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大方の予想通り、フードパックに入った砂交じりの磯目を見て彼女は間抜けな悲鳴を上げた。まだ真っ暗な堤防を一歩後ずさりにして、僕を睨みつける。
「きんっっっも!」
「そんなこと言われても……」
似つかわしくない言葉遣いが、如何に彼女が動揺しているのかをよく表していた。
絡み合って団子状になった磯目を一匹掴み、釣り針に括り付ける。肩越しに恐る恐ると見ていた彼女がまた小さく声を漏らす。
「魚って、こんなの食べるんだ……」
「そう言われると、魚の方が気持ち悪いのでは?」
もう一本の竿にも餌を付け、片方を彼女に手渡す。
「うへぇ……」
最大限に手を伸ばして竿を受け取る彼女。
「それじゃあ投げれないでしょ」
「いや、だってさ糸がぷらぷらして……ひぃっ! こっち来ないで!」
釣り針の揺れに合わせて左右に身体を振る姿は、シャドーボクシングでもしているんじゃないかと思えてじわじわこみ上げるものがある。
「両手を右肩の上に持ってきて、後は竿を前に振るだけだよ。流石にテレビとかで見たことあるでしょ?」
「で、でもさ、それだと糸は後ろに行くわけじゃん?」
「そうだけど?」
「このミミズみたいなのが、急に針から外れて私に襲い掛かってくるかもしれない!」
すごく真剣な眼差しで言うものだから、可笑しくて口角がひん上がった。思わず声が漏れる。すると、彼女は白磁の頬を膨らませ、「笑い事じゃないよ!」と言ってよこす。
「まあ、確かに活きが良いとたまに噛むよ」
「ほらほらぁ!」
今の話は別に繋がっていないような。そう思いながら僕は自分の竿を放った。仕掛けが放物線を描いて遠くへと飛んでいく。リールが糸を吐き出し、水面に波紋を浮かべると同時に鳴りやむ。
「はい、たまに軽くリール巻いて」
竿を彼女に手渡す。代わりに彼女の持っていた竿を受け取ってそれも放る。
「ねえ、どんなのが釣れるかな」
揚々とした面持ちの彼女には申し訳ないが、冬場の朝マズメは釣果が望めない。ましてや、僕だって釣りなんて幼い頃にかじった程度だ。一匹だって釣れるとは思っていない。
「さあね。カサゴとか、三月に入ったからアジとかじゃないかな。後はやたらクサフグが釣れるけど」
「へえー、楽しみだなあ」
案の定、三十分経ってもかかる気配すら見えない。今のところ彼女が二回ほど根掛かりで地球を釣ったくらいだ。
東の山向こうが白み始める。世界が藍色に色づき、海鳥と烏のやかましいパレードが始まった。
釣りをしながらというものの、僕と彼女の朝は竿を持っているということ以外は何ら変わらない。二人の間をぽつぽつと中身のない話が行き交うだけだ。
「釣れないねえ……」
彼女が囁くように呟いた僅か数秒後、竿を握る手にわずかな振動が届いた。そして、竿の先端がほんのちょっとしなる。
「……来たかも」
「何が?」
「いや、何がって魚」
「えっ、ほんと!?」
十分にじらし、竿を一気に振り上げる。山なりに曲がるカーボン製の竿と、手に伝わる抵抗するようなブルっという振動に当たりを確信した。
「はい、こっち持って」
彼女の竿を片手で奪い取り、手早に自分の竿を渡す。
「いいの? え、でもどうしたら」
釣りをしたいと言い出したのは彼女だ。僕が最初に釣ったって意味が無い。それよりも、早く糸を巻かないとバラけてしまう。
竿を置き、彼女の手に自分の手を添える。そのまま彼女の手を握ってリールを手早く回す。
「わっ、ちょっと重いかも!」
「そりゃ、かかってるからね」
抵抗が感じられる糸が徐々に手前に絞られていく。そこでようやく自分のしていることに気が付いた。とっさに手を離す。じんわりと残る熱に手汗が滲む。
「ごめっ……」
「何が? それより、まだ?」
「多分、もう少し。まだ巻いて」
ほどなくして、海面に影が揺らぐ。
「な、何か見える!」
やがて、それは姿を鮮明に見せた。するっと宙に飛び出た手のひらより少し大きい魚が宙ぶらりんでぴちぴちと尾を動かす。
「わぁーっ! ど、どうすればいい?」
「糸を持って、そのままこっちに引き寄せて」
彼女は言われた通り手を伸ばし、糸を手繰り寄せる。磯目は駄目だけど、魚は大丈夫なようだ。じゃなかったら、釣りがしたいなんて言わないか。そんなことを地面をぴちぴちと跳ねる魚に独り語り掛ける。
当の彼女は何故か随分と息が上がっており、達成感に満たされたような充足した表情をしていた。
「と、とったどー! ね、これ何て魚?」
僕は魚の口元を抑え、針を取って海水を汲んだバケツに入れる。暗緑色の背に、銀白色の腹。背中を沿うように生えるトゲのある堅い鱗。
「マアジかメアジか……。何にせよ、アジだね」
「おぉー! これが噂のアジですか。って、そんな有名な魚釣っちゃったの!?」
「アジは比較的どこでも釣れるポピュラーな魚だよ」
「ふむふむ、君は食いしん坊だなあ」
まじまじと眺める彼女は思いだしたかのように急いで鞄を漁る。ぼろぼろと荷物が顔を見せては鞄から出てくる。リップやら、ノートやら、そんなのお構いなしにスマホを取り出して、僕に手渡す。
「ね、持ってるとこ写真撮って! SNSにあげたい!」
「いいけど、背中はトゲがあるから気を付けて持ってね。普通に手が切れるよ」
「噛んでくるミミズと言い、釣りって危ないんだねえ」
ミミズじゃなくて、磯目な。と心の中で独り言ち、彼女に持ち方を教える。
「うわっ……ぬめぬめしてる。ちょっとグロイかも……。早く撮ってぇ」
「はいはい、ちょっと待って」
悴む手でスマホを落とさないように支え、彼女に向ける。フィルター越しに映る彼女はちょうど明けた空に負けないくらいの眩しい笑みを浮かべていた。無意識に惹きつけられる。まるで、僕には毒のように感じた。
何枚か写真を連射しておく。
「うへぇ、生臭い……。手、洗ってくる!」
そう言い残し、彼女は小走りで一目散に手洗い場へと行ってしまった。
とりあえず、何とか一匹でも釣れてよかった。じゃなかったら、彼女は満足しなかっただろうし、僕はわざわざ餌まで買いに行った無駄足を踏むところだった。
強い風に彼女の鞄から覗いたリップクリームが転がったのを、咄嗟に手で押さえる。危うく海に落ちるところだ。跳ねる心臓をなでおろし、少し考える。飛ばされても厄介だと。散らばる彼女の荷物を鞄に戻していく。
まとめられていない化粧品やら、お菓子のごみなど、どうやら彼女は整理整頓が苦手らしい。
その時、一冊の分厚い手帳が風でパラパラとめくれる。見るつもりはなかった。ただ、目に入ってしまっただけ。思わず手を止める。
『――迫子杏南 同級生二組
黒髪肩くらい、おさげメイン、たまにポニテ。色白。スカート腿くらい。
身長同じくらい(156㎝)。細身。右手首にほくろ。胸Cくらい。声:高めちょいハスキー。
呼び方:ねこ
――佐藤賢人 同高一個下
黒髪短髪、硬そう。セット無し。よく腕まくり。日焼け肌。制服着崩し無し。
身長結構高い(178㎝くらい)。細いけど筋肉質。右首付け根にやけどの跡。ピアス穴右あり。声:結構低い。
呼び方:あきなが先輩
――須藤先生 数A
黒髪センター分け、セットあり。肌色普通。指輪あり。眼鏡あり(黒縁)。藍色スーツ。ワイシャツはストライプメイン、たまに無地。
身長ちょい高い(172~174㎝くらい)。細身。整髪料の匂い(リキッド系)。声:ちょっと低め。
呼び方:あきなが
※宮野先生と間違いやすい! 注意!
……』
開かれたページにはびっしりと書き綴られていた。人の名前、特徴。それもかなり詳しく。知っている名前もたくさんある。恐る恐るページをめくってみると、他のページも同じようにずらっと実在する人の特徴が書き記されていた。
あまりに奇妙な手帳に口は開けど言葉が出ない。理解のし難いものだった。けれど、見てはいけないものということは間違いないはずだ。
彼女は人物観察が趣味なのだろうか。だとしても、わざわざ書き残すのは趣味が良いとは言えない。むしろ、かなり不気味だ。そうではなく、他の理由でこの手帳を制作している。何の根拠も無く思った。
言葉にならない複雑な感情がわだかまる。そして、同時に気になった。なぜか、見たら後悔するような気がした。けれど、僕の手は止まらなかった。ゆっくりとページを遡る。そして、その名前を見つけた瞬間、息が詰まるような感覚に陥る。
『――加賀奏汰 同級生一組
黒髪耳にかかるくらい。前髪横流し。セット無し。肌色普通。着崩し無し、ワイシャツボタン一つ開け。
身長ちょい高め(175㎝くらい)。細身。双子。声:普通くらい。よく通る気がする。
呼び方:ねこ、たまにあきなが。
※間違いやすい! マジで注意!
――加賀奏弟 同級生一組
黒髪耳にかかるくらい。前髪横流し。セット無し。肌色普通。着崩し無し、ワイシャツボタンたまに一つ開け。
身長ちょい高め(175㎝くらい)。細身。双子。声:普通くらい。よく通る気がする。
呼び方:あきながさん。
※間違いやすい! 超注意!
……』
何を感じたわけでもないけれど、少し複雑な気持ちになった。他人からの外見の評価を文字にして見る機会なんてそうあるものじゃない。人には、少なくとも彼女には僕らはこの文章の通りの人物なのだろう。当たり前だが、書いてあることはほとんど一緒だった。
なぜ、彼女はこんなものを書いて、持ち歩いているのだろうか。人の趣味にとやかく言う性格ではないけれど、ただ純粋に気になってしまった。
「ありゃりゃ、見られちゃったか……」
風に吹かれて飛んでいきそうな小さな呟きに、耽る意識が引き戻される。顔を上げると、彼女が少し離れて立っていた。その表情にいつもの明るさは無く、どこか理知的に見える。きっと端正な顔立ちのせいだ。この状況は関係ない。そう信じたかった。
世界から音が消える。やかましいくらいの海鳥の声も、波のさざめきも、自分の鼓動の音すら聞こえない。
「それ、」
彼女の透き通った声だけが、僕の世界を支配する。手元のノートが音もしない風でめくれた。
「……ごめん。風で飛ばされそうだったから……」
自分の声がまるで水中の音みたいだ。くぐもって、やけに反響する。自らの口元から発されたはずなのに、すごく遠くに聞こえた。
「そっか。ありがとうね」
彼女は真顔を崩し、口元をきつく結んで、それからいつも通りの笑みを零す。
今さら、中身は見ていないなんて言い訳が通じるはずは無いし、したくもなかった。僕には理解しがたい物だけど、きっとこれは彼女にとって秘密であり、とても大切な物のはずだから。
「返すよ。誰にも話さないから。でも、本当にごめん」
彼女は何も言わずにノートを受け取った。優しい手つきで表紙を撫でる。
「……何も聞かないの?」
どきっとした。聞かないのではなく、聞けない。触れてほしくないであろうことに足を突っ込む勇気は、僕には無かった。だから、彼女から聞かれて痛いくらいに心臓が瞬いた。
「聞かない方がいいのかなって思って……」
「やっぱり、君は優しいね」
「そんなんじゃない。憶病なだけなんだよ」
「私が優しいと感じたんだから、それでいいんだよ」
後ろめたさに、彼女の顔は見れなかった。
彼女は堤防の縁に腰を掛け、足を投げ出す。いつかのように隣に来いと手で地面をぽんぽんと叩く。横に並んで座る彼女は、やけに涼し気な表情で僕を見つめた。不思議だ、やっぱり彼女とは目が合わない。その瞳の中に、僕の表情が見えない。
「ねえ、今どんな顔してるの?」
「えっ……?」
くみ取らなければいけない意味があるのだろうか。でなければ、理解の出来ない質問だった。
「笑ってるわけはないよね。怒ってる? それとも、しょんぼりしてる? 大穴は変顔かな?」
まるで他愛のない話だとでも言いたげな、軽い物言いだ。
「言ってる意味が、よく分からないんだけど……」
彼女はふと柔和な笑みを浮かべる。その表情が、どうしてか僕にはとても辛そうに思えた。笑っているはずなのに、瞳の奥は悲しそうで。大げさに言えば死期を悟った囚人のようだった。
「私、人の顔が見えないんだ」
自虐じみた微笑みに、なぜか胸が痛んだ。怖くて、中々言葉が出ない。そんな僕を、彼女はじっと待ってくれた。
「……言葉通りに受け取っていいの?」
「そうだよ。私は生まれつき自分以外の人の顔が認識できないんだ」
ちかっと水面が輝いた。初陽が彼女の素顔を照らす。気が付けば、山向こうから陽が覗いていた。
初めて彼女と迎えた朝はちょっぴり生臭く、とてもじゃないけれど最高とは言い難いものだった。