*
小学五年の頃、僕らのクラスは崩壊していた。それでも、大きな問題にならなかった。なぜなら、茅野智が五年二組を支配していたからだ。
大袈裟な響き。しかし、クラスの様を客観的に見てもそう言い表すのが的確だった。
果たして、クラスの三分の一がいじめられている状況は、〝いじめ〟と呼んでいいのだろうか。だから僕は、自分たちはいじめられていたのではなく、支配されていたのだと思っている。
茅野は親の事情で東京から転校してきた。普通、転校生がいじめられそうなものだが、茅野は違った。転校してきた初週から既に取り巻きをつくり、クラスの顔となっていった。
彼は別に身体が大きいわけでもないし、特別容姿が整っているわけでも無い。至って普通の十歳の男の子だ。ただ、人を見る目があった。自分に逆らえなそうな弱者を味方につけ、一人では敵わないであろう芹沢を多人数でいじめた。
いじめの内容については、特に語っても仕方がない。言ってしまえば、テンプレート的なものだ。物を隠し、昼休みは教室を締め切って円を描くようにして対象を囲んで床に這いつくばらせる。放課後は公園で全裸にひん剥いて暴行。
そんな期間を二週間ほど続け、茅野は芹沢に言った。
――湯之原を連れてきたら、仲間に入れてやる。
湯之原は僕から見て、クラスで芹沢の次に体格が良い人だった。そして、芹沢と入れ替わるように湯之原へのいじめが始まる。
湯之原へのいじめはやっぱり二週間で別の人に移り変わった。次の標的はクラスで三番目に身体の大きな男の子だった。
狡猾で、上手いやり口だと思う。最初にクラスで一番強そうな人物を多人数で捕まえ、その後は徐々に上から一つずつゆっくりと摘んでいく。二週間という期間は、きっとぎりぎり一人で耐えられる長さなのだろう。そして、自分より立場の弱い人物を売れば、自分へのいじめは終わる。だから、連鎖は止まらない。
茅野のいじめは男子と並行して女子にも行われていたらしい。そっちに関しては、僕はあまり知らないが、結果的にクラスの三分の一が、茅野とどんどん膨れ上がっていく取り巻きによっていじめを受けた。
途中から、誰も疑問に思わなくなっていたんだと思う。それより、次は自分なんじゃないかという不安だけが、日々を埋め尽くしていた。
きっと、担任も早いうちに気づいていたはずだ。そして、見て見ぬふりが自分の立場にとって最善だと判断した。担任すらも、茅野の意のままだった。
そして、小学六年。卒業の二週間前。いじめの対象だった白木に茅野は言った。
「次は加賀のどちらかを連れて来い」
昼休み、茅野が言い放った言葉に、僕はただ教室の端で奏汰と一緒に震えることしか出来なかった。ついに順番が回ってきてしまった。あと少しで卒業だというのに、神様はどうしてこんな仕打ちをするのだろう。
もはや、僕らの中で茅野は神様よりも大きな存在になっていた。人の強い悪意に晒されたことのない僕らは、抵抗の術を知らない。なまじ理性を持ち合わせる年頃だから、親や先生に相談するなんてことは逆に出来なかった。そういう人間を茅野は選んでいたのだ。だからこそ、二年近い期間、茅野の独裁が続いた。その最後の締めくくりが、僕か奏汰のどちらかだったというだけの話。
この時の僕には、奏汰のことを考える余裕なんて無かった。これまで繰り返し行われた非道の数々を思い起こし、その被害者を自分に置き換えて絶望する。これから卒業まで、耐えなければいけない。その覚悟だけはあった。
床に這った白木が恐る恐る立ち上がり、ゆっくりと僕らに向かってくる。その瞳は安堵と歓喜に満ちていた。多分、その瞬間僕は白木のことが嫌いになった。でも、仕方がないことだ。誰も茅野には逆らえない。逆の立場なら、僕も白木のような恍惚とした醜い表情を浮かべていたのだろう。
袖口をぎゅっと奏汰が掴んでくる。既に吃逆をしながら涙を垂れ流していた。奏汰は僕と全く同じ。僕の分身。ならばこそ、きっとその胸中も僕と同じで絶望と恐怖に塗れているはず。
一歩、僕が前に出るだけで済む。白木は別にどっちでもいいのだろう。だから、自分の背に奏汰を隠してしまえばいい。白木に目で訴えるだけでもいい。
ぐにゃりと歪む視界の端で、茅野が見えた。その瞬間、僕は踏み出そうとしていた足が固まってしまった。動かしたくても、ぴくりともしない。全身が硬直して、自分の息遣いだけが荒々しく脳内をかき乱れる。
目の前で白木の手が伸びた。ゆっくりと近づくその手は僕の側をすり抜け、奏汰の腕を掴んだ。
「あっ……」
その瞬間、僕は安堵してしまった。同時に金縛りが解ける。
奏汰と目が合う。そして、彼はそっと僕の袖口から手を放す。
胸の奥で、何かが水泡のように浮かび上がって弾けた。
視界がぶわっと滲んだ。溢れ出した涙が止まらなくて、歪んだ視界で連れていかれる奏汰に必死に手を伸ばす。酷い罪悪感と、醜い後悔が遅れて次々と湧き立った。
伸ばした手が、空を掴む。
こんな時ですら声が出せない自分の弱さに、心底嫌気が差した。
その日から、奏汰へのいじめが始まった。
カーテンを閉め切って暗くなった教室。机が押しのけられて開けた空間の中心に奏汰がいた。奏汰を取り囲むように群れる支配者たち。もちろん、茅野だけが一歩前に躍り出ている。
泣きながら上履きの裏を舐める奏汰。それを見て茅野は心底つまらなそうに奏汰の脇腹を蹴り飛ばす。横向きに倒れてうずくまる奏汰に向けて、さらに何度か足を振り抜く。
奏汰のすすり泣く声だけが、しんしんと教室に響いた。僕を含む大勢が、それを見て見ぬふりして息をひそめている。
全員が分かっていた。これはあってはいけないことなのだと。もはや当たり前になった光景を前にしても、その共通認識が変わることは絶対にない。ただ、どうしても動けない。光の遮られた薄暗い空間で、声を発することがどういうことなのか、みんな理解している。
見ていて何もしないのは加害者と同じ。そんなことを言えるのは、この恐怖を経験したことがない奴らの戯言だ。
午後の授業は頭に一切入ってこなかった。家まで帰った記憶も曖昧だ。
一体、誰が何を間違えたのだろうか。どうすれば、茅野に悟られずに奏汰を助けられるのか。そんなことを数日考え続けた。
結局、答えなんて出るはずがなく、その間も奏汰へのいじめは続く。
日を追うごとに奏汰の目から光が失われていった。それを傍らで見続け、僕もどうにかなりそうだった。その感情に、僕はまた自分への苛立ちが募る。
素直に罵倒してもらえたなら、どんなに良かったのだろう。しかし、奏汰は僕に何も言わなかった。罵りも、懇願も、泣き言も一切。
その日の朝は、いつも家を出る時間に奏汰が部屋から出てこなかった。電気が消された家が静まり返っている。朝なのに、なぜか真夜中のようだった。
階段を上がる。なぜか音を立てないように慎重だったことを覚えている。部屋の前で薄く深呼吸をして、軽くドアを叩く。返事はない。
「……入るよ?」
部屋の中は廊下よりも暗かった。奏汰はベッドの隅で膝を抱えてこちらを見ている。僕にすら怯えているように見えた。その姿にようやく、僕は微かに怒りという感情を覚える。
「……学校、どうする?」
僕が訊いていい事じゃない。けれど、気が付いたら言葉が出ていた。
「た、体調悪くて。……休もう、かな」
奏汰の掠れた声に舌が泳ぐ。少しほっとした自分がいた。
「奏弟も、や、休んだら……?」
「僕も休んじゃったら、お母さんとお父さんに疑われちゃうよ」
「で、でも……」
僕も奏汰も分かっている。奏汰が学校を休めば、おのずと標的が僕に移り変わることを。
「……大丈夫。僕は大丈夫だから」
奏汰へ向けて、というより逃げ出しそうな自分に言い聞かせるように反芻した。こういうのはあまり深く考えちゃ駄目なんだ。どうせ、待っているのは地獄の日々。それなら、せめて恐怖の上に張った薄氷のような怒りの分だけでも、満足させておきたかった。
幸いだったのは、僕がある程度心を意図的に閉ざせる性格だったこと。苦痛に対して耐えることが難しくなかったことだ。
教室へ入り、奏汰が休むことを茅野に伝えると、彼は小学生には珍しくスマホを取り出し、一枚の写真を見せてきた。その写真はトイレの中で裸にひん剥かれた、水浸しの奏汰だった。
「お前も休んだら、これを町中にばら撒く」
耳元で告げられた言葉に、それからのことは断片的にしか覚えていない。茅野を力の限り押しのけ、スマホを思いっきり床に投げつけた。光沢を放つ画面にピシッと亀裂が入る。こんなことで足りるはずがない。スマホを拾い上げ、教室を飛び出す。とにかく、時間が欲しかった。
チャイムが鳴り、一時間目が始まるまで美術室の画材置き場に身を潜めた。幸い、一時間目が美術のクラスは無くて、遠くの教室から授業の音が聞こえてくるだけだ。スマホを付けてみる。ぱっと画面が明るくなった。
人気のない廊下をゆっくりと横断し、技術室に忍び込む。工具入れを漁る時に響く金属音だけでも吐きそうになった。
金槌を手に取る。持ち手の木がひんやりと震える手に伝わった。
小学生の僕と同様、茅野もバックアップというものを知らなくてよかったと、後になって思う。
遮光の黒いカーテンを閉め、スマホの画面を付けるとその明るさに目が痛む。僕は手に持った鈍器をひたらすらスマホに叩きつけた。何度も、何度も。一度音を立てたら、誰かが来る前に終わらせて逃げなければならない。だから、狂ったように殴り続けた。
ぶつんっと画面がこと切れる。電源のボタンを押しても付かない。
真っ暗になった室内でようやく息を吐きだすと、心臓がうるさいくらい脈を打つ。少しだけやり返してやったという達成感が疎ましかった。
それからの日々は、あまり思いだしたくはない。最後の標的だからか、僕のしでかした行為のせいか、それともいざ自分がその身に立って初めて分かるものなのか、僕へのいじめは想像よりも苛烈なものだった。
画鋲は刺さっている時よりも、数十分後に襲い掛かるずくずくとした痛みの方が耐えがたいこと。カッターの切り口は燃えるように熱くなること。くだらない痛みばかり覚えている。
毎朝、奏汰に泣きながら引き留められた。もう写真は残っていないのだし、確かに卒業まで親に心配をかけることになってでも休めばよかった。けれど、多分僕は意地になっていたのだと思う。家まで茅野が来ない確証は無いし、そうなれば奏汰にだって危害が及ぶかもしれない。だから、僕は学校へと行き続けた。
確かに辛かった。思いだして、吐き気が催すくらい色々なものが刻み込まれている。それでも、双子とはいえ兄として弟を守らないといけない使命感と、一度は逃げてしまった罪悪感に僕の理性は守られ通した。
中学に入学すると、茅野は父親の転勤で今度は兵庫に引っ越すことになった。こうして、支配の日々は終わりを迎える。
中学生という一つ大人の階段を登った皮切りに、奏汰は目に見えて変わった。きっと、自分を守るために演じることを覚えたのだ。僕と奏汰が入学した中学には、同じ小学校から来た人は少なかったから、とりわけ言及されることもなかった。
それでも、二割側の奏汰は外の世界だけのかりそめの姿だ。家に帰れば、昔と何も変わらない姿だった。だから、安心した。僕は奏汰にとって、信用における人物なのだと認識できる。それだけで満足だ。
だからこそ、壊されてはならない。茅野の後を追いかけるように支配する側へと変貌した芹沢なんかに、奏汰の外壁を崩されるわけにはいかなかった。
だから、僕はいじめとも呼べないただの暴力を受け入れる。
もしかしたら、間違った選択なのかもしれない。歪んだ対処法なのかもしれない。
それでも、僕が小学生の時に学んだことは、ただじっと耐え忍ぶ。それだけだった。
*
『花火、やるよ!』
『夜にってこと?』
『そんなわけないじゃん』
理不尽な返答だ。花火と言えば、夜だろうに。既読だけ付けて、家を出る。四月の夜明け前は、ちょと肌寒いけれどコートはいらなくなっていた。軽いジャンパーを羽織り、下はいつからか面倒でジャージになった。まるでコンビニに行くような服装だ。でも、この時間帯には相応しい恰好だと思う。
おかしいのは彼女だ。毎日、帳の降りた海辺に制服で来る女子高生が彼女以外のどこにいるというのか。
最近、日の出が目に見えて早くなった。起きた時には空は既に淡い光りに侵食されていて、海辺の公園に着くときには陽が昇る直前だ。
少し、寂しく感じるのは何故だろう。ぼんやりと滲んでいく空を彼女と眺めることは、もう無い。あの時間が嫌いじゃなかった。そのことに今さら気が付く。
朝の気配を感じさせる軽い空気が、僕にとっては少しだけ煩わしい。
「おっ、来たね。おはよう」
振り向いた彼女を見て、すぐに気が付いた。色々な考えが瞬間的に脳裏を通り抜けていく。動きを固めた僕を彼女は不思議そうに見つめる。どうしてか、目が合った気がした。
「どうしたの?」
「いや、えっと……。むしろ、どうした……のか聞いてもいいのかな」
訥々とした喋りに彼女が小さく「あぁ……」と漏らして、そっと左頬に手を添える。手で隠した左頬は微かに熱がこもった赤みを持っていた。睫毛が湿って、目元が少し腫れている。馬鹿でも分かる。泣いた跡だ。
「うーん……」
彼女は難しそうに唸り、朝焼けの水平線を見遣った。
「言いたくないなら、聞かないよ」
「……引かない?」
「当たり前だよ」
「そっか」
彼女は傍らのコンビニ袋から湿布を取り出す。
「一応、買っておいたんだ。でも、一目で分かっちゃうくらい腫れてると思わなかった」
大きな湿布を一枚抜き取り、鋏と一緒に僕に渡す。
「はい、貼って」
今日ばかりは悪態をつく気にもなれなかった。湿布を小さく切り取る。そっと赤くなった部分に触れると、結構熱かった。
「ねえ、ちょっとドキドキするね」
「……黙ってて」
「ちぇー……」
湿布を張り、皺が出来ないように上から軽くなぞる。
「さっ、花火やろうか」
コンビニ袋からやかましい色合いのパッケージを取り出し、彼女はいつも通り明かる気に言った。何だか言葉を発する気になれなくて無言で首肯する。
僕らは砂浜に移動し、二人でバケツを囲んだ。朝から一体、何をしているのだろうと思わなくもない。でも、それももう慣れた。僕と彼女の間に常識なんてものは通用しないのだから。
ライターで彼女がそれぞれ手に持った花火に火をつける。刹那の静けさの後、一気に火花が放たれた。
「点いたー! けど、なんか薄いね」
きっと、暗がりならば赤や緑、黄色など様々な色が混ざり合っていただろうに、先端から柳のようにしな垂れて零れ落ちる火花はやけに色が薄い。白い光の奥にうっすら別の色が見える。その様子がフィルターがかかる夜明けの空気の色と似ているなと思った。
「朝にはぴったりかもね」
火薬の香りが鼻を衝く。なぜかこの匂いは嫌いになれない。
火種が尽きては、新しい花火に火を付ける。最後に残るのはやっぱりやたら量の多い線香花火だ。火を付けると、白い火種がぱちぱちと燃える。ぽつぽつと会話をしながら、二人でその様子を耽るようにじっと見つめた。
「……私ね、片親なんだ」
びっくりするくらいあっさりとした口調で、彼女が吐露する。辛そうには見えなかったから「そうなんだ」と返した。でも、彼女の顔を見続けることは出来なくて、また線香花火に目を落とす。
「私が生まれてすぐにどっか行っちゃったらしいから、私にとってはこれも普通のことなんだけどね」
小さく頷いた。その意味は、僕自身にも分からない。
「お母さんはスナックやっててね、夜は家にいつもいないんだよ。で、私は昼は学校じゃん? 何日も顔を合わせないのが普通なの」
「朝には帰ってきてるんじゃないの?」
そう言って、僕は激しく後悔した。地雷原を突っ走るかのような気分だ。
「……ごめん」
「なんで謝るのさ。私にとっては、これだって普通の事なんだよ」
彼女の抱える普通はいつも僕にとっては普通じゃなくて、なんだか大きな溝がある。分からない。彼女が強がっているのか、それとも本当に普通のことだと思っているのか。
「毎日、こうしてここにいるのと関係ある……よね?」
彼女は軽く頷く。その唇が、肩が、微かに震えていた。
「たまにさ、知らない男の人を連れて帰って来るんだよ。大抵、すごいお酒臭い。後は、まあ言わなくても何となく想像つくんじゃないかな」
ふわっと漂う火薬の香りが、今はすごく鬱陶しい。苛立ちすら覚える。
「いつから……。いつから、ここに来るようになったの?」
「中学に入ってからかな。私がその意味を理解した時から、ずっとね」
そんなにも長い期間、彼女は毎日こうして一人で朝を待っていたというのだろうか。それがどんなに苦痛なのか計り知れない。
彼女のことを知れば知るほど、僕はどうして良いのか分からなくなる。色々なことから逃げている自分が情けなくて、そう思ってても、まだうじうじと時間が過ぎていくのをただ眺めている。
ぽろっと頬を何かが伝った。
「えっ……?」
なぞった跡が、ひんやりと熱を冷ましていく。
「もー、なんで泣くの?」
「あ、いや……。わから、ない。……ごめん」
「謝られることじゃないんだよ。私こそ、変な話しちゃってごめんね」
「そ、そうじゃない! ……違うんだ。話してくれたことは、その、嬉しい。でも、想像してみて、僕なら……それこそ死にたくなるのかなって……」
最後の線香花火がすっとバケツの中へと落ちていく。澄んだ空気と火薬の残滓が揺蕩う。優し気に僕を見つめる彼女から、なぜか目が離せなかった。
「やっぱり、優しいんだよなあ」
「そんなんじゃないよ。僕は、実はとっても酷いやつなんだ」
現実から目を背けて、こうして彼女と過ごす夜明けが心地よく感じていて、考えれば考えるほど屑で救いようのない人間だ。彼女が優しいというのは、僕の一面しか知らないから。きっと、本当の僕を知れば、彼女だって僕を軽蔑するだろう。
「人のことを思って泣けるのって、優しいんじゃないの?」
「たとえ優しくったって、一歩を踏み出す勇気が無かったら何の意味も無い。何とやらの持ち腐れだ……」
自慢げに彼女が「宝だよ」と鼻を鳴らす。〝優しさ〟が宝になりえないと思ったから濁したのだが、どうやら彼女には伝わらなかったらしい。
「じゃあ、私のために一歩を踏み出してもいいんだよ?」
「どういうこと?」
「ふふっ、無理心中。あっ、でも今日話したこととか、病気のことは関係ないんだよ? 全くこれっぽちもってわけじゃないけれど、本当に違うからね?」
一瞬、それでもいいと思ってしまった。僕さえいなければ、今の僕が抱えている問題事は解決するのだから。いっそのこと、彼女との選択もありなのかもしれない。でも、僕なんかはどうでも良くて、目の前の彼女が世界から居なくなってしまうのはすごくもったいなく思えた。
さざ波が逃避したい思考を否が応でも引き戻す。
「……僕は自分が一番大事なんだ。だから、自分以外はどうでもいいと思ってる」
「それって、みんなそうじゃない? だって、誰かのために代わりに死ねって言われて、まあこいつのためなら死んでもいいかってなるのなくない? 少なくとも私は誰だろうと、代わりに死んでやるかとはならないよ」
「秋永さん、死のうとしてたんじゃないの?」
「それはそれ。私は私のために死にたいんだよ。誰かに殺されるなんてまっぴらごめん」
〝殺される〟という表現が彼女らしかった。彼女にも、彼女なりの信念がある。だからこそ、軽率に薄っぺらい言葉で止めるのは薄情だと思った。
「それなら、無理心中だって駄目でしょ」
「……確かに。というか、出来ないや。つまり、誰かのために死ぬってことだもんね」
「結果的には、ね」
彼女は両手を砂浜について空を仰ぐ。今日は曇り空だった。空が近いと言うことは雲も近いわけで、灰鼠色のそれが少し怖く感じる。
「どうすれば、この人のためなら死んでもいい! って思えるのかな。ドラマとかだと、最愛の人のために犠牲になる的なやつ多いけど」
「そんなベタな……」
彼女が僕を見る。僕は灰色の雲から目が離せなかった。
「どうせ暇だしさ、そんな存在になってみる?」
言葉の真意を理解するまでにやや時間を要し、それから彼女の顔を見た。そして、慌てて息をつく。本心、というわけでは無さそうだった。
「告白されてるの?」
「でもさ、彼女くらいじゃ、代わりに死ぬのは無理じゃない?」
「確かに無理だね」
「じゃあ、結婚してみる?」
「馬鹿言ってるんじゃないよ。というか、それでも足りなそう」
「ドライだな〜。まっ、私も同じ意見だけどね」
結局、頬の怪我については分からずじまいだった。そんなことを話す雰囲気でもなくなってしまったし、彼女に笑みが戻ったのだから、とりたてて聞くことでもない。
次の日から、彼女の呼び出しは一時間早くなった。
*
無機質なペン先がリズミカルに絶え間なく電子の板を叩く。最初はやたらと気になっていたこの作業音も、聴き慣れれば心地が良い。何気なく本棚から抜き取って開いた少女漫画は、内容が一ミリも頭に入ってこないでいた。
時間の流れがゆっくりな気がして変な感じだ。窓の外は白波が大きくうねりをあげるような大しけの荒れ模様だというのに、この部屋の中はそんな様子を微塵も感じさせない。
微睡に誘われて瞼が重たくなる。ずれ落ちそうな身体を起こし、マグカップを手に取ると空だった。
「先生、コーヒーお代わりいる?」
「おぉー、頼む」
右手と視界は固定したまま、左手で器用にマグカップを差し出す姿はいつも通りだ。
開き戸を抜けて廊下に出ると、古い木造住宅特有のひたっとした寒さが身体の芯を撫でた。軋む床が祖父母の家を思いださせる。
キッチンはいつも通りすごく綺麗だった。先生は自炊をしないから、やかん以外の料理器具は全部戸棚の奥に眠ったままだ。
マグカップを軽く洗い、キッチンペーパーで水気をふき取る。硝子戸を開け、インスタントコーヒーを取り出して、やかんに火を付けた。
元教え子とはいえ、他人を家の中で勝手に動き回らせて良いのだろうか。同時に今さらか、とも思う。
両手に持ったコーヒーを零さないように目をやりながら、足で戸を開ける様は自宅さながら。行儀が悪い気がするけれど、どうせ誰も見ちゃいない。
先生は相変わらず、教師時代と打って変わって無口だ。随分、瘦せたのではないだろうか。
「先生、ご飯食べてるんすか?」
「ん? 何だ急にオカンみたいな」
「いや、また痩せたように見えたから。ってか、老けました?」
伸びた髭に血色の悪い肌。ちゃんちゃんこから覗く細い腕。どっかの病人なんじゃないか。しかし、本人曰く何の病気も無いし、至って元気らしい。
「そうかぁ? ま、人の目を気にしなくなったせいかもしれねえな」
「先生、一応昼は店開いてるじゃないですか」
もちろん、今日のような大荒れ模様の日は例外だ。こんな日に釣具店を訪れる物珍しい客なんているはずもないのだから。
「こんな店に来るのはおっさんかガキンチョだけだよ。見た目気にしてどうするってんだ。むしろ、あんまり若く見られると舐められるからな」
液タブを上目で見やる。失礼は承知で、この人からこの絵が生まれたとは到底思えなかった。それくらい、繊細で生き生きとした少女たちがそこにいる。
「……あの、変な意味じゃないんですけど、どうして少女漫画なんですか?」
きっと僕が取ることのない選択肢だ。だから、気になった。
「好きだからに決まってるだろ」
相も変わらず迷いのない言葉。さっきまでの固い口はどこへ行ったのか、少女漫画の良さを諳んじるように語り続ける彼を見て、やっぱり本気なんだと思う。
数分に及ぶ懐かしい先生の授業を聞き終え、やっと主題を口にした。
「これも変な意味じゃないんですけれど、その……僕なら、恥ずかしいかなぁって思っちゃうんですよ……」
先生が手を止めて向き直った。そして、「この手の話かい」と呟きながら、伸びたぼさぼさの髪をかき上げてゴムで縛る。うっすらと昔の面影が横切った。
「もう俺は教師じゃねえんだがなあ。おしっ、ちゃちゃっと話してみろ」
話を切り出したのは僕だというのに、何を話してよいのかよく分からなかった。ただ、最近は胸のつかえが多い。増えたと言うべきだろうか。
逃げるように含んだコーヒーを口の中で転がす。先生に合わせて薄く作りすぎた。不味い苦みが喉を鳴らす。
「最近、周りの目がすごく気になってて……。何なら中学生の時からそうだったんですけれど、今はもっとと言うか」
「……それで?」
「えっと、勝手に他人の目を気にして色々取り繕って、自分を良いように見せて、代わりに大事なものを捨て置いちゃってるんです。……最悪ですよね」
先生は「ふぅん……」と大きく息を吐き、静寂をつくる。僕を観察するみたいに視線を彷徨わせる仕草は、少しだけ彼女を思いださせる。
「まあ、あれだな。人の目が気になるのは悪いことじゃないな。気にしないでいると、俺みたいに老けるぞ」
さっき言った事、ちゃんと効いていたようだ。
「俺ももちろん通った道だが、思春期ってのは何でもかんでも極端なんだよ。だから、人の目を気にするそれもバカでか超特大メガ盛りサイズだ。そりゃあ、気にし過ぎて何かを失うってこともあるだろうよ」
「でも、本当に失っちゃいけないもので……僕にとってはすごく大切なんです」
「大切って分かってんなら、上出来じゃねえか。なら簡単なんだよ。後は加賀が一歩を踏み出すだけだ。ほんの少し、周りの目を気にしなくなればいい。後のことを考えてるから動けねえんだよ」
そう言って、先生は煙草に火を付けた。有言実行だとでも言いたいのだろうか。
「いいか、加賀。大人になろうとするな。その煩わしい病と向き合うなら、むしろ少しくらい子供になった方が楽だぞ」
「そんなもんですかね……」
「まっ、そんなこと言ったけど、逃げて解決するならじゃんじゃん逃げろよ。世の中、何にでも立ち向かっていってたら身体がいくつあっても足りないぞ。本当に大事なことにだけ、全力で立ち向かうのが一番なんだよ」
「……なんとなく分かります」
「みんな、分かっちゃいるんだ。でも、これが案外難しい。加賀も大人になれば分かるさ」
煙が逃げる窓の隙間から、斜陽が射し込む。見れば、さっきまで降っていた雨は山向こうに逃げ、アクリル色のような濃い一面の青に夕日が注いでいた。
「なんだ、止んだじゃねえか。ほら、個人面談はおしまいだ。さっさと帰れよ」
そう言って、先生はまたペンを手に取る。
「さ、最後に一ついいですか?」
「何だ?」
「先生、飛び降りる時ってどんな顔して死にますか……?」
先生は手を止めない。
「そんなの決まってるね。大笑いしながら死んでやるわ」
予想した通りの返答に僕は大きく息をついた。
「それじゃ、僕はこれで」
「あ、おい、加賀……っ!」
聞こえないふりをして玄関まで小走りで廊下を抜ける。軋むドアを開けると、夕暮れの温かな空気が通り抜けた。
振り返り、顔だけ覗かせた先生に向けて告げる。
「先生、何したらいいのか分からないけれど、とにかく頑張ってみようと思います! 自分なりに、後悔しない大人になるために……!」
見えなかったけれど、先生は肩をすくめている。そんな気がした。
薄明が世界に浅白く膜を張る。東の縁が切り取られていく様に、また今日へのカウントダウンが始まったと実感できる。あと、一時間もすれば夜明けだ。
一度、ほんの少しの明かりが漏れ出ると、世界は急速に回りだす。視界が色づき始め、空気は徐々に重さを増す。ゆっくりと、それでいて気が付くと一瞬のうちに。
朝が慌ただしいって、よく分かる。
いつも通り他愛のない会話に、彼女はゆっくりと立ち上がることで終止符を打った。さっと荷物をまとめ始める。
「さて、行こっか」
「行くって、どこに?」
差し出された手は結構温かくて、妙に感触が残る。
彼女は答えることなく、荷物を持って歩き出した。こんな時間からどこへ行くというのだろうか。
灯台のある方角へ歩き出した時は心臓が重く悲鳴を上げた。しかし、彼女の足は公園を出てすぐのところで止まった。海沿いにある観光会館とは名ばかりの市民ホールに目が吸われる。昔は定期的に映画が上映されたり、オーケストラの演奏会だったり、少し旬の過ぎたお笑い芸人の漫才ショーが催されていたが、今ではめっきり無くなってしまった。
僕の記憶にあるたった十数年の出来事。それでも、色々と変わり続ける。河口付近のこの沿岸では、昔はモクズガニが素手でいくらでも取れて、小さい頃は友達のお母さんがよく味噌汁をつくってくれた記憶がある。でも、最近では一匹たりとも見なくなった。やっぱり、生物の方が環境の変化には敏感なのだろうか。
幼少期は澄んでいた川が、やけに泡立ち赤く濁っているのを知っている。近くの観光地が発展していく最中、徐々に活気が無くなっていく町の様子を知っている。
町全体が歳を取るように、ゆるやかに腐っていく。
この町が狭く、生き苦しく感じるのは、そんな背景のせいか、それとも僕自身も同じように衰退をたどっているからなのだろうか。
「はい、問題です。このおじさんは誰でしょうか?」
会館横のブロンズ像を指さし、彼女が僕に向き直る。大きな船の像と、一人の男性の胸像だった。目の前が海原なだけあって、船の像はよく映える。どちらもパティナに覆われ、くすんだ緑色を帯びていた。僕が生まれる前からあるものなのだから、歴史の面影があって当然だ。
「三浦按針でしょ?」
「そっ、英名ウィリアム・アダムス。またの名を、青い目のサムライ。かっこいいよね!」
「この町に住んでる人なら、みんな知ってると思うけど。祭りの名前にさえなってるんだし」
「あぁ、按針祭ね。いつもの公園で見ると花火がすごくてさ。知ってる?」
やおら首を振る。
海上に打ちあがる花火を見るには、自分の部屋が特等席だった。なんせ、絶好のオーシャンビュー。花火目当てに来る観光客も大勢いるし、毎年眼下の車道は歩行者天国になるくらいの雑踏だ。だから、僕は自分の部屋から以外で花火を見たことが数える程度にしかない。
「それで、どうして急に三浦按針の話なんて始めたの?」
彼女は再び歩き出す。どうやら、彼女の気まぐれはここだけではないらしい。
「私が尊敬していて、同時にこの人のようにはなるまいと思っている人物だからね。君には知っておいてもらいたくてさ」
彼女の言葉には大きな矛盾が連なっていた。
「なりたくないなら、尊敬は出来ないんじゃないの?」
橋状の車道を渡ると、河口がゆるりと流れる。数年前までホームレスが住んでいたが、いつだったか警察が追い出して以来、桁下空間はただの砂浜がだだっ広く伸びていた。
「ウィリアム・アダムスは慶長五年に日本へ船でやって来た英国人航海士」
彼女は僕の質問を返すことなく、独り言のように語りだす。
「はい、それでは頭の良い君に問題です。慶長五年に日本で起きた大きな出来事と言えば?」
「……関ヶ原の戦い?」
「え、すごっ、何でそんなすらっと答えられちゃうのさ」
「僕たち、受験生だよ……? しかも、文系だし」
何かばつの悪いことでも耳にしたのか、彼女はあからさまに目を背けて続ける。
「大阪城にアダムスを呼んだ家康は、彼のことをめっちゃ気に入ったらしくて、航海術、造船技術、天文学を活かせるように、幕府の外交顧問として重用したと。えらいとんとん拍子だね」
「実際には、航海は他の船が全船沈没や離脱する過酷な旅だったし、日本に着いた途端、海賊扱いされて相当な目にあったらしいけどね」
彼女がじぬりと僕を見る。僕はまた悪い癖が出てしまったことを後悔し、軽いため息を吐いた。彼女が無言で続きを話すように促すから、仕方なく古い記憶を掘り起こす。
「えーっと、確か関ヶ原の戦いが終わった数年後、西洋の船造りを命じられたアダムスが、造船場所として選んだのが、今のこの河口だったかな?」
彼女が満足そうに大きく頷く。
今、僕たちが立っているこの場所でたかだか四百年前、日本初の洋式帆船が建造されたらしい。この川幅で船なんて作れるのだろうかと思ったけれど、昔はもっと川幅が広かったかもしれないし、今のように舗装されてはいなかったのだろう。何にせよ、僕にはすごいことなのかがいまいち分かりにくい。
「でね、その功績が認められて、アダムスは家康から領地とか色んなものと同時に三浦按針って名前を賜ったんだよ。この時、青い目のサムライは誕生したのです」
「へーっ、この時に三浦按針になったんだ」
彼女の怪しみを込めた視線は続いたままだ。
「ほんとぉ?」
「本当に初めて知ったよ」
「はい、私の勝ち―!」
自慢げな顔で喜ぶ彼女。まるで子供みたいだった。
いや、子供なのか。僕も、彼女も、まだ。
「それで、晴れてサムライになった三浦按針はその後、どうなったの?」
「んーとね、幕府とイギリス・オランダの通商に尽力するなどして、日本に残り続けたみたい。そして、家康の死後、アダムスは権力を失い平戸のイギリス商館に追いやられることになる」
「故郷に帰らず、日本のために尽くしてくれてたんだね」
「でも、三浦按針の最期は結構悲しいものでね。家康の死後、日本は対外拠点を長崎と平戸に限定してしまったせいで、外交顧問である三浦按針の仕事は無くなっちゃったんだよ。そのまま家康を追うように元和六年、病気で亡くなったとさ。はい、授業終わり!」
偶然たどり着いた異国の土地で主人を無くし、存在意義すら奪われた三浦按針の心境はどんなものだったのだろうか。幸せだったのか、不幸だったのか、僕には想像しかねる。
「それで、どうして急に三浦按針ツアーなんてやったのさ」
彼女は舗装された川先をゆっくりとなぞるように歩く。等間隔に並んだ柳の隙間から、ちょうど三浦按針に関する資料が展示してある建物が見えた。
「んー、実は私があの朝灯台に行く前、こうやって三浦按針のことを考えてたんだよ。だから、最後に話しておこうと思ってね」
朝日が顔を出す。
「最後……?」
くるっと彼女が身を翻し、僕に向き直る。柳の影が、射し込む朝陽に照らされた彼女の半分を隠した。
「無理心中しよう、とは言わないよ。でも、良かったら付いてくる?」
「どこに……?」
「分かんない。あてのない旅。まあ、一つだけ目的はあるから、最初は西の方へ。その後は決めてない」
「今日も学校だよ?」
彼女は切なげな瞳を下げ、口元に笑みを携えて何も言わなかった。ただ、そっと手が差し出される。
小さな手だ。白磁の手首は簡単に折れちゃいそうなくらい細い。
「出来れば、私は付いてきてほしいと思ってる。こう見えても、私は臆病者なんだよ?」
まだ、目をそらし続けていることがある。
僕がこの手を取ってもいいのだろうか。そんな資格が僕にあるとは思えなかった。
でも、僕がいなければ平和な解決にたどり着くかもしれない。なにより、今ここでこの手を取らなければ、彼女とはもう二度と会えない。うるさいくらいの胸中が、彼女の鋭い眼光が、今にも崩れてしまいそうな儚い気配が、僕にそう告げている。
「……分かった。僕も行くよ」
彼女の手をしっかりと握る。すると、彼女はおぼろげな笑みを零して握り返してくれた。
「それじゃ、行こうか。きっと、楽しくなるね」
僕と彼女の少し背伸びをした旅が始まった。
*
思えば、夜明け以降も彼女とずっと一緒にいるのは初めての事だった。もちろん、学校でも顔を合わせるのだが、それは言ってしまえば仮の姿みたいなもの。
僕と彼女の関係は、一体何なんだろうか。名前の付けようがない、特別なもの。かといって、そんな大それた何かがあるわけでもない。互いにちょっとずつ、弱いところを曝け出しているだけの奇妙な関係だ。
「はい、ちーず!」
突然、隣で静かだった彼女がスマホを向ける。音もなく、画面が瞬く。
「チェックして?」
「……何の?」
「目瞑ってない? ちゃんと盛れてる?」
あぁ、そうか。
彼女の決め顔は置いておくとして、僕の顔はいたって普通だった。突然だったし、不意を衝かれた真顔に近いものだ。
「分からん。大丈夫なんじゃないかな」
「よし、じゃあいっか」
車両の電光板が次の駅名を示した。同時に流れるアナウンスに耳を傾け、手元の乗車券に目を落とす。
「名古屋まで一瞬だね」
「そりゃ、隣の県だからね。新幹線を使えば一時間もかからないよ」
彼女はスマホに目を落としたまま答えた。
朝の八時半。ちょうど、朝のホームルームが始まったくらいだろうか。僕と彼女は新幹線の中にいた。当たり前だけど、周りを見渡しても自分たちくらいの見た目の人は見当たらない。
周りにはどう見えているのだろうか。二人とも私服ではある。出来ることなら、大学生のカップル程度に見られていると助かるのだが。相当な覚悟をして飛び出してきたのに、職質にあって連れ戻されたりしたんじゃ、あまりに不格好すぎる。それこそ、死にたくなるような恥ずかしさだ。
親には一応、書き置きを残しておいた。元々、奔放な性格だしさほど問題にはならないと思う。特に父親なんかはむしろ息子の成長を喜んでいるかもしれない。ウチの親はそういう性格なのだ。
「出来た! あっ、もう着いちゃった! 早く降りるよ!」
まるで僕を急かすような言いっぷりだが、僕は既に荷物を手に持って立ち上がっている最中だった。彼女のキャリーケースもまとめて二つごろごろと運び、先にホームへ降りる。
「置いて行かないでよー!」
頬を膨らませて怒る彼女は少しだけいじらしかった。
僕は彼女のキャリーケースを渡し、反対の手を取る。何の疑問を抱くでもなく、素直に握り返されたのはちょっぴり嬉しかったりする。
「どしたの? 惚れた?」
「人、多いからさ。はぐれたら面倒だし」
「ふーん、そっか。そういうことにしておきますか」
その実、照れ隠しというわけではなかった。相貌失認の彼女を思ってなんて知られたら、きっとあまり良い気はしないのだろう。
彼女はありのままを僕に望んでいる。それなら、伝えるべきではない。僕が彼女の手を取りたかったという事実は、確かにその通りなのだから。
名古屋駅からさらに電車を乗り継ぎ、外の景色はビル群から再び自然が濃くなる。ゴールデンウィーク明けの朝っぱら、ローカル線は人がほとんどおらず、途中までひと車両貸し切り状態だった。
「そういえば、さっき何かが出来たって言ってなかった?」
「ん? あぁ、これね」
彼女がスマホの画面をすいっとスクロールする。彼女のSNSだった。写真がずらりと並び、その最新の投稿に思わず声が漏れる。
「嘘でしょ……」
それは紛れもなく先ほど新幹線で撮った写真だった。写真の下部には『駆け落ち中』と書かれている。
「これで後戻りできなくなっちゃったね」
意地悪気に笑う彼女。僕はキリキリと痛む胃に無理矢理水を流し込むことで、何とか冷静を保っていた。
果たして、帰って来ることはあるのか。帰りたくない理由が一つ増えてしまった。
「どうしてくれるのさ……」
「ふふっ、いいじゃん、いいじゃん。私は構わないんだよ」
そりゃ、こんな投稿をするくらいなんだ。そうなんだろうけど。
「僕が構うに決まってるじゃん」
「どうして?」
「どうしてって……、それは……」
「私、君のこと結構好きだよ?」
どうしてこんな時ばかり、彼女と目が合ってしまうのだろう。逃げるように目を閉じると、心臓の高鳴りがうるさかった。
名古屋を出てさらに一時間四十分。長い揺れも特別退屈することもなく、僕らはあてのない旅の唯一の目的地に到着した。
同じ駅で降りる人はほとんどが旅行客で、どこか地元を彷彿とさせる。
駅前には土産物屋が何店舗か立ち並び、駅には付属の観光案内所。待ち構えるのは看板を持った旅館のスタッフ。やはり、温泉の観光地は大抵どこも同じ構造らしい。大きな文字で『下呂温泉』と書かれたモニュメントを見て思う。
「流石に長かった。腰痛いや」
「四時間近くかかったからね。僕も身体が痛い」
幸いだったことと言えば、大型連休明けの平日だから、旅行客もほとんどいないことくらいだ。
彼女がここを目的地に決めた理由は聞いていない。尋ねる勇気が僕には無かった。だから、もちろんこの後だってノープランだ。
「流石にチェックインはまだ出来ないから、先に荷物を預けられるか聞きに行こっか」
「ホテルなんていつの間に取ってたの?」
「母親がお客さんに貰ったんだと思うけど、ペアの宿泊券が家にあってね。勝手に使っちゃった。旅費浮いたね」
彼女についていくと、想像を上回るちゃんとした旅館だった。動きを固める僕と、やたらたじろぐ彼女に対しても完璧な接客でもてなされ、荷物を預かってもらう。
「なんてところに泊まろうとしてるんだよ」
「いやー、まさかこれほど良い旅館だったなんて、私も知らなかったんだよ」
彼女は急こう配な坂をゆっくりと下りながら笑ってごまかした。
「それで、この後はどうするの?」
「私の本当の目的はここからまた少し移動しなくちゃいけないからね。今日は観光でもしようよ」
広い山間を流れる川に沿って温泉街がつくられていた。海を主軸にした地元とは正反対で、ようやく旅行気分が芽生える。
食べ歩きの店が多く、近くにはかの有名な白川郷もあり、足が無くても半日程度なら退屈せずに済みそうだった。
「ねえ! 大変だよ! このお店、映え過ぎる!」
なだらかな坂道に立ち並ぶ店は、意外にも若者を意識した外観やコンセプトの店も多くあった。その度に彼女は立ち止まり、SNS用の写真を撮る。結局のところ、達観した考えを持つ彼女もまた年頃の女子高生ということなのだろう。毎回、僕も巻き込んでツーショットは勘弁してもらいたいけれど。
「焼きおにぎりにバターって、とんでもないカロリー爆弾じゃない?」
「いいんだよ、どうせ一日中歩くんだし。買ってくる!」
当たり前だけれど、めちゃくちゃ美味しかった。
「岐阜と言えば飛騨牛! だけど、流石に金銭的に断念かなあ」
バイト禁止の高校生の懐事情は芳しくない。しかも、これから先、何にお金がかかるのか分からないのだ。僕も彼女も出来る限りの軍資金をかき集めてきたけれど、それでも贅沢をするには心もとない。
「旅館の夜ご飯で出てくるんじゃないの?」
「残念ながら、素泊まりプランなんだよね。夜ご飯は外で食べよ」
なるほど、やっぱり飛騨牛は諦めるほかなさそうだ。
不意に、彼女の横顔に吸い込まれた。その様子に気が付いたのか、彼女はわざとらしく僕の手を取って歩き出す。
「見すぎじゃない?」
顔が見えなくても、分かるものなのだろうか。少しうかつだったかもしれない。
「いや、こうして昼間に秋永さんといるのが、すごく不思議で……」
彼女はなるほどという風に頷いた。
「私たち、朝までの関係だもんね」
「嫌な響き過ぎない?」
「ふふっ、本当のことだからしょうがないね」
存外、彼女は元気だ。一口に表現したものの、僕の杞憂を晴らすにはその言葉で十分だった。
彼女はきっと、この旅の中で終着点を探している。それがいつなのかは分からない。全ては彼女の気まぐれ次第。今、不意にそう思うのかもしれないし、もしかしたら軍資金が尽きて路頭に迷うのが先かもしれない。
彼女が決意した時、僕はどうするつもりなのだろうか。自分でも、分からない。止めるのか、黙って見過ごすのか。もしかしたら、一緒に――なんてこともあり得るのかもしれない。
彼女の手を取る右手が、じわりと汗ばむ。まだ夏には早いとは言え、五月も半ばを過ぎた。日によってはいやらしい暑さになることもある。
この数か月で、僕は彼女の見方が随分と変わった。たくさんのことを知ったし、彼女の弱さにも触れた。今の僕は希死念慮を抱く彼女を止めるのだろうか。それとも、彼女に対して芽生えたこの小さな憧れは、僕にも同じ感情を誘発させるのだろうか。
結局、夕飯は洒落たものをなんて出来ず、近くのファミレスで取ることにした。
宿にチェックインし、部屋に通されてようやく僕はペア宿泊券の意味を理解する。
「同じ部屋……になるよね。当たり前か」
「そりゃ、そうでしょ」
当の彼女は一切気にしていないようで、パタパタとせわしなくルームツアーを決行していた。
部屋の入り口を開けると、すぐに優しい色の畳が目に入る。温かみのある和風な照明が部屋全体を包み込み、中央には座卓と座布団が置かれていた。窓の外は暗がりにぼんやりと明るく浮き立つ庭園と、山々が一望出来る。
「うわっ、部屋に露天風呂ついてる! すごい!」
障子を開ける彼女を追いかけるように覗くと、白い湯気がふわりと立ち込めている。二人用の檜桶の露天風呂だった。
「高そうな旅館なだけあるね」
「テ、テンション上がって来たー! どうする? 一緒に入る?」
「そんなわけないじゃん。大浴場行ってくるよ」
「あ、待って。私も一緒に行くよ」
事前に二人で四十分後と決めたので、三十分で出ると彼女は姿はまだなかった。自販機で瓶のコーヒー牛乳を二本買い、彼女を待つ。
僕が彼女を待つというのも、新鮮なことだ。いつも、彼女は先に一人で待っているのだから。
彼女もこんな気持ちだったのかな、と若干そわそわする心地に問いかける。来たら、何を話そう。この後は、どうしよう。そんなことを考えながら、彼女も待っていたのだろうか。
しばらくして、彼女が出てきた。そして、僕の持つコーヒー牛乳を見た瞬間、目を子供の様に輝かせる。
「買っといたよ」
「くぁーっ! 気遣いの鬼過ぎる! ありがとう!」
彼女に一本手渡し、二人そろって蓋を開ける。上機嫌な彼女にずっと褒められていた気がするけれど、僕は湯上りの彼女を必要以上に見ないように必死だった。
部屋に戻ると、大きめの布団が二つ隙間なく敷かれていた。子供の様に布団へダイブする彼女を横目に、僕は布団をずらそうと縁を持つ。
「えっ、何で離しちゃうの?」
「いや、駄目でしょ。流石に」
彼女は首を傾げ、二つの布団の間にまたがるように足を伸ばす。
「いいよ、どうせ無理矢理襲われたら、私は抵抗のしようがないんだからさ。くっ付いてても変わんないよ」
「……しないけど」
「知ってるよ。優しいもんね」
けらけらと彼女が笑う。
僕は諦めて手を放し、彼女の隣に胡坐をかく。
「でも、この旅はずっと私と同室なんだし、本当に我慢が出来なくなったら相談してね。ちゃんと考えるから」
一応、考えてくれはするのかと一瞬、邪な思いがよぎる。
「理性がどうとか、普通にしてたらあり得ない話だから」
「えっ、そうだったんだ。男の人はさ、衝動が抑えられなくなることがあるって聞いてたから、ずっと怖いなって思ってたのに」
「そんなの意志の弱い人の言い訳だよ。もしくは病気」
きっと人は我慢の振り分けが出来るんだと思う。誰だろうが、何でもかんでも耐え続けることなんて出来ない。無意識化で我慢することと、しなくていいことで分けている。その取捨選択が人によって違うだけだ。
「良かった。爛れた旅になってしまうところだったね」
彼女は安心したように布団を被る。眠くはなかったけれど、僕も横になった。薄張りの天井が月明りで青白い。慣れない布団の重さに息が詰まった。
やっぱり、夜の空気はどこか重々しく感じる。
不意に手に何かが触れた。じわっと熱が解ける。それはもう一度僕の手に触れた後、ぎゅっと布団の中で握りしめてくる。
少し早い脈は僕のか、彼女のか。
ややあって、僕は天井を見つめたまま言った。
「どうしたの?」
もぞっと隣で彼女がこちらに寝返りを打つ気配がした。
「手くらい、いいじゃん」
「別に僕はいいけど」
僕しかいないのに何を言ってるんだと思う。
「明日、お父さんに会いに行ってみようかと思って」
ちょっぴり意外だった。
「……そうなんだ」
「うん……」
握った彼女の手が、少しだけ震えている気がした。
*
山間を走る電車に揺られ、徐々に建物が増えてきた景色を眺めていると、目的地のアナウンスが聞こえてきた。
隣を横目で見る。彼女らしくない大人しさだった。開いたスマホの画面は、先ほど見えた時と同じ画面のままだ。その上で二本の指が行き場を無くして彷徨っている。
やっぱり、彼女でも緊張とかするのだろうか。
彼女の父親はドラマのロケ地やアニメの聖地で有名な飛騨高山で土産物屋を営んでいるらしい。彼女は姿すら覚えていないとのことだが、旧姓さえ分かれば後はしらみつぶしに探していけば見つかるはずだ。
僕が彼女に付いてきても良かったのだろうか。そんな心配は杞憂で、むしろ彼女は僕を引っ張ってでも連れてくる気だったらしい。
なぜ、今さら父親に会いたいのか。彼女の心意は知れない。
彼女は我慢の振り分けを選ばせてもらえていない。生まれつき、他の人と違うことが多すぎる。それでも、彼女は周りを疎ましく思ったり、羨ましがったりしない。少なくとも、その姿を他の人には見せていない。もちろん、僕にも。
尊敬という言葉で表していいのだろうか。僕は彼女のことが素直に凄いと、知れば知るほど思う。非凡な言葉だけど、一番適切な気がした。
大人で関心出来る人はたくさんいるけれど、同年代でここまで自分との差を思い知らされることは初めてだ。僕が彼女の境遇ならば、とてもじゃないがここまで出来た人間になっていなかったと思う。
電車を降り、空を仰ぐとどんよりとした雲が一面にかかっていた。空気もどこか湿っている。
駅の周辺は思ったよりも外国人が多く、それなりに賑わっていた。土産物屋と言うのだから、駅の近くだと思うのだけれど、彼女は電車を降りてからもどこかぼんやりしたままだ。一体、何を考えているのやら。
彼女の手を引いて歩きだす。
「あっ……」
小さく漏れた彼女の声は聞かなかったことにした。しらみつぶしで土産物屋に入っては、店員に彼女の父親の旧姓を名乗る人物がいるか聞いて回る。
途中から小雨が降って来た。ぽつぽつとしたもので、まだ傘を買うような雨脚ではなかったから、そのまま探し続けた。
その間、僕と彼女の間にこれといった会話は無い。不思議な気分だ。初めて見る彼女に戸惑いはあるが、嬉しくもあった。
彼女の父親が見つかるまで、案外時間はかからなかった。
駅から外れた商店街の一角にぽつんと存在する小さな土産物屋。店に入り、レジ前でテレビに目を向ける男性を一目見て、気が付いた。猫のようなシャープな瞳が、彼女にそっくりだったから。
父親と思しき男性は店内にいる客に目もくれず、皺の刻まれた口元をぽかんと開けて画面のアナウンサーに魅入っている。よく見ると、唇の色素が薄い。
「どうしたの?」
入口で立ち尽くす僕に彼女が見上げる。
彼女が気づいているはずはなかった。だから、こんなにも似ているのに、とは言えない。
「……何でもないよ」
店内にいた他の客が出ていくのを見届け、僕は彼女に耳打ちをした。
「秋永さんが尋ねた方が良い」
彼女は不思議そうに首を傾げていた。でも、僕の出る幕はない。今から、僕は完全な部外者なのだから。
「あの……、」
彼女が声をかけると、男性は肩をぴくっと動かし、すぐさまテレビを消して彼女へ向き直る。
「はいはい、どうかしました?」
飲食店の自分の両親と比べると、お世辞にも良い接客には思えなかったけれど、そんなことを気にしているのは僕だけだ。
「少しお尋ねしたいことがあって。えっと、ここら辺に貝住さんという方はお住まいじゃないでしょうか?」
ここまで僕が口にしてきた一言一句を真似る彼女。
「貝住は私ですけど……。ここいらじゃ多分、私だけだと思いますよ」
「えっ……」
彼女が言葉を詰まらせ、助けを求めるように僕を見る。チラッと、男性も僕に目を向ける。まさか目の前の少女が自分の娘だとは思わないのだろう。不思議そうな顔をしていた。
僕は彼女に向けて、小さく頷いた。きゅっと彼女の口が固く結ばれ、男性に向き直る。
店内のささやかなBGMが音を潜めた。ちょうど、終わり際だったのかもしれない。
「あの……! 急に変なことを言って申し訳ないんですが。……私、秋永音子と言います……!」
珍しく緊張している彼女を僕は遠巻きに眺めることしか出来ない。
「あきなが……ねこ……?」
男性が小さく復唱する。次第にシミの目立つ顔から波が引くように表情が失われていった。
彼女は目の前の男性の戸惑う気配を感じたのか、急いで言葉を繋げる。
「私、多分ですけど、えっと、あなたの娘……だと思うんです。その、心当たりって、ありますよね?」
男性は彼女の声が届いていないのか、ひたすら呆然と何かを呟く。驚き以外の感情をその表情から見つけるのは難しい。なぜか、僕の手のひらは汗でぐっしょり濡れていた。
「何歳だ……?」
不意に男性が顔を上げて彼女に聞く。その尖った瞳が、少し怖かった。
「ら、来週で十八歳になります。五月二十七日……!」
正確な日付を聞き、男性は大きくため息をついた。下げた瞳が濁る。同時に彼を取り巻く空気が変わった気がした。彼女には申し訳ないけれど、今は顔が見えなくてよかったと思ってしまう。
「……帰ってくれ」
男性はただ一言、そう告げた。
「えっ……?」
男性が小さく舌打ちをする。
「なぜ、今さら顔を見せに来た? 何が目的だ? なんでここが分かった? あの女に言われてきたのか?」
強い口調で男性がまくし立てるように早口で言葉を連ねる。
「え、っと……」
表情の見えない彼女にとっては急なことだったのだろう。未だに男性の言った事がくみ取れていないようで、言葉を詰まらせる。
「……やっぱ、いい。理由なんてどうでもいいから、早く帰ってくれ」
そう言い、男性は彼女に背を向け、再びテレビを付けた。ローカルなコマーシャルが場違いに明るい音楽を流す。
「わ、私……、あの、」
もう、彼女の声は男性には届いていなかった。
「……ッチ。ったく、災難だ」
じわっと彼女の瞳が潤んだ。きっと、本人も気づいていないだろう。でも、その涙が僕に言葉を衝かせるには十分な理由だった。
「あの……!」
思った以上に声が出て、背筋が痺れる。
何で、僕はこんなことをしているのだろう。部外者だと、自分に言い聞かせたばかりなのに。
衝動的に動くのは全く自分らしくない。そんな熱い人間じゃないはずだ。僕は憶病で、弱虫で、いつも逃げて目をそらしてばかりなのに。
「少しくらい、話を聞いてくれてもいいんじゃないですか……?」
男性は何も言わない。そうやって目を合わせないで、向き合おうとしない態度が、まるで自分を見ているようで無性に腹立たしい。
「あなたの娘がわざわざ、こんな遠いところまで会いに来たんですよ!? どうして、そうやって投げやりに突っぱねることが出来るんですか!」
やっぱり、男性は何も言わないし、動かない。
「ね、ねえ……」
気が付けば、彼女が弱々しく僕の袖を引っ張っていた。
「もういいよ。……帰ろ?」
「いいわけない……! 絶対……、こんなの間違ってる……!」
この男性が過去に何があったのかは知らない。でも、そんなこと関係ない。彼女の母親と何があったって、関係のない彼女に向けていい態度じゃないのは、誰が見たって明らかだ。
「……頼む。金、やるから帰ってくれ」
男性の言葉に耳を疑った。この男は、今何て言ったのだろうか。聞き間違いであってほしかった。
「今、何て……?」
「ここまでの電車賃でいいか? どっかに泊まってるなら、その分も払ってやる」
本当にどうにかなってしまいそうだった。彼女が必死に腕を引いてくれていなかったら、飛び掛かっていたかもしれない。……この僕が?
「そんな話をしてるんじゃありません」
「……」
「彼女に謝ってください。それで、話を聞いてやってください」
「これ以上騒ぐなら営業妨害で警察呼ぶぞ?」
「呼んでもいいから……! はなしを――」
「ご、ごまんっ!」
突然、彼女が大きな声で叫んだ。言葉の意味が理解できず、舌が泳ぐ。
彼女の小さな手が、痛いくらい僕の腕を強く掴んで震えていた。
「五万でいいです……。そしたら、帰ります」
彼女が静かに言う。
「な、何言ってんの……?」
「いいんだよ……。もう、いいの」
男性は一度大きく舌打ちを鳴らし、ため息と共にレジから一万円札を数枚取り出す。まるで、お釣りのように銀トレーに乗せて、カウンターを滑らせる。
「……ありがとう」
やっぱり目を合わせようとしない男性も、お礼を言う彼女も、何もかも間違っている。それでも、彼女が必死に涙を堪え、僕に訴えかけるから、もう何も言えなかった。僕は彼女の泣いてる顔を見たくなくて、彼女に引かれるまま、男性に背を向ける。
「……さようなら、お父さん」
店を出る寸前、彼女は振り絞るように言った。握ったお札がしわくちゃになっている。するっと彼女の手が僕の腕を滑り、手を握った。
果たして、僕はその手を握り返せていただろうか。
僕と彼女は握った手を放すことなく、長い時間かけて宿に戻った。まだ、陽が高い時間の事だった。
部屋に戻ると、どちらともなくするりと握られた手が離れる。じんじんと痺れるように熱を持つ手が、行き場を失ってだらりと垂れた。
何を言うべきか迷っていると、彼女が振り向く。
いつも通りの笑顔だった。
ずくっと胸が痛む。
そんなに肩を震わせながらとっていい表情ではなかった。
「あー、疲れたね! 私、温泉入りたい! あっ、どうせなら部屋の露天風呂入っちゃお! 一緒に入る? 入っちゃう?」
喉を詰まらせたような、力の入りすぎている声だ。もう少し力を込めたら裏返ってしまいそうで、それだけ震えそうになるのを必死に抑えているのが分かってしまった。
悩んで、すごく悩んで、僕は気が付かないふりをした。
「……コンビニ行ってくる」
間違っているのかもしれない。
分からない。
「そっか。ゆっくり入るから、早くに帰ってきてね!」
眩しい彼女の笑顔から背を向けて宿を出た。
温泉街をぐるぐるとあてもなく何度も周回する。彼女と通った道を歩く度に、会話が鮮明に思い返された。昨日の事なのに、すごく前の事みたいに思えて、微かな寂寥感に包まれる。
駐車場の段差に腰を掛け、往来する観光客をぼんやり眺めて時間が過ぎるのを待つ。
これから、どうすればいいのだろう。どんな顔をして彼女と接すればいいのか分からない。
でも、辛いのは僕じゃなくて、彼女だ。じゃあ、僕は何をすればいい。彼女にどんな言葉をかければいいのかばかり考えてしまう。
僕と彼女の間に体裁は必要なのか。
スマホを見ると、宿を出てからもう一時間も経っていた。西に傾き始めた太陽が、伝統とモダンが入り混じった温泉街を橙黄色に染め上げる。
長く感じた一日も、宿に着くころには帳を降ろし始めていた。
部屋に戻ると彼女の姿はなく、障子の向こうで影が微かに揺れ動く。
もう一度、部屋を出るという選択肢が浮かび、しばらく立ち尽くしてしまった。自分も大浴場に行こうと考えたが、荷物は障子の奥の床の間に置いてあるので断念せざるを得ない。結局、障子を背に畳の上に寝転がる。
意味もなくSNSを開き、彼女の投稿を見ると、昨日の車両の写真からさらに三件追加で投稿されていた。どの写真にも、僕が写り込んでいる。一件だろうが、何件だろうが、周囲の認知は変わらないから構わないのだが、彼女は学校の人気者だ。目に見える多くの反応にため息が零れる。
不意にガラッという窓を開ける音が聞こえ、反射的にアプリを消す。意味もなく天気のアプリを開いて、そっと息をひそめた。
「なんだ、帰ってたの」
そんな声が聞こえたのは、障子が開く音とほとんど同時だった。
「ついさっきね」
ゆっくりと振り向く。良かった、ちゃんと服は着ていた。艶髪が濡れて光の輪をつくっている。ほんのりと赤く染まる肌に、見てはいけないものを見てしまったような罪悪感が湧き立つ。
赤く腫れた目元を見て、僕はゆっくりと立ち上がる。コンビニ袋のまま冷凍庫に投げ込んでいた中から保冷剤を取り出し、タオルを巻く。
見て見ぬふりでも良かった。けれど、自分の気持ちに従うことにした。
「こっち来て」
彼女は何を言うこともなく素直に正面に座る。きょとんとした瞳を遮るように、彼女の目元へ保冷剤を宛てがう。瞼がぱちっと動くのが伝わった。
「別にそのままでも良かったのに」
「明日にはもっと腫れちゃうよ」
「君しか見ないんだからいいじゃん」
彼女の声が軽くて、そっと安堵の息をつく。
「駄目だよ。秋永さんは綺麗なんだから、みんなが振り向くんだ。だから、ちゃんと冷やしておかないと」
彼女の猫手が僕の膝を軽く叩く。その意味は僕にはよく分からなかったけれど、怒ってるわけじゃなさそうだ。
しばらく、沈黙が続く。開けっ放しの窓から、露天の湯が零れる音だけが部屋に響く。
五分ほど冷やすとだいぶ腫れが引いた。これなら、明日には完全に治まっているだろう。
「ありがとう……。でも、優しすぎるのもちょっと考えものだね」
「優しさじゃないよ。ただの僕の自己満足」
「うん、そういうことにしておくね」
色々と聞きたいことはある。話さなくちゃいけないことだって、たくさん。でも、今は彼女の曇った表情は見たくなかった。
彼女が大きく伸びをする。浴衣に浮かび立つ身体のラインに思わず目をそらす。
「さて、お腹空いたし、ご飯行こっか。今日は無礼講だよ」
彼女がにやっと笑い、座卓に置かれていた例のお札を掴み取る。
「もしかして、そのために……?」
「やっぱりさ、飛騨牛食べたいじゃん?」
僕は苦笑いで返すことしか出来なかった。
人が味を感じる細胞の数は約七千五百個らしい。昔、テレビで見た気がする。
多分、今日の夕飯はそのうち七千個くらいが文句無しに満足したのではないだろうか。
帰り際にコンビニで胃薬を買ったら、彼女に年寄り扱いされた。そんな何気ない会話が、僕をまた落ち着かせる。
「いやぁ、人生で一番高いご飯だった。QOL爆上げじゃん」
未だに思いだしては舌なめずりをする彼女を横目に、大浴場に向かおうとすると、彼女も一緒について来た。
さっき、部屋の露天に入ったばかりなのでは? と思ったが、よく考えたら焼肉の後だ。僕が彼女の立場でも、もう一度入りなおすか、とどうでもいいことを考えた。
疲労の溜まる身体に温泉は沁みる。つい長湯をしてしまい、上がると待ち合わせをしていたわけでも無いのに、彼女は律義に大浴場の前で待っていた。傍らには空になったコーヒー牛乳の瓶が置かれている。
「はい、昨日のお返し」
ぬるいコーヒー牛乳を受け取る。そんな長い時間、待たなくても良かったのに。
「秋永さん、人のことあんまり言えたもんじゃないよ」
「どういうこと?」
彼女をこれ以上待たせるのは気が引けた。一息に飲み干す。
「優しすぎるのも問題だねってことだよ」
自分で言って、ちょっと笑えた。
「私の信条はやられたらやり返すだからね」
部屋に戻ると、やっぱり布団は横並びで敷かれていた。時刻は既に日付を跨ごうとしている。朝型の僕と彼女にとっては真夜中と言っても過言じゃない。
身体が眠気を訴える。それでも、今日中に話しておきたかった。そうしないと、きっといつまで経ってもその機会は訪れないだろうから。
彼女もそのつもりなのか、電気を消して布団に入っても眠る気配は見せなかった。
「頬の怪我、跡が残らないで良かった……」
自然に、彼女が独り言ちる。柔橙色の小さな灯りが、彼女の肌を薄っすらと照らす。
「今日、実はめっちゃくちゃどきどきしてたんだ」
「十分、伝わってたよ」
「え、本当? 隠してたつもりだったのに」
「毎日会って話してるんだよ? 分かるに決まってるじゃん」
パタパタと彼女が足を遊ばせる。
僕は天井のシミを訳もなく目で追いかけ、渦巻く感情を落ち着けるのに精いっぱいだった。
「でも、まさかあんなに拒絶されるとはね。私も予想外だったよ。きっと、すぐ忘れちゃうんだろうな」
「忘れられるの?」
寝返った彼女が、きっと僕の顔をじっと見つめている。そんな気がした。
「私さ、顔が分からないからなのか、人との記憶があんまり残らないんだよ。もちろん、親しい人とのことはちゃんと全部覚えてるよ?」
「……忘れられるなら、忘れた方が良いのかもしれないね」
随分、無責任な言葉だったかもしれない。どんな残念な結末だとしても、彼女と父親の唯一の記憶だ。
「うーん、でも忘れられないかなぁ」
「さっきと言ってること違くない?」
「お父さんの姿と声はきっとすぐ忘れちゃうよ」
湿りを帯びた曇り声だった。
「じゃあ、何が忘れられないの?」
「だって、君が怒ったの初めて見たんだもん。しかも、君には関係ないことなのに、私のために怒ってくれた。忘れるなんて、できっこないよ」
僕も、今日の出来事は記憶に深く刻まれるだろう。思えば、誰かに怒ったのは久々だった。というか、初めてかもしれない。
僕は怒りという感情を持つのが苦手だ。今までの人生はずっと立ち向かうのではなく、必ずと言っていいほど逃げてきた。だから、未だに今日の自分の行動には、僕でさえ理解が追い付いていない。でも、多分あの時の感情は間違いなく怒りだった。それだけは確かだ。
「あの時ね、私も動揺してたからちゃんと言えなかったけど、本当にありがとうって思ってるんだよ」
「でも、結局何の役にも立てなかったし」
なぜか声が震えた。喉が渇いて仕方がない。
彼女が「分かってないなぁ」と笑う。
「……頬の怪我ね、お母さんに殴られた
の。まあ、私もマズったなぁとは思ったんだけど、それでもやっぱりすごく悲しくて、悔しくて。……怖くて」
彼女は忘れたいであろう記憶を掘り起こすように、ゆっくりと語った。
その日は、彼女が家を出るのにほんの少し遅れてしまったことと、彼女の母親が男を連れて帰って来るのが早かったことが重なってしまった。それでも、僕に連絡をしてくるずっと前、まだ四時半の出来事だ。
母親は男に向かって「気にするな」と言った。しかし、酒の入っていた男はじっと突っ立ったまま、彼女を見続けた。足先から髪の先まで、吟味するように視線が這う。
母親の機嫌が悪くなるのと、男の行動の意味を彼女が理解したのはほぼ同時だった。
「その時、お母さんが男の人に向かって言ったんだよ。……五万だって」
どこかで聞いた言葉だった。
「最初は何言ってるんだって感じだったんだよ。それより、早く家でなきゃって思って荷物まとめてさ。でも、男の人が私の肩を掴んだ瞬間、ぜーんぶ分かっちゃった」
たまらず、布団の中で彼女の手を握った。彼女は「仕方ないなぁ」と笑いながら握り返す。
「男の人は酔ってたし細かったから、突っぱねるのは簡単だったよ。まっ、その代わりに貰ったのがお母さんのぐーぱんちだったけど」
聞いてるだけで、泣きそうになった。神様がいるのだとしたら、彼女に厳しすぎる。そして、彼女自身が自分の境遇を疎ましく思わないように性格付けしたのだとしたら、それはとても残酷で、残忍だ。
「神様って不平等だよ……」
だって、そうじゃないか。どう見ても、彼女は僕や他の人とは歩んできた道のりが違い過ぎる。あまりに過酷で、障害が多すぎて、僕ならきっとすぐにくじけているに違いない。
それなのに、彼女は何一つとして疑問を持たないし、まるで当たり前のことだと言うように生きる。それがどれだけ難しいことなのか、きっと彼女は分かっていない。そのことが、一層僕の胸をはた迷惑に痛めつける。
「――信仰とは、理性の延長である」
不意に彼女が言った。誰かの言葉の引用であることは間違いなかったけれど、随分賛否の別れそうな言葉に思えた。キリスト教の、信仰と理性は別次元にあるという教えを真っ向から否定するものだ。
「三浦按針の言葉だよ。つまり、この世界に神様なんていないんだよ」
彼女がそう言うなら、そうなんだと思った。彼女が三浦按針を尊敬するのなら、彼女を尊敬している僕もまた、彼を尊重できる。
「秋永さんはどうして、その、へ、平気なの……?」
随分と言葉足らずだ。僕の心の内を言語化するのはとても難しい。でも、多分彼女には伝わってくれるはず。
「だって、なんだかムカつくじゃん。私の人生が、気持ちが、他人に捻じ曲げられるのって。だから、私は戦うんだ。運命なんて、そんなの無いよ。全部、自分で歩いて来た先にあることなんだから」
何も言えなかった。逃げ続けている僕には、彼女の存在はあまりに遠い。
芹沢も、きっと僕がいなくなって喜んでいる。なら、それでいいじゃないか。そんな風に思える僕のことを、彼女は理解できないだろう。だって、彼女なら戦うはずだ。
先生に宣言した言葉を忘れたわけじゃない。でも、逃げることが悪じゃないのなら、僕の選択も間違いじゃないはず。あの日、灯台に行ったのも、きっとおかしな選択じゃない。だって、僕がいなくなれば全て解決すると分かっている。
でも、僕は心のどこかで彼女のようになりたい。そう思っているから、彼女にあこがれているんだ。
「僕も、秋永さんのように胸張って生きてみたい」
嘘偽りのない本心だった。言葉にするとすごくチープで、薄っぺらく感じる。きっとそれは僕が言ったからだ。
「君は私なんかより、ずっと勇気があるよ」
「でも、僕は戦えないし、すごく憶病なんだ。きっと、僕が秋永さんなら、それこそ……死にたいって思ってるはずだから。逃げようにも逃げ場がなくて、そんなの僕には耐えられない……」
彼女がゆっくりと身体を起こすから、僕もつられて起き上がる。灯篭型の照明が、ゆらりと二人の影を揺らした。
「君は私のために戦ってくれたじゃん。私には出来なかったこと、代わりにしてくれた。ちゃんと私は救われてるんだよ。だから、忘れない。お父さんの姿、声を忘れても、君の勇気は絶対に忘れない」
気を抜けば、泣いてしまいそうだった。
変わりたい。せめて大事な人を守れるように。彼女の笑顔が曇らないように、僕が胸を張って生きられるように。
「ねえ、今、どんな顔してるの?」
彼女がそっと僕の頬に手を伸ばす。触れた箇所が熱い。彼女の熱と僕の熱が溶けあう。
「君の顔、見てみたいな……」
彼女のその言葉が、僕は忘れられないでいた。
*
昨日は結局、寝るのが遅かった。疲れていたこともあるけれど、僕は目覚ましかそれに準ずる彼女のメッセージがないと、やっぱり朝には弱いらしい。
目が覚めて天井がすっかり明るいことに気が付く。障子越しに木目を揺らめく光の波紋は、どこか朝の海面を想起させる。
徐々に思考が追い付いてきた。多分、日の出は過ぎている。背中を冷たい何かが走り抜け、勢いよく飛び起きた。心臓がうるさい。
この旅の間はもう早く起きる必要は無いと、昨日知ったはずなのに。分かっていても、やけに胸がざわついた。
それからようやく、隣の布団が綺麗にたたまれていることに気が付く。眠るまで握っていたはずの左手は、だらしなく半開きで畳の上に垂れていた。息がくっと詰まる。
気が付くと、僕は部屋を飛び出していた。廊下を何人かの宿泊客とすれ違い、その全員が僕を振り返る気配がする。
――今、どんな顔をしているの?
彼女の言葉が鮮明に思い返される。
全員を一様に二度見させるって、僕はどんな顔をしているのだろう。きっと今にも泣きだしそうで、引きつった、醜い表情をしているに違いない。
外出用の下駄がすごく走りずらかった。宿を飛び出し、外壁をつんのめりながら曲がる。
急こう配な坂の途中に彼女はいた。ちょっとだけ驚いた顔をしている。その姿を見て、僕は大きく安堵の息を衝いた。まだ心臓がうるさくて、からからの下口に舌が引っ付く。
彼女がコンビニ袋を揺らしながら、不思議そうに小走りで駆けよって来る。その身体を、僕は反射的に抱きしめていた。
彼女の身体がびくっと震え、少しして温かい腕が僕の背にそっと触れる。彼女の体温が、匂いが、息遣いが、僕を包み込む。人に見られたってかまわなかった。そんなことより、僕は無意識に彼女を求めていた。
「どうしたの? 急に、びっくりするよ?」
「何でもない……。ごめんね?」
心配は杞憂なものだった。もしかしたら彼女はどこかで飛び降りようとしていると、僕が早とちりしただけ。それだけのことだ。
「ふふっ、変なの」
彼女が僕の背を優しく擦るから、僕は力いっぱい彼女を抱きしめた。
たった一晩で、感情のコントロールの仕方が下手くそになったみたいだ。彼女を思う気持ちが止められない。
こんなの僕らしくない。昨晩から、彼女には恥ずかしい姿ばかり見せている。情けなくて、女々しくて。だけど、彼女はそんな僕をしっかり受け止めてくれるから、余計に駄目だった。
「朝ご飯買ってきたんだよ。部屋戻ろう?」
「……うん」
その日は一日中、部屋でごろごろ過ごした。会話をしている時も、暖かい日差しに微睡む時も、彼女と過ごす全てが心地よい。このまま、毎日ずっと同じ刻が流れればいいのに。本気でそう思った。
彼女はどう思っているのだろう。
この旅は、彼女の終着点を見つけるものだ。その意思は変わってないのだろうか。なんとなく、後悔する気がしたから引き留めていたのに、今では心の底から彼女には死んでほしくないと思っている。
でも、そんなことを彼女に言えるはずがなかった。浅ましくて、傲慢な思いを押し殺し、ただただこの握った手が離れて行かないことを願うしかない。
どうすれば、彼女の生きる希望になれるのだろうか。
次の日、僕と彼女は新しい場所へと向かうことにした。もちろん、行き先も目的も決めていない。ただ、彼女が遊園地に行きたいと言ったから、大きな遊園地がある場所を目指した。
何時間かかったってかまわない。時間はたくさんある。僕と彼女はまだ、大人じゃない。
県を二つ跨ぎ、まだ太陽は高い位置にあったけれど、僕と彼女はネットカフェのカップルシートでその日を過ごした。遊園地は朝一からに限る。二人とも同じ意見だったからだ。
ネットカフェの狭い空間は高級な旅館の一室よりも心地よかった。そう感じたのは、僕だけだろうか。出来れば、彼女も同じ想いだと嬉しい。そんなことを考えながら、彼女と肩を寄せ合い眠りにつく。
全部のアトラクションに乗る、といういかにもな目標を掲げて挑んだ遊園地は、全然一日なんかじゃ回り切れなかった。西日に傾いた頃、二人して無理だと悟った時は顔を見合わせて大笑いした。
僕と彼女は最後にお化け屋敷に入った。観覧車ではないのが僕と彼女らしい。案の定、僕の方がびびって、陽気な彼女に手を引かれるがまま出口までたどり着く。僕は情けなく感じたけれど、彼女はそんなことを歯牙にもかけなかった。
次の日は僕の一言で再び移動に費やすことになった。好きな食べ物を聞かれた際、何気なしにたこ焼きと言ったのが元凶だ。
どんどん、旅の出発地点から遠ざかっていく。僕と彼女はその行為が反逆の象徴のようで、嬉しくてたまらなかった。
子供じみた考えだということは理解している。でも、こんなにも心が躍ったのは生まれて初めてだった。大人たちには若気の至りという言葉で片づけられてしまうのだろう。実際、その通りだ。それでも、僕たちの最後の悪足掻きには誰だって口を出す権利は無い。
彼女は来週、僕は来月、誕生日を迎える。もう立派な成人で、世間から見れば大人の枠組みに入ってしまう。
変わりたい、大人に劣らない人間性を持ちうる彼女のようになりたい。そう思いながらも、彼女と共に逃げ続ける僕がいた。
……いや、逃げているのは僕だけか。彼女はしっかりと前に進んでいるんだ。
この旅には明確な終わりが存在する。僕はまだ死ねない。死にたいとはやっぱり一度たりとも思わないし、やり残したことだってある。それでも、彼女の気が済むまでは付き合おうと思う。その結末がどんなものであれ、僕は見届けなければならない。あの日、彼女を止めた僕にはその責務がある。
大阪に来たのは人生で二回目だ。中学校の修学旅行で訪れて以来だったけれど、久しぶりという感じもしなくて、三年という月日はあっという間なんだなと思った。
二年間が地獄のように長かった小学校の時とは大違いだ。大人になると、時間の進みが恐ろしいほど早くて怖くなるって、先生も言っていたっけ。それとはまた少し違う気がするけれど、きっとこれから先、僕の人生はもっと足を速めるのだろう。
「私、タコ苦手なんだよね」
大阪に着いてから聞いた話だった。その何気ない一言が、僕をまた彼女に溺れさせる。
きっと、着く前に言ってしまえば僕が遠慮することを分かっていただろう。その優しさも、僕に隠し事をしないでくれる姿勢も、全部伝わってしまった。
「やっぱり、優しいんだよなあ」
「ん? それ私の真似?」
「そうだよ」
「似せる気ないでしょ~」
彼女の笑顔が眩しい。僕はしっかり笑えているだろうか。作りものじゃない、本物で。
大阪のついでに、奈良と京都も数日かけて観光することにした。平日の昼間に修学旅行生に紛れて、私服で彼女と歩くのはどこか優越感に近いものがある。
「何だか、修学旅行でカップルが抜け出してるみたいだね」
彼女に言われた時は、僕の思考が筒抜けなのかと心配した。
「じゃあ、沖縄行った時は本当に二人で班抜けて観光しようか」
「あっ、そっか。私たち修学旅行まだじゃん」
僕たちの高校は修学旅行が九月だ。忘れていたのか、それとも考える必要が無いのか。話題のチョイスを間違えたかもしれない。
「じゃあ、沖縄でも二人っきりだね。でも、みんなにからかわれるよ?」
バレないようにほっと胸をなでおろす。
「今さらでしょ」
「それもそうだね」
そう言いながら、彼女は僕を撮る。
「またSNSに上げるの?」
「これは違うよ。私だけのもの」
ちょっとずるいなと思った。だから、僕もスマホを取り出して彼女に向ける。それに気が付いた彼女は女子高生らしくポーズを取るのではなく、無邪気に笑って子供のようなピースサインを僕にくれた。
「どう? 私、可愛い?」
「令和版口裂け女か何か?」
「ふふんっ、私からすれば口裂け女ものっぺらぼうだよ」
胸張って言うものだから、つい笑ってしまった。こんな取るに足らないやり取りが、ずっと続けばいいなと思う。
「ねえ、」
雑踏の中、彼女が立ち止まって振り返る。猫のような双眸が、僕の輪郭を捉えていた。
「楽しいね!」
屈託のない笑顔が、不意に僕の胸をざわつかせた。
「そうだね」
「幸せだね!」
「……そうだね」
彼女が僕に手を差し出す。その意味が、僕には分かる。最後まで僕に付いてきてほしいと、手持ち無沙汰に虚空を撫でる小さな手が言っていた。
未だに、何が彼女に希死念慮を抱かせるのか分からない。それでも――。
「だから、次で最後だよ」
名残惜しそうに彼女が言う。
僕は彼女の手を静かに取った。