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『花火、やるよ!』

『夜にってこと?』

『そんなわけないじゃん』

 理不尽な返答だ。花火と言えば、夜だろうに。既読だけ付けて、家を出る。四月の夜明け前は、ちょと肌寒いけれどコートはいらなくなっていた。軽いジャンパーを羽織り、下はいつからか面倒でジャージになった。まるでコンビニに行くような服装だ。でも、この時間帯には相応しい恰好だと思う。
 おかしいのは彼女だ。毎日、帳の降りた海辺に制服で来る女子高生が彼女以外のどこにいるというのか。
 最近、日の出が目に見えて早くなった。起きた時には空は既に淡い光りに侵食されていて、海辺の公園に着くときには陽が昇る直前だ。
 少し、寂しく感じるのは何故だろう。ぼんやりと滲んでいく空を彼女と眺めることは、もう無い。あの時間が嫌いじゃなかった。そのことに今さら気が付く。
 朝の気配を感じさせる軽い空気が、僕にとっては少しだけ煩わしい。

「おっ、来たね。おはよう」

 振り向いた彼女を見て、すぐに気が付いた。色々な考えが瞬間的に脳裏を通り抜けていく。動きを固めた僕を彼女は不思議そうに見つめる。どうしてか、目が合った気がした。

「どうしたの?」

「いや、えっと……。むしろ、どうした……のか聞いてもいいのかな」

 訥々とした喋りに彼女が小さく「あぁ……」と漏らして、そっと左頬に手を添える。手で隠した左頬は微かに熱がこもった赤みを持っていた。睫毛が湿って、目元が少し腫れている。馬鹿でも分かる。泣いた跡だ。

「うーん……」

 彼女は難しそうに唸り、朝焼けの水平線を見遣った。

「言いたくないなら、聞かないよ」

「……引かない?」

「当たり前だよ」

「そっか」

 彼女は傍らのコンビニ袋から湿布を取り出す。

「一応、買っておいたんだ。でも、一目で分かっちゃうくらい腫れてると思わなかった」

 大きな湿布を一枚抜き取り、鋏と一緒に僕に渡す。

「はい、貼って」

 今日ばかりは悪態をつく気にもなれなかった。湿布を小さく切り取る。そっと赤くなった部分に触れると、結構熱かった。

「ねえ、ちょっとドキドキするね」

「……黙ってて」

「ちぇー……」

 湿布を張り、皺が出来ないように上から軽くなぞる。

「さっ、花火やろうか」

 コンビニ袋からやかましい色合いのパッケージを取り出し、彼女はいつも通り明かる気に言った。何だか言葉を発する気になれなくて無言で首肯する。
 僕らは砂浜に移動し、二人でバケツを囲んだ。朝から一体、何をしているのだろうと思わなくもない。でも、それももう慣れた。僕と彼女の間に常識なんてものは通用しないのだから。
 ライターで彼女がそれぞれ手に持った花火に火をつける。刹那の静けさの後、一気に火花が放たれた。

「点いたー! けど、なんか薄いね」

 きっと、暗がりならば赤や緑、黄色など様々な色が混ざり合っていただろうに、先端から柳のようにしな垂れて零れ落ちる火花はやけに色が薄い。白い光の奥にうっすら別の色が見える。その様子がフィルターがかかる夜明けの空気の色と似ているなと思った。

「朝にはぴったりかもね」

 火薬の香りが鼻を衝く。なぜかこの匂いは嫌いになれない。
 火種が尽きては、新しい花火に火を付ける。最後に残るのはやっぱりやたら量の多い線香花火だ。火を付けると、白い火種がぱちぱちと燃える。ぽつぽつと会話をしながら、二人でその様子を耽るようにじっと見つめた。

「……私ね、片親なんだ」

 びっくりするくらいあっさりとした口調で、彼女が吐露する。辛そうには見えなかったから「そうなんだ」と返した。でも、彼女の顔を見続けることは出来なくて、また線香花火に目を落とす。

「私が生まれてすぐにどっか行っちゃったらしいから、私にとってはこれも普通のことなんだけどね」

 小さく頷いた。その意味は、僕自身にも分からない。

「お母さんはスナックやっててね、夜は家にいつもいないんだよ。で、私は昼は学校じゃん? 何日も顔を合わせないのが普通なの」

「朝には帰ってきてるんじゃないの?」

 そう言って、僕は激しく後悔した。地雷原を突っ走るかのような気分だ。

「……ごめん」

「なんで謝るのさ。私にとっては、これだって普通の事なんだよ」

 彼女の抱える普通はいつも僕にとっては普通じゃなくて、なんだか大きな溝がある。分からない。彼女が強がっているのか、それとも本当に普通のことだと思っているのか。

「毎日、こうしてここにいるのと関係ある……よね?」

 彼女は軽く頷く。その唇が、肩が、微かに震えていた。

「たまにさ、知らない男の人を連れて帰って来るんだよ。大抵、すごいお酒臭い。後は、まあ言わなくても何となく想像つくんじゃないかな」

 ふわっと漂う火薬の香りが、今はすごく鬱陶しい。苛立ちすら覚える。

「いつから……。いつから、ここに来るようになったの?」

「中学に入ってからかな。私がその意味を理解した時から、ずっとね」

 そんなにも長い期間、彼女は毎日こうして一人で朝を待っていたというのだろうか。それがどんなに苦痛なのか計り知れない。
 彼女のことを知れば知るほど、僕はどうして良いのか分からなくなる。色々なことから逃げている自分が情けなくて、そう思ってても、まだうじうじと時間が過ぎていくのをただ眺めている。
 ぽろっと頬を何かが伝った。

「えっ……?」

 なぞった跡が、ひんやりと熱を冷ましていく。

「もー、なんで泣くの?」

「あ、いや……。わから、ない。……ごめん」

「謝られることじゃないんだよ。私こそ、変な話しちゃってごめんね」

「そ、そうじゃない! ……違うんだ。話してくれたことは、その、嬉しい。でも、想像してみて、僕なら……それこそ死にたくなるのかなって……」

 最後の線香花火がすっとバケツの中へと落ちていく。澄んだ空気と火薬の残滓が揺蕩う。優し気に僕を見つめる彼女から、なぜか目が離せなかった。

「やっぱり、優しいんだよなあ」

「そんなんじゃないよ。僕は、実はとっても酷いやつなんだ」

 現実から目を背けて、こうして彼女と過ごす夜明けが心地よく感じていて、考えれば考えるほど屑で救いようのない人間だ。彼女が優しいというのは、僕の一面しか知らないから。きっと、本当の僕を知れば、彼女だって僕を軽蔑するだろう。

「人のことを思って泣けるのって、優しいんじゃないの?」

「たとえ優しくったって、一歩を踏み出す勇気が無かったら何の意味も無い。何とやらの持ち腐れだ……」

 自慢げに彼女が「宝だよ」と鼻を鳴らす。〝優しさ〟が宝になりえないと思ったから濁したのだが、どうやら彼女には伝わらなかったらしい。

「じゃあ、私のために一歩を踏み出してもいいんだよ?」

「どういうこと?」

「ふふっ、無理心中。あっ、でも今日話したこととか、病気のことは関係ないんだよ? 全くこれっぽちもってわけじゃないけれど、本当に違うからね?」

 一瞬、それでもいいと思ってしまった。僕さえいなければ、今の僕が抱えている問題事は解決するのだから。いっそのこと、彼女との選択もありなのかもしれない。でも、僕なんかはどうでも良くて、目の前の彼女が世界から居なくなってしまうのはすごくもったいなく思えた。
 さざ波が逃避したい思考を否が応でも引き戻す。

「……僕は自分が一番大事なんだ。だから、自分以外はどうでもいいと思ってる」

「それって、みんなそうじゃない? だって、誰かのために代わりに死ねって言われて、まあこいつのためなら死んでもいいかってなるのなくない? 少なくとも私は誰だろうと、代わりに死んでやるかとはならないよ」

「秋永さん、死のうとしてたんじゃないの?」

「それはそれ。私は私のために死にたいんだよ。誰かに殺されるなんてまっぴらごめん」

 〝殺される〟という表現が彼女らしかった。彼女にも、彼女なりの信念がある。だからこそ、軽率に薄っぺらい言葉で止めるのは薄情だと思った。

「それなら、無理心中だって駄目でしょ」

「……確かに。というか、出来ないや。つまり、誰かのために死ぬってことだもんね」

「結果的には、ね」

 彼女は両手を砂浜について空を仰ぐ。今日は曇り空だった。空が近いと言うことは雲も近いわけで、灰鼠色のそれが少し怖く感じる。

「どうすれば、この人のためなら死んでもいい! って思えるのかな。ドラマとかだと、最愛の人のために犠牲になる的なやつ多いけど」

「そんなベタな……」

 彼女が僕を見る。僕は灰色の雲から目が離せなかった。

「どうせ暇だしさ、そんな存在になってみる?」

 言葉の真意を理解するまでにやや時間を要し、それから彼女の顔を見た。そして、慌てて息をつく。本心、というわけでは無さそうだった。

「告白されてるの?」

「でもさ、彼女くらいじゃ、代わりに死ぬのは無理じゃない?」

「確かに無理だね」

「じゃあ、結婚してみる?」

「馬鹿言ってるんじゃないよ。というか、それでも足りなそう」

「ドライだな〜。まっ、私も同じ意見だけどね」

 結局、頬の怪我については分からずじまいだった。そんなことを話す雰囲気でもなくなってしまったし、彼女に笑みが戻ったのだから、とりたてて聞くことでもない。
 次の日から、彼女の呼び出しは一時間早くなった。