*
彼女は『相貌失認』――別名『失顔症』という病気らしい。人の顔が覚えられない、分からない。生まれつきの先天性と、事故や何らかの要因によって起こりうる後天性があるみたいで、彼女はその前者だった。
症状は個々によって差があるようで、ある人は顔は分かるけれど覚えられない。また、ある人はじっと注視すれば認識できるなど、千差万別みたいだ。
彼女は自分以外の他人の顔に煙がかかっているという、症状としては重度のものだった。目や鼻、眉など顔のパーツすら分からず、体つきや髪型、特徴的な癖、話し方など色々な要素を踏まえて人を認識しているらしい。
そう教えられ、彼女が会った時に必ず全身をすっと見る癖も、まさに今大事そうに抱えているノートにも納得がいった。同時にどこかやりきれない思いを覚える。
当の本人はむしろ伝え足りないようで、僕が話す隙すらなく、諳んじるようにすらすらと語り続けた。
「私はめっちゃひどいタイプらしいけど、病院の先生曰く百人に一人はこの病気らしいよ。最初は悲劇のヒロインだなんて思ったけど、結構ポピュラーなんだよね実は」
つまり、僕らの学校内でも三人程度は彼女と同じ病気ということになる。しかし、僕は『相貌失認』という病気だと自負する人には今まで出会ったことがなかった。もしかしたら、彼女と同じように隠しているだけかもしれない。しかし、大半は軽い症状の人が多いらしく、人の顔を覚えるのが苦手程度の認識で、自らがれっきとした病気だと知らない人もたくさんいるのだろう。
口が重たい僕は、彼女の話にひたすら相槌を打つに過ぎない。聞いていい範囲の見定めがずっと出来ないでいた。
「大変な病気なんだね……」
ややあって、結局そんなありきたりな感想を述べるしかなかった。
「別に大変とか感じたことないけどなあ」
「つ、辛くはないの?」
「だって、生まれつきなんだもん」
何の嫌みも含まず、彼女は即答した。そう言われれば、そうなのかもしれない。つらい、大変、そんな憐憫な考えは僕のエゴだ。彼女の日常を、僕が勝手に暗澹だと解釈してしまったに過ぎない。
「見えないのは顔だけなんだよね……?」
「そうだよ。なんでだろうね。髪型とか、服装は鮮明に見えるのに。だから、声とか、髪型とか、服装で人を見極めるんだよ」
だから灯台での彼女は最初に敬語だったのか。僕が制服を着ていなかったから、見ず知らずの人だと彼女は判断したわけだ。彼女がクラスの全員に態度が変わらないのも、もしかしたら人を間違えないようにするためなのかもしれない。
「みんなだって、後ろ姿とかの時はそうやって判別するでしょ? 同じだよ。私はそれを正面からでもやっているだけ」
分かりやすい例えに、ようやく彼女の世界を少しだけ想像することが出来た。それが生まれつきとなれば、確かに悲観することもないように思える。しかし、それでもやっぱり僕はどうしても可哀そうだと感じてしまう。失礼なことなのは分かっている。でも、すぐにこの考えを割り切るのは難しい。だって、僕には今だってこうして人を容易に見初めさせる彼女の顔を見れているのだから。
聞いてみたかった。でも、聞いちゃいけないことだった。もしかしたら、彼女を傷つけるかもしれない。それでも、天秤にかければ本当にわずかに傾いてしまった。勇気なんてもちろんない。臆病風に吹かれ続けてきた僕だ。でも、これだけは聞かなくてはならなかった。
「そ、その……いじめとか、そう言うのは……」
訥々と話す僕に、彼女は「残念ながら、ね」と呆れたように息をつく。
「小学生の時に一度だけクラスのみんなにバレちゃったんだよ。隠してたつもりだったんだけど、当時は要領も悪くて、よく人を間違えちゃってたし」
バケツの中でじっとする魚に、彼女は壁越しにツンと突く。水面がわずかに揺れるが、当の魚はじっと身を静かにさせたままだった。
「ここで大層な作品だとすれば、私は壮絶ないじめにあうわけ。頭から水被ったり、ノートびりびりに破かれたり。先生は見て見ぬふりしちゃってね。そうなってれば、それこそ別の意味で飛び降りたくなってたのかもしれないかな。そんな別ルートも、多分あったんだよ」
「でも、そうはならなかったんでしょ?」
彼女は目を伏せる。いじめが無くて良かったはずなのに、すごく悲しそうに見えた。
「そうだね。私は主人公でもヒロインでもないからね。でも、結果的に私は傷ついたんだよ?」
「……どうしてって、聞いてもいいのかな」
彼女は僕を見てくすっと笑う。また優しいやつとか思われたのだろうか。この話題を彼女から引き出した時点で、僕は悪いやつなのに。
「ただ、ひたすらにみんな優しかったんだ。変に気を遣われてさ、とにかく豹変したみんなの優しさが気持ち悪くて、辛くて、こんな思いをするならちゃんと隠し通そうって決めた。結局、またバレちゃったけどね」
彼女が僕に向き直る。僕は動けないままでいた。
「おはよう! あっ、私、夏奈ね。音子ちゃん気を付けて。今日、飯田先生初めて見る服着てたから」
わずかに高くつくった声だった。そこに感情は見えない。
「どう? これ毎日色んな人にやられたよ」
「僕なら……きっと、辛いと思う」
どうしてこんな時ですら、ありきたりな言葉しか出てこないのだろう。きっと僕は人の感情の機微に疎いのだ。もっと、相応しい言葉があるはずなのにそれが出てこない。
「私は普通でいたいだけなのに、ね……」
「普通じゃないってのは、僕もある意味では一緒だから、ちょっとだけ分かるかも」
僕の言葉に彼女はきょとんとし、ややあって思いだしたように声をあげる。
「そうじゃん! 私たち、似た者同士ってこと?」
「どうだろ。ある意味では、そうなのかな」
「こんなところにいたのか同志よー!」
バケツの魚がやけにせわしなく回遊し始める。すっかり昇った太陽を見て、多分遅刻だなと思った。でも、そんなことどうでもよくて、僕はぱたりと倒れて背中を地面につけた。
彼女は嬉しそうな顔で僕を真似て寝転がる。
空が近い。手を伸ばしても届きそうとは言わないけれど、もしかしたら何か物を思いっきり投げたら、その青い壁にぶつかって落ちてくるかもしれない。こんなにも開放的な場所なのに、窮屈で息苦しく感じた。
「あーあっ!」
急に隣の彼女が大きな声を出した。横目で彼女を見る。彫刻像のように綺麗な鼻筋がまっすぐ上を向いていた。
「どうしたの?」
「本当、とことんドラマとか漫画みたいにならないなって。私は生まれつきの病気が原因で、小学校からずっといじめられ続ける悲劇のヒロイン。そして、海でしょげていたところをなぜかいつも一緒にいてくれる男の子。そして、二人は恋に落ちて愛の逃避行――。どう?」
少しだけ、昔の記憶がフラッシュバックした。奇しくも、同じく小学生の時だ。
「ありきたりだね。あんまり面白くなさそう」
「だよね~。でも、やっぱりちょっと憧れるなあ。子供のまま抗う感じ? 逃避行ってそういうことじゃん? 全てを投げ捨てて、その人との時間を止めるために現実から逃げるんだもん」
「随分とロマンチックな言い回しだね。僕はひねくれてるから、ただ現実から逃げているように思えるけど」
そう、今の僕みたいに。
「知らないの? 逃げるが勝ちって言葉があってだね」
小学生でも知っていることわざを彼女は自慢げに語る。
「三十六計逃げるに如かず、ね」
「なにそれ?」
「逃げるが勝ちの元ネタ的なやつ」
「頭良いのやめてよー。恥ずかしいじゃん」
「わざとだよ」
「性格悪いなぁ。嫌な大人みたい」
笑いながら彼女は言った。ノートを開き、何かを書きこむ。見てはいけない気がして、目をそらした。
波の音に乗せてぽつりと呟く。
「……何書いたの?」
「ん? 君が性格悪いってね」
「うわぁ……」
「嘘だよ。本当は博識って書いた」
「性格悪いね」
「ふふんっ、お返しです」
無邪気に笑う彼女は、とても綺麗だった。そう感じた僕は、やっぱりまだ罪悪感に駆られていた。