人が味を感じる細胞の数は約七千五百個らしい。昔、テレビで見た気がする。
多分、今日の夕飯はそのうち七千個くらいが文句無しに満足したのではないだろうか。
帰り際にコンビニで胃薬を買ったら、彼女に年寄り扱いされた。そんな何気ない会話が、僕をまた落ち着かせる。
「いやぁ、人生で一番高いご飯だった。QOL爆上げじゃん」
未だに思いだしては舌なめずりをする彼女を横目に、大浴場に向かおうとすると、彼女も一緒について来た。
さっき、部屋の露天に入ったばかりなのでは? と思ったが、よく考えたら焼肉の後だ。僕が彼女の立場でも、もう一度入りなおすか、とどうでもいいことを考えた。
疲労の溜まる身体に温泉は沁みる。つい長湯をしてしまい、上がると待ち合わせをしていたわけでも無いのに、彼女は律義に大浴場の前で待っていた。傍らには空になったコーヒー牛乳の瓶が置かれている。
「はい、昨日のお返し」
ぬるいコーヒー牛乳を受け取る。そんな長い時間、待たなくても良かったのに。
「秋永さん、人のことあんまり言えたもんじゃないよ」
「どういうこと?」
彼女をこれ以上待たせるのは気が引けた。一息に飲み干す。
「優しすぎるのも問題だねってことだよ」
自分で言って、ちょっと笑えた。
「私の信条はやられたらやり返すだからね」
部屋に戻ると、やっぱり布団は横並びで敷かれていた。時刻は既に日付を跨ごうとしている。朝型の僕と彼女にとっては真夜中と言っても過言じゃない。
身体が眠気を訴える。それでも、今日中に話しておきたかった。そうしないと、きっといつまで経ってもその機会は訪れないだろうから。
彼女もそのつもりなのか、電気を消して布団に入っても眠る気配は見せなかった。
「頬の怪我、跡が残らないで良かった……」
自然に、彼女が独り言ちる。柔橙色の小さな灯りが、彼女の肌を薄っすらと照らす。
「今日、実はめっちゃくちゃどきどきしてたんだ」
「十分、伝わってたよ」
「え、本当? 隠してたつもりだったのに」
「毎日会って話してるんだよ? 分かるに決まってるじゃん」
パタパタと彼女が足を遊ばせる。
僕は天井のシミを訳もなく目で追いかけ、渦巻く感情を落ち着けるのに精いっぱいだった。
「でも、まさかあんなに拒絶されるとはね。私も予想外だったよ。きっと、すぐ忘れちゃうんだろうな」
「忘れられるの?」
寝返った彼女が、きっと僕の顔をじっと見つめている。そんな気がした。
「私さ、顔が分からないからなのか、人との記憶があんまり残らないんだよ。もちろん、親しい人とのことはちゃんと全部覚えてるよ?」
「……忘れられるなら、忘れた方が良いのかもしれないね」
随分、無責任な言葉だったかもしれない。どんな残念な結末だとしても、彼女と父親の唯一の記憶だ。
「うーん、でも忘れられないかなぁ」
「さっきと言ってること違くない?」
「お父さんの姿と声はきっとすぐ忘れちゃうよ」
湿りを帯びた曇り声だった。
「じゃあ、何が忘れられないの?」
「だって、君が怒ったの初めて見たんだもん。しかも、君には関係ないことなのに、私のために怒ってくれた。忘れるなんて、できっこないよ」
僕も、今日の出来事は記憶に深く刻まれるだろう。思えば、誰かに怒ったのは久々だった。というか、初めてかもしれない。
僕は怒りという感情を持つのが苦手だ。今までの人生はずっと立ち向かうのではなく、必ずと言っていいほど逃げてきた。だから、未だに今日の自分の行動には、僕でさえ理解が追い付いていない。でも、多分あの時の感情は間違いなく怒りだった。それだけは確かだ。
「あの時ね、私も動揺してたからちゃんと言えなかったけど、本当にありがとうって思ってるんだよ」
「でも、結局何の役にも立てなかったし」
なぜか声が震えた。喉が渇いて仕方がない。
彼女が「分かってないなぁ」と笑う。
「……頬の怪我ね、お母さんに殴られた
の。まあ、私もマズったなぁとは思ったんだけど、それでもやっぱりすごく悲しくて、悔しくて。……怖くて」
彼女は忘れたいであろう記憶を掘り起こすように、ゆっくりと語った。
その日は、彼女が家を出るのにほんの少し遅れてしまったことと、彼女の母親が男を連れて帰って来るのが早かったことが重なってしまった。それでも、僕に連絡をしてくるずっと前、まだ四時半の出来事だ。
母親は男に向かって「気にするな」と言った。しかし、酒の入っていた男はじっと突っ立ったまま、彼女を見続けた。足先から髪の先まで、吟味するように視線が這う。
母親の機嫌が悪くなるのと、男の行動の意味を彼女が理解したのはほぼ同時だった。
「その時、お母さんが男の人に向かって言ったんだよ。……五万だって」
どこかで聞いた言葉だった。
「最初は何言ってるんだって感じだったんだよ。それより、早く家でなきゃって思って荷物まとめてさ。でも、男の人が私の肩を掴んだ瞬間、ぜーんぶ分かっちゃった」
たまらず、布団の中で彼女の手を握った。彼女は「仕方ないなぁ」と笑いながら握り返す。
「男の人は酔ってたし細かったから、突っぱねるのは簡単だったよ。まっ、その代わりに貰ったのがお母さんのぐーぱんちだったけど」
聞いてるだけで、泣きそうになった。神様がいるのだとしたら、彼女に厳しすぎる。そして、彼女自身が自分の境遇を疎ましく思わないように性格付けしたのだとしたら、それはとても残酷で、残忍だ。
「神様って不平等だよ……」
だって、そうじゃないか。どう見ても、彼女は僕や他の人とは歩んできた道のりが違い過ぎる。あまりに過酷で、障害が多すぎて、僕ならきっとすぐにくじけているに違いない。
それなのに、彼女は何一つとして疑問を持たないし、まるで当たり前のことだと言うように生きる。それがどれだけ難しいことなのか、きっと彼女は分かっていない。そのことが、一層僕の胸をはた迷惑に痛めつける。
「――信仰とは、理性の延長である」
不意に彼女が言った。誰かの言葉の引用であることは間違いなかったけれど、随分賛否の別れそうな言葉に思えた。キリスト教の、信仰と理性は別次元にあるという教えを真っ向から否定するものだ。
「三浦按針の言葉だよ。つまり、この世界に神様なんていないんだよ」
彼女がそう言うなら、そうなんだと思った。彼女が三浦按針を尊敬するのなら、彼女を尊敬している僕もまた、彼を尊重できる。
「秋永さんはどうして、その、へ、平気なの……?」
随分と言葉足らずだ。僕の心の内を言語化するのはとても難しい。でも、多分彼女には伝わってくれるはず。
「だって、なんだかムカつくじゃん。私の人生が、気持ちが、他人に捻じ曲げられるのって。だから、私は戦うんだ。運命なんて、そんなの無いよ。全部、自分で歩いて来た先にあることなんだから」
何も言えなかった。逃げ続けている僕には、彼女の存在はあまりに遠い。
芹沢も、きっと僕がいなくなって喜んでいる。なら、それでいいじゃないか。そんな風に思える僕のことを、彼女は理解できないだろう。だって、彼女なら戦うはずだ。
先生に宣言した言葉を忘れたわけじゃない。でも、逃げることが悪じゃないのなら、僕の選択も間違いじゃないはず。あの日、灯台に行ったのも、きっとおかしな選択じゃない。だって、僕がいなくなれば全て解決すると分かっている。
でも、僕は心のどこかで彼女のようになりたい。そう思っているから、彼女にあこがれているんだ。
「僕も、秋永さんのように胸張って生きてみたい」
嘘偽りのない本心だった。言葉にするとすごくチープで、薄っぺらく感じる。きっとそれは僕が言ったからだ。
「君は私なんかより、ずっと勇気があるよ」
「でも、僕は戦えないし、すごく憶病なんだ。きっと、僕が秋永さんなら、それこそ……死にたいって思ってるはずだから。逃げようにも逃げ場がなくて、そんなの僕には耐えられない……」
彼女がゆっくりと身体を起こすから、僕もつられて起き上がる。灯篭型の照明が、ゆらりと二人の影を揺らした。
「君は私のために戦ってくれたじゃん。私には出来なかったこと、代わりにしてくれた。ちゃんと私は救われてるんだよ。だから、忘れない。お父さんの姿、声を忘れても、君の勇気は絶対に忘れない」
気を抜けば、泣いてしまいそうだった。
変わりたい。せめて大事な人を守れるように。彼女の笑顔が曇らないように、僕が胸を張って生きられるように。
「ねえ、今、どんな顔してるの?」
彼女がそっと僕の頬に手を伸ばす。触れた箇所が熱い。彼女の熱と僕の熱が溶けあう。
「君の顔、見てみたいな……」
彼女のその言葉が、僕は忘れられないでいた。