ。
 教室へ入り、奏汰が休むことを茅野に伝えると、彼は小学生には珍しくスマホを取り出し、一枚の写真を見せてきた。その写真はトイレの中で裸にひん剥かれた、水浸しの奏汰だった。

「お前も休んだら、これを町中にばら撒く」

 耳元で告げられた言葉に、それからのことは断片的にしか覚えていない。茅野を力の限り押しのけ、スマホを思いっきり床に投げつけた。光沢を放つ画面にピシッと亀裂が入る。こんなことで足りるはずがない。スマホを拾い上げ、教室を飛び出す。とにかく、時間が欲しかった。
 チャイムが鳴り、一時間目が始まるまで美術室の画材置き場に身を潜めた。幸い、一時間目が美術のクラスは無くて、遠くの教室から授業の音が聞こえてくるだけだ。スマホを付けてみる。ぱっと画面が明るくなった。
 人気のない廊下をゆっくりと横断し、技術室に忍び込む。工具入れを漁る時に響く金属音だけでも吐きそうになった。
 金槌を手に取る。持ち手の木がひんやりと震える手に伝わった。
 小学生の僕と同様、茅野もバックアップというものを知らなくてよかったと、後になって思う。
 遮光の黒いカーテンを閉め、スマホの画面を付けるとその明るさに目が痛む。僕は手に持った鈍器をひたらすらスマホに叩きつけた。何度も、何度も。一度音を立てたら、誰かが来る前に終わらせて逃げなければならない。だから、狂ったように殴り続けた。
 ぶつんっと画面がこと切れる。電源のボタンを押しても付かない。
 真っ暗になった室内でようやく息を吐きだすと、心臓がうるさいくらい脈を打つ。少しだけやり返してやったという達成感が疎ましかった。

 それからの日々は、あまり思いだしたくはない。最後の標的だからか、僕のしでかした行為のせいか、それともいざ自分がその身に立って初めて分かるものなのか、僕へのいじめは想像よりも苛烈なものだった。
 画鋲は刺さっている時よりも、数十分後に襲い掛かるずくずくとした痛みの方が耐えがたいこと。カッターの切り口は燃えるように熱くなること。くだらない痛みばかり覚えている。
 毎朝、奏汰に泣きながら引き留められた。もう写真は残っていないのだし、確かに卒業まで親に心配をかけることになってでも休めばよかった。けれど、多分僕は意地になっていたのだと思う。家まで茅野が来ない確証は無いし、そうなれば奏汰にだって危害が及ぶかもしれない。だから、僕は学校へと行き続けた。
 確かに辛かった。思いだして、吐き気が催すくらい色々なものが刻み込まれている。それでも、双子とはいえ兄として弟を守らないといけない使命感と、一度は逃げてしまった罪悪感に僕の理性は守られ通した。
 
 中学に入学すると、茅野は父親の転勤で今度は兵庫に引っ越すことになった。こうして、支配の日々は終わりを迎える。
 中学生という一つ大人の階段を登った皮切りに、奏汰は目に見えて変わった。きっと、自分を守るために演じることを覚えたのだ。僕と奏汰が入学した中学には、同じ小学校から来た人は少なかったから、とりわけ言及されることもなかった。
 それでも、二割側の奏汰は外の世界だけのかりそめの姿だ。家に帰れば、昔と何も変わらない姿だった。だから、安心した。僕は奏汰にとって、信用における人物なのだと認識できる。それだけで満足だ。

 だからこそ、壊されてはならない。茅野の後を追いかけるように支配する側へと変貌した芹沢なんかに、奏汰の外壁を崩されるわけにはいかなかった。
 だから、僕はいじめとも呼べないただの暴力を受け入れる。
 もしかしたら、間違った選択なのかもしれない。歪んだ対処法なのかもしれない。
 それでも、僕が小学生の時に学んだことは、ただじっと耐え忍ぶ。それだけだった。

         *

『花火、やるよ!』

『夜にってこと?』

『そんなわけないじゃん』

 理不尽な返答だ。花火と言えば、夜だろうに。既読だけ付けて、家を出る。四月の夜明け前は、ちょと肌寒いけれどコートはいらなくなっていた。軽いジャンパーを羽織り、下はいつからか面倒でジャージになった。まるでコンビニに行くような服装だ。でも、この時間帯には相応しい恰好だと思う。
 おかしいのは彼女だ。毎日、帳の降りた海辺に制服で来る女子高生が彼女以外のどこにいるというのか。
 最近、日の出が目に見えて早くなった。起きた時には空は既に淡い光りに侵食されていて、海辺の公園に着くときには陽が昇る直前だ。
 少し、寂しく感じるのは何故だろう。ぼんやりと滲んでいく空を彼女と眺めることは、もう無い。あの時間が嫌いじゃなかった。そのことに今さら気が付く。
 朝の気配を感じさせる軽い空気が、僕にとっては少しだけ煩わしい。

「おっ、来たね。おはよう」

 振り向いた彼女を見て、すぐに気が付いた。色々な考えが瞬間的に脳裏を通り抜けていく。動きを固めた僕を彼女は不思議そうに見つめる。どうしてか、目が合った気がした。

「どうしたの?」

「いや、えっと……。むしろ、どうした……のか聞いてもいいのかな」

 訥々とした喋りに彼女が小さく「あぁ……」と漏らして、そっと左頬に手を添える。手で隠した左頬は微かに熱がこもった赤みを持っていた。睫毛が湿って、目元が少し腫れている。馬鹿でも分かる。泣いた跡だ。

「うーん……」

 彼女は難しそうに唸り、朝焼けの水平線を見遣った。

「言いたくないなら、聞かないよ」

「……引かない?」

「当たり前だよ」

「そっか」

 彼女は傍らのコンビニ袋から湿布を取り出す。

「一応、買っておいたんだ。でも、一目で分かっちゃうくらい腫れてると思わなかった」

 大きな湿布を一枚抜き取り、鋏と一緒に僕に渡す。

「はい、貼って」

 今日ばかりは悪態をつく気にもなれなかった。湿布を小さく切り取る。そっと赤くなった部分に触れると、結構熱かった。

「ねえ、ちょっとドキドキするね」

「……黙ってて」

「ちぇー……」

 湿布を張り、皺が出来ないように上から軽くなぞる。

「さっ、花火やろうか」

 コンビニ袋からやかましい色合いのパッケージを取り出し、彼女はいつも通り明かる気に言った。何だか言葉を発する気になれなくて無言で首肯する。
 僕らは砂浜に移動し、二人でバケツを囲んだ。朝から一体、何をしているのだろうと思わなくもない。でも、それももう慣れた。僕と彼女の間に常識なんてものは通用しないのだから。
 ライターで彼女がそれぞれ手に持った花火に火をつける。刹那の静けさの後、一気に火花が放たれた。

「点いたー! けど、なんか薄いね」

 きっと、暗がりならば赤や緑、黄色など様々な色が混ざり合っていただろうに、先端から柳のようにしな垂れて零れ落ちる火花はやけに色が薄い。白い光の奥にうっすら別の色が見える。その様子がフィルターがかかる夜明けの空気の色と似ているなと思った。

「朝にはぴったりかもね」

 火薬の香りが鼻を衝く。なぜかこの匂いは嫌いになれない。
 火種が尽きては、新しい花火に火を付ける。最後に残るのはやっぱりやたら量の多い線香花火だ。火を付けると、白い火種がぱちぱちと燃える。ぽつぽつと会話をしながら、二人でその様子を耽るようにじっと見つめた。

「……私ね、片親なんだ」

 びっくりするくらいあっさりとした口調で、彼女が吐露する。辛そうには見えなかったから「そうなんだ」と返した。でも、彼女の顔を見続けることは出来なくて、また線香花火に目を落とす。

「私が生まれてすぐにどっか行っちゃったらしいから、私にとってはこれも普通のことなんだけどね」

 小さく頷いた。その意味は、僕自身にも分からない。

「お母さんはスナックやっててね、夜は家にいつもいないんだよ。で、私は昼は学校じゃん? 何日も顔を合わせないのが普通なの」

「朝には帰ってきてるんじゃないの?」

 そう言って、僕は激しく後悔した。地雷原を突っ走るかのような気分だ。

「……ごめん」

「なんで謝るのさ。私にとっては、これだって普通の事なんだよ」

 彼女の抱える普通はいつも僕にとっては普通じゃなくて、なんだか大きな溝がある。分からない。彼女が強がっているのか、それとも本当に普通のことだと思っているのか。

「毎日、こうしてここにいるのと関係ある……よね?」

 彼女は軽く頷く。その唇が、肩が、微かに震えていた。

「たまにさ、知らない男の人を連れて帰って来るんだよ。大抵、すごいお酒臭い。後は、まあ言わなくても何となく想像つくんじゃないかな」

 ふわっと漂う火薬の香りが、今はすごく鬱陶しい。苛立ちすら覚える。

「いつから……。いつから、ここに来るようになったの?」

「中学に入ってからかな。私がその意味を理解した時から、ずっとね」

 そんなにも長い期間、彼女は毎日こうして一人で朝を待っていたというのだろうか。それがどんなに苦痛なのか計り知れない。
 彼女のことを知れば知るほど、僕はどうして良いのか分からなくなる。色々なことから逃げている自分が情けなくて、そう思ってても、まだうじうじと時間が過ぎていくのをただ眺めている。
 ぽろっと頬を何かが伝った。

「えっ……?」

 なぞった跡が、ひんやりと熱を冷ましていく。

「もー、なんで泣くの?」

「あ、いや……。わから、ない。……ごめん」

「謝られることじゃないんだよ。私こそ、変な話しちゃってごめんね」

「そ、そうじゃない! ……違うんだ。話してくれたことは、その、嬉しい。でも、想像してみて、僕なら……それこそ死にたくなるのかなって……」

 最後の線香花火がすっとバケツの中へと落ちていく。澄んだ空気と火薬の残滓が揺蕩う。優し気に僕を見つめる彼女から、なぜか目が離せなかった。

「やっぱり、優しいんだよなあ」

「そんなんじゃないよ。僕は、実はとっても酷いやつなんだ」

 現実から目を背けて、こうして彼女と過ごす夜明けが心地よく感じていて、考えれば考えるほど屑で救いようのない人間だ。彼女が優しいというのは、僕の一面しか知らないから。きっと、本当の僕を知れば、彼女だって僕を軽蔑するだろう。

「人のことを思って泣けるのって、優しいんじゃないの?」

「たとえ優しくったって、一歩を踏み出す勇気が無かったら何の意味も無い。何とやらの持ち腐れだ……」

 自慢げに彼女が「宝だよ」と鼻を鳴らす。〝優しさ〟が宝になりえないと思ったから濁したのだが、どうやら彼女には伝わらなかったらしい。

「じゃあ、私のために一歩を踏み出してもいいんだよ?」

「どういうこと?」

「ふふっ、無理心中。あっ、でも今日話したこととか、病気のことは関係ないんだよ? 全くこれっぽちもってわけじゃないけれど、本当に違うからね?」

 一瞬、それでもいいと思ってしまった。僕さえいなければ、今の僕が抱えている問題事は解決するのだから。いっそのこと、彼女との選択もありなのかもしれない。でも、僕なんかはどうでも良くて、目の前の彼女が世界から居なくなってしまうのはすごくもったいなく思えた。
 さざ波が逃避したい思考を否が応でも引き戻す。

「……僕は自分が一番大事なんだ。だから、自分以外はどうでもいいと思ってる」

「それって、みんなそうじゃない? だって、誰かのために代わりに死ねって言われて、まあこいつのためなら死んでもいいかってなるのなくない? 少なくとも私は誰だろうと、代わりに死んでやるかとはならないよ」

「秋永さん、死のうとしてたんじゃないの?」

「それはそれ。私は私のために死にたいんだよ。誰かに殺されるなんてまっぴらごめん」

 〝殺される〟という表現が彼女らしかった。彼女にも、彼女なりの信念がある。だからこそ、軽率に薄っぺらい言葉で止めるのは薄情だと思った。

「それなら、無理心中だって駄目でしょ」

「……確かに。というか、出来ないや。つまり、誰かのために死ぬってことだもんね」

「結果的には、ね」

 彼女は両手を砂浜について空を仰ぐ。今日は曇り空だった。空が近いと言うことは雲も近いわけで、灰鼠色のそれが少し怖く感じる。

「どうすれば、この人のためなら死んでもいい! って思えるのかな。ドラマとかだと、最愛の人のために犠牲になる的なやつ多いけど」

「そんなベタな……」

 彼女が僕を見る。僕は灰色の雲から目が離せなかった。

「どうせ暇だしさ、そんな存在になってみる?」

 言葉の真意を理解するまでにやや時間を要し、それから彼女の顔を見た。そして、慌てて息をつく。本心、というわけでは無さそうだった。

「告白されてるの?」

「でもさ、彼女くらいじゃ、代わりに死ぬのは無理じゃない?」

「確かに無理だね」

「じゃあ、結婚してみる?」

「馬鹿言ってるんじゃないよ。というか、それでも足りなそう」

「ドライだな〜。まっ、私も同じ意見だけどね」

 結局、頬の怪我については分からずじまいだった。そんなことを話す雰囲気でもなくなってしまったし、彼女に笑みが戻ったのだから、とりたてて聞くことでもない。
 次の日から、彼女の呼び出しは一時間早くなった。

         *

 無機質なペン先がリズミカルに絶え間なく電子の板を叩く。最初はやたらと気になっていたこの作業音も、聴き慣れれば心地が良い。何気なく本棚から抜き取って開いた少女漫画は、内容が一ミリも頭に入ってこないでいた。
 時間の流れがゆっくりな気がして変な感じだ。窓の外は白波が大きくうねりをあげるような大しけの荒れ模様だというのに、この部屋の中はそんな様子を微塵も感じさせない。
 微睡に誘われて瞼が重たくなる。ずれ落ちそうな身体を起こし、マグカップを手に取ると空だった。

「先生、コーヒーお代わりいる?」

「おぉー、頼む」

 右手と視界は固定したまま、左手で器用にマグカップを差し出す姿はいつも通りだ。
 開き戸を抜けて廊下に出ると、古い木造住宅特有のひたっとした寒さが身体の芯を撫でた。軋む床が祖父母の家を思いださせる。
 キッチンはいつも通りすごく綺麗だった。先生は自炊をしないから、やかん以外の料理器具は全部戸棚の奥に眠ったままだ。
 マグカップを軽く洗い、キッチンペーパーで水気をふき取る。硝子戸を開け、インスタントコーヒーを取り出して、やかんに火を付けた。
 元教え子とはいえ、他人を家の中で勝手に動き回らせて良いのだろうか。同時に今さらか、とも思う。

 両手に持ったコーヒーを零さないように目をやりながら、足で戸を開ける様は自宅さながら。行儀が悪い気がするけれど、どうせ誰も見ちゃいない。
 先生は相変わらず、教師時代と打って変わって無口だ。随分、瘦せたのではないだろうか。

「先生、ご飯食べてるんすか?」

「ん? 何だ急にオカンみたいな」

「いや、また痩せたように見えたから。ってか、老けました?」

 伸びた髭に血色の悪い肌。ちゃんちゃんこから覗く細い腕。どっかの病人なんじゃないか。しかし、本人曰く何の病気も無いし、至って元気らしい。

「そうかぁ? ま、人の目を気にしなくなったせいかもしれねえな」

「先生、一応昼は店開いてるじゃないですか」

 もちろん、今日のような大荒れ模様の日は例外だ。こんな日に釣具店を訪れる物珍しい客なんているはずもないのだから。

「こんな店に来るのはおっさんかガキンチョだけだよ。見た目気にしてどうするってんだ。むしろ、あんまり若く見られると舐められるからな」

 液タブを上目で見やる。失礼は承知で、この人からこの絵が生まれたとは到底思えなかった。それくらい、繊細で生き生きとした少女たちがそこにいる。

「……あの、変な意味じゃないんですけど、どうして少女漫画なんですか?」

 きっと僕が取ることのない選択肢だ。だから、気になった。

「好きだからに決まってるだろ」

 相も変わらず迷いのない言葉。さっきまでの固い口はどこへ行ったのか、少女漫画の良さを諳んじるように語り続ける彼を見て、やっぱり本気なんだと思う。
 数分に及ぶ懐かしい先生の授業を聞き終え、やっと主題を口にした。

「これも変な意味じゃないんですけれど、その……僕なら、恥ずかしいかなぁって思っちゃうんですよ……」

 先生が手を止めて向き直った。そして、「この手の話かい」と呟きながら、伸びたぼさぼさの髪をかき上げてゴムで縛る。うっすらと昔の面影が横切った。

「もう俺は教師じゃねえんだがなあ。おしっ、ちゃちゃっと話してみろ」

 話を切り出したのは僕だというのに、何を話してよいのかよく分からなかった。ただ、最近は胸のつかえが多い。増えたと言うべきだろうか。
 逃げるように含んだコーヒーを口の中で転がす。先生に合わせて薄く作りすぎた。不味い苦みが喉を鳴らす。

「最近、周りの目がすごく気になってて……。何なら中学生の時からそうだったんですけれど、今はもっとと言うか」

「……それで?」

「えっと、勝手に他人の目を気にして色々取り繕って、自分を良いように見せて、代わりに大事なものを捨て置いちゃってるんです。……最悪ですよね」

 先生は「ふぅん……」と大きく息を吐き、静寂をつくる。僕を観察するみたいに視線を彷徨わせる仕草は、少しだけ彼女を思いださせる。

「まあ、あれだな。人の目が気になるのは悪いことじゃないな。気にしないでいると、俺みたいに老けるぞ」

 さっき言った事、ちゃんと効いていたようだ。

「俺ももちろん通った道だが、思春期ってのは何でもかんでも極端なんだよ。だから、人の目を気にするそれもバカでか超特大メガ盛りサイズだ。そりゃあ、気にし過ぎて何かを失うってこともあるだろうよ」

「でも、本当に失っちゃいけないもので……僕にとってはすごく大切なんです」

「大切って分かってんなら、上出来じゃねえか。なら簡単なんだよ。後は加賀が一歩を踏み出すだけだ。ほんの少し、周りの目を気にしなくなればいい。後のことを考えてるから動けねえんだよ」

 そう言って、先生は煙草に火を付けた。有言実行だとでも言いたいのだろうか。

「いいか、加賀。大人になろうとするな。その煩わしい病と向き合うなら、むしろ少しくらい子供になった方が楽だぞ」

「そんなもんですかね……」

「まっ、そんなこと言ったけど、逃げて解決するならじゃんじゃん逃げろよ。世の中、何にでも立ち向かっていってたら身体がいくつあっても足りないぞ。本当に大事なことにだけ、全力で立ち向かうのが一番なんだよ」

「……なんとなく分かります」

「みんな、分かっちゃいるんだ。でも、これが案外難しい。加賀も大人になれば分かるさ」

 煙が逃げる窓の隙間から、斜陽が射し込む。見れば、さっきまで降っていた雨は山向こうに逃げ、アクリル色のような濃い一面の青に夕日が注いでいた。

「なんだ、止んだじゃねえか。ほら、個人面談はおしまいだ。さっさと帰れよ」

 そう言って、先生はまたペンを手に取る。

「さ、最後に一ついいですか?」

「何だ?」

「先生、飛び降りる時ってどんな顔して死にますか……?」

 先生は手を止めない。

「そんなの決まってるね。大笑いしながら死んでやるわ」

 予想した通りの返答に僕は大きく息をついた。

「それじゃ、僕はこれで」

「あ、おい、加賀……っ!」

 聞こえないふりをして玄関まで小走りで廊下を抜ける。軋むドアを開けると、夕暮れの温かな空気が通り抜けた。
 振り返り、顔だけ覗かせた先生に向けて告げる。

「先生、何したらいいのか分からないけれど、とにかく頑張ってみようと思います! 自分なりに、後悔しない大人になるために……!」

 見えなかったけれど、先生は肩をすくめている。そんな気がした。