どこまでも続く水平線を前にして思う。
 ここから飛び降りる人は、最期に何を見るのだろうか。ほんの一瞬だけよぎった、非生産的な疑問だった。
 突き抜けるような青白さを犯すように東側を燃やす大空。遠くの濃い青に染まる海原。それとも、近くで波立つ浅い水色の海辺を、海月のように揺蕩(たゆた)う光の波紋だろうか。
 最後のは灯台の上からではよく見えないから、ただの僕の妄想だ。もしかしたら、僕と同じように目に映っていない何かを思い描きながらなのかもしれない。
 どれもこれも、実にありきたり。別に死にたいとか考えているわけじゃない僕には、きっと到底想像しきれないのだろう。
 無意味な時間に区切りを付けようと思った瞬間、不意に浮かんだ。家族とか、愛する人とか、大切な何かを見ながらなのでは? はたまた、自分の顔を鏡で見ながらだったりするのかもしれない。とんでもない自己陶酔。しかし、ナルシシズムの人が自殺なんてするのだろうか。

 遠くの方で船が汽笛を鳴らす。ぷぅおぉぉーん、と頭の中で文字に起こせば随分と間抜けな音だ。しかし、僕にすら馬鹿にされてしまう音にも警告だったり、進行方向を示す役割が一応、しっかりとあるらしい。
 朝の海は結構騒がしい。汽笛もそうだが、何十羽と群れになって飛び交う海鳥は常にぴゅーいと甲高く鳴くし、それに対抗して(からす)が時折お馴染みの鳴き声を響かせる。真下では防波堤やら消波ブロックが白い波を打ち上げ、さらに耳をすませば後方に通る国道を車が行き交う。さながら、ラジオ越しのジャズを聞いている気分。夏はさらに蝉の管楽器が追加されるのだから、今はまだましなもんだ。
 だから、僕はノイズ交じりな音楽に気を取られ、鉄階段を登ってくる小さな足音に気が付けなかった。

「あの、順番待ちなんですけど」

 不意に耳をなぞった人の声に、思わず肩が飛び跳ねる。あまりにも予想外。まさか、早朝の灯台にわざわざ人が来るなんてこれっぽっちも予想していなかった。いや、予想できるわけがない。
 見れば、よく知っている人物だった。僕の首ほどにも満たない小柄で控えめな体躯。肩にかかる艶のある黒い髪。白目と黒目のコントラストがはっきりとした猫のようなシャープな目。色素が薄いのを隠すように色付きのリップクリームが塗られた小ぶりな唇。
 その少女――秋永(あきなが)音子(ねこ)はじっと僕を見つめていた。毎日、教室で見る制服に身を包み、そこにいたのだ。

「なんで、敬語?」

 思わず口を衝いて出た疑問だった。どうして彼女がここにいるのかということより、僕は無意識にそっちの方が気になったらしい。
 僕の言葉に彼女は少しだけ眉を寄せ、視線を僕の足元へ向けた。そして、ゆっくりと慎重に顔を上げていく。胸元を通り過ぎ、首へ。顔はさらっと流し、髪を毛先までじっくりと吟味するように眺める。一体、彼女は何をしているのだろうか。

「もう一回喋って」

「えっと、どういうこと?」

「あぁ、おーけー! おはよう、奏汰(かなた)

 その瞬間、胸が飛び跳ねた。一月の海風が耳に沁みて、ズキズキとした痛みすら感じる。
 ややあって、口を開く。

「……奏弟(かなで)だよ。……秋永さん」

 若干の気まずさと、相当な後ろめたさに視線をそらした。

「えっ!? うそっ、ごめん!」

 彼女は慌てて顔の前で手を合わせた。

「いや、よくあることだから」

「本当にごめんよ~。私、今コンタクト付けてなくてさ、視界ぼやぼやなんだ」

 僕と彼女の距離はそう遠くない。むしろ、僕を認識するために彼女が近寄ったせいで、せいぜい数歩くらいしか間隔がない。

「秋永さん、目悪かったんだね」

「そうだよ。だから、コンタクト付けてないときはよく人を間違えちゃうの。許してっ!」

 朝陽に良く似合う笑みを浮かべ、彼女が片目を閉じてウインクをする。流石は容姿の整った彼女だ。そのポーズが似合う人は数少ない。

「別に最初から怒ってないよ。……それじゃ、僕はもう行くから」

 居心地が悪くて、彼女の脇をすり抜けて階段に足をかける。一刻も早く、この場を去りたかった。朝起きてから、今までの一連の行動に後悔しかない。

「あっ、待って!」

 振り向くと、彼女はなんとも読み取りづらい表情を浮かべていた。焦っているような、それでいてちょっと怒っている風にも見える。その理由は、まあ何となく想像が付く。
 だから、彼女が次の言葉を出す前に答えておいた。

「大丈夫。誰にも言わないよ」

「――っ」

「でも、少し――いや、だいぶ罪悪感があるからさ、今日は止めといてくれない?」

 彼女は何も言わなかった。ただ、静かに僕から目を離して水平線へと向ける。その横顔が、不謹慎にもとても美しいと思えてしまった。
 一つ鉄の段を降りて、僕は思いだす。

「あのさ、」

「……何?」

 彼女は僕を見ない。

「さいごは何を見る予定だったの?」

 オーケストラが空気を読んだようにぴたっと止まる。聞いたのは自分なのに、緊張感が漂う空気に喉の奥が乾いた。そもそも、説明不足な言葉で彼女に通じたのだろうか。
 ややあって、彼女は静かに目を閉じた。
 なるほど、そういう選択肢もあったのか。
 僕は一人で納得した。