【side:ヒスイ】
教育実習も残り二日。
澪の一件は、穏便に済ませるということになったらしい。施錠担当の先生が、責任問題になるのを恐れて教頭先生に泣きついたのだと、山内先生がこっそり教えてくれた。
澪の幼馴染の立木くんは、山内先生から連絡を受けて学校まで飛んで来て、澪のことを心配していたようで、その後に二人はしっかり仲直りすることができたようだった。
今日は、天文部の部室で文化祭で使うダンボールの間接照明をみんなで作っている。とり部員の芝野さんが出した「天文部の星明かりカフェ」という名前が、これも全員賛成で決定した。
「ヒスイ様があと二日で終わりなんて……。せめて文化祭まで居てほしかったな」
「文化祭当日は、遊びに来るよ」
教育実習が終わってしまうことを、みんな寂しく思ってくれている。
もちろん俺も実習が終わるのを寂しく思う反面、少しだけ待ち遠しい気持ちもあった。
『この教育実習が終わって、俺と君が先生と生徒じゃなくなったら、その時は俺に言わせて欲しいんだ。実習後に、伝えたい言葉があるから聞いて欲しい』
ようやく、想いを伝えることができる。
澪があんなにも真っ直ぐに想いを伝えてくれた。
その気持ちに、早く応えたい。
そう思うと、普段より鼓動が激しく脈打ったような気がした。
*****
そして、教育実習最終日。
俺と澪は、学校から近い公園で待ち合わせをしていた。さすがに、そのまま学校から一緒に帰るのは気が引けて掃除当番で遅くなる澪より先に学校を後にしたのだ。
ブランコに腰掛け、クラスの生徒から貰った寄せ書きを読んでいると、じんわり胸の奥が温かくなってくる。わずか二週間の期間限定教師に、クラスのみんなは沢山の素敵なコメントを書いてくれていた。
『ヒスイ先生の授業、分かりやすかった!』
『最後に全員でプリン食べたの楽しかったね!』
そんなメッセージの中に澪のものを見つけて、俺はその文字をそっと指でなぞる。
『ヒスイ先生に出会えて幸せです』
照れ臭い気持ちと愛しい気持ちが一気に込み上げてきて、こちらまで幸せになった。
それを眺めていると、不意にどこかで、もっと大切な一言を澪から告げられた事があるような気がしてきたのだ。
「もしかして……」
俺はスーツの内ポケットに手を伸ばす。そこには、俺の宝物が入っていた。
それは、白に一滴青色を混ぜ合わせたようなホワイトブルーの封筒だ。その色は、冬の夜空を代表する一等星、シリウスの輝きと同じ色をしている。その封筒の中には、同じ色の『何も書かれていない』便箋が入っていた。
だからなぜ、この封筒と便箋が大切で仕方ないのか。どうして、これを宝物だと思っているのか。ずっとその答えが分からないまま、それでも俺はこの封筒を御守りのように大切に持ち続けていた。
その便箋には、誰かのありったけの想いが綴られていたような気がしてならない。そしてその誰かは、澪なのではないかと、都合のいい事を考えた自分に苦笑する。
「そんな事、あるはずないのに……」
ポツリとつぶやいた時、公園の砂を踏む足音が聞こえて、俺は封筒から視線を上げた。駆け付けた澪が、俺の手の中にある封筒を凝視し、目を大きく開けて固まっている。
「ヒスイ先生。それ……」
「え?」
「その封筒は、私が持っていたものです」
澪の言葉に俺は息を飲む。
先程まで、自分もそうならいいのにと考えていたが、どうして澪はこれが自分の物だと、こんなにもはっきりと言い切れるのだろう。印象的な色ではあるが、特別変わった仕様の封筒ではないように思う。
「小学生の頃、文具メーカーの工場にクラスの女子数名で職場見学に行きました。沢山のレターセットが機械で作られているのを、期間限定で見学できるものでした」
その時、特別に自分の好きな色を指定し、この世でたった一通の自分だけのレターセットを作るという体験学習をさせてもらった。澪は、沢山のカラーコード(色見本)から、この独特の青を選んだという。
「だから、売られている物じゃないんです。非売品として、封筒の右隅に工場見学に行った日付が小さく印字されているはずです」
「まさか……!」
二人同時に封筒の右隅を見た。
そこには、確かに日付が記されている。
「その日です! どうして……? ヒスイ先生がこれを?」
この封筒と便箋は、いつのまにか澪の手元からなくなっていたらしい。
「私、大切な誰かにこの封筒と便箋を使って手紙を書いた気がするんです。どうしても、伝えたい大切な想いを手紙に込めて渡しました。でもずっと、誰に渡したのか、私は何を書いたのか。その二つを思い出そうとする度に涙が溢れて……」
俺と澪の視線が、真正面から重なり合う。
「出会ってたんだよ。俺たち」
確かに俺は、澪からこの手紙を貰った。
そして澪も、俺に想いを伝えてくれた。
俺の心の中にいる『誰か』は澪で、澪の心の中にいる『誰か』は俺だった。初めて会った日から再会の喜びに心が震えたのは、きっとどこかで出会い、そして恋をしたからだと確信する。
この手紙に、綴られていた言葉はどんなものだったのか。
思い出せ。思考ではなく、心で、その言葉を思い出せ。
『 だけです』
靄のかかった記憶の中で、鳴り止まない鼓動が必死にそれを伝えようとしている。
『 です。それだけです』
ーーあ!
その時、俺の低音の声と、澪の柔らかな高音の声が同時に音となり重なった。
「好きです。それだけです」
どうしてこんなにも愛しい言葉を、二人同時に記憶から失っていたのか。言葉を思い出せた今も、そこだけはどうしても分からないままだった。
けれどもう、理由なんかいらない。
そんなもの無くても、こうして二人はまた恋に落ちたのだ。
「ヒスイせんせ、」
先生と言おうとした澪の唇に、そっと人差し指で触れて、俺はその言葉を制した。
「俺のこと、もう先生って呼ぶのは禁止だよ」
先生と生徒の立場のままでは言えなかった言葉を、どうしても伝えたいから……。ただの大学生と高校生に早く戻りたかった。
指先で触れた澪の唇。
その柔らかさと温もりが、皮膚を通してリアルに伝わってくる。
もう二度と、手放したりしない。
愛しさと同時に、そんな独占欲まで込み上げてきた。
「澪」
名前を呼ぶと、真っ赤になった澪が微笑む。
「俺のことは、なんて呼んでくれるの?」
唇から指を離して問い掛けると、澪が照れくさそうにつぶやいた。
「ヒスイさん……」
「聞こえなかったから、もう一回呼んでよ」
本当はちゃんと聞こえていたのに、何度もそう呼んで欲しくてイジワルをする。
「ヒスイさん!」
「澪」
これからは二人で、同時に手放した記憶のカケラを集めていきたい。そう、強く願う。そして澪の髪に触れ、俺はその華奢な身体を引き寄せた。
「俺も君のことが、」
その時。
澪の手にある携帯の画面が明るい光を放ち、ディスプレイに『お母さん』と電話の相手が表示されているのが見えた。
想いを伝えたかったが、「早く出てあげな」と、そう促すと、「すみません」と一言告げて澪が電話に出る。
いつの間にか、空は真っ暗になっていた。
澪の電話が終わるのを待って、俺は声を掛ける。
「大丈夫だった? 家まで送るよ」
「はい。有り難うございます」
そして、二人並んで公園を後にした。言いそびれた告白は、次の機会に持ち越しだ。
「あの……さっき、電話の前に……。ヒスイさんが伝えようとしてくれたこと……途中になっちゃったから……」
澪が照れながら、こちらを見上げてくる。
「うん。改めてちゃんと伝えたいから、今週の日曜日、空いてる?」
「はい! 空いてます! なんにもないです! 大丈夫です! 何時でも平気です!」
俺の言葉に瞳を輝かせて嬉しそうに見上げてくる澪の反応が、どうしようもなく可愛くて、堪らないほど愛しくなる。
「じゃあ、デートしようか?」
「はい! あの……、待合せは、駅前の噴水広場がいいです」
そこでデートの待ち合わせをするのが、澪の憧れらしい。そこまで話して、二人同時に足を止めた。
「もしかして……その待ち合わせも記憶にないだけで、二回目だったりするのか?」
「私も今、同じことを考えました」
顔を見合わせ、クスクスと笑いあう。
俺はそっと澪の手を握り締めた。
自分より小さなその手が、ギュッと握り返したのが温もりで伝わってくる。
ふと見上げた空の低い位置に、みなみのうお座のフォーマルハウトが見えた。
秋の夜空にたった一つだけある一等星。
「秋の一つ星ですね」
「うん」
フォーマルハウトのことを日本ではそう呼ぶ。
そんな一等星の輝きを見つめながら、俺は思う。
二人の身に起こった記憶を失う出来事。
胸に残る不確かな記憶は、ずっと悲しく切ないものだった。けれどその想いを澪と共有できた事で、それが今、二人だけの不思議な『特別』へと塗り変わっていく。
この先もきっと、欠けた記憶に悩まされることがあるかもしれない。
それでも二人なら乗り越えられるような気がしていた。
教育実習も残り二日。
澪の一件は、穏便に済ませるということになったらしい。施錠担当の先生が、責任問題になるのを恐れて教頭先生に泣きついたのだと、山内先生がこっそり教えてくれた。
澪の幼馴染の立木くんは、山内先生から連絡を受けて学校まで飛んで来て、澪のことを心配していたようで、その後に二人はしっかり仲直りすることができたようだった。
今日は、天文部の部室で文化祭で使うダンボールの間接照明をみんなで作っている。とり部員の芝野さんが出した「天文部の星明かりカフェ」という名前が、これも全員賛成で決定した。
「ヒスイ様があと二日で終わりなんて……。せめて文化祭まで居てほしかったな」
「文化祭当日は、遊びに来るよ」
教育実習が終わってしまうことを、みんな寂しく思ってくれている。
もちろん俺も実習が終わるのを寂しく思う反面、少しだけ待ち遠しい気持ちもあった。
『この教育実習が終わって、俺と君が先生と生徒じゃなくなったら、その時は俺に言わせて欲しいんだ。実習後に、伝えたい言葉があるから聞いて欲しい』
ようやく、想いを伝えることができる。
澪があんなにも真っ直ぐに想いを伝えてくれた。
その気持ちに、早く応えたい。
そう思うと、普段より鼓動が激しく脈打ったような気がした。
*****
そして、教育実習最終日。
俺と澪は、学校から近い公園で待ち合わせをしていた。さすがに、そのまま学校から一緒に帰るのは気が引けて掃除当番で遅くなる澪より先に学校を後にしたのだ。
ブランコに腰掛け、クラスの生徒から貰った寄せ書きを読んでいると、じんわり胸の奥が温かくなってくる。わずか二週間の期間限定教師に、クラスのみんなは沢山の素敵なコメントを書いてくれていた。
『ヒスイ先生の授業、分かりやすかった!』
『最後に全員でプリン食べたの楽しかったね!』
そんなメッセージの中に澪のものを見つけて、俺はその文字をそっと指でなぞる。
『ヒスイ先生に出会えて幸せです』
照れ臭い気持ちと愛しい気持ちが一気に込み上げてきて、こちらまで幸せになった。
それを眺めていると、不意にどこかで、もっと大切な一言を澪から告げられた事があるような気がしてきたのだ。
「もしかして……」
俺はスーツの内ポケットに手を伸ばす。そこには、俺の宝物が入っていた。
それは、白に一滴青色を混ぜ合わせたようなホワイトブルーの封筒だ。その色は、冬の夜空を代表する一等星、シリウスの輝きと同じ色をしている。その封筒の中には、同じ色の『何も書かれていない』便箋が入っていた。
だからなぜ、この封筒と便箋が大切で仕方ないのか。どうして、これを宝物だと思っているのか。ずっとその答えが分からないまま、それでも俺はこの封筒を御守りのように大切に持ち続けていた。
その便箋には、誰かのありったけの想いが綴られていたような気がしてならない。そしてその誰かは、澪なのではないかと、都合のいい事を考えた自分に苦笑する。
「そんな事、あるはずないのに……」
ポツリとつぶやいた時、公園の砂を踏む足音が聞こえて、俺は封筒から視線を上げた。駆け付けた澪が、俺の手の中にある封筒を凝視し、目を大きく開けて固まっている。
「ヒスイ先生。それ……」
「え?」
「その封筒は、私が持っていたものです」
澪の言葉に俺は息を飲む。
先程まで、自分もそうならいいのにと考えていたが、どうして澪はこれが自分の物だと、こんなにもはっきりと言い切れるのだろう。印象的な色ではあるが、特別変わった仕様の封筒ではないように思う。
「小学生の頃、文具メーカーの工場にクラスの女子数名で職場見学に行きました。沢山のレターセットが機械で作られているのを、期間限定で見学できるものでした」
その時、特別に自分の好きな色を指定し、この世でたった一通の自分だけのレターセットを作るという体験学習をさせてもらった。澪は、沢山のカラーコード(色見本)から、この独特の青を選んだという。
「だから、売られている物じゃないんです。非売品として、封筒の右隅に工場見学に行った日付が小さく印字されているはずです」
「まさか……!」
二人同時に封筒の右隅を見た。
そこには、確かに日付が記されている。
「その日です! どうして……? ヒスイ先生がこれを?」
この封筒と便箋は、いつのまにか澪の手元からなくなっていたらしい。
「私、大切な誰かにこの封筒と便箋を使って手紙を書いた気がするんです。どうしても、伝えたい大切な想いを手紙に込めて渡しました。でもずっと、誰に渡したのか、私は何を書いたのか。その二つを思い出そうとする度に涙が溢れて……」
俺と澪の視線が、真正面から重なり合う。
「出会ってたんだよ。俺たち」
確かに俺は、澪からこの手紙を貰った。
そして澪も、俺に想いを伝えてくれた。
俺の心の中にいる『誰か』は澪で、澪の心の中にいる『誰か』は俺だった。初めて会った日から再会の喜びに心が震えたのは、きっとどこかで出会い、そして恋をしたからだと確信する。
この手紙に、綴られていた言葉はどんなものだったのか。
思い出せ。思考ではなく、心で、その言葉を思い出せ。
『 だけです』
靄のかかった記憶の中で、鳴り止まない鼓動が必死にそれを伝えようとしている。
『 です。それだけです』
ーーあ!
その時、俺の低音の声と、澪の柔らかな高音の声が同時に音となり重なった。
「好きです。それだけです」
どうしてこんなにも愛しい言葉を、二人同時に記憶から失っていたのか。言葉を思い出せた今も、そこだけはどうしても分からないままだった。
けれどもう、理由なんかいらない。
そんなもの無くても、こうして二人はまた恋に落ちたのだ。
「ヒスイせんせ、」
先生と言おうとした澪の唇に、そっと人差し指で触れて、俺はその言葉を制した。
「俺のこと、もう先生って呼ぶのは禁止だよ」
先生と生徒の立場のままでは言えなかった言葉を、どうしても伝えたいから……。ただの大学生と高校生に早く戻りたかった。
指先で触れた澪の唇。
その柔らかさと温もりが、皮膚を通してリアルに伝わってくる。
もう二度と、手放したりしない。
愛しさと同時に、そんな独占欲まで込み上げてきた。
「澪」
名前を呼ぶと、真っ赤になった澪が微笑む。
「俺のことは、なんて呼んでくれるの?」
唇から指を離して問い掛けると、澪が照れくさそうにつぶやいた。
「ヒスイさん……」
「聞こえなかったから、もう一回呼んでよ」
本当はちゃんと聞こえていたのに、何度もそう呼んで欲しくてイジワルをする。
「ヒスイさん!」
「澪」
これからは二人で、同時に手放した記憶のカケラを集めていきたい。そう、強く願う。そして澪の髪に触れ、俺はその華奢な身体を引き寄せた。
「俺も君のことが、」
その時。
澪の手にある携帯の画面が明るい光を放ち、ディスプレイに『お母さん』と電話の相手が表示されているのが見えた。
想いを伝えたかったが、「早く出てあげな」と、そう促すと、「すみません」と一言告げて澪が電話に出る。
いつの間にか、空は真っ暗になっていた。
澪の電話が終わるのを待って、俺は声を掛ける。
「大丈夫だった? 家まで送るよ」
「はい。有り難うございます」
そして、二人並んで公園を後にした。言いそびれた告白は、次の機会に持ち越しだ。
「あの……さっき、電話の前に……。ヒスイさんが伝えようとしてくれたこと……途中になっちゃったから……」
澪が照れながら、こちらを見上げてくる。
「うん。改めてちゃんと伝えたいから、今週の日曜日、空いてる?」
「はい! 空いてます! なんにもないです! 大丈夫です! 何時でも平気です!」
俺の言葉に瞳を輝かせて嬉しそうに見上げてくる澪の反応が、どうしようもなく可愛くて、堪らないほど愛しくなる。
「じゃあ、デートしようか?」
「はい! あの……、待合せは、駅前の噴水広場がいいです」
そこでデートの待ち合わせをするのが、澪の憧れらしい。そこまで話して、二人同時に足を止めた。
「もしかして……その待ち合わせも記憶にないだけで、二回目だったりするのか?」
「私も今、同じことを考えました」
顔を見合わせ、クスクスと笑いあう。
俺はそっと澪の手を握り締めた。
自分より小さなその手が、ギュッと握り返したのが温もりで伝わってくる。
ふと見上げた空の低い位置に、みなみのうお座のフォーマルハウトが見えた。
秋の夜空にたった一つだけある一等星。
「秋の一つ星ですね」
「うん」
フォーマルハウトのことを日本ではそう呼ぶ。
そんな一等星の輝きを見つめながら、俺は思う。
二人の身に起こった記憶を失う出来事。
胸に残る不確かな記憶は、ずっと悲しく切ないものだった。けれどその想いを澪と共有できた事で、それが今、二人だけの不思議な『特別』へと塗り変わっていく。
この先もきっと、欠けた記憶に悩まされることがあるかもしれない。
それでも二人なら乗り越えられるような気がしていた。