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最近、少しだけ早く寝るようになった。
理由は単純で、いつもよりだいぶ早く起きるようになったからだ。正確には起こされるようになったから。
枕元に置かれたスマホが今日も同じ時間に鳴り響き、設定した覚えのないアラームの役割を果たす。アプリの通知は全オフだし、そもそもこんな時間に連絡を送って来るはた迷惑な人間は、僕が知る限り一人しかいない。
夢心地な意識をしばらく彷徨わせ、せわしなく脈打つ全身の細胞に意識を向けていると、二回目の通知音が急かすように鳴る。
内容は見なくても分かるから、ベッドから這いずり出て服を着替える。見栄を張るわけじゃないけれど、寝巻のまま人と会うのは嫌だった。
暗い画面のスマホをコートのポケットに押し込み、廊下へ出る。隣の部屋からは物音一つしない。別に今までも一緒に登校なんてことは高校に入ってからはしなかったから、生活リズムを変えても特に理由を言及されることはなかった。
廊下は空腹をくすぐる味噌の匂いがふんわりと漂っている。まだ早い時間だというのにせわしなく台所に立つ母親と、既に着替えて朝のつまらないニュース番組を見ている父親。僕が生まれてからずっと変わらない、朝にも満たない時間の光景。
両親はほぼ一緒に家を出る。時間で言うと五時二十五分前後。父親は軽トラでほど近い距離にある市場へ仕入れに。母親は家の隣に構える店へと赴き、清掃と簡単な仕込みをする。海沿いに面した食事処を営む家庭ではごく一般的な一日の始まり。だから、基本的には朝から両親と顔を合わせることは、今までは無かった。
「あら、今日も早いじゃない」
リビングに入るなり、母親に声を掛けられる。
「あぁ、うん……」
最近、僕は朝の散歩にハマっているということになっている。まさかまだ暗闇の中、クラスの女子と会って話していますなんて恥ずかしいことを素直に言えるわけがない。
「何なら、車で送ってやろうか?」
父親がテレビを消して立ち上がる。外はまだ暗いのに、家の中はまるでその気配を感じさせない慌ただしさだ。
「それだと散歩じゃなくてドライブだよ」
「それもそうか」
一人で笑いながら父親は家を出た。母親も少し遅れてエプロン姿のまま後を追う。
「ご飯もう少しで炊けるから。それじゃ、行ってらっしゃい」
毎度思う。行ってきますじゃないのかと。
「うん、分かった。行ってらっしゃい」
カチャと小さく音を立ててドアが閉まる。すると、途端に静寂という二文字が家の中で渦を巻く。
ポケットの中でスマホが震えた。見ると、やっぱり催促だった。
炊飯器の残り十分という文字を見て、僕はそのまま家を出る。
まだ夜の気配を色濃く残した海岸沿いは、街灯が綺麗に思える。空を仰げば、澄んだ空気が星々を浮かび上がらせていた。満天とまではいかなくとも、目を奪われるには十分な光景だ。
途中の自販機でお茶を買い、海辺の公園へ。一面の海原を目の前に四方型を切り取った芝生の公園には、よく分からない形をした大小のブロンズ像が点在している。『鳩と少年』、『三位一体』、『夢を呼ぶ』など、一つ一つに名称が記載されているが、見てもいまいち想像に欠けた。大体の芸術作品とはそういうものなのだろう。
ひときわ大きく、海を目の前にしたブロンズ像の下に彼女は腰をかけていた。その傍らには黒い缶コーヒーが置かれている。
あの日以降、彼女は毎朝缶コーヒーを持参するようになった。きっと、そうしないと僕が毎回二本買ってくるとでも思ったのだろう。
「おはよう」
背中に声をかけると、彼女はほんのりと赤くなった頬を振り向かせた。そして、いつものように足先から頭の毛までなぞるように見る。
「おはよう、奏弟くん」
暗がりに照明が点いたように世界が色づき、あどけない笑顔が向けられる。これが僕一人に対するものだと思うと、嬉しさよりも独り占めする罪悪感の方が大きい。
促されるわけでもなく、隣に腰を掛ける。視界の全てが海と空に支配された。境界線が見えない景色は、全てが一色に思えて変な感じだ。今日は風が強く、白波が浮きだっているだろうに、それすら見えない。たまに暗闇を海鳥と思しき小さなシルエットが横切る。
「もー、遅いよ!」
「あのさ、毎日呼び出さないでよ」
「でも、ちゃんと来てくれるじゃん。メッセは返してくれないのにね」
スマホが震える。彼女が僕のポケットを指さすから、取り出して画面を付けた。彼女からスタンプが送られてきていた。怒ったブタのキャラクターが跳ねるように動いている。
意地悪気に舌をちょこっと出す彼女。その無邪気な表情に何人の男が絆されたのかと思うと、素直に受け止めるのは難しい。自然体なのだろうけれど、それだけ彼女は人間的に魅力が溢れていた。
「いやー、今日も寒いねえ。買ってきた飲み物、もう冷たくなっちゃった」
平日の彼女は決まって同じ服装だ。厚手の黒のコートを着て、腰には大きなブランケットを巻くようにかけている。そこから覗くブラウンのローファー。マフラー越しの制服。雑に置かれた学校指定の鞄。
どうやら、毎朝そのまま学校へと行くらしい。彼女曰く、一回帰るのが面倒くさいとのことだ。そう言われれば、そうかもしれない。でも、僕ら高校生が制服に袖を通すにはあまりに早い時間に思える。それに、彼女の家はここから五分程度。それも通学路の方向だ。そこまで手間だとはあまり考えられなかった。
「そりゃ、そうだよ。早朝の冬の海が一番寒いんだから。もっと他にいっぱいあるでしょ」
「んー、でも私は海が好きなんだよ。ほら、今日も綺麗だよ」
彼女はびしっと左の海先に指を向けた。
「まだ真っ暗なんだけど……」
そして、彼女は伸ばした腕をそのままゆっくりと右にスライドしていく。右端の海を通り越し、くねっと手首を回して最後には自分へと指を向ける。
「もちろん、今日の私も綺麗!」
彼女なりの冗談なんだろうけれど、なまじ否定できない容姿なだけに僕は言葉が思い浮かばなかった。
「ちょ、ちょーい。何かレスポンスくれないと、私が本気で言ってるみたいじゃん」
「返しにくい小ボケだから困ったんだよ」
「ふむふむ、奏弟くんは私のことを綺麗で美人で超絶可愛いと思っていると」
「いや、盛りすぎ……」
毎日、こんな他愛のない会話をして時間が過ぎるのを待つ。平日であれば学校が始まる一時間前まで、休日であれば僕が帰るまで。何かするでもなく、ただひたすら彼女がたくさん喋って、僕が相槌を打つ。たまに僕から話を振れば、何倍にもなって彼女が返してくる。天気の話から、テレビで見た政治の話まで、とにかく決まった内容があるわけでは無い。正直、こんな夜明け前の海沿いという特殊な状況で無かったらしないようなつまらないことばかりを二人で話した。
でも、そんな面白みに欠ける会話だとしても、一人でじっと時間が過ぎるのを待つよりはよいのかもしれない。
僕は海が好きだ。それでも何時間と寒空の中、じっと見つめているなんてことは出来ない。だからこそ、あの日以前もずっと、彼女は一人で朝をこの公園で待っていたと知った時は正気を疑った。
多分、彼女は何か隠している。事情があって、この公園に来ている。そう思わないと、理解に苦しむ行動だ。しかし、そんな考えもきっと彼女が飛び降りようとしているのを見てしまったからなのだろう。本当のところはよく分からない。
「あっ、取った!」
不意に彼女が飛び跳ねるように立ち上がり、前方を指さした。見れば、海鳥が海面を低く飛んでいて、その口には小さな魚がくわえられている。沖にある防波堤に降り立ち、まだぴちぴちと跳ねる魚をついばむ動作が暗闇からでも伺えた。
「おぉー、まさに弱肉強食だね。やるな、あの鳥……」
「もしかして、一人でもこうやって喋ってるの?」
「ずっとじゃないけどね。たまに大声とか出してみたりするよ? 案外、気持ちいいんだよね」
そう言い、彼女は口に手を寄せてメガホンをつくる。
「そんなやまびこじゃないん――」
「いちーげーんーのー! しゅーくだいー! まーだー、やってませーん!」
思った数倍大きな声量だった。その小さな身体のどこからそんな大きな声が出るのだろう。
彼女は満足げに息をつき、僕を見た。なんだか、嫌な予感がした。
「ほら、奏弟くんも!」
そうならないとおかしい流れではあった。しかし、実際に振られると全く乗り気にはならない。
「……やらないと駄目?」
「いいから、いいから。大丈夫だって、誰もいないんだし」
「秋永さんがいるじゃん……」
彼女はにこっと笑い、身体を左右に揺らす。そんな無邪気な眼差しを向けられると、余計にやりづらい。
「と、ところで、どうして毎日僕を誘うの?」
「あっ、誤魔化した!」
彼女の右手がさっと視界外に消え、帳の最中、頬に凍るような冷たさが襲う。見れば、空になった缶を彼女が僕に押し当てていた。
「お仕置きです! 次、私のお願い事を断ったら今度は背中に入れます」
「横暴だ……」
まるで小学生みたいな戯れに乾いた笑いがこみ上げてくる。
「それで、どうして僕に毎日連絡してくるの?」
彼女は考える素振りすらなく、「暇だから」と答えた。
「それなら――」
家にいればいいじゃん、と後に続く言葉はすんでのところで飲み込んだ。
「僕じゃなくてもいいんじゃない?」
「いやぁ、こんな変なことしてるの他の人には話せないよー。でも、奏弟くんにはバレちゃったからね。強制連行だよ」
「僕は朝が苦手だって言ったのに……」
「いいじゃん、早寝早起き。それに本当にどうしようもなく毎日暇だったんだよ。だから、こんな可哀想な女の子に付き合ってくれてもいいんじゃない?」
彼女が本気で言っているのかは分からない。けれど、自分のことを可哀想だと表現した。やっぱり、何かしら事情を抱えているのだろうか。しかし、それを僕が強引に聞き出すのは違う気がする。何より、彼女が自ら打ち明けないのは、隠しておきたいということだと思う。ならば、やっぱり何も聞かないのが優しさということになるはずだ。
不意に彼女が口を閉ざす。忘れていた波の音が鮮明に聞こえた。気が付けば、世界が色づき始めている。東の山は背後を赤く燃やし、海と空は綺麗に分断されていた。
視界の全てが黒以外の色で染まる。でも、どこかぼんやりとしていて、フィルターがかかっているみたいだ。まるで夢の中のように色彩が薄い。目に映る全てが角が丸く、柔らかそうに感じた。そんな、つかみどころのない儚さに包まれている。
夜明けとは、随分と色々と足りていないんだなと思った。
「おりゃ!」
彼女が僕を左手で押し倒す。背中をブロンズ像の土台が受け止めた。硬く、コート越しでも冬の寒さをたっぷりと蓄えているのが感じられる。
突然の行動に理解が追い付かない僕を尻目に、彼女も同じように横に並んで倒れ込んだ。
「ほら、見て。綺麗だよ」
彼女がそう言うから、真似て空を見る。
視界を一面の青が埋め尽くす。水平線の彼方の空は淡い水色に白みがかっていたのに、今全てを支配するのは海よりも何倍も鮮やかな青だった。普段見るものよりもずっと近くに感じる。まるで、今にも落ちて来そうだし、気を抜けば吸い込まれてしまうんじゃないかという怖さもあった。ずっと見ていると、おかしくなりそうだ。
「いいでしょ? 私のお気に入り」
「僕はちょっとだけ怖いかな」
「そうかもしれないね。私が私じゃなくなるみたい。……ううん。本当の私が出て来ちゃいそうになる」
そうか。やっぱり、彼女も繕っている。人間、誰しも素のままではいられない。そして、いつからかどちらが本当の自分なのか分からなくなる。
「ねえ、」
「……何?」
横目で見ると、彼女は身体を横に向けて僕の方を向いていた。まるで起きたてのように瞼を下げ、首筋にかかるくしゃっとした髪を手で押さえる。見たことのない彼女だった。
「一緒に死んでみる?」
あまりにも軽く言うもんだから、僕はすぐに答えられなかった。ややあって、振り絞るように声を出す。
「そ、れは……、むり、かも……」
息が詰まる。口の中が随分と乾いていた。
そんな僕を見てか、彼女が声をあげて笑う。
「もー、冗談だよ。奏弟くん本気にし過ぎだって。言ったでしょ? 死にたいわけじゃないって。あ、でもこういう時、一緒に死んでやるよって言われたらどうしよう。ねっ、ちょっと言ってみてくんない?」
「そんなこと言うの物語に出てくるキャラクターくらいだよ」
大きく息を吸い込むと、肺がキリキリと痛んだ。
「まあ、そうだよね。はい、じゃあ僕も一緒に死にまーすって言われた方が驚きだよ」
彼女は口を尖らせ、退屈そうに嘆く。
「なんかなあ、物語の主人公とかになってみたいんだけどねえ。そんな面白い話があるわけでもないし。別に劇的な立場にいるわけでもないんだもんね」
「事実は小説より奇なりって言うけど、実際はやっぱりと言うべきか、そんな大層な話は無いんだよ」
「ただのつまんない高校生なんだね、私たち。だからさ、ちょっとくらい変なことに付き合ってくれてもいいんだよ?」
「それ、どっちのこと言ってる? 毎日、こうして会話に付き合うことか、無理心中の話か」
彼女は笑ってカラッポの缶コーヒーを逆さまにした。残っていた茶黒い液体が、彼女の頬に垂れて白磁の肌を伝う。
「どっちもだよ」
その言葉に冗談は一切感じられなかった。決然とした気配すら感じる。
「僕は死にたくはないよ」
「……そっか、残念。じゃあ、私ももう少しだけ生きてみるとしますかね」
どうしてか、ほっとしている自分がいた。別に彼女がどうなろうと、僕は知ったこっちゃない。そういう性格のはずなのに。
「それがいいよ。一限の課題見せてあげるからさ」
「えっ、いいの!? じゃあ、死ぬのやーめた!」
すっかり明るくなった空に、彼女の陽気な声が戻って来た。