朝が来る前に、君の素顔が見てみたい

 次の日は日曜日で学校が休みだった。
 予定はなかったけれど、なんとなく目覚ましをかけてみた。鳥肌が立つような地獄のアラームを止め、スマホを見ると画面の眩しさに目の奥が痛む。同じ刺激のはずなのに、朝陽が海辺を照り返すそれを食らった時よりも、随分と身体に悪く思える。
 五時十五分。ちょうど、日の出の一時間前だ。朝に弱い僕にとっては随分と早い起床だが、既に一階からは物音が聞こえていた。朝市へ向かう父と、それを起こす母からすれば、いつも通りの朝なのだろう。そう考えると、途端に布団から身体を出す気になれなくなった。
 真っ暗な部屋にブルーライトの明かりが瞬く。

 カーテンを開けると、ほんの少しだけましになった。そうは言っても一月の真冬。一年で一番日の出が遅い時期の外は思いのほか真っ暗で、星がまだわずかに瞬いて見えた。眼下に広がるはずの見飽きたオーシャンビューもまだ帳の奥に姿を隠し、道幅広い道路を走る車のヘッドライトが時折砂浜の輪郭を映す。
 あと三十分もすれば、東の山向こうの空から今日が始まる。予定のない休みの日という、実に怠惰な一日の幕が開けるのだ。
 窓から目を離し、枕に顔をうずめる。
 目覚ましなんてかけなきゃよかった。このままもう一度眠れるわけがない。脳裏に昨日の出来事がチラつく。
 あの後、彼女はちゃんと帰ったのだろうか。そのことを確認する術は、スマホの中のSNSでしか分からない。彼女の連絡先は交換してなかったし、そもそも僕の端末はつい先日変えたばかりで、データの引継ぎをしていなかったから、クラスのグループにもまだ参加していないままだった。
 話を合わせるためにアカウントをつくったまま放置していたSNSを開く。見知った名前をとりあえず片っ端からフォローしておいた中に、彼女もいた。最後に更新された投稿の日時を見ると、昨日の夕方だった。クラスメートの中野さんと一緒に流行りのポーズを取っている写真だ。
 ひとまず、昨日の忠告は通っていたらしい。彼女に死んでほしくない、なんて月並みな思いもあったかもしれない。でも、一番感情として大きいのは、少しでも僕が嫌な気持ちになりたくないという自己中心的な考えだった。その日に会話を交わした人間が死んだと分かれば、誰だって程度の差はあれど良い気分にはならない。それが見知った人物ならばなおのことだ。
 僕は今日はやめてほしいとしか言っていない。それなら次の日……となるのだろうか。それほど意固地になってまで、とは思う。

 想像してみた。漠然と、死にたいなぁと妄想してみる。……難しい。そりゃ、そうだ。死への願望を持ったことなんて、人生で一度も無いのだから。そんな人間に、彼女だって分かってほしくもないだろう。
 感情をすっ飛ばして、灯台の手すりに手をかけてみた。昨日触れた感覚が蘇る。手がくっつくんじゃないかってくらい冷たい。ぐっと力を込めても、漫画のように突然ベキッと折れるなんてことはなさそうで、腰をかけてみる。手すりを握る力は強くなり、肩が自然と強張る。宙ぶらりんになった両足はぷらぷらと彷徨って落ち着かない。うるさい心臓の音が思考をさらに狭める。目の前に広がる百八十度の水平線。真下を覗く。自分の下半身越しに小さな地面が見える。平たいコンクリート。思いっきり飛んだとして、海面に落ちるのは到底無理そうだ。
 不意に誰かに背中を押されるんじゃないかとそわそわし、振り向いてみる。そこには当たり前だが誰もいない。いたら、それこそ驚きでそのまま身体を滑らせてしまいそうだ。
 せーのっ、と心の中で意気込む。そして、意を決して身体を放った。落下速度は想像よりもあまりに早く、走馬灯を浮かべる暇すらないまま、一瞬で灰色の地面へ――。

 ゆっくりと目を開けた。ぼやける視界が、スマホの明かりを反射した天井の木目に焦点を合わせる。身体が軽く沈むマットレスと柔らかな枕の感触。重みを感じる厚めの羽毛布団。少し早くなった鼓動が、トクンッ、トクンッと聞こえてきた。


 外に出るなり、強い浜風が横殴りに襲う。(つんざ)くような寒さに思わず足が回れ右をしかけた。
 マフラーで口元まで隠し、コートのポケットに両手をつっこむ。灯台までは歩いて三分とかからない。何なら、もう既に見えていた。
 途中、自販機で缶コーヒーを買う。釣り銭の返却レバーに手をかけ、やっぱりもう一本選ぶ。無難にペットボトルの紅茶にしておいた。あくまでも念のため。こんだけ寒ければ、別に一人で二本とも飲める。
 両ポケットに一つずつ突っ込み、その温かさに手を痺れさせながら灯塔の内階段を登る。螺旋(らせん)状になった薄暗い鉄筒に規則的なリズムで音が響く。真上を見上げると、ぽっかりと穴が開いて踊り場の天井が見える。まるで、異世界へと続く道のりに感じた。

 いて欲しいのか、いて欲しくないのか。どちらかは分からないけれど、いない方がきっと何かと都合が良いのかもしれない。
 でも、やっぱりと言うべきか、踊り場の手すりに撓垂(もた)れ掛かった彼女の背が見えた。声をかけるのも違う気がして、わざと強めに最後の一段を叩く。
 彼女が振り向き、ぼんやりと足先から髪まで視線を上げた。

「おはよう、奏弟くん」

「……おはよう」

 彼女はネイビーのウールコートの大きなボタンをきっちりと前で留め、薄桃色のマフラーを巻いていた。その隙間からは白地のセーターがちらっと覗いている。ゆるっとした長いパンツにモノクロのスニーカー。
 同級生の見慣れない私服に思わず視線が泳ぐ。寝巻にコートを羽織るだけで来なくて正解かもしれない。

「奏弟くん、見すぎ~」

 意地悪そうににやりと笑みを浮かべる彼女。ここに僕が来ることも、私服にどぎまぎすることも、全部が彼女に見透かされているような気分になった。

「ごめん……」

「謝ることじゃないよ。私が魅力的なのがいけないのです」

 彼女は大袈裟に反らした胸をぽんっと叩く。今日はいつも通りの秋永音子だ。学校で見る、クラスの人気者の彼女がそこにいた。
 外は寒そうだったから、内壁に沿ってぽつんと置かれたベンチに腰をかける。すると、彼女も(なら)って隣に座った。
 だから、距離が近いんだよなあ、なんて思いながらもちゃっかりと左隣から伝わってくる熱を覚えた。

「来るんじゃないかって思ってたよ。待ってた甲斐(かい)があったね」

「僕も、まあ、いるんだろうなと思ったけど」

「そっか、じゃあ息ぴったりだ」

 そう言いながら明るく笑う彼女。少し赤くなった鼻が、端正な顔立ちの彼女にどこか子供っぽさを覗かせた。

「どっちがいい?」

 少しだけ熱の落ちた缶コーヒーとペットボトルの紅茶を取り出す。

「おぉっ、気遣いの鬼だ!」

「僕だけ飲んでたら、すごく嫌な奴でしょ?」

「私も飲み物を持参しているという考えは無かったのかね?」

 確かに、と心の中で独り言ちた。
 きっと、僕は見栄を張りたかったのだろう。飲み物を買っていったくらいでかっこいいとはならないだろうけど。

 彼女は迷わず缶コーヒーを選んだ。ちょっと意外だった。教室で彼女がいつも紅茶を飲んでいたから、きっと好きなんだろうと思っていたけれど、どうやら違ったらしい。
 もしかして、彼女も僕と同じなのだろうかと思った。だけど、多分本当に缶コーヒーの方が飲みたかっただけだ。自分で自分のことを魅力的だという人が、そんなつまらない見栄は張らないだろう。

「でも、ありがとうね。後少し遅かったら凍っていたかもしれないよ」

 一月の海沿い、しかも高台で風に当たり続けていたら、それもある意味自殺行為だ。
 震える指先でキャップを開ける。細い飲み口から白い湯気が微かに揺らめく。

「ねえ、」

「どうしたんだい? 悩める若者よ」

 同い年じゃん、という返しはあまりにも陳腐に思えて、口をつぐんだ。
 一口コーヒーを飲み、彼女が深く息を吐く。白い水蒸気が宙を舞う。まるで、少しでもたくさん出してやろうと思えるくらい、長い呼吸だった。

「明日は来ないからね」

「え、どうして?」

「昨日はその、たまたま寝つきが悪かっただけなんだよ。本当は早起きは苦手なんだ」

「でも、今日来てくれたじゃん。しかも、昨日よりも早かったし」

 遠くの空が白み始めていた。不明瞭だった空と海の境目が今ではよく見える。

「僕は秋永さんの支えになるつもりは無いよ」

 もっとも、なれるとも思わないけれど。
 彼女がくすっと笑う。

「今日はそんなつもりで来たんじゃないよ。奏弟くんが来ないなら、すぐにどっか他の場所に行こうと思ってたし」

「そうだったんだ。じゃあ、無駄足だ」

「朝から可愛い子と密会しているというのに、なんだその言いぐさは」

 腕に彼女の肘が触れる。つん、つんと僕を(とが)めるように何度か軽く突かれた。

「でも、それならなおさら明日からは来なくても大丈夫そうだね」

「大丈夫じゃありませーん。あーあ、なんだか悲しいなあ~。このままじゃ、衝動的に飛び降りちゃいそうだな~」

 どんなに冗談だと分かる口調だとしても、少しだけ胸がざわついた。だというのに、当の本人はにやにやと僕の反応をうかがっている。昨日の彼女とはまるで違う。別人にすら思えた。それでも、秋永音子は秋永音子だし、彼女は誰にも真似が出来ない魅力が詰まっている。
 誰かを真似るには、少なからず同等以上の人間でなくてはならない。その点、彼女になりきるためには相当な人間力が必要だ。月に何度も告白されるような容姿、誰が見ても完璧な内面、人を惹きつける所作。どれを取っても、他人が彼女になりきるのは不可能に思える。それくらい、秋永音子という存在は人間として優れていた。

「あのさ、どうしてそんなことをしようと思ったの?」

 踏み込んだ発言を、言い切ってから後悔した。底なしの沼に自ら足を踏み入れたようなものだ。しかし、彼女の返答はあまりにも浅い底だった。

「え、なんとなくだよ」

「なんとなく?」

「そうだよ。最近はいつもあの公園にいるんだけどさ、」

 彼女は立ち上がり、わざわざ風が吹き荒れる展望台へと軽やかな足取りで向かい、左下を指さした。僕には白い内壁しか見えなかったけれど、ここら辺で公園といえば一か所しかない。だから、そのまま壁に背を預け続けた。
 彼女はそんな僕を見て、頬を膨らませる。そして、やはり風が冷たかったのか耳を真っ赤にしてすぐに元通りの位置へと戻って来た。

「誰もいない海辺の公園で芝生に身体を放り出してさ、白く明けていく空を見て思ったんだよ。あー、死んじゃおっかなってね」

 はっきり〝死〟という言葉を口にした彼女は、あまりにもあっけからんとしていて、僕の中で昨日の彼女と大きな齟齬(そご)が生まれた。

「死にたい……じゃなくて?」

「まっさかぁ。私、死にたいと思ったことは一度も無いよ」

 それでは僕と同じじゃないか。
 あっけに取られる僕を見て、彼女は嫣然(えんぜん)とした笑みで続けた。

「いい天気だし、今日かなってなんとなく思っただけ」

 本当にそんな漠然とした理由で、彼女は希死念慮を抱いたとでも言うのだろうか。
 興味が湧かないとは言えなかった。もっと彼女の人生観を聞いてみたかったけれど、そうすれば、今度こそ深い沼に飛び込むことになるのだろう。
 少し残っていた紅茶を流し込み、立ち上がった。

「とにかく、用事が済んだし僕は帰るよ」

「えー、もう少しお話ししようよ」

「秋永さんも風邪引く前に帰りなよ」

 会話をぶった切るように取り付けない態度をしたことに、ほんのちょっと心が痛んだ。けれど、これで良いんだと思う。
 逃げるように歩き出した。

「あ、待って、待って!」

 彼女が僕の袖を掴む。流石に振り切るのは人としてどうなのだろうと思い、仕方なく立ち止まる。

「連絡先、交換しようよ。本当は男の子にはあんまり教えないんだけどね、奏弟くんは大丈夫そう。だから、ねっ」

 そう言って、彼女は僕にスマホの画面を向ける。メッセージアプリのQRコードがでかでかと表示されていた。

「大丈夫そうって何が?」

「ほら、しつこい人も多いじゃん? 私、文章でのやり取りって好きじゃないんだよ。あ、電話もね。その点、奏弟くんはどう考えても自分から私に連絡はしてこないでしょ?」

「そりゃ、用が無いからね」

「だから、大丈夫なんだよ。ほら、早く!」

 きっと、彼女なりの自己防衛なのだろう。好意の押し付けは人を疲れさせるだけだ。人気者の彼女は特に多いことは容易に想像出来た。そして、その気持ちは僕にもよく分かる。
 拒んでも彼女は食い下がりそうだから、仕方なくスマホを取り出す。

「ちょっと待って」

「もー、そんなに時間はかからないでしょ。もしかして、奏弟くんっておじいちゃん?」

「……スマホを変えたばかりで、操作がおぼつかないんだよ」

 プロフィールを見直す。おかしなところが無いかしっかり確認してから、彼女のQRコードを読み取った。

「おっ、来た! ありがとうね!」

 彼女のアイコンはこげ茶色の猫の画像だった。きっと、見る人全員が彼女らしいと思うのだろう。もしかしたら、そういう意図なのかもしれない。その実、僕も似合うなと思ってしまった。

「じゃ、また明日、学校でね」

「うん、また明日!」

 外に出ると、すっかり視界が良くなっていた。星は姿を隠し、東の山が橙色に侵食されている。これでもまだ夜明けとは呼ばないことに、僕は疑問を抱いた。
 明け方、彼は誰時(かたわれどき)(あけぼの)。どれも似合っていない。僕から見れば、もうとっくに朝が来たと言えるのに。

 次の日、僕は予想通り彼女からのメッセージで目を覚ました。
 空はまだ暗いままだった。

         *

 人生で一番聞いた言葉が何かと問われた時、普通の人はきっと答えられないのではないだろうか。名前かもしれないし、一般的な挨拶、もしくは感謝の言葉かもしれない。どれも当たり前すぎて、抜きんでないだろう。
 しかし、僕には明確に答えが存在する。
 ざわつく教室の左二列目の一番後ろの席。僕は賑やかな教室に入るや否や、誰に声をかけるでもなく、そこを目指した。その道すがら、にゅっと視界に飛び込んでくるクラスメート。

「おっす、おっすー! おはようさん、奏汰」

 そう言い切って、そのクラスメートはようやく間違いに気が付く。いつもの如く、明かる気な表情をぎこちなく崩した。
 そして、決まってみんな、こう言うのだ。

「あ、わりぃ。()()()()。おはような、おとうと」

 その言葉に罪悪感や焦りは少しも見えない。よくあることだからだ。

「おはよう」

 一言残して僕は自分の席に座る。それ以上の会話は空気を余計に濁らせるだけだ。クラスメートも慣れているから、特に言葉をつなげようとはしなかった。
 〝間違えた〟。僕が人生で一番多く聞いた言葉だ。もしかしたら、その次が〝おとうと〟かもしれない。きっと、そうに違いない。
 この二つの原因といえば、もちろん僕であり、もう一人の片割れのせいでもある。

 今度こそ、本物が現れた。

「おいっすー! おはよー!」

 特定の誰かに向けるわけでもなく、とりあえずといった具合に入口で大きな声を出す人物。その声にクラスの全員が気を取られ、何人かが手を上げるなり、挨拶を返した。
 僕の一つ前の席が、その人物を中心に人で溢れていく。賑やかになる集団の多くがいわゆる陽キャというやつだ。しかし、ヤンキーとかギャルみたいなそういう人種は、幸いなことにこのクラスには存在しないから、言葉を訂正するのであれば、比較的明るい人たちだ。
 所謂、素行の悪い人たちは隣のクラスに固められている。担任はもちろん厳しい体育教師。学校側の一括で管理してやろうという魂胆が透けて見える。しかし、一般生徒からすればありがたいことこの上ない。

「奏汰、このアプリやったか? おもしれーぞ!」
「おい、奏汰のせいで彼女にフラれたじゃねーか!」
「ねえ奏汰、一緒にショート撮ろ~!」

 奏汰が来るや否や、クラスに大きな輪が出来る。そして、みんなが一斉に待ってたと言わんばかりに奏汰へとすり寄るのだ。
 言ってしまえば、彼、彼女らは空気を読まなくていい二割の存在。そして、一割はどちらにも属さない灰色を選んだ人たち。この二つの集団が空気を読まない側の人間。
 残りの七割は空気を常に読んでいる。積極的にクラスをかき乱したりしないし、不意に大声を出したくなってももちろん出さない。僕はその七割の人間だ。
 友達がいないわけじゃないし、話題によっては二割の存在からも声をかけられる。そのポジションに立てるように振舞っているからだ。
 当たり前だが、このホームルームまでの暇な時間で、昨日読みながら寝落ちしたライトノベルの続きを読みたくなっても、絶対に読まない。僕がライトノベル好きだと判明したら、それは周りの目が変わるのだ。周りが勝手にそっちの方へと僕を格付けする。だから、学校では絶対に読まない。
 でも、仮に二割の存在がライトノベルおもしれえと言って読んでいても、「似合わない~」とか「オタクじゃーん」と軽く流されて、立場が揺らぐことは無い。ライトノベルを読んでいるという印象よりも、他の印象の方が強いからだ。
 だから、僕は他人に変な目で見られたくなくて、精一杯取り繕っている。多分、みんなそうだ。自分のクラスでのポジションを理解し、その枠からはみ出さないように演じている。無意識に。
 多分、これを俗に協調性と呼ぶのだろう。気持ち悪い話だ。でも、これが普通であって、このクラスだけのものじゃない。どこのクラス、学年、学校だとしても同じ話だ。

 いつ、自分のポジションが決まったのだろうか。多分、小学生の時からだ。もしかしたら幼稚園の時から既にそうだったのかもしれない。結局、人は生まれながらにして他人の目ばかりを気にしている。
 そして、それは成長するに連れて強固なものになっていくのだろう。七割もの人間が蝕まれる思春期の病気みたいなもの。そのはけ口として匿名のSNSが流行るのも納得がいく話だ。リアルな視線が無いから、自分をさらけ出しやすい。大声を出しやすいというわけだ。

「なあ、おとうとー」

 呼ばれて顔を上げる。奏汰と何人かがこちらを見ていた。その中で、坊主頭の栗原が前のめりになった。

「奏汰がさあ、いっつも返事遅いから家で通知鳴ったら言ってやってくれよ」

「いらんこと言うなって。お前がつまらない画像送ってくるのが悪いんだろ?」

「いやいや、これのどこがつまらないんだよ。他の奴はみんな面白いって言ったぞ! なっ、おとうと見てくれよコレ!」

 向けられた画面を見ると、栗原が変顔をして裸踊りしている写真だった。どうなんだろう。でも、僕にとって面白いか、そうでないかは重要じゃない。

「うーん、これは面白くないかも」

 笑いながらそう答えた。

「なぁんでだよぉー!」

 栗原は口を尖らせる。その様子に周りがどっと沸き立つ。
 僕にとって大事なのは、今の状況で栗原と奏汰のどちらが上の存在かということだけだ。だから、僕はたとえそれが面白くても、奏汰に同調する必要がある。これが、空気読みだ。

「奏弟に見せたって同じ反応に決まってんだろ。俺ら、双子だぜ?」

「まっ、それもそうか。お前ら、何から何まで同じだからなあ。ややこしいったらありゃしねえよ」

 栗原が諦めたようにスマホをしまう。

「髪型くらい変えてくれよ。そしたら、見分けがつくのに」

「ばーか。俺は奏弟を敬愛してんだよ。だから、真似してるんだっつーの。おら、お前も敬え! おとうとじゃなくて、奏弟さんと呼べ!」

「そんなら同じ髪型は不敬だろー! あっ、いっそのこと染ちまおうぜ。奏汰イケメンだから金髪とかいけるべ!」

「えっ、奏汰が金髪!? うそ、見て見たいかも!」

「ほら女子もこう言ってるし、やるべ!」

 こうなれば、僕の役目はおしまいだ。図々しく会話に残り続けるなんてことは、空気読みの達人はしない。求められた時だけ参加し、話題が変わったならばすぐに何も言わずに退場、その場から目立たないようにフェードアウトするのだ。

「おもっくそ校則違反だっつーの! 栗原がやれよ。そうすれば栗きんとんじゃん!」

「俺は髪ねえんだよ! つか、誰が栗きんとんだごらぁー!」

 始業のチャイムが鳴る。ほぼ同時に教室の引き戸がわざとらしく大きな音を立てて引かれ、担任がプリントを抱えながら顔を見せた。

「おーい、早く座れー。今日は山ほど連絡事項があるんだ。ほら、栗原席に着け」

「なんで俺だけなんだよ、せんせぇー!」

 ちょっとした笑いが巻き起こり、視界を遮っていた集団が散り散りに席へ戻る。
 静かになり始めた教室にもう一度やかましい音が響く。ガラッと勢いよく戸が開けられ、滑り込むように一人の女子生徒が教室に入って来た。

「せーふッ!」

 後ろ窓からの日差しを存分に受け止め、彼女は大きく息を吐いた。ぱっと教室の空気が明るくなったのがよく分かる。男子が奏汰ならば、女子の中心は彼女だ。
 小柄な体格だというのに、この教室における彼女はとても巨大だ。どこにいてもすぐに見つけることが出来る。なぜなら、人が多く固まっているその渦の中心に、決まって彼女がいるからだ。男女問わず目を惹くあどけなさと美貌を兼ね備えた容姿と天真爛漫な性格が、彼女に相応しい立場を設けている。奏汰と彼女だけが二割のさらに一握り、お立ち台の上の存在なのだ。

「アウトに決まってるだろ、秋永」

 担任は彼女へと向いた教室の意識をプリントの束で教卓を叩いて引き戻す。

「はーい!」

 彼女は悪びれもなく返事をすると、僕の後ろを通り過ぎ、そのまま一番左の列のこれまた一番前の席へと着いた。

 名前順で並んだ僕の前の席には奏汰が座っている。きっと、みんなから見た僕の後ろ姿もこんな感じなんだろう。なんせ、背格好も全く一緒なんだから。
 僕と奏汰とまるっきり同じ。果たして本当にそうだろうか。僅か一分差で生まれ、外見的特徴はほとんど一緒。まさに鏡映しのようだ。

 じゃあ、なぜこんなにも差が生まれたのか。七割の僕と、二割の奏汰はどこで分岐したのか。きっと中学からだ。奏汰は明確に変わった。二人だけの空間に、気が付けば奏汰の周りには人が集まって、僕はその群れの一歩外でついて行くようになっていた。僕と奏汰が一緒にいれば、まず声をかけられるのは決まって奏汰だ。そして、流れるようにセットで僕にも意識が向けられる。
 嫌というわけでは無かった。別に今のポジションが気に入ってないわけじゃないし、これが最適解だと分かっているのだから。

 でも、一つだけわだかまりは存在する。こんなことを気にする自分は大嫌いだ。ちっぽけで、どうでもいいことのはずなのに、どうしてももやもやが溜まる。

「聞いてくれよ、おとうと~」

 ほら、まただ。

「奏汰がさ――」

 人は誰しも、不具合を抱えている。僕の場合、それが外見に現れなかっただけまだましなのかもしれない。
 多分、顔は良い方なんだと思う。誰かに直接言われたとか、告白なんて奏汰と間違ってされたことしかない。じゃあ、なんでましだと思うのか。なぜなら奏汰がカッコいいらしいからだ。
 僕の不具合は双子だったということかもしれない。双子が何もかも同じで生まれる? そんなわけない。どちらかに偏るのだ。そして、僕は偏らなかった側だ。
 つまらない嫉妬・劣等感だけが積もっていく。
 全てが奏汰の劣化版。何をとっても奏汰より上に行くことはない。

 どうして、僕は〝おとうと〟なんだ。あだ名なのは分かっている。奏弟という名前にその漢字が入っているのだから。でも、どうしても僕には別の意味に聞こえてしまう。お前は二番煎じだと言われているように捉えてしまう僕はおかしいのだろうか?
 僕は奏汰の兄で、奏汰は僕の弟なのに――。

         *

 最近、少しだけ早く寝るようになった。
 理由は単純で、いつもよりだいぶ早く起きるようになったからだ。正確には起こされるようになったから。
 枕元に置かれたスマホが今日も同じ時間に鳴り響き、設定した覚えのないアラームの役割を果たす。アプリの通知は全オフだし、そもそもこんな時間に連絡を送って来るはた迷惑な人間は、僕が知る限り一人しかいない。
 夢心地な意識をしばらく彷徨わせ、せわしなく脈打つ全身の細胞に意識を向けていると、二回目の通知音が急かすように鳴る。

 内容は見なくても分かるから、ベッドから這いずり出て服を着替える。見栄を張るわけじゃないけれど、寝巻のまま人と会うのは嫌だった。
 暗い画面のスマホをコートのポケットに押し込み、廊下へ出る。隣の部屋からは物音一つしない。別に今までも一緒に登校なんてことは高校に入ってからはしなかったから、生活リズムを変えても特に理由を言及されることはなかった。
 廊下は空腹をくすぐる味噌の匂いがふんわりと漂っている。まだ早い時間だというのにせわしなく台所に立つ母親と、既に着替えて朝のつまらないニュース番組を見ている父親。僕が生まれてからずっと変わらない、朝にも満たない時間の光景。
 両親はほぼ一緒に家を出る。時間で言うと五時二十五分前後。父親は軽トラでほど近い距離にある市場へ仕入れに。母親は家の隣に構える店へと赴き、清掃と簡単な仕込みをする。海沿いに面した食事処を営む家庭ではごく一般的な一日の始まり。だから、基本的には朝から両親と顔を合わせることは、今までは無かった。

「あら、今日も早いじゃない」

 リビングに入るなり、母親に声を掛けられる。

「あぁ、うん……」

 最近、僕は朝の散歩にハマっているということになっている。まさかまだ暗闇の中、クラスの女子と会って話していますなんて恥ずかしいことを素直に言えるわけがない。

「何なら、車で送ってやろうか?」

 父親がテレビを消して立ち上がる。外はまだ暗いのに、家の中はまるでその気配を感じさせない慌ただしさだ。

「それだと散歩じゃなくてドライブだよ」

「それもそうか」

 一人で笑いながら父親は家を出た。母親も少し遅れてエプロン姿のまま後を追う。

「ご飯もう少しで炊けるから。それじゃ、行ってらっしゃい」

 毎度思う。行ってきますじゃないのかと。

「うん、分かった。行ってらっしゃい」

 カチャと小さく音を立ててドアが閉まる。すると、途端に静寂という二文字が家の中で渦を巻く。
 ポケットの中でスマホが震えた。見ると、やっぱり催促だった。
 炊飯器の残り十分という文字を見て、僕はそのまま家を出る。
 まだ夜の気配を色濃く残した海岸沿いは、街灯が綺麗に思える。空を仰げば、澄んだ空気が星々を浮かび上がらせていた。満天とまではいかなくとも、目を奪われるには十分な光景だ。
 途中の自販機でお茶を買い、海辺の公園へ。一面の海原を目の前に四方型を切り取った芝生の公園には、よく分からない形をした大小のブロンズ像が点在している。『鳩と少年』、『三位一体』、『夢を呼ぶ』など、一つ一つに名称が記載されているが、見てもいまいち想像に欠けた。大体の芸術作品とはそういうものなのだろう。

 ひときわ大きく、海を目の前にしたブロンズ像の下に彼女は腰をかけていた。その傍らには黒い缶コーヒーが置かれている。
 あの日以降、彼女は毎朝缶コーヒーを持参するようになった。きっと、そうしないと僕が毎回二本買ってくるとでも思ったのだろう。

「おはよう」

 背中に声をかけると、彼女はほんのりと赤くなった頬を振り向かせた。そして、いつものように足先から頭の毛までなぞるように見る。

「おはよう、奏弟くん」

 暗がりに照明が点いたように世界が色づき、あどけない笑顔が向けられる。これが僕一人に対するものだと思うと、嬉しさよりも独り占めする罪悪感の方が大きい。
 促されるわけでもなく、隣に腰を掛ける。視界の全てが海と空に支配された。境界線が見えない景色は、全てが一色に思えて変な感じだ。今日は風が強く、白波が浮きだっているだろうに、それすら見えない。たまに暗闇を海鳥と思しき小さなシルエットが横切る。

「もー、遅いよ!」

「あのさ、毎日呼び出さないでよ」

「でも、ちゃんと来てくれるじゃん。メッセは返してくれないのにね」

 スマホが震える。彼女が僕のポケットを指さすから、取り出して画面を付けた。彼女からスタンプが送られてきていた。怒ったブタのキャラクターが跳ねるように動いている。
 意地悪気に舌をちょこっと出す彼女。その無邪気な表情に何人の男が絆されたのかと思うと、素直に受け止めるのは難しい。自然体なのだろうけれど、それだけ彼女は人間的に魅力が溢れていた。

「いやー、今日も寒いねえ。買ってきた飲み物、もう冷たくなっちゃった」

 平日の彼女は決まって同じ服装だ。厚手の黒のコートを着て、腰には大きなブランケットを巻くようにかけている。そこから覗くブラウンのローファー。マフラー越しの制服。雑に置かれた学校指定の鞄。
 どうやら、毎朝そのまま学校へと行くらしい。彼女曰く、一回帰るのが面倒くさいとのことだ。そう言われれば、そうかもしれない。でも、僕ら高校生が制服に袖を通すにはあまりに早い時間に思える。それに、彼女の家はここから五分程度。それも通学路の方向だ。そこまで手間だとはあまり考えられなかった。

「そりゃ、そうだよ。早朝の冬の海が一番寒いんだから。もっと他にいっぱいあるでしょ」

「んー、でも私は海が好きなんだよ。ほら、今日も綺麗だよ」

 彼女はびしっと左の海先に指を向けた。

「まだ真っ暗なんだけど……」

 そして、彼女は伸ばした腕をそのままゆっくりと右にスライドしていく。右端の海を通り越し、くねっと手首を回して最後には自分へと指を向ける。

「もちろん、今日の私も綺麗!」

 彼女なりの冗談なんだろうけれど、なまじ否定できない容姿なだけに僕は言葉が思い浮かばなかった。

「ちょ、ちょーい。何かレスポンスくれないと、私が本気で言ってるみたいじゃん」

「返しにくい小ボケだから困ったんだよ」

「ふむふむ、奏弟くんは私のことを綺麗で美人で超絶可愛いと思っていると」

「いや、盛りすぎ……」

 毎日、こんな他愛のない会話をして時間が過ぎるのを待つ。平日であれば学校が始まる一時間前まで、休日であれば僕が帰るまで。何かするでもなく、ただひたすら彼女がたくさん喋って、僕が相槌を打つ。たまに僕から話を振れば、何倍にもなって彼女が返してくる。天気の話から、テレビで見た政治の話まで、とにかく決まった内容があるわけでは無い。正直、こんな夜明け前の海沿いという特殊な状況で無かったらしないようなつまらないことばかりを二人で話した。

 でも、そんな面白みに欠ける会話だとしても、一人でじっと時間が過ぎるのを待つよりはよいのかもしれない。
 僕は海が好きだ。それでも何時間と寒空の中、じっと見つめているなんてことは出来ない。だからこそ、あの日以前もずっと、彼女は一人で朝をこの公園で待っていたと知った時は正気を疑った。
 多分、彼女は何か隠している。事情があって、この公園に来ている。そう思わないと、理解に苦しむ行動だ。しかし、そんな考えもきっと彼女が飛び降りようとしているのを見てしまったからなのだろう。本当のところはよく分からない。

「あっ、取った!」

 不意に彼女が飛び跳ねるように立ち上がり、前方を指さした。見れば、海鳥が海面を低く飛んでいて、その口には小さな魚がくわえられている。沖にある防波堤に降り立ち、まだぴちぴちと跳ねる魚をついばむ動作が暗闇からでも伺えた。

「おぉー、まさに弱肉強食だね。やるな、あの鳥……」

「もしかして、一人でもこうやって喋ってるの?」

「ずっとじゃないけどね。たまに大声とか出してみたりするよ? 案外、気持ちいいんだよね」

 そう言い、彼女は口に手を寄せてメガホンをつくる。

「そんなやまびこじゃないん――」

「いちーげーんーのー! しゅーくだいー! まーだー、やってませーん!」

 思った数倍大きな声量だった。その小さな身体のどこからそんな大きな声が出るのだろう。
 彼女は満足げに息をつき、僕を見た。なんだか、嫌な予感がした。

「ほら、奏弟くんも!」

 そうならないとおかしい流れではあった。しかし、実際に振られると全く乗り気にはならない。

「……やらないと駄目?」

「いいから、いいから。大丈夫だって、誰もいないんだし」

「秋永さんがいるじゃん……」

 彼女はにこっと笑い、身体を左右に揺らす。そんな無邪気な眼差しを向けられると、余計にやりづらい。

「と、ところで、どうして毎日僕を誘うの?」

「あっ、誤魔化した!」

 彼女の右手がさっと視界外に消え、帳の最中、頬に凍るような冷たさが襲う。見れば、空になった缶を彼女が僕に押し当てていた。

「お仕置きです! 次、私のお願い事を断ったら今度は背中に入れます」

「横暴だ……」

 まるで小学生みたいな戯れに乾いた笑いがこみ上げてくる。

「それで、どうして僕に毎日連絡してくるの?」

 彼女は考える素振りすらなく、「暇だから」と答えた。

「それなら――」

 家にいればいいじゃん、と後に続く言葉はすんでのところで飲み込んだ。

「僕じゃなくてもいいんじゃない?」

「いやぁ、こんな変なことしてるの他の人には話せないよー。でも、奏弟くんにはバレちゃったからね。強制連行だよ」

「僕は朝が苦手だって言ったのに……」

「いいじゃん、早寝早起き。それに本当にどうしようもなく毎日暇だったんだよ。だから、こんな可哀想な女の子に付き合ってくれてもいいんじゃない?」

 彼女が本気で言っているのかは分からない。けれど、自分のことを可哀想だと表現した。やっぱり、何かしら事情を抱えているのだろうか。しかし、それを僕が強引に聞き出すのは違う気がする。何より、彼女が自ら打ち明けないのは、隠しておきたいということだと思う。ならば、やっぱり何も聞かないのが優しさということになるはずだ。
 不意に彼女が口を閉ざす。忘れていた波の音が鮮明に聞こえた。気が付けば、世界が色づき始めている。東の山は背後を赤く燃やし、海と空は綺麗に分断されていた。
 視界の全てが黒以外の色で染まる。でも、どこかぼんやりとしていて、フィルターがかかっているみたいだ。まるで夢の中のように色彩が薄い。目に映る全てが角が丸く、柔らかそうに感じた。そんな、つかみどころのない儚さに包まれている。
 夜明けとは、随分と色々と足りていないんだなと思った。

「おりゃ!」

 彼女が僕を左手で押し倒す。背中をブロンズ像の土台が受け止めた。硬く、コート越しでも冬の寒さをたっぷりと蓄えているのが感じられる。
 突然の行動に理解が追い付かない僕を尻目に、彼女も同じように横に並んで倒れ込んだ。

「ほら、見て。綺麗だよ」

 彼女がそう言うから、真似て空を見る。
 視界を一面の青が埋め尽くす。水平線の彼方の空は淡い水色に白みがかっていたのに、今全てを支配するのは海よりも何倍も鮮やかな青だった。普段見るものよりもずっと近くに感じる。まるで、今にも落ちて来そうだし、気を抜けば吸い込まれてしまうんじゃないかという怖さもあった。ずっと見ていると、おかしくなりそうだ。

「いいでしょ? 私のお気に入り」

「僕はちょっとだけ怖いかな」

「そうかもしれないね。私が私じゃなくなるみたい。……ううん。本当の私が出て来ちゃいそうになる」

 そうか。やっぱり、彼女も繕っている。人間、誰しも素のままではいられない。そして、いつからかどちらが本当の自分なのか分からなくなる。

「ねえ、」

「……何?」

 横目で見ると、彼女は身体を横に向けて僕の方を向いていた。まるで起きたてのように瞼を下げ、首筋にかかるくしゃっとした髪を手で押さえる。見たことのない彼女だった。

「一緒に死んでみる?」

 あまりにも軽く言うもんだから、僕はすぐに答えられなかった。ややあって、振り絞るように声を出す。

「そ、れは……、むり、かも……」

 息が詰まる。口の中が随分と乾いていた。
 そんな僕を見てか、彼女が声をあげて笑う。

「もー、冗談だよ。奏弟くん本気にし過ぎだって。言ったでしょ? 死にたいわけじゃないって。あ、でもこういう時、一緒に死んでやるよって言われたらどうしよう。ねっ、ちょっと言ってみてくんない?」

「そんなこと言うの物語に出てくるキャラクターくらいだよ」

 大きく息を吸い込むと、肺がキリキリと痛んだ。

「まあ、そうだよね。はい、じゃあ僕も一緒に死にまーすって言われた方が驚きだよ」

 彼女は口を尖らせ、退屈そうに嘆く。

「なんかなあ、物語の主人公とかになってみたいんだけどねえ。そんな面白い話があるわけでもないし。別に劇的な立場にいるわけでもないんだもんね」

「事実は小説より奇なりって言うけど、実際はやっぱりと言うべきか、そんな大層な話は無いんだよ」

「ただのつまんない高校生なんだね、私たち。だからさ、ちょっとくらい変なことに付き合ってくれてもいいんだよ?」

「それ、どっちのこと言ってる? 毎日、こうして会話に付き合うことか、無理心中の話か」

 彼女は笑ってカラッポの缶コーヒーを逆さまにした。残っていた茶黒い液体が、彼女の頬に垂れて白磁の肌を伝う。

「どっちもだよ」

 その言葉に冗談は一切感じられなかった。決然とした気配すら感じる。

「僕は死にたくはないよ」

「……そっか、残念。じゃあ、私ももう少しだけ生きてみるとしますかね」

 どうしてか、ほっとしている自分がいた。別に彼女がどうなろうと、僕は知ったこっちゃない。そういう性格のはずなのに。

「それがいいよ。一限の課題見せてあげるからさ」

「えっ、いいの!? じゃあ、死ぬのやーめた!」

 すっかり明るくなった空に、彼女の陽気な声が戻って来た。
 強烈な芳香が不透明な波紋となって、空気中に輝く光沢を放っている。まるで消臭剤の如く奏汰に香水を吹きかけまくる栗原。
 どう考えても過多な噴射量にラベンダーの心安らぐような効果はとっくにどこかへ行き、今はただとんでもない刺激臭と化していた。
 もはや息すら浅くしないと気持ち悪い。バレないように軽く咳込んだ。

「きゃーっ! 馬鹿ッ! 使い過ぎだっつーの!」

 三枝さんが栗原の坊主頭を力任せに引っぱたく。

「うるせー! 俺は許せないんだ! コイツ、また告られてやがる!」

 歩く香水の権化となった奏汰は苦笑いを浮かべていた。多分、この匂いは彼が苦手な部類のものだ。だって、僕がそうなのだから。

「奏汰くさーい」

 秋永さんが鼻をつまんで笑う。
 恋愛話だと悟るや否や、クラスの女子がわらわらと前の席に群がりだした。いつもながら思う。すごい嗅覚だなと。

「別に話したこともない人だったんだから、俺のせいじゃないだろ」

「一年の小岩井ちゃんでしょ? 結構、人気の子じゃん!」
「ねっ、ねっ、何て言われたの?」

「いや、別に……かっこいいなと思ってました、とか、なんとか?」

 女子の歓声が沸く。
 そんな様子を僕は興味が無いから、遠巻きに眺めていた。よくあることだ。顔は一緒でも、そういう経験は全て奏汰が持っていく。
 今回だって、きっと奏汰はその小岩井さんとやらとは本当に話したことがないはずだ。けれど、学校中に奏汰のことは知れ渡っている。尾びれが付いた目線で見ると、余計によく見えるのかもしれない。
 オーラとかそんな不可視なものは信じていないけれど、日ごろの所作や表情、振舞い方で、人はまるで別人のように見えるのだろう。だから、僕と奏汰は他の人からしたら、印象がまるっきり違う。しかし、もし奏汰がいなくても、まあ僕が好意を抱かれるようなことは考えられない。奏汰が人気者なのは、彼自身が自力でつかみ取った称号だ。僕にはきっと真似できない。そういう才能は奏汰が持っていたのだ。

「俺はどうせなら音子に好かれたいけどなあ」

 奏汰がわざとチャラついた態度で秋永さんに右手を差し出す。冗談めかしいその態度でも、女子にとっては大好物なようで、また一際大きな歓喜の渦が巻き起こる。

「えー、私臭い人はちょっとなあ~」

 秋永さんもまた軽くあしらう。きっと奏汰も秋永さんが本気にしないと分かっているから、周りを盛り上げるためにやったのだろう。人気者はいつでもフロアを沸かせなければいけない。さながらDJのような存在だ。
 大変そうだなと心底思う。

「私、奏汰なら全然おっけーなんだけど?」

「あ、ウチもー! 今度の土日遊び行こうよー!」

 毎日、後ろから眺めているから分かる。今、声をかけた田上さんと伊地知さんは結構本気で奏汰を狙っている、ような気がする。
 そして、また一週間後くらいに奏汰に家で相談を受けることになるのだ。「どうしたらいい?」と聞かれても、僕には「好きにしたらいいんじゃない?」としか返せない。当たり前の話だ。
 奏汰は僕と同様、恋愛というものに興味が薄いようで、特定の相手はつくらない。誰々が気になるという話すら聞いたことが無い。その難易度の高さとレアリティが、一層モテる要素になっているような気もするが。

「まあ、別に遊び行くくらいならいいけど……。ただし、栗原もセットで付いてくるぞ?」

 奏汰は友達想いの良いやつだな、と目を輝かせる栗原を見て思う。

「やれやれ、奏汰は仕方がないやつだな。じゃ、ダブルデートってことで」

「え~、栗原はいらなーい。自撮りダサい服ばっかりだし。あの七分丈はマジで無い」

「っんでだよ! 別にいいだろーが!」

 喧騒と未だ強く漂う香水の匂いに堪らず席を立つ。
 無論、自然に、この空気を嫌がったと思わせないようにだ。僕たち七割にとっては造作もない。現に、僕は栗原が奏汰の制服に香水を撒き散らした辺りから、何人かが、顔も歪ませずに教室を出ていくのを見た。もしかしたら、他に用事があったのか、単純にお手洗いとかかもしれないから、ここに関しては僕の想像の範疇を出ることは無い。ただ、僕は勝手にその人たちを仲間だと思って、教室を出ようとした瞬間、

「おとうとくん!」

 心臓が痛いくらい飛び跳ねた。喉が締まり、息がつっかえる。
 いつも通り、完璧な抜け方だったはずなのに。しかも、よりにもよって声をかけたのは二割の田上さんだ。
 クラスで声の通る彼女が僕の名前を呼んだのだ。必然とクラス中の視線を一身に浴びることになった。
 勘弁してくれと思わざるおえない。ちょっとだけ、彼女が恨めしくなった。
 汗ばむ手を遊ばせ、恐る恐る振り向く。どうやら、僕を見つけて呼んだわけではないらしい。きょろきょろと見渡し、ようやく僕を視界に捉える。

「あ、いたいた。ちょっと来てー!」

 田上さんが僕を手招く。

「今度の土日さ、奏汰と音子と遊びに行くんだけど、おとうとくんもどう?」

「えっ、と……、え?」

 言葉の意味が理解できなかった。いや、遊びに誘われていることは分かる。というか、そう言っているんだから、当たり前だ。ただ、どうして僕なのかという人選についての理解が追い付かない。

「あのさ、俺は? 最初に誘われてたの、俺なんだけど?」

「栗原うるさい。そもそも、あんた土日は部活でしょ?」

「はぁ? そんなん、休んで行きますけどぉ? 部活よりも友情の方が大事だね。奏汰は俺がいないと駄目な子なんだよ」

「下心丸出しのくせに何言ってんだか。小倉先生にズル休みするつもりですって言ってやろー」

「あっ、ちょい! 待てって、洒落にならん!」

 田上さんが逃げるように教室を出て、それを追いかけて栗原が後に続いた。
 まだ返事をしていない僕はどうしていいか分からず、奏汰を盗み見た。流石は片割れ、ばっちり目が合った。すぐに目をそらし、秋永さんを窺う。彼女は少し難しそうな顔をしていた。

「なあ、たがみっちは言い出したら聞かないからさ、一緒に行こうぜ」

 そう言いつつも、僕には奏汰が申し訳なさを感じているのが分かる。本当、ロールプレイって面倒なんだなと常々思う。

「あ、秋永さんは僕が行っても大丈夫なの?」

 彼女がぱっと顔を上げ、慌てたように顔をつくる。

「あぁ、もちろんだよ! いいじゃん、いいじゃん。みんなでプリ撮ろ!」

「よっしゃ、リアル双子コーデ見したるか!」

「え、嫌だよ。恥ずかしい……」

「奏弟はこういう時、何を着るか大体分かるからな。勝手に合わせたろ」

 断固として行きたくないというわけではないけれど、乗り気でないのは確かだ。
 どうして、わざわざ僕なんだろう。僕なんかが行って、いいのだろうか。みんなの雰囲気を壊したりしないだろうか。そんな不安だけが徐々に膨らんでいく。
 僕は奏汰のように器用じゃないから、きっとノリを合わせるのも一苦労だ。
 奇しくも、僕と秋永さんは似たような表情をしていた。

         *

 次の日、もはや日課となった通知音で意識が覚醒する。
 金曜日くらい、ゆっくりと寝かせてほしいのに。今日を乗り切れば休みという日に、寝不足で学校を過ごすのは結構しんどい。
 二回目の通知音が鳴り、いつものように着替えて親を見送る。台所にあったバナナを一本手早く胃に流し込み、支度を済ませた。玄関の前でスマホを開く。彼女から送られてきた文章を見て、開けかけたドアを一度閉める。

『今日は制服で来て! 出来れば、お洒落して!』

 一体、彼女は何を言っているのだろうか。制服でお洒落ってどうしろというのだ。画面を眺め、思考を止めていると、ポンッという軽い音と共にトークが更新される。

『ちなみに今日の私は一段と可愛いです』

 続いて送られてきた画像は、彼女の自撮りだった。うっすらと化粧をしているようだ。
 彼女はメイクなんて野暮ったいことしなくても十分だと思っていた。しかし、実際にその姿を見ると、花も実もある彼女が一層色づいて見える。
 チャットを打つ画面を開き、やっぱり諦める。きっと、僕の反論は通らないだろう。
 部屋に戻り、制服に着替え直す。コートを羽織り、マフラーを付け、一応登校用の鞄も持った。制服にお洒落なんてやりようがない。仕方なく、洗面所でワックスを付ける。固定用のスプレーを一周。本当は一度、髪を濡らし、乾かしてから付けたいところだが、どうせ海風ですぐ乱れるのだ。あまりこだわらなくても大丈夫だろう。
 一体、どうして彼女の気まぐれにここまでしているのだか。

 べたつく手をお湯で乱暴に洗い流し、急いで家を出る。幸い、今日は海沿いでも風がほとんど吹いていない。髪が崩れることは無さそうだ。
 彼女の姿は既に暗がりの中に浮かんでいた。スマホの明るいライトが彼女の白磁の肌を照らす。

「お待たせ」

「おっ、来たね。おはよう」

 いつもよりじっくりと全身を下から上まで眺め、彼女は頷く。

「よし、いいでしょう。合格!」

 満足げな表情で親指を立てる彼女を見ても、その意図は掴めない。

「一体、何をするつもり? 制服ってコート着てても寒いんだけど」

「それを言うなら、私なんてスカートなんだよ? ま、慣れちゃったけどね」

 彼女は特に何かをするってわけでも無さそうだったから、いつも通り隣に腰かける。
 凍える空気を吸い込むたびに喉が張り付くように乾き、肺がちくっと痛む。耳鳴りのような鈍痛も結構不快だ。

「それにしても、やっぱりまだ寒いねえ」

 暗い視界の端で彼女の手が揺れた。僕との間をぽんぽんと叩く。もう少し近くに来いということらしい。恥ずかしさもありつつ、拒むのも違う気がして、彼女のすぐそばまで移動する。
 今日は風が無く、潮の香りが薄いせいか、彼女からふわっとした甘い香りが鼻腔をつく。
 彼女が僕をじっと見ていた。まだ辺りが暗くて良かったと少し思う。

「……どうした?」

 彼女がはっとしたように顔をそらす。

「なんでもないよ。ほら、寒いでしょ? おすそ分け」

 そう言って、彼女は腰に巻くようにしていた浅黄色のブランケットを広げて、僕の膝へかける。

「あと、これも半分ずっこね」

 ブランケットの中で彼女の手が触れる。じんわりと温もりが手を伝う。小さなホッカイロだった。

「あ、りがとう……?」

 多分、目に見えてどぎまぎしていたであろう僕に、彼女は小さな笑いを零す。

「どういたしまして」

 それから、やっぱりいつもみたいに他愛のないことを話した。今日の体育は持久走だから憂鬱だとか、テニスコートで煙草の吸殻が見つかって大騒ぎだったとか。きっと何日も経てばあまり思いだせなくなるような会話。
 不思議と退屈を感じない。そもそも、夜明け前は何かをするような時間ではないと思う。一日の始まりに備えて、ゆっくりと流れる合間の時間。何をしたって時間の無駄とか思わなくて、どうせすぐに忙しない朝が来るのだから。

「それでさ、野々宮ちゃん曰く、自分の彼氏がすごいイケメンらしくてね。画像送られてきたんだけど、どう思う?」

 見せられた画面には、二人の学生が写っている。観覧車の中で、互いに身を寄せ合って撮られたものだった。制服で隣町の高校だと分かる。

「どう? 同じ男の子の意見は」

「うーん、どうだろう……。何様だよって思われるかもだけど、とんでもないイケメンってわけじゃないと思う」

 別にブサイクってわけでもないし、特段整っているわけでもないように思える。頭一つ抜けた人って、同性から見ても満場一致になるわけで、写っている男性に関してはそこまでではないように感じた。言ってしまえば普通だ。

「そっか、やっぱり野々宮ちゃん盛ったなあ。校内一イケメンとか言うから気になったのに」

「秋永さん的にはどうなの?」

「ん? 何が?」

「いや、だからこの男性」

 妙な間の後、彼女はスマホを引っ込める。

「あー、うん、どうだろ。私、そこらへん疎いからなあ……。結局、大切なのは内面でしょ。そうだよね?」

 随分と曖昧な口ぶりだった。

「まあ、そうなんじゃない? 入りが顔からだとしても、性格とか合わなかったら続かないだろうし」

「だよね、だよね! そう言ったらさ、野々宮ちゃんってば顔が良かったら何でも許せるって言うんだもん。おまけに音子も早く彼氏つくりなとか言われた! マウントだよ! マウント!」

 彼女が膨らませた頬は、白みだした世界のおかげでほんのりと色づいている。

「秋永さんなら、すぐに恋人くらい出来るでしょ。この前も告白されたとか言ってたような」

「私、正直あんまり恋愛に興味ないんだ」

 冗談、というわけでは無さそうだった。少なくとも、僕から見れば彼女は本当にそう思っているように感じる。

「僕も興味ないから、分かる気がする」

「そっか、それは好都合」

「どういうこと?」

 彼女はおもむろにスマホのカメラアプリを起動させる。

「いやさ、ちょっとムキになっちゃてね。彼氏つくりなって言われた時に、いるもんって言っちゃったんだよ」

「……あぁ、なるほど。だから、制服着てお洒落してこいってね」

「理解が早くて助かるよ。こんなの頼める人が限られてくるからさ。それに、」

「それに……?」
 
 背景の海で、遠くの船が汽笛を鳴らす。画面に映った彼女が僕を横目で見る。

「多分、負けてないはずなんだよね。私には分からないけど、クラスのみんなが言ってるの聞くとさ」

「今、とんでもなく失礼なこと言ってるよ?」

 彼女がにっと笑う。そして、おもむろに僕の顎に手を添えて頬をつまむように押した。その瞬間、スマホが軽い音と共に瞬く。

「はい、真似して?」

「え、真似……?」

 何を真似しろというんだ。撮影ボタンの上をせわしなく彷徨わせる彼女の指を見て、余計に焦った。
 よく分からないまま、自分の頬を押し掴む。それを見て彼女が声をあげて笑う。その拍子に彼女の指がスマホに触れ、カシャッと軽快な音を鳴らす。瞬きの後、画面に写真が表示される。自分の変な顔より、彼女の自然な笑みに目が吸い寄せられた。

「そ、そうじゃないって、くふっ……ふふっ……」

「いや、だって真似しろって……」

「こうだよ、こう」

 彼女が僕の手を取り、そして自分の頬へと持っていく。彼女の顎先に手のひらが触れ、そのまま指が頬へと寄せられる。
 心臓が取れるかと思った。手を伝う彼女の熱に左腕が痺れる。真冬なのに背中にはじんわりと汗が滲んだ。

「ほい、ちーずっ!」

 スマホが二度、瞬く。画面に写し出される僕は、見事に引き攣った笑みを浮かべていた。おまけに半目だ。酷すぎて乾いた笑いが零れる。

「よし、これで朝の海デートってことに出来るでしょ!」

「あ、これでいいんだ……」

「え、気に入らなかった? 決め顔とかやっとく?」

「……いや、別にいい」

 まだ熱の残る左手を眺める。握って、閉じて、何度か繰り返した。

「いやらし~」

「な、何が!?」

 僕の左手を取って、彼女がごしごしと握った拳で擦る。

「はい、証拠隠滅! 安心してよ、学校の人たちには絶対に見せないからさ。というか、見せたら私も困る」

「当たり前だよ。僕だって色々と困る」

 彼女は僕を見て、何を浮かべたのか小さく笑う。まだ鼓動のうるさい僕は、必死に凪いだ波の行方を目で追っていた。
 スマホが震える。見ると、彼女からさっきの写真が送られてきていた。

「二人の秘密、また増えちゃったね」

 これが計算なら、末恐ろしい人だ。きっと、無自覚なんだろうけど。

「勝手に増やさないでもらえると助かるんだけど」

「まあまあ、いいじゃん。私は恋愛とかより、こういう方が楽しくて好きなんだけどなあ」

 僕も彼女も互いに隠している。誰しもが、全てを曝け出せるわけじゃない。親にだって隠し事をするくらいだ。それが当たり前。欺いて、欺かれて、自分すらも誤魔化して生きている。
 こうして毎朝彼女と過ごすことで、いつかは互いの秘密に触れてしまうのだろうか。それは堪らなく怖いことだし、恐ろしい。きっと気まずくなって、もしかしたらこの関係も無くなるかもしれない。そんなことになるくらいなら、僕らは隠し事を続けるべきだ。人はそうやって日々を生きているんだから。
 彼女の手帳を見てしまったのは、それから数日後の朝のことだった。

         *

 遊びに行くと言っても、僕らの町に高校生が休日に過ごすような施設は無い。チェーン店はファーストフード系しか無いし、カラオケやボーリングだって高校生にとっては財布が痛い価格の個人経営の店ばかりだ。
 ただのよくある田舎の観光地。それも、電車で少し行ったところにもっと有名な観光地が存在する。そんなおまけのような場所。
 生まれ育った町ながら、どこに観光要素があるんだと思ってしまう。駅前には廃れた土産屋と干物屋、観光客からぼったくる高値の食事処が数件。町中には観光施設があるわけでもない。山と海、それと温泉だけがこの町を観光地だと言い張らせる要因だ。
 ただ、それは他の観光地も一緒なのかもしれない。住めば都。声を大にして言いたい。それは全くの真逆だ。
 電車を乗り継ぎ、一番近い『街』と言える場所まで四人で来た。都会と定義するにはいささか規模に欠けるが、どうせ夕方までだらだら過ごすだけだろう。

「わーっ、久しぶりに来た! 何か色々と変わってるね!」

 今日も眩いばかりの注目を浴びる秋永さんを、まるで犬のリードを引くように止める田上さん。

「まず何するか決めようよー」

「おっと、それもそうだ。じゃ、何したい?」

「私はやっぱりカラオケとか行きたいなぁ。奏汰とおとうとくんは?」

 二人の視線が向く。

「あー、カラオケね……」

 奏汰がちらっと僕を見る。そっか、カラオケなんて行く機会が無いから、自分が音痴なことを忘れていた。

「僕、歌うの苦手なんだ」

 奏汰がそっと息を吐いたのを見て見ぬふりした。

「そっか。まあ、私は何でもいいんだけどね」

 (しき)りに前髪を直す田上さんの意識は今日も奏汰に向きっぱなしだ。当の奏汰は気づいていなそうだけど。
 つまり、僕と秋永さんはダシに使われたわけだ。奏汰一人を誘っても断られるだろうから、複数人それもなるべく奏汰が来そうな面子を選んだ。そうでなければ、秋永さんはともかく、僕が誘われることなどありえない。

 ひとまず、ファミレスで今後の行き先を決めることになった。当たり前のように僕の隣に座る奏汰。田上さんにちょっとだけ恨めしそうに見られた。

「それにしてもほんと顔そっくりだね。黙ってたらどっちがどっちか分かんないや」

「あー人生で何度も聞いた言葉だ。双子なんだから当たり前だろ」

「性格は全然違うのにね。胸に張り紙でもしておいて欲しい」

「それ本当に分かりみしかない!」

 田上さんの言葉に秋永さんが大きく頷く。

 基本的には何人になろうと僕の立ち位置は変わらない。誰かに話を振られるまでは口を挟まないし、気を遣われたらいち早く察して自分から話す。奏汰は僕のことをよく分かっているから、その分よくしゃべってくれるし、田上さんはもはや僕のことは眼中にない。今日、僕が気にしなければいけないのは秋永さんだけだ。
 不意に彼女の視線が僕に向いた。一瞬、心の中で身構えるも目は合わない。どうやら僕を見たわけではなさそうだ。僕の後ろに席なんかなく、ただ白塗りの壁があるだけだから、それもおかしな話だけど。だって、僕の顔を見たのなら目が合うはずだ。それなのに、彼女の瞳には僕の鏡像は映っていない。

「はぁー、クリスマスも正月も彼氏と過ごしてみたかったなあ」

 行き先を決めるはずの話は見事に脇道に逸れ、やはりと言うべきか田上さん主導で恋愛トークへと向かっていた。

「ここら辺じゃ、クリスマスに行くようなところもないでしょ」

「もー、奏汰は分かってないなあ。どうせ冬休みなんだから、一緒に旅行とか行ってさ、イルミネーション見たり、初日の出見たり色々あるでしょ。ねっ、音子もそう思うでしょ?」

 秋永さんは念入りに冷ましていた紅茶を一口、口に運ぶ。

「ん? 私はおうちデート派」

「それもめっーちゃ分かる! いいよね! 一人暮らしの相手の家でだらだら映画とか観るの!」

「たがみっち、それって何でもいいってことじゃん。ははっ、ウケる」

 奏汰の一言に田上さんはやけに嬉しそうな表情を見せる。しかし、それに気が付いているのはどうやら僕だけのようだ。

「それなのに、結局今年も家族と過ごしたんだよ? マジあり得ない。JK最後の一年だってのに!」

「栗原くんとか誘ったら絶対に来るんじゃない?」

「あ、それはそう。あいつも彼女欲しがってたぞ?」

「いや、二人ともマジで言ってるの? 栗原だよ? いがぐりだよ?」

 何か栗原が可哀そうになってきた。でも、彼はそういうポジションの存在で、彼自身もそれを受け入れているように見えるから、むしろいいのか。そんな訳の分からない妄想にふける。

「みんなは恋人欲しくないの?」

 田上さんの言葉に一気に現実へと戻された。

「えー、俺はめんどいからいらね」

「私はびびっと来る人がいればやぶさかでもないかもね。まあ、そんな人いないんだけど」

「えー、何それ。音子ならすぐに彼氏出来るのに、もったいない!」

「私はいいの。それより、奏弟くんは?」

 結局、僕の番は回ってこないものだと思ってたのに、秋永さんがしれっと僕に向きを変える。

「……僕も別に欲しいとは思わないかな」

「ふーん、何かみんなしけてんね。でもさ、好みくらいはあるでしょ?」

「俺は特になーし。そもそも考えたこともない」

 空になったコップをくるくると回す奏汰。これを見て、退屈だと分かるのは僕だけだろう。

「僕も同じく」

「そりゃ、そう。俺らは双子だから、好きなやつも一緒のはず。俺らが恋したのは唯一、幼稚園のあやか先生だけだもんな」

「いや、僕別に好きじゃなかったけど……」

「嘘だろっ!? こんなところで双子に差が出るなんて……」

 奏汰がドリンクバーを取りに席を立つ。つられて僕もほとんど無意識についていく。流石に三人にされるのはごめんだ。

「音子は?」

 去り際に二人の会話が聞こえた。

「んー? 私はねえ、私の全部を受け入れてくれる人かな」

「うっわぁ~、おもっ」

 盗み見た秋永さんの表情は冗談を言った風には見えなかった。重い、軽い、そんな話ではないんじゃないかな。漠然と、そんなことを思ってすぐに頭の隅に追いやった。


 ファミレスを出た後、僕らは近くで開催しているリアル脱出ゲームへと向かった。二人一組になって閉ざされた密室でクイズや謎解きをして、脱出を目指すという内容らしい。
 流石は日曜日というべきか、整理券を渡され、それまでは女子二人の買い物に付き合わされることになった。
 僕が退屈に感じるということは、隣で陽気に田上さんと話す奏汰も同じなわけで、やっぱりこそっと僕を見る。

「あー、えと……僕、次の美術で使う筆買ってきていいかな?」

「俺もこの前、調子乗って筆折っちゃったんだった。つーわけで、ちょっと買ってくるわ」

 渡りに船と言わんばかりに奏汰が食いつく。というか、奏汰のために船を出したのだから、乗船してもらわなきゃ困る。
 二件ある雑貨屋の遠くの方へと向かう。

「助かった。そろそろ疲れてきたところだったから」

「別に。筆を新調しなきゃいけなかったのは本当だし」

「そっか。でも、とりあえずこれで時間潰せるかな」

「……うん」

 結局、脱出ゲームの整理券時間ぎりぎりまで雑貨屋に居座り、戻ることにした。

「もーどこまで行ってたの? 時間ジャストとか他の女子にしちゃ駄目だかんね?」

「待ち合わせじゃないんだから。ほら呼ばれてる。いこーぜ」

 入場口はニ叉路で、二組計四人が同時に入れる仕組みになっていた。すっと横に奏汰が移動してくる。

「あ、ちょいちょい。そうじゃないでしょ」

 田上さんが慌てて止める。当たり前だ。この脱出ゲームを提案したのは田上さんだ。きっと事前に色々とプランを練ってきていたのだろう。

「奏汰もおとうとくんも頭良いでしょ。私たち、二人とも馬鹿。つまりさ、」

「たがみっちひどーい。私、サスペンスドラマとかよく見るのに」

 秋永さんの的外れな抵抗はもちろん田上さんには届かず、結局奏汰と田上さん、僕と秋永さんで入場することになった。
 ここまでする田上さんに、流石の二人も気が付いたようだ。奏汰が田上さんに見えないように重く息をついたのを僕は見逃さなかった。しかし、こうなってしまっては、僕は奏汰の手助けは出来ない。それにここから先は二人の問題だ。僕は別に田上さんの邪魔をしたいわけじゃないのだから。
 そんなことより、僕は自分のことで精いっぱいだった。

「なるほど……奏弟くんは気が付いた?」

「まあ、最初から」

 平常心、装えているだろうか。

「最初っていつなのさ。もしかして、今日ずっと?」

「最初にそうかなって思ったのは二か月前。確信したのは二週間前くらいかな」

「えっ!? そんな前からだったの? 全然気づかなかった……」

 やけに凝った装飾の一本道を進むと、一室にたどり着く。中には探偵の服装をしたキャストがいて、ルール説明を受けた。脱出率は十五パーセントらしい。約七組に一組の割合だ。
 結果から言うと、僕と秋永さんは時間をかなり余して脱出に成功した。そうは言っても僕はあまり役に立っていない。ほとんど秋永さんが謎を解いてしまった。
 キャストの人曰く、ここまで早いのは珍しいらしい。

「いやー、難しかったね」

「ほとんど秋永さんが解いてたじゃん。すごいよ、僕は全然分からなかったのに」

「ふふん、勉強が出来なくても、閃きはピカイチだったね。自分でも知らなかった」

 得意げに語る彼女を視界に収めつつ、奏汰と田上さんを探す。どうやらまだ出て来てはいないみたいだった。

「まだかかりそうだし、どっか入って待とうか」

「……うん」

 奏汰に連絡を送っておいて、近くの喫茶店に入る。陽の傾き始めた時間帯ということもあって、思ったよりも空いていた。

「私、紅茶のホット。奏弟くんは?」

「えっと、同じやつで」

「おーけー。あっ、チーズケーキも食べちゃお」

 注文を済ませ、店員が離れると必然と沈黙が訪れる。それまで気に留めなかった店内を流れるクラシックがやけに耳に滞留した。

「なんか、ごめんね。今日来てもらっちゃって。こういうの苦手でしょ?」

「いや、秋永さんが謝ることじゃないでしょ」

「たがみっちは友達だから、一応ね」

 彼女は容姿だけじゃなく、中身まで優れているのかと思わざるおえない。友達のために謝るって軽い感じでも中々出来ることじゃない。

「どうせ家に居てもやることなかったし、画材も買えたから」

 なんてつまらない会話だろうか。自分から話題を振ることも出来ない、返答も面白くない。これが奏汰ならば、きっと退屈させない話題を提供出来ていたのだろう。頭の中で妄想を広げ、諦める。僕には出来ないことだ。

「奏弟くんって口堅い?」

「堅いというか、柔らかくする相手がそもそもいない」

「じゃ、いっか。実は私も今日来るの結構めんどくさかったんだ」

 秋永さんは笑いながら言った。彼女はアクティブな人間だと思っていたから、すごく意外だった。

「でもさ、先週は用事あるって断っちゃったから、今日は行かないとって。こういうの、空気読みみたいなもんじゃん?」

 急に彼女に妙な親近感が湧いてくる。てっきり、彼女は二割側だと思っていたから、空気を読むなんて無縁のことだと思っていた。
 結局、二割の人たちも色々と考えてポジション取りをしているということだろうか。

「あんまりみんなで遊びに行くとか、そういうの得意じゃないんだよね。ボロが出そうになる」

「ボロって?」

 彼女はティーカップを口元に添えて、「あっ……」と声を漏らす。

「音痴だったり、映画黙って観てられない……とか?」

「なんで疑問形……」

「と、とにかく、大人数でどっか行くのはあんまり好きじゃないの」

 腑に落ちない理由だったけれど、秋永さんとはそれを言及するだけの関係ではないから、素直に相槌を打っておいた。

「それにしても恋人かあ。みんなそういうの好きだよね」

「もう高三だからね。最後に青春したいんじゃないかな」

「まあ、そうだよね。大学生ってなんだか大人なイメージだし。恋愛だって、ちょっと泥臭くなりそう」

 彼女の言わんとしていることは分かる。近くに大学が無いから、僕らの大学生のイメージは少しずれているのかもしれない。しかし、大学生が大人に感じるのは全くの同意だ。
 早くなりたいような、もったいないような。大人になったら、その先はずっと大人のままだ。子供に戻ることは出来ない。

「でも、中学生の頃って高校生が大人とまでは言わないけれど、すごく遠い存在というか、自分たちとは全くの別物に感じなかった?」

「それ分かるかも! こんな風になる自分が想像出来なかったし」

 やっぱり、みんな考えることは同じなんだろうか。
 ないものねだりとはちょっと違う。高一の時に高三の自分は想像は出来るくせに、高三の今、大学生になった時の自分を想像出来ない。環境が変わり、それによって自分もがらりと変わってしまう気がして、でもどんな風に変化を遂げるのか分からない。

 妄想してみる。私服でキャンパスの門をくぐり、自分で選んだ講義を受ける。関わらざるおえない箱庭のような人間関係は無くて、全てが自分次第。きっと、一人暮らしになるだろうから、帰ったら自分で家事をして、多分アルバイトとかもするのだろう。億劫な歴史だとか、使いもしない数学なんてやらず、とにかく自分の興味のある分野だけ勉強する。
 その全てがのっぺらぼうで、まるで自分に置き換えることが出来ない。たった一年後にそんな風に自分がなっているなんて想像もつかなかった。ましてや、進学せずに働いている姿はもはや妄想すらできない。知りえないことは、頭の中で思い浮かべることが出来ないのだから。
 
 眼前の彼女も同じように頭の中で映像を流しているのだろうか。ティーカップの中身をじっと見つめ、黙している。
 不意に、彼女が言葉を零す。

「怖いね……」

「えっ?」

 僕の小さな反応に、はっとした表情で顔を上げる彼女。

「今の声に出てた?」

 頷くしかなかった。

「気にしないで」

 彼女は一言、そう呟いた。
 多分、またボロが出たというやつなんだろう。

         *

『釣りってやったことある?』

 彼女から初めて夜に届いたメッセージはそんな文面だった。
 随分と回りくどい言い方だ。そして、とても分かりやすくある。だから僕は納屋に閉まった釣り竿を捨ててないことを思い返し、返信した。

『あるよ』

『やってみたい』

『随分と急だね』

『旨い物は宵に食えってことだよ。魚食べれないけど』

『じゃあ、思い立ったが吉日でよかったじゃん』

『正論ぱーんちっ!』

 僕と彼女はメッセージのやり取りでさえ、面白みの無い会話だ。絵の海月がコミカルにパンチをしているスタンプが送られてきて、思わず一人で笑ってしまう。

 時計に目を向けると、夜の八時をちょうど回ったところだった。釣具店はもう閉まっているし、明日の朝ではまだ開店していないだろう。
 渋々、適当な服に着替えて家を出た。なんてことのない時間のはずなのに、すごく新鮮な気持ちになる。見ている景色は夜明け前と違いが分からない。真っ暗で、時折通過する車のライトだけが、ノスタルジックな雰囲気を壊す。けれど、空気が違った。匂いなのか、鼻から吸い込んだ空気はやけに重たく思える。朝の空気はとても軽い。きっと、誰に言っても伝わらないのだろう。

 少し歩き、海岸沿いの釣具店に向かう。やっぱりシャッターは降りていた。横をぐるっと回って裏口の戸を叩く。ややあって、向こう側から足音が聞こえてきた。気怠さが伝わってくる不規則な歩調だ。
 建付けの悪い古めかしい扉が鈍い音を立てて開く。目元に大きな隈を刻んだ男性が姿を見せた。

「こんな時間に誰だ……って思ったら、なんだ加嶋(かが)じゃねーか」

「お久しぶりです。先生」

「……まあ、入れや」

 ぼさぼさの髪を掻きながら背を向ける先生。その指先は黒く滲んでいた。
 中学三年の時の担任であり、元教師。確か、二十八歳とか言ってたっけ。僕らが卒業すると共に、一身上の都合ということで教員を辞めた変わり者だ。生徒に理由は告げられなかったけれど、僕は先生がなぜ公務員という安定な立場を自ら降りたのかを知っている。

「どした、さみぃから早くしろ」

「お邪魔します」

 後ろ手で扉を閉める。
 先生の猫背な後ろ姿には、担任だった時の生真面目な雰囲気は残っていない。でも、僕はこっちの姿の方が似合っていると思ってしまう。

 何を聞くでもなく、先生は廊下の突き当りの部屋に入る。後に続いて足を踏み入れると、たばこの臭いが微かに鼻につく。木造の一室には似合わない大きなデスクトップパソコンと、付随する機材が最初に目に入る。デスク横に置かれた紙束、横にずらしたキーボード、代わりに正面に置かれた大きなタブレット板。確か、液タブと言うんだったか。先生はパソコン前の椅子に身体を沈めた。

 僕はいつもの如く、大きな本棚の横に置かれた藍色のソファーに腰を降ろす。

「最近、来なかったじゃねえの」

「もう四月で高三になりますからね。色々と忙しいんですよ」

「おいおい、もうそんな経つのか。早ぇなあ。進路は決めたのか?」

 真っ先に聞くのが進路な辺り、教師癖がまだ抜けきっていないように思える。もっとも、教え子が目の前にいるのだから、当たり前なのかもしれない。

「東京の大学にしようかと」

「双子揃って?」

「志望校は別々なんで、一人暮らしになりますかね。別に一緒に住んでもいいけど、もう大学生ですし」

 先生は何を考えているのか、天井の木目をぼんやりと眺め、煙草に火をつけた。ちょろっと開けた窓から逃げるように消えゆく煙。

「大学か。いいんじゃね? 俺が学生時代で一番楽しかったの大学の時だからな。きっと楽しいはずだぞ」

「そうなんですか?」

「まあ、俺も加嶋と同じようにこの町で育って、田舎に飽き飽きして都会に出た口だからな。一人暮らしは気楽でいいぞ。男友達と徹夜でゲームしたり、彼女が入り浸って半同棲みたいになったり、実家じゃ考えられないことばっかりだったな」

 随分と懐かしそうに語るけれど、先生からしたらまだたったの数年前の話のはずだ。六年かそこいらなのでは。と思ったけれど、僕だって六年前といえばまだ小学生。妙に納得した。小学生の頃なんて、確かに懐かしい。遠い昔のように思える。

「想像出来ないんですよね、大学生の自分」

「そりゃ、そうだろ。想像出来たら面白くもなんともねえ」

 先生は手元の紙に目を落とし、興味無さそうに言った。

「そういうものですか」

「俺だって、教師になったばかりの時は今のこんな自分なんて想像出来ちゃいなかったよ。教え子に言うのもなんだが、教師になったのは言っちゃえば何となくだったからな」

 相変わらず、先生は僕の中の教師像というものをことごとく破壊してくれる。

「大人になるって何ですかね」

「おいおい、急に人生相談かよ。俺が担任の時にしてくれよ、そういうの」

「いや、なんというか、恥ずかしいじゃないですか」

 先生は短くなった煙草を灰皿に押し付け、窓を閉める。古めかしいエアコンの稼働音が一気に大きくなった。

「分からなくないけどな。俺だって思春期があったわけだし」

「……それで、どうなんですか?」

「大人ねえ……」

 先生は考えるように首を傾げた。

「一般的には思慮分別があるとか、心身の成熟ってことなんだろうが、聞きたいのはそういうことじゃねえよな?」

「まあ、はい……」

「じゃあ、俺にも分からん」

 あまりにもあっさりと切り捨てられ、あっけらかんとしてしまった。そんな僕を見て、先生が続ける。

「加嶋の言う大半の大人は、自分のことを大人だなんて思っちゃいねえよ。少なくとも、俺はまだ自分のことを大人だなんてこれっぽっちも思わないね」

「どうして、なんですか?」

「気が付いたら、こうなっていただけだ。ベルトコンベアーみたいに流されて大学の四年間が過ぎ、周りを真似して別に熱意もクソも無い教師という職に就いて、まだ学生気分のまま中学生の面倒見て」

 先生は少しだけ言い淀んだ。僕をちらっと見て、まあいっかと言うように息を吐く。

「俺も加嶋くらいの時は教師ってどう見ても大人だったんだよ。そりゃ、そうだろ。あんなに来る日も来る日も教養を垂れ流して。どうやっても逆らえないし、こっちが何かすりゃ、聖人君子の如く正論を語って怒って正す。だろ?」

 これは頷いてもいいものなんだろうか。

「た、確かに?」

「でもよ、実際に自分がその立場になったら分かるんだよ。結局、ろくでもない人ばかりだってな。俺みたいに人の目気にして、なんとなしになったやつだっていっぱいいるし、飲み会になったら愚痴大会。教師間のいざこざは日常茶飯事。もっと言えば、喧嘩沙汰で逮捕された教師までいやがる。どこが大人なんだよって話だろ?」

 これも繕うってことなんだろうか。空気読みの延長。むしろ、学生時代の箱庭生活は社会に出た時の予行演習とでも言うのか。
 本棚を目でなぞる。棚一杯に陳列された少女漫画。もう三分の一ほどは読んだだろうか。外では口が裂けても言えないが、読んでみると結構面白い。何なら、少年漫画とか青年漫画より僕は少女漫画の方が好みだ。

 脱サラして、実家の釣具店をしながら少女漫画家を目指す人。それが、先生――芦馬(あしば)恭治(きょうじ)というわけだ。
 教師の時の風格は薄れ、隈も一層濃くなった。それでもその姿が似合ってしまうのだ。自分を曝け出すって、怖くないのだろうか。もちろん、今の自分が思春期真っただ中で、この気持ちもそれに由来するものだと分かっている。では、この思春期はいつ終わりを迎えるのだろうか。明日か、一年後か、もしかしたら十年経ってもまだ続いているかもしれない。
 少し、怖いなと思ってしまった。

 一体、僕はどうなりたいのだろう。それすら分からない。迷って、悩んで、立ち止まり続けている。踏み出したと思ったのに、結局その場で足踏みをしているに過ぎない。
 だから、逃げるように誰もいない灯台を登った。死にたい、とはやっぱり思っていなかった。でも、僕が死ねば色々と解決するのではないか。その一心があって、傍から見ればそれは希死念慮を抱く人と同じに見えて、だから彼女は「順番待ち」なんて言ったのだろう。

「先生はどうして漫画家になろうと思ったんですか?」

 今度は先生と目が合う。

「教師の時、思ったんだよ。あー、このままこの生活が定年まで続くのかってな。想像して、次の日には辞表を出してた。……ただただ、もったいないなあってな」

 重たげな瞳が、じんわりと小さな火種を蓄えているように見えた。
 遅くなる前に、先生は僕を追い出すように帰した。来た時と何ら変わらない夜道を歩く。やっぱり、ちょっと空気がもたついていた。
 帰り際に先生が言った言葉が耳を離れない。

「若い時の苦労は買ってでもせよ。ありゃ、間違いだ。正しくは、若い時の一歩は勇気が無くてもさっさと踏み出せ、だな」

 それってつまり、思い立ったが吉日なのではないだろうか。

         *

 大方の予想通り、フードパックに入った砂交じりの磯目(イソメ)を見て彼女は間抜けな悲鳴を上げた。まだ真っ暗な堤防を一歩後ずさりにして、僕を睨みつける。

「きんっっっも!」

「そんなこと言われても……」

 似つかわしくない言葉遣いが、如何に彼女が動揺しているのかをよく表していた。
 絡み合って団子状になった磯目を一匹掴み、釣り針に括り付ける。肩越しに恐る恐ると見ていた彼女がまた小さく声を漏らす。

「魚って、こんなの食べるんだ……」

「そう言われると、魚の方が気持ち悪いのでは?」

 もう一本の竿にも餌を付け、片方を彼女に手渡す。

「うへぇ……」

 最大限に手を伸ばして竿を受け取る彼女。

「それじゃあ投げれないでしょ」

「いや、だってさ糸がぷらぷらして……ひぃっ! こっち来ないで!」

 釣り針の揺れに合わせて左右に身体を振る姿は、シャドーボクシングでもしているんじゃないかと思えてじわじわこみ上げるものがある。

「両手を右肩の上に持ってきて、後は竿を前に振るだけだよ。流石にテレビとかで見たことあるでしょ?」

「で、でもさ、それだと糸は後ろに行くわけじゃん?」

「そうだけど?」

「このミミズみたいなのが、急に針から外れて私に襲い掛かってくるかもしれない!」

 すごく真剣な眼差しで言うものだから、可笑しくて口角がひん上がった。思わず声が漏れる。すると、彼女は白磁の頬を膨らませ、「笑い事じゃないよ!」と言ってよこす。

「まあ、確かに活きが良いとたまに噛むよ」

「ほらほらぁ!」

 今の話は別に繋がっていないような。そう思いながら僕は自分の竿を放った。仕掛けが放物線を描いて遠くへと飛んでいく。リールが糸を吐き出し、水面に波紋を浮かべると同時に鳴りやむ。

「はい、たまに軽くリール巻いて」

 竿を彼女に手渡す。代わりに彼女の持っていた竿を受け取ってそれも放る。

「ねえ、どんなのが釣れるかな」

 揚々とした面持ちの彼女には申し訳ないが、冬場の朝マズメは釣果が望めない。ましてや、僕だって釣りなんて幼い頃にかじった程度だ。一匹だって釣れるとは思っていない。

「さあね。カサゴとか、三月に入ったからアジとかじゃないかな。後はやたらクサフグが釣れるけど」

「へえー、楽しみだなあ」

 案の定、三十分経ってもかかる気配すら見えない。今のところ彼女が二回ほど根掛かりで地球を釣ったくらいだ。
 東の山向こうが白み始める。世界が藍色に色づき、海鳥と烏のやかましいパレードが始まった。
 釣りをしながらというものの、僕と彼女の朝は竿を持っているということ以外は何ら変わらない。二人の間をぽつぽつと中身のない話が行き交うだけだ。

「釣れないねえ……」

 彼女が囁くように呟いた僅か数秒後、竿を握る手にわずかな振動が届いた。そして、竿の先端がほんのちょっとしなる。

「……来たかも」

「何が?」

「いや、何がって魚」

「えっ、ほんと!?」

 十分にじらし、竿を一気に振り上げる。山なりに曲がるカーボン製の竿と、手に伝わる抵抗するようなブルっという振動に当たりを確信した。

「はい、こっち持って」

 彼女の竿を片手で奪い取り、手早に自分の竿を渡す。

「いいの? え、でもどうしたら」

 釣りをしたいと言い出したのは彼女だ。僕が最初に釣ったって意味が無い。それよりも、早く糸を巻かないとバラけてしまう。
 竿を置き、彼女の手に自分の手を添える。そのまま彼女の手を握ってリールを手早く回す。

「わっ、ちょっと重いかも!」

「そりゃ、かかってるからね」

 抵抗が感じられる糸が徐々に手前に絞られていく。そこでようやく自分のしていることに気が付いた。とっさに手を離す。じんわりと残る熱に手汗が滲む。

「ごめっ……」

「何が? それより、まだ?」

「多分、もう少し。まだ巻いて」

 ほどなくして、海面に影が揺らぐ。

「な、何か見える!」

 やがて、それは姿を鮮明に見せた。するっと宙に飛び出た手のひらより少し大きい魚が宙ぶらりんでぴちぴちと尾を動かす。

「わぁーっ! ど、どうすればいい?」

「糸を持って、そのままこっちに引き寄せて」

 彼女は言われた通り手を伸ばし、糸を手繰り寄せる。磯目は駄目だけど、魚は大丈夫なようだ。じゃなかったら、釣りがしたいなんて言わないか。そんなことを地面をぴちぴちと跳ねる魚に独り語り掛ける。
 当の彼女は何故か随分と息が上がっており、達成感に満たされたような充足した表情をしていた。

「と、とったどー! ね、これ何て魚?」

 僕は魚の口元を抑え、針を取って海水を汲んだバケツに入れる。暗緑色の背に、銀白色の腹。背中を沿うように生えるトゲのある堅い鱗。

「マアジかメアジか……。何にせよ、アジだね」

「おぉー! これが噂のアジですか。って、そんな有名な魚釣っちゃったの!?」

「アジは比較的どこでも釣れるポピュラーな魚だよ」

「ふむふむ、君は食いしん坊だなあ」

 まじまじと眺める彼女は思いだしたかのように急いで鞄を漁る。ぼろぼろと荷物が顔を見せては鞄から出てくる。リップやら、ノートやら、そんなのお構いなしにスマホを取り出して、僕に手渡す。

「ね、持ってるとこ写真撮って! SNSにあげたい!」

「いいけど、背中はトゲがあるから気を付けて持ってね。普通に手が切れるよ」

「噛んでくるミミズと言い、釣りって危ないんだねえ」

 ミミズじゃなくて、磯目な。と心の中で独り言ち、彼女に持ち方を教える。

「うわっ……ぬめぬめしてる。ちょっとグロイかも……。早く撮ってぇ」

「はいはい、ちょっと待って」

 (かじか)む手でスマホを落とさないように支え、彼女に向ける。フィルター越しに映る彼女はちょうど明けた空に負けないくらいの眩しい笑みを浮かべていた。無意識に惹きつけられる。まるで、僕には毒のように感じた。
 何枚か写真を連射しておく。

「うへぇ、生臭い……。手、洗ってくる!」

 そう言い残し、彼女は小走りで一目散に手洗い場へと行ってしまった。
 とりあえず、何とか一匹でも釣れてよかった。じゃなかったら、彼女は満足しなかっただろうし、僕はわざわざ餌まで買いに行った無駄足を踏むところだった。
 強い風に彼女の鞄から覗いたリップクリームが転がったのを、咄嗟に手で押さえる。危うく海に落ちるところだ。跳ねる心臓をなでおろし、少し考える。飛ばされても厄介だと。散らばる彼女の荷物を鞄に戻していく。
 まとめられていない化粧品やら、お菓子のごみなど、どうやら彼女は整理整頓が苦手らしい。
 その時、一冊の分厚い手帳が風でパラパラとめくれる。見るつもりはなかった。ただ、目に入ってしまっただけ。思わず手を止める。

『――迫子(さこ)杏南(あんな) 同級生二組
 黒髪肩くらい、おさげメイン、たまにポニテ。色白。スカート腿くらい。
 身長同じくらい(156㎝)。細身。右手首にほくろ。胸Cくらい。声:高めちょいハスキー。
 呼び方:ねこ

 ――佐藤(さとう)賢人(けんと) 同高一個下
 黒髪短髪、硬そう。セット無し。よく腕まくり。日焼け肌。制服着崩し無し。
 身長結構高い(178㎝くらい)。細いけど筋肉質。右首付け根にやけどの跡。ピアス穴右あり。声:結構低い。
 呼び方:あきなが先輩

 ――須藤(すとう)先生 数A
 黒髪センター分け、セットあり。肌色普通。指輪あり。眼鏡あり(黒縁)。藍色スーツ。ワイシャツはストライプメイン、たまに無地。
 身長ちょい高い(172~174㎝くらい)。細身。整髪料の匂い(リキッド系)。声:ちょっと低め。
 呼び方:あきなが
 ※宮野(みやの)先生と間違いやすい! 注意!

 ……』

 開かれたページにはびっしりと書き綴られていた。人の名前、特徴。それもかなり詳しく。知っている名前もたくさんある。恐る恐るページをめくってみると、他のページも同じようにずらっと実在する人の特徴が書き記されていた。
 あまりに奇妙な手帳に口は開けど言葉が出ない。理解のし難いものだった。けれど、見てはいけないものということは間違いないはずだ。
 彼女は人物観察が趣味なのだろうか。だとしても、わざわざ書き残すのは趣味が良いとは言えない。むしろ、かなり不気味だ。そうではなく、他の理由でこの手帳を制作している。何の根拠も無く思った。
 言葉にならない複雑な感情がわだかまる。そして、同時に気になった。なぜか、見たら後悔するような気がした。けれど、僕の手は止まらなかった。ゆっくりとページを遡る。そして、その名前を見つけた瞬間、息が詰まるような感覚に陥る。

『――加賀奏汰 同級生一組
 黒髪耳にかかるくらい。前髪横流し。セット無し。肌色普通。着崩し無し、ワイシャツボタン一つ開け。
 身長ちょい高め(175㎝くらい)。細身。双子。声:普通くらい。よく通る気がする。
 呼び方:ねこ、たまにあきなが。
 ※間違いやすい! マジで注意!

 ――加賀奏弟 同級生一組
 黒髪耳にかかるくらい。前髪横流し。セット無し。肌色普通。着崩し無し、ワイシャツボタンたまに一つ開け。
 身長ちょい高め(175㎝くらい)。細身。双子。声:普通くらい。よく通る気がする。
 呼び方:あきながさん。
 ※間違いやすい! 超注意!

 ……』

 何を感じたわけでもないけれど、少し複雑な気持ちになった。他人からの外見の評価を文字にして見る機会なんてそうあるものじゃない。人には、少なくとも彼女には僕らはこの文章の通りの人物なのだろう。当たり前だが、書いてあることはほとんど一緒だった。

 なぜ、彼女はこんなものを書いて、持ち歩いているのだろうか。人の趣味にとやかく言う性格ではないけれど、ただ純粋に気になってしまった。

「ありゃりゃ、見られちゃったか……」

 風に吹かれて飛んでいきそうな小さな呟きに、(ふけ)る意識が引き戻される。顔を上げると、彼女が少し離れて立っていた。その表情にいつもの明るさは無く、どこか理知的に見える。きっと端正な顔立ちのせいだ。この状況は関係ない。そう信じたかった。
 世界から音が消える。やかましいくらいの海鳥の声も、波のさざめきも、自分の鼓動の音すら聞こえない。

「それ、」

 彼女の透き通った声だけが、僕の世界を支配する。手元のノートが音もしない風でめくれた。

「……ごめん。風で飛ばされそうだったから……」

 自分の声がまるで水中の音みたいだ。くぐもって、やけに反響する。自らの口元から発されたはずなのに、すごく遠くに聞こえた。

「そっか。ありがとうね」

 彼女は真顔を崩し、口元をきつく結んで、それからいつも通りの笑みを零す。
 今さら、中身は見ていないなんて言い訳が通じるはずは無いし、したくもなかった。僕には理解しがたい物だけど、きっとこれは彼女にとって秘密であり、とても大切な物のはずだから。

「返すよ。誰にも話さないから。でも、本当にごめん」

 彼女は何も言わずにノートを受け取った。優しい手つきで表紙を撫でる。

「……何も聞かないの?」

 どきっとした。聞かないのではなく、聞けない。触れてほしくないであろうことに足を突っ込む勇気は、僕には無かった。だから、彼女から聞かれて痛いくらいに心臓が瞬いた。

「聞かない方がいいのかなって思って……」

「やっぱり、君は優しいね」

「そんなんじゃない。憶病なだけなんだよ」

「私が優しいと感じたんだから、それでいいんだよ」

 後ろめたさに、彼女の顔は見れなかった。
 彼女は堤防の縁に腰を掛け、足を投げ出す。いつかのように隣に来いと手で地面をぽんぽんと叩く。横に並んで座る彼女は、やけに涼し気な表情で僕を見つめた。不思議だ、やっぱり彼女とは目が合わない。その瞳の中に、僕の表情が見えない。

「ねえ、今どんな顔してるの?」

「えっ……?」

 くみ取らなければいけない意味があるのだろうか。でなければ、理解の出来ない質問だった。

「笑ってるわけはないよね。怒ってる? それとも、しょんぼりしてる? 大穴は変顔かな?」

 まるで他愛のない話だとでも言いたげな、軽い物言いだ。

「言ってる意味が、よく分からないんだけど……」

 彼女はふと柔和な笑みを浮かべる。その表情が、どうしてか僕にはとても辛そうに思えた。笑っているはずなのに、瞳の奥は悲しそうで。大げさに言えば死期を悟った囚人のようだった。

「私、人の顔が見えないんだ」

 自虐じみた微笑みに、なぜか胸が痛んだ。怖くて、中々言葉が出ない。そんな僕を、彼女はじっと待ってくれた。

「……言葉通りに受け取っていいの?」

「そうだよ。私は生まれつき自分以外の人の顔が認識できないんだ」

 ちかっと水面が輝いた。初陽が彼女の素顔を照らす。気が付けば、山向こうから陽が覗いていた。
 初めて彼女と迎えた朝はちょっぴり生臭く、とてもじゃないけれど最高とは言い難いものだった。

         *

 彼女は『相貌失認(そうぼうしつにん)』――別名『失顔症』という病気らしい。人の顔が覚えられない、分からない。生まれつきの先天性と、事故や何らかの要因によって起こりうる後天性があるみたいで、彼女はその前者だった。
 症状は個々によって差があるようで、ある人は顔は分かるけれど覚えられない。また、ある人はじっと注視すれば認識できるなど、千差万別みたいだ。
 彼女は自分以外の他人の顔に煙がかかっているという、症状としては重度のものだった。目や鼻、眉など顔のパーツすら分からず、体つきや髪型、特徴的な癖、話し方など色々な要素を踏まえて人を認識しているらしい。
 そう教えられ、彼女が会った時に必ず全身をすっと見る癖も、まさに今大事そうに抱えているノートにも納得がいった。同時にどこかやりきれない思いを覚える。
 当の本人はむしろ伝え足りないようで、僕が話す隙すらなく、諳んじるようにすらすらと語り続けた。

「私はめっちゃひどいタイプらしいけど、病院の先生曰く百人に一人はこの病気らしいよ。最初は悲劇のヒロインだなんて思ったけど、結構ポピュラーなんだよね実は」

 つまり、僕らの学校内でも三人程度は彼女と同じ病気ということになる。しかし、僕は『相貌失認』という病気だと自負する人には今まで出会ったことがなかった。もしかしたら、彼女と同じように隠しているだけかもしれない。しかし、大半は軽い症状の人が多いらしく、人の顔を覚えるのが苦手程度の認識で、自らがれっきとした病気だと知らない人もたくさんいるのだろう。

 口が重たい僕は、彼女の話にひたすら相槌を打つに過ぎない。聞いていい範囲の見定めがずっと出来ないでいた。

「大変な病気なんだね……」

 ややあって、結局そんなありきたりな感想を述べるしかなかった。

「別に大変とか感じたことないけどなあ」

「つ、辛くはないの?」

「だって、生まれつきなんだもん」

 何の嫌みも含まず、彼女は即答した。そう言われれば、そうなのかもしれない。つらい、大変、そんな憐憫な考えは僕のエゴだ。彼女の日常を、僕が勝手に暗澹だと解釈してしまったに過ぎない。

「見えないのは顔だけなんだよね……?」

「そうだよ。なんでだろうね。髪型とか、服装は鮮明に見えるのに。だから、声とか、髪型とか、服装で人を見極めるんだよ」

 だから灯台での彼女は最初に敬語だったのか。僕が制服を着ていなかったから、見ず知らずの人だと彼女は判断したわけだ。彼女がクラスの全員に態度が変わらないのも、もしかしたら人を間違えないようにするためなのかもしれない。

「みんなだって、後ろ姿とかの時はそうやって判別するでしょ? 同じだよ。私はそれを正面からでもやっているだけ」

 分かりやすい例えに、ようやく彼女の世界を少しだけ想像することが出来た。それが生まれつきとなれば、確かに悲観することもないように思える。しかし、それでもやっぱり僕はどうしても可哀そうだと感じてしまう。失礼なことなのは分かっている。でも、すぐにこの考えを割り切るのは難しい。だって、僕には今だってこうして人を容易に見初めさせる彼女の顔を見れているのだから。

 聞いてみたかった。でも、聞いちゃいけないことだった。もしかしたら、彼女を傷つけるかもしれない。それでも、天秤にかければ本当にわずかに傾いてしまった。勇気なんてもちろんない。臆病風に吹かれ続けてきた僕だ。でも、これだけは聞かなくてはならなかった。

「そ、その……いじめとか、そう言うのは……」

 訥々と話す僕に、彼女は「残念ながら、ね」と呆れたように息をつく。

「小学生の時に一度だけクラスのみんなにバレちゃったんだよ。隠してたつもりだったんだけど、当時は要領も悪くて、よく人を間違えちゃってたし」

 バケツの中でじっとする魚に、彼女は壁越しにツンと突く。水面がわずかに揺れるが、当の魚はじっと身を静かにさせたままだった。

「ここで大層な作品だとすれば、私は壮絶ないじめにあうわけ。頭から水被ったり、ノートびりびりに破かれたり。先生は見て見ぬふりしちゃってね。そうなってれば、それこそ別の意味で飛び降りたくなってたのかもしれないかな。そんな別ルートも、多分あったんだよ」

「でも、そうはならなかったんでしょ?」

 彼女は目を伏せる。いじめが無くて良かったはずなのに、すごく悲しそうに見えた。

「そうだね。私は主人公でもヒロインでもないからね。でも、結果的に私は傷ついたんだよ?」

「……どうしてって、聞いてもいいのかな」

 彼女は僕を見てくすっと笑う。また優しいやつとか思われたのだろうか。この話題を彼女から引き出した時点で、僕は悪いやつなのに。

「ただ、ひたすらにみんな優しかったんだ。変に気を遣われてさ、とにかく豹変したみんなの優しさが気持ち悪くて、辛くて、こんな思いをするならちゃんと隠し通そうって決めた。結局、またバレちゃったけどね」

 彼女が僕に向き直る。僕は動けないままでいた。

「おはよう! あっ、私、夏奈ね。音子ちゃん気を付けて。今日、飯田先生初めて見る服着てたから」

 わずかに高くつくった声だった。そこに感情は見えない。

「どう? これ毎日色んな人にやられたよ」

「僕なら……きっと、辛いと思う」

 どうしてこんな時ですら、ありきたりな言葉しか出てこないのだろう。きっと僕は人の感情の機微に疎いのだ。もっと、相応しい言葉があるはずなのにそれが出てこない。

「私は普通でいたいだけなのに、ね……」

「普通じゃないってのは、僕もある意味では一緒だから、ちょっとだけ分かるかも」

 僕の言葉に彼女はきょとんとし、ややあって思いだしたように声をあげる。

「そうじゃん! 私たち、似た者同士ってこと?」

「どうだろ。ある意味では、そうなのかな」

「こんなところにいたのか同志よー!」

 バケツの魚がやけにせわしなく回遊し始める。すっかり昇った太陽を見て、多分遅刻だなと思った。でも、そんなことどうでもよくて、僕はぱたりと倒れて背中を地面につけた。
 彼女は嬉しそうな顔で僕を真似て寝転がる。
 空が近い。手を伸ばしても届きそうとは言わないけれど、もしかしたら何か物を思いっきり投げたら、その青い壁にぶつかって落ちてくるかもしれない。こんなにも開放的な場所なのに、窮屈で息苦しく感じた。

「あーあっ!」

 急に隣の彼女が大きな声を出した。横目で彼女を見る。彫刻像のように綺麗な鼻筋がまっすぐ上を向いていた。

「どうしたの?」

「本当、とことんドラマとか漫画みたいにならないなって。私は生まれつきの病気が原因で、小学校からずっといじめられ続ける悲劇のヒロイン。そして、海でしょげていたところをなぜかいつも一緒にいてくれる男の子。そして、二人は恋に落ちて愛の逃避行――。どう?」

 少しだけ、昔の記憶がフラッシュバックした。奇しくも、同じく小学生の時だ。

「ありきたりだね。あんまり面白くなさそう」

「だよね~。でも、やっぱりちょっと憧れるなあ。子供のまま抗う感じ? 逃避行ってそういうことじゃん? 全てを投げ捨てて、その人との時間を止めるために現実から逃げるんだもん」

「随分とロマンチックな言い回しだね。僕はひねくれてるから、ただ現実から逃げているように思えるけど」

 そう、今の僕みたいに。

「知らないの? 逃げるが勝ちって言葉があってだね」

 小学生でも知っていることわざを彼女は自慢げに語る。

「三十六計逃げるに如かず、ね」

「なにそれ?」

「逃げるが勝ちの元ネタ的なやつ」

「頭良いのやめてよー。恥ずかしいじゃん」

「わざとだよ」

「性格悪いなぁ。嫌な大人みたい」

 笑いながら彼女は言った。ノートを開き、何かを書きこむ。見てはいけない気がして、目をそらした。
 波の音に乗せてぽつりと呟く。

「……何書いたの?」

「ん? 君が性格悪いってね」

「うわぁ……」

「嘘だよ。本当は博識って書いた」

「性格悪いね」

「ふふんっ、お返しです」

 無邪気に笑う彼女は、とても綺麗だった。そう感じた僕は、やっぱりまだ罪悪感に駆られていた。