薄明が世界に浅白く膜を張る。東の縁が切り取られていく様に、また今日へのカウントダウンが始まったと実感できる。あと、一時間もすれば夜明けだ。
一度、ほんの少しの明かりが漏れ出ると、世界は急速に回りだす。視界が色づき始め、空気は徐々に重さを増す。ゆっくりと、それでいて気が付くと一瞬のうちに。
朝が慌ただしいって、よく分かる。
いつも通り他愛のない会話に、彼女はゆっくりと立ち上がることで終止符を打った。さっと荷物をまとめ始める。
「さて、行こっか」
「行くって、どこに?」
差し出された手は結構温かくて、妙に感触が残る。
彼女は答えることなく、荷物を持って歩き出した。こんな時間からどこへ行くというのだろうか。
灯台のある方角へ歩き出した時は心臓が重く悲鳴を上げた。しかし、彼女の足は公園を出てすぐのところで止まった。海沿いにある観光会館とは名ばかりの市民ホールに目が吸われる。昔は定期的に映画が上映されたり、オーケストラの演奏会だったり、少し旬の過ぎたお笑い芸人の漫才ショーが催されていたが、今ではめっきり無くなってしまった。
僕の記憶にあるたった十数年の出来事。それでも、色々と変わり続ける。河口付近のこの沿岸では、昔はモクズガニが素手でいくらでも取れて、小さい頃は友達のお母さんがよく味噌汁をつくってくれた記憶がある。でも、最近では一匹たりとも見なくなった。やっぱり、生物の方が環境の変化には敏感なのだろうか。
幼少期は澄んでいた川が、やけに泡立ち赤く濁っているのを知っている。近くの観光地が発展していく最中、徐々に活気が無くなっていく町の様子を知っている。
町全体が歳を取るように、ゆるやかに腐っていく。
この町が狭く、生き苦しく感じるのは、そんな背景のせいか、それとも僕自身も同じように衰退をたどっているからなのだろうか。
「はい、問題です。このおじさんは誰でしょうか?」
会館横のブロンズ像を指さし、彼女が僕に向き直る。大きな船の像と、一人の男性の胸像だった。目の前が海原なだけあって、船の像はよく映える。どちらもパティナに覆われ、くすんだ緑色を帯びていた。僕が生まれる前からあるものなのだから、歴史の面影があって当然だ。
「三浦按針でしょ?」
「そっ、英名ウィリアム・アダムス。またの名を、青い目のサムライ。かっこいいよね!」
「この町に住んでる人なら、みんな知ってると思うけど。祭りの名前にさえなってるんだし」
「あぁ、按針祭ね。いつもの公園で見ると花火がすごくてさ。知ってる?」
やおら首を振る。
海上に打ちあがる花火を見るには、自分の部屋が特等席だった。なんせ、絶好のオーシャンビュー。花火目当てに来る観光客も大勢いるし、毎年眼下の車道は歩行者天国になるくらいの雑踏だ。だから、僕は自分の部屋から以外で花火を見たことが数える程度にしかない。
「それで、どうして急に三浦按針の話なんて始めたの?」
彼女は再び歩き出す。どうやら、彼女の気まぐれはここだけではないらしい。
「私が尊敬していて、同時にこの人のようにはなるまいと思っている人物だからね。君には知っておいてもらいたくてさ」
彼女の言葉には大きな矛盾が連なっていた。
「なりたくないなら、尊敬は出来ないんじゃないの?」
橋状の車道を渡ると、河口がゆるりと流れる。数年前までホームレスが住んでいたが、いつだったか警察が追い出して以来、桁下空間はただの砂浜がだだっ広く伸びていた。
「ウィリアム・アダムスは慶長五年に日本へ船でやって来た英国人航海士」
彼女は僕の質問を返すことなく、独り言のように語りだす。
「はい、それでは頭の良い君に問題です。慶長五年に日本で起きた大きな出来事と言えば?」
「……関ヶ原の戦い?」
「え、すごっ、何でそんなすらっと答えられちゃうのさ」
「僕たち、受験生だよ……? しかも、文系だし」
何かばつの悪いことでも耳にしたのか、彼女はあからさまに目を背けて続ける。
「大阪城にアダムスを呼んだ家康は、彼のことをめっちゃ気に入ったらしくて、航海術、造船技術、天文学を活かせるように、幕府の外交顧問として重用したと。えらいとんとん拍子だね」
「実際には、航海は他の船が全船沈没や離脱する過酷な旅だったし、日本に着いた途端、海賊扱いされて相当な目にあったらしいけどね」
彼女がじぬりと僕を見る。僕はまた悪い癖が出てしまったことを後悔し、軽いため息を吐いた。彼女が無言で続きを話すように促すから、仕方なく古い記憶を掘り起こす。
「えーっと、確か関ヶ原の戦いが終わった数年後、西洋の船造りを命じられたアダムスが、造船場所として選んだのが、今のこの河口だったかな?」
彼女が満足そうに大きく頷く。
今、僕たちが立っているこの場所でたかだか四百年前、日本初の洋式帆船が建造されたらしい。この川幅で船なんて作れるのだろうかと思ったけれど、昔はもっと川幅が広かったかもしれないし、今のように舗装されてはいなかったのだろう。何にせよ、僕にはすごいことなのかがいまいち分かりにくい。
「でね、その功績が認められて、アダムスは家康から領地とか色んなものと同時に三浦按針って名前を賜ったんだよ。この時、青い目のサムライは誕生したのです」
「へーっ、この時に三浦按針になったんだ」
彼女の怪しみを込めた視線は続いたままだ。
「ほんとぉ?」
「本当に初めて知ったよ」
「はい、私の勝ち―!」
自慢げな顔で喜ぶ彼女。まるで子供みたいだった。
いや、子供なのか。僕も、彼女も、まだ。
「それで、晴れてサムライになった三浦按針はその後、どうなったの?」
「んーとね、幕府とイギリス・オランダの通商に尽力するなどして、日本に残り続けたみたい。そして、家康の死後、アダムスは権力を失い平戸のイギリス商館に追いやられることになる」
「故郷に帰らず、日本のために尽くしてくれてたんだね」
「でも、三浦按針の最期は結構悲しいものでね。家康の死後、日本は対外拠点を長崎と平戸に限定してしまったせいで、外交顧問である三浦按針の仕事は無くなっちゃったんだよ。そのまま家康を追うように元和六年、病気で亡くなったとさ。はい、授業終わり!」
偶然たどり着いた異国の土地で主人を無くし、存在意義すら奪われた三浦按針の心境はどんなものだったのだろうか。幸せだったのか、不幸だったのか、僕には想像しかねる。
「それで、どうして急に三浦按針ツアーなんてやったのさ」
彼女は舗装された川先をゆっくりとなぞるように歩く。等間隔に並んだ柳の隙間から、ちょうど三浦按針に関する資料が展示してある建物が見えた。
「んー、実は私があの朝灯台に行く前、こうやって三浦按針のことを考えてたんだよ。だから、最後に話しておこうと思ってね」
朝日が顔を出す。
「最後……?」
くるっと彼女が身を翻し、僕に向き直る。柳の影が、射し込む朝陽に照らされた彼女の半分を隠した。
「無理心中しよう、とは言わないよ。でも、良かったら付いてくる?」
「どこに……?」
「分かんない。あてのない旅。まあ、一つだけ目的はあるから、最初は西の方へ。その後は決めてない」
「今日も学校だよ?」
彼女は切なげな瞳を下げ、口元に笑みを携えて何も言わなかった。ただ、そっと手が差し出される。
小さな手だ。白磁の手首は簡単に折れちゃいそうなくらい細い。
「出来れば、私は付いてきてほしいと思ってる。こう見えても、私は臆病者なんだよ?」
まだ、目をそらし続けていることがある。
僕がこの手を取ってもいいのだろうか。そんな資格が僕にあるとは思えなかった。
でも、僕がいなければ平和な解決にたどり着くかもしれない。なにより、今ここでこの手を取らなければ、彼女とはもう二度と会えない。うるさいくらいの胸中が、彼女の鋭い眼光が、今にも崩れてしまいそうな儚い気配が、僕にそう告げている。
「……分かった。僕も行くよ」
彼女の手をしっかりと握る。すると、彼女はおぼろげな笑みを零して握り返してくれた。
「それじゃ、行こうか。きっと、楽しくなるね」
僕と彼女の少し背伸びをした旅が始まった。
一度、ほんの少しの明かりが漏れ出ると、世界は急速に回りだす。視界が色づき始め、空気は徐々に重さを増す。ゆっくりと、それでいて気が付くと一瞬のうちに。
朝が慌ただしいって、よく分かる。
いつも通り他愛のない会話に、彼女はゆっくりと立ち上がることで終止符を打った。さっと荷物をまとめ始める。
「さて、行こっか」
「行くって、どこに?」
差し出された手は結構温かくて、妙に感触が残る。
彼女は答えることなく、荷物を持って歩き出した。こんな時間からどこへ行くというのだろうか。
灯台のある方角へ歩き出した時は心臓が重く悲鳴を上げた。しかし、彼女の足は公園を出てすぐのところで止まった。海沿いにある観光会館とは名ばかりの市民ホールに目が吸われる。昔は定期的に映画が上映されたり、オーケストラの演奏会だったり、少し旬の過ぎたお笑い芸人の漫才ショーが催されていたが、今ではめっきり無くなってしまった。
僕の記憶にあるたった十数年の出来事。それでも、色々と変わり続ける。河口付近のこの沿岸では、昔はモクズガニが素手でいくらでも取れて、小さい頃は友達のお母さんがよく味噌汁をつくってくれた記憶がある。でも、最近では一匹たりとも見なくなった。やっぱり、生物の方が環境の変化には敏感なのだろうか。
幼少期は澄んでいた川が、やけに泡立ち赤く濁っているのを知っている。近くの観光地が発展していく最中、徐々に活気が無くなっていく町の様子を知っている。
町全体が歳を取るように、ゆるやかに腐っていく。
この町が狭く、生き苦しく感じるのは、そんな背景のせいか、それとも僕自身も同じように衰退をたどっているからなのだろうか。
「はい、問題です。このおじさんは誰でしょうか?」
会館横のブロンズ像を指さし、彼女が僕に向き直る。大きな船の像と、一人の男性の胸像だった。目の前が海原なだけあって、船の像はよく映える。どちらもパティナに覆われ、くすんだ緑色を帯びていた。僕が生まれる前からあるものなのだから、歴史の面影があって当然だ。
「三浦按針でしょ?」
「そっ、英名ウィリアム・アダムス。またの名を、青い目のサムライ。かっこいいよね!」
「この町に住んでる人なら、みんな知ってると思うけど。祭りの名前にさえなってるんだし」
「あぁ、按針祭ね。いつもの公園で見ると花火がすごくてさ。知ってる?」
やおら首を振る。
海上に打ちあがる花火を見るには、自分の部屋が特等席だった。なんせ、絶好のオーシャンビュー。花火目当てに来る観光客も大勢いるし、毎年眼下の車道は歩行者天国になるくらいの雑踏だ。だから、僕は自分の部屋から以外で花火を見たことが数える程度にしかない。
「それで、どうして急に三浦按針の話なんて始めたの?」
彼女は再び歩き出す。どうやら、彼女の気まぐれはここだけではないらしい。
「私が尊敬していて、同時にこの人のようにはなるまいと思っている人物だからね。君には知っておいてもらいたくてさ」
彼女の言葉には大きな矛盾が連なっていた。
「なりたくないなら、尊敬は出来ないんじゃないの?」
橋状の車道を渡ると、河口がゆるりと流れる。数年前までホームレスが住んでいたが、いつだったか警察が追い出して以来、桁下空間はただの砂浜がだだっ広く伸びていた。
「ウィリアム・アダムスは慶長五年に日本へ船でやって来た英国人航海士」
彼女は僕の質問を返すことなく、独り言のように語りだす。
「はい、それでは頭の良い君に問題です。慶長五年に日本で起きた大きな出来事と言えば?」
「……関ヶ原の戦い?」
「え、すごっ、何でそんなすらっと答えられちゃうのさ」
「僕たち、受験生だよ……? しかも、文系だし」
何かばつの悪いことでも耳にしたのか、彼女はあからさまに目を背けて続ける。
「大阪城にアダムスを呼んだ家康は、彼のことをめっちゃ気に入ったらしくて、航海術、造船技術、天文学を活かせるように、幕府の外交顧問として重用したと。えらいとんとん拍子だね」
「実際には、航海は他の船が全船沈没や離脱する過酷な旅だったし、日本に着いた途端、海賊扱いされて相当な目にあったらしいけどね」
彼女がじぬりと僕を見る。僕はまた悪い癖が出てしまったことを後悔し、軽いため息を吐いた。彼女が無言で続きを話すように促すから、仕方なく古い記憶を掘り起こす。
「えーっと、確か関ヶ原の戦いが終わった数年後、西洋の船造りを命じられたアダムスが、造船場所として選んだのが、今のこの河口だったかな?」
彼女が満足そうに大きく頷く。
今、僕たちが立っているこの場所でたかだか四百年前、日本初の洋式帆船が建造されたらしい。この川幅で船なんて作れるのだろうかと思ったけれど、昔はもっと川幅が広かったかもしれないし、今のように舗装されてはいなかったのだろう。何にせよ、僕にはすごいことなのかがいまいち分かりにくい。
「でね、その功績が認められて、アダムスは家康から領地とか色んなものと同時に三浦按針って名前を賜ったんだよ。この時、青い目のサムライは誕生したのです」
「へーっ、この時に三浦按針になったんだ」
彼女の怪しみを込めた視線は続いたままだ。
「ほんとぉ?」
「本当に初めて知ったよ」
「はい、私の勝ち―!」
自慢げな顔で喜ぶ彼女。まるで子供みたいだった。
いや、子供なのか。僕も、彼女も、まだ。
「それで、晴れてサムライになった三浦按針はその後、どうなったの?」
「んーとね、幕府とイギリス・オランダの通商に尽力するなどして、日本に残り続けたみたい。そして、家康の死後、アダムスは権力を失い平戸のイギリス商館に追いやられることになる」
「故郷に帰らず、日本のために尽くしてくれてたんだね」
「でも、三浦按針の最期は結構悲しいものでね。家康の死後、日本は対外拠点を長崎と平戸に限定してしまったせいで、外交顧問である三浦按針の仕事は無くなっちゃったんだよ。そのまま家康を追うように元和六年、病気で亡くなったとさ。はい、授業終わり!」
偶然たどり着いた異国の土地で主人を無くし、存在意義すら奪われた三浦按針の心境はどんなものだったのだろうか。幸せだったのか、不幸だったのか、僕には想像しかねる。
「それで、どうして急に三浦按針ツアーなんてやったのさ」
彼女は舗装された川先をゆっくりとなぞるように歩く。等間隔に並んだ柳の隙間から、ちょうど三浦按針に関する資料が展示してある建物が見えた。
「んー、実は私があの朝灯台に行く前、こうやって三浦按針のことを考えてたんだよ。だから、最後に話しておこうと思ってね」
朝日が顔を出す。
「最後……?」
くるっと彼女が身を翻し、僕に向き直る。柳の影が、射し込む朝陽に照らされた彼女の半分を隠した。
「無理心中しよう、とは言わないよ。でも、良かったら付いてくる?」
「どこに……?」
「分かんない。あてのない旅。まあ、一つだけ目的はあるから、最初は西の方へ。その後は決めてない」
「今日も学校だよ?」
彼女は切なげな瞳を下げ、口元に笑みを携えて何も言わなかった。ただ、そっと手が差し出される。
小さな手だ。白磁の手首は簡単に折れちゃいそうなくらい細い。
「出来れば、私は付いてきてほしいと思ってる。こう見えても、私は臆病者なんだよ?」
まだ、目をそらし続けていることがある。
僕がこの手を取ってもいいのだろうか。そんな資格が僕にあるとは思えなかった。
でも、僕がいなければ平和な解決にたどり着くかもしれない。なにより、今ここでこの手を取らなければ、彼女とはもう二度と会えない。うるさいくらいの胸中が、彼女の鋭い眼光が、今にも崩れてしまいそうな儚い気配が、僕にそう告げている。
「……分かった。僕も行くよ」
彼女の手をしっかりと握る。すると、彼女はおぼろげな笑みを零して握り返してくれた。
「それじゃ、行こうか。きっと、楽しくなるね」
僕と彼女の少し背伸びをした旅が始まった。