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 無機質なペン先がリズミカルに絶え間なく電子の板を叩く。最初はやたらと気になっていたこの作業音も、聴き慣れれば心地が良い。何気なく本棚から抜き取って開いた少女漫画は、内容が一ミリも頭に入ってこないでいた。
 時間の流れがゆっくりな気がして変な感じだ。窓の外は白波が大きくうねりをあげるような大しけの荒れ模様だというのに、この部屋の中はそんな様子を微塵も感じさせない。
 微睡に誘われて瞼が重たくなる。ずれ落ちそうな身体を起こし、マグカップを手に取ると空だった。

「先生、コーヒーお代わりいる?」

「おぉー、頼む」

 右手と視界は固定したまま、左手で器用にマグカップを差し出す姿はいつも通りだ。
 開き戸を抜けて廊下に出ると、古い木造住宅特有のひたっとした寒さが身体の芯を撫でた。軋む床が祖父母の家を思いださせる。
 キッチンはいつも通りすごく綺麗だった。先生は自炊をしないから、やかん以外の料理器具は全部戸棚の奥に眠ったままだ。
 マグカップを軽く洗い、キッチンペーパーで水気をふき取る。硝子戸を開け、インスタントコーヒーを取り出して、やかんに火を付けた。
 元教え子とはいえ、他人を家の中で勝手に動き回らせて良いのだろうか。同時に今さらか、とも思う。

 両手に持ったコーヒーを零さないように目をやりながら、足で戸を開ける様は自宅さながら。行儀が悪い気がするけれど、どうせ誰も見ちゃいない。
 先生は相変わらず、教師時代と打って変わって無口だ。随分、瘦せたのではないだろうか。

「先生、ご飯食べてるんすか?」

「ん? 何だ急にオカンみたいな」

「いや、また痩せたように見えたから。ってか、老けました?」

 伸びた髭に血色の悪い肌。ちゃんちゃんこから覗く細い腕。どっかの病人なんじゃないか。しかし、本人曰く何の病気も無いし、至って元気らしい。

「そうかぁ? ま、人の目を気にしなくなったせいかもしれねえな」

「先生、一応昼は店開いてるじゃないですか」

 もちろん、今日のような大荒れ模様の日は例外だ。こんな日に釣具店を訪れる物珍しい客なんているはずもないのだから。

「こんな店に来るのはおっさんかガキンチョだけだよ。見た目気にしてどうするってんだ。むしろ、あんまり若く見られると舐められるからな」

 液タブを上目で見やる。失礼は承知で、この人からこの絵が生まれたとは到底思えなかった。それくらい、繊細で生き生きとした少女たちがそこにいる。

「……あの、変な意味じゃないんですけど、どうして少女漫画なんですか?」

 きっと僕が取ることのない選択肢だ。だから、気になった。

「好きだからに決まってるだろ」

 相も変わらず迷いのない言葉。さっきまでの固い口はどこへ行ったのか、少女漫画の良さを諳んじるように語り続ける彼を見て、やっぱり本気なんだと思う。
 数分に及ぶ懐かしい先生の授業を聞き終え、やっと主題を口にした。

「これも変な意味じゃないんですけれど、その……僕なら、恥ずかしいかなぁって思っちゃうんですよ……」

 先生が手を止めて向き直った。そして、「この手の話かい」と呟きながら、伸びたぼさぼさの髪をかき上げてゴムで縛る。うっすらと昔の面影が横切った。

「もう俺は教師じゃねえんだがなあ。おしっ、ちゃちゃっと話してみろ」

 話を切り出したのは僕だというのに、何を話してよいのかよく分からなかった。ただ、最近は胸のつかえが多い。増えたと言うべきだろうか。
 逃げるように含んだコーヒーを口の中で転がす。先生に合わせて薄く作りすぎた。不味い苦みが喉を鳴らす。

「最近、周りの目がすごく気になってて……。何なら中学生の時からそうだったんですけれど、今はもっとと言うか」

「……それで?」

「えっと、勝手に他人の目を気にして色々取り繕って、自分を良いように見せて、代わりに大事なものを捨て置いちゃってるんです。……最悪ですよね」

 先生は「ふぅん……」と大きく息を吐き、静寂をつくる。僕を観察するみたいに視線を彷徨わせる仕草は、少しだけ彼女を思いださせる。

「まあ、あれだな。人の目が気になるのは悪いことじゃないな。気にしないでいると、俺みたいに老けるぞ」

 さっき言った事、ちゃんと効いていたようだ。

「俺ももちろん通った道だが、思春期ってのは何でもかんでも極端なんだよ。だから、人の目を気にするそれもバカでか超特大メガ盛りサイズだ。そりゃあ、気にし過ぎて何かを失うってこともあるだろうよ」

「でも、本当に失っちゃいけないもので……僕にとってはすごく大切なんです」

「大切って分かってんなら、上出来じゃねえか。なら簡単なんだよ。後は加賀が一歩を踏み出すだけだ。ほんの少し、周りの目を気にしなくなればいい。後のことを考えてるから動けねえんだよ」

 そう言って、先生は煙草に火を付けた。有言実行だとでも言いたいのだろうか。

「いいか、加賀。大人になろうとするな。その煩わしい病と向き合うなら、むしろ少しくらい子供になった方が楽だぞ」

「そんなもんですかね……」

「まっ、そんなこと言ったけど、逃げて解決するならじゃんじゃん逃げろよ。世の中、何にでも立ち向かっていってたら身体がいくつあっても足りないぞ。本当に大事なことにだけ、全力で立ち向かうのが一番なんだよ」

「……なんとなく分かります」

「みんな、分かっちゃいるんだ。でも、これが案外難しい。加賀も大人になれば分かるさ」

 煙が逃げる窓の隙間から、斜陽が射し込む。見れば、さっきまで降っていた雨は山向こうに逃げ、アクリル色のような濃い一面の青に夕日が注いでいた。

「なんだ、止んだじゃねえか。ほら、個人面談はおしまいだ。さっさと帰れよ」

 そう言って、先生はまたペンを手に取る。

「さ、最後に一ついいですか?」

「何だ?」

「先生、飛び降りる時ってどんな顔して死にますか……?」

 先生は手を止めない。

「そんなの決まってるね。大笑いしながら死んでやるわ」

 予想した通りの返答に僕は大きく息をついた。

「それじゃ、僕はこれで」

「あ、おい、加賀……っ!」

 聞こえないふりをして玄関まで小走りで廊下を抜ける。軋むドアを開けると、夕暮れの温かな空気が通り抜けた。
 振り返り、顔だけ覗かせた先生に向けて告げる。

「先生、何したらいいのか分からないけれど、とにかく頑張ってみようと思います! 自分なりに、後悔しない大人になるために……!」

 見えなかったけれど、先生は肩をすくめている。そんな気がした。