強烈な芳香が不透明な波紋となって、空気中に輝く光沢を放っている。まるで消臭剤の如く奏汰に香水を吹きかけまくる栗原。
 どう考えても過多な噴射量にラベンダーの心安らぐような効果はとっくにどこかへ行き、今はただとんでもない刺激臭と化していた。
 もはや息すら浅くしないと気持ち悪い。バレないように軽く咳込んだ。

「きゃーっ! 馬鹿ッ! 使い過ぎだっつーの!」

 三枝さんが栗原の坊主頭を力任せに引っぱたく。

「うるせー! 俺は許せないんだ! コイツ、また告られてやがる!」

 歩く香水の権化となった奏汰は苦笑いを浮かべていた。多分、この匂いは彼が苦手な部類のものだ。だって、僕がそうなのだから。

「奏汰くさーい」

 秋永さんが鼻をつまんで笑う。
 恋愛話だと悟るや否や、クラスの女子がわらわらと前の席に群がりだした。いつもながら思う。すごい嗅覚だなと。

「別に話したこともない人だったんだから、俺のせいじゃないだろ」

「一年の小岩井ちゃんでしょ? 結構、人気の子じゃん!」
「ねっ、ねっ、何て言われたの?」

「いや、別に……かっこいいなと思ってました、とか、なんとか?」

 女子の歓声が沸く。
 そんな様子を僕は興味が無いから、遠巻きに眺めていた。よくあることだ。顔は一緒でも、そういう経験は全て奏汰が持っていく。
 今回だって、きっと奏汰はその小岩井さんとやらとは本当に話したことがないはずだ。けれど、学校中に奏汰のことは知れ渡っている。尾びれが付いた目線で見ると、余計によく見えるのかもしれない。
 オーラとかそんな不可視なものは信じていないけれど、日ごろの所作や表情、振舞い方で、人はまるで別人のように見えるのだろう。だから、僕と奏汰は他の人からしたら、印象がまるっきり違う。しかし、もし奏汰がいなくても、まあ僕が好意を抱かれるようなことは考えられない。奏汰が人気者なのは、彼自身が自力でつかみ取った称号だ。僕にはきっと真似できない。そういう才能は奏汰が持っていたのだ。

「俺はどうせなら音子に好かれたいけどなあ」

 奏汰がわざとチャラついた態度で秋永さんに右手を差し出す。冗談めかしいその態度でも、女子にとっては大好物なようで、また一際大きな歓喜の渦が巻き起こる。

「えー、私臭い人はちょっとなあ~」

 秋永さんもまた軽くあしらう。きっと奏汰も秋永さんが本気にしないと分かっているから、周りを盛り上げるためにやったのだろう。人気者はいつでもフロアを沸かせなければいけない。さながらDJのような存在だ。
 大変そうだなと心底思う。

「私、奏汰なら全然おっけーなんだけど?」

「あ、ウチもー! 今度の土日遊び行こうよー!」

 毎日、後ろから眺めているから分かる。今、声をかけた田上さんと伊地知さんは結構本気で奏汰を狙っている、ような気がする。
 そして、また一週間後くらいに奏汰に家で相談を受けることになるのだ。「どうしたらいい?」と聞かれても、僕には「好きにしたらいいんじゃない?」としか返せない。当たり前の話だ。
 奏汰は僕と同様、恋愛というものに興味が薄いようで、特定の相手はつくらない。誰々が気になるという話すら聞いたことが無い。その難易度の高さとレアリティが、一層モテる要素になっているような気もするが。

「まあ、別に遊び行くくらいならいいけど……。ただし、栗原もセットで付いてくるぞ?」

 奏汰は友達想いの良いやつだな、と目を輝かせる栗原を見て思う。

「やれやれ、奏汰は仕方がないやつだな。じゃ、ダブルデートってことで」

「え~、栗原はいらなーい。自撮りダサい服ばっかりだし。あの七分丈はマジで無い」

「っんでだよ! 別にいいだろーが!」

 喧騒と未だ強く漂う香水の匂いに堪らず席を立つ。
 無論、自然に、この空気を嫌がったと思わせないようにだ。僕たち七割にとっては造作もない。現に、僕は栗原が奏汰の制服に香水を撒き散らした辺りから、何人かが、顔も歪ませずに教室を出ていくのを見た。もしかしたら、他に用事があったのか、単純にお手洗いとかかもしれないから、ここに関しては僕の想像の範疇を出ることは無い。ただ、僕は勝手にその人たちを仲間だと思って、教室を出ようとした瞬間、

「おとうとくん!」

 心臓が痛いくらい飛び跳ねた。喉が締まり、息がつっかえる。
 いつも通り、完璧な抜け方だったはずなのに。しかも、よりにもよって声をかけたのは二割の田上さんだ。
 クラスで声の通る彼女が僕の名前を呼んだのだ。必然とクラス中の視線を一身に浴びることになった。
 勘弁してくれと思わざるおえない。ちょっとだけ、彼女が恨めしくなった。
 汗ばむ手を遊ばせ、恐る恐る振り向く。どうやら、僕を見つけて呼んだわけではないらしい。きょろきょろと見渡し、ようやく僕を視界に捉える。

「あ、いたいた。ちょっと来てー!」

 田上さんが僕を手招く。

「今度の土日さ、奏汰と音子と遊びに行くんだけど、おとうとくんもどう?」

「えっ、と……、え?」

 言葉の意味が理解できなかった。いや、遊びに誘われていることは分かる。というか、そう言っているんだから、当たり前だ。ただ、どうして僕なのかという人選についての理解が追い付かない。

「あのさ、俺は? 最初に誘われてたの、俺なんだけど?」

「栗原うるさい。そもそも、あんた土日は部活でしょ?」

「はぁ? そんなん、休んで行きますけどぉ? 部活よりも友情の方が大事だね。奏汰は俺がいないと駄目な子なんだよ」

「下心丸出しのくせに何言ってんだか。小倉先生にズル休みするつもりですって言ってやろー」

「あっ、ちょい! 待てって、洒落にならん!」

 田上さんが逃げるように教室を出て、それを追いかけて栗原が後に続いた。
 まだ返事をしていない僕はどうしていいか分からず、奏汰を盗み見た。流石は片割れ、ばっちり目が合った。すぐに目をそらし、秋永さんを窺う。彼女は少し難しそうな顔をしていた。

「なあ、たがみっちは言い出したら聞かないからさ、一緒に行こうぜ」

 そう言いつつも、僕には奏汰が申し訳なさを感じているのが分かる。本当、ロールプレイって面倒なんだなと常々思う。

「あ、秋永さんは僕が行っても大丈夫なの?」

 彼女がぱっと顔を上げ、慌てたように顔をつくる。

「あぁ、もちろんだよ! いいじゃん、いいじゃん。みんなでプリ撮ろ!」

「よっしゃ、リアル双子コーデ見したるか!」

「え、嫌だよ。恥ずかしい……」

「奏弟はこういう時、何を着るか大体分かるからな。勝手に合わせたろ」

 断固として行きたくないというわけではないけれど、乗り気でないのは確かだ。
 どうして、わざわざ僕なんだろう。僕なんかが行って、いいのだろうか。みんなの雰囲気を壊したりしないだろうか。そんな不安だけが徐々に膨らんでいく。
 僕は奏汰のように器用じゃないから、きっとノリを合わせるのも一苦労だ。
 奇しくも、僕と秋永さんは似たような表情をしていた。