【side:ヒスイ】
俺は学校まで戻ってくると、職員室へ向かった。
山内先生はまだ残っていたようで、先生に声をかける。
「あれ? 神崎くん、どうしたの?」
「携帯を二年三組の教室に忘れたみたいで」
「鍵当番の先生がもう施錠済みだと思うから、ちょっと待ってね」
山内先生が沢山の鍵がかかったボックスから教室の鍵を取って渡してくれた。
「ありがとうざいます。すぐに戻しにきます」
俺は駆け足で三組の教室まで来ると中に入った。夜の静まり返った学校は、怪談話を思い出して怖くなってくる。机の上を見渡すと、彼女が座っていた窓際の近くの席に俺の携帯があった。
「よかった」
ポケットに入れて、教室を出ようとした時、彼女の机の横のフックにまだ鞄がある事に気づく。
「え?」
鍵がかかっていたのに、どういうことだ。
鞄を持たずに帰ることは考えられない。
「奥井さん!」
俺は廊下に出て呼びかける。女子トイレの前まで行き、大きな声で呼んでみたが返事はなかった。
途端に、何か嫌な予感がして俺は走りだす。彼女の身に、何かあったとしか思えない状況だった。
あの幼馴染と一緒に帰ったんじゃないのか。
「奥井さん! 奥井さんっ」
とりあえず思いつく場所は、天文部の部室だ。
「クソッ、特別教室棟の一番奥だ」
俺は本館から続く長い渡り廊下を全力で走る。
何もなければいい。ただの杞憂に終わるのならそれでいい。楽しそうに、部室で話をしているだけならそれでいいのだ。
「……はぁ、っ……」
息を切らして駆けつけた部室は真っ暗で、鍵もかかっていた。念のため廊下から名前を呼んでみたが、やはり返事はない。
「奥井さんっ!」
もう一度叫んだ声が、静かな廊下に反響する。
俺はもう一度教室まで戻ってくると、奥井さんの鞄を持って職員室へ急いだ。
「山内先生っ!」
「どうしたの? そんなに息を切らして」
「奥井さんの鞄が、まだ教室にあったんです」
「え? 教室は施錠されていたのに?」
「そうです。学校のどこかにまだいるのかもしれません。俺はもう一度校内を見てくるので、先生は個人名簿で五組の立木くんに連絡をとって下さい。彼と奥井さんは、一緒に帰ったはずなんです」
「分かった。五組の立木くんだね」
「よろしくお願いします」
俺はそう言うなり、また走り出した。
どこだ? 考えろ。
彼女が行きそうな場所。恐らく鍵を掛けられて、出られなくなるような……。
「屋上か!」
俺はまた職員室に戻り、キーボックスから屋上の鍵をとる。そして全力で、広い校内を走った。秋の夜。遮る壁のない屋上には、相当強い風が吹きつけている。真冬でないことが、唯一の救いかもしれない。
全力で走る俺の脳裏には、必死に涙を堪え、それでも堪えきれずに涙する彼女の顔が浮かんでいた。
『ヒスイさん……私、あなたのことが……』
かつて、その言葉の続きを遮ったのは自分だ。目の前で崩れ落ちていく彼女を両手で受け止めた。そんな記憶、あるはずもないのに……。それでもその言葉を聞き、その涙を確かに見たと、胸の奥で何かが叫ぶ。
本当はずっと、ちゃんと守りたかった。
あの時も、忘れてほしくなどなかった。
あの時とは一体いつのことなのか。
何も分からないのに、それは自分の中に確かに残っている記憶のカケラなのだと鼓動が叫ぶ。
息を切らせて駆け付けた屋上の扉の鍵を開け、俺は勢いよく重い鉄の扉を開け放った。その目に、扉横の壁際でうずくまり震える彼女の姿が映る。
「澪っ!」
その声に顔を上げた彼女が俺を見て、走り寄ろうとした瞬間に力無く崩れ落ちた。彼女の身体が床に倒れ込む寸前のところで、俺はどうにか両手を伸ばして受け止める。
「澪っ! ……澪!」
名前を呼ぶと、俺を見つめた彼女が嬉しそう微笑んだ。
「ヒス……イ……先生」
「大丈夫か?」
「はい。私……ごめんなさい。勝手に、屋上に出て……」
「分かった。話は後でいい」
俺は冷え切った彼女を抱える手に力を込めて、屋上から続く階段を慎重に降りて行った。彼女を抱えて職員室まで戻ってくると、他の場所を探していた山内先生が戻ってきた。
「奥井さん! 大丈夫? どこにいたの?」
「屋上で見つけました」
「屋上? 冷たい風の吹きさらしじゃないか。温かい飲み物を用意しなきゃね」
まず先に彼女の体を心配する山内先生と違って、残っていた一部の先生の中の一人が、「校則違反だよ。大問題だよ。こんなに沢山の人に迷惑をかけて!」と澪を怒鳴りつけた。確かに注意と指導は必要だが、教師ならまず先に生徒の体の心配をするべきだろと俺は苛立ちを覚える。
「こういう場合、確認不足で施錠した教師の方が責任問題になるんじゃないですかね。普通は、その場に本当に誰もいないか確認すると思うんですけど」
怒鳴りつけた先程の先生が施錠担当だったらしく、俺の言葉を聞いて焦り始めた。
「ま、まぁ、無事に見つかったようだし。大きな問題にはしなくていいでしょう」
見事な手のひら返しに俺は呆れて溜息を吐いた。
こういう姿を見て、生徒が教師を信用しなくなるんだよと俺は嫌になった。
****
「大丈夫?」
「はい。もう、平気です」
保健室の鍵を借りて、ベッドに彼女を座らせ問い掛けると笑顔でうなずいた。先程までは弱々しい声だったが、今はしっかりしたものに戻りつつある。
「よかった。でもなんで、あんな時間に一人で屋上に行ったの?」
「ごめんなさい。それは……」
責めるつもりはなかった。
それでもその問い掛けは、責める口調になっていたかもしれない。
心配で、堪らなかったから。
「星が見たくて、勝手に屋上に上がりました」
「今まで、そんなことした事なかったよね? 立木 蓮くんと何かあった?」
その問い掛けに、驚いたように俺を見る。
「私がカッとなって……蓮ちゃんを傷つけるようなことを言ってしまって……。いっぱい後悔して、泣きそうになって……でも、傷つけた私の方が泣くなんておかしいと思って我慢したけど……ダメで、屋上で星座を見たら我慢できるような気がして……」
天文部の話し合いでも、カッとなった人を止めることが多いのに、彼女がカッとなって相手を傷つけるようなことを言うなんて、何か余程のことがあったに違いない。
「君がカッとなるなんて、何を言われたんだ?」
「私が……私が、先生のこと……」
一瞬ためらうように言葉を止めて、それでも何か決心したように、真っ直ぐにこちらを見つめて言葉を続ける。
「私が、ヒスイ先生の事を好きになった気持ちを否定されて……。先生の事を想う気持ちを、『出会ったばかりで、そんな簡単に好きになるのか』って言われて……だから私、この気持ちは簡単なものじゃないって、ヒスイ先生のことを簡単に好きになった訳じゃないって言い返して、それから……。蓮ちゃんには分かる訳ないって言っちゃったんです」
そこまで話終えた彼女の瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。
「ごめんなさい。蓮ちゃんを傷つけて。ごめんなさい。先生達に迷惑をかけて……。ごめんなさい、ヒスイ先生をこんなに……こんなに好きになって、ごめんなさ……」
俺は手を伸ばして包み込むように彼女の体を抱き締めた。
「謝らなくていい。謝らなくていいから」
何より調和を大切にして、いつも相手の気持ちを考えている彼女が、それでも澪が、幼馴染を傷つけてでも叫ばずにはいられなかった想いは……。
俺への、恋心だったのだ。
「先生っ……見つけ出してくれて……ありがとうっ……心の中でずっと、ヒスイ先生の名前を呼んでた」
俺は澪を抱き締める手に力を込める。
今度こそ……。
「守るよ。俺がずっと、ずっと澪を守る」
出会うためにここに来た。
その理由なき不確かな思いの答えは今も知らない。それでも今度こそ、胸の中に仕舞い続けた想いを俺は伝えなければいけない。
「この教育実習が終わって、俺と君が先生と生徒じゃなくなったら、その時は俺に言わせて欲しいんだ」
胸の中にある。
この想い全部。
例え実習生であっても、この期間はちゃんと教師でいたい。その立場のまま愛を告げるのは、なんとなく違う気がした。もう抱き締めてしまっているし、守ると宣言までしている。それでも核心の愛しさを言葉にするのだけは、期間限定の先生をやり終えてからにしたかった。
変なところでクソ真面目だよなお前と、昔からよく友人に笑われた記憶がある。けれど尊敬する人に、『君のような真っ直ぐな志を』と、それを褒められた事もあったような気がした。
「実習後に、伝えたい言葉があるから聞いて欲しい」
濡れた瞳で真っ直ぐこちらを見つめた澪が、ハニカミながら「はい」とうなずく。
『愛した人に、二度目の恋をしておいで』
かつて自分の背中を押してくれた誰かの言葉が、不意にまた耳の奥で響いたような気がした。
俺は学校まで戻ってくると、職員室へ向かった。
山内先生はまだ残っていたようで、先生に声をかける。
「あれ? 神崎くん、どうしたの?」
「携帯を二年三組の教室に忘れたみたいで」
「鍵当番の先生がもう施錠済みだと思うから、ちょっと待ってね」
山内先生が沢山の鍵がかかったボックスから教室の鍵を取って渡してくれた。
「ありがとうざいます。すぐに戻しにきます」
俺は駆け足で三組の教室まで来ると中に入った。夜の静まり返った学校は、怪談話を思い出して怖くなってくる。机の上を見渡すと、彼女が座っていた窓際の近くの席に俺の携帯があった。
「よかった」
ポケットに入れて、教室を出ようとした時、彼女の机の横のフックにまだ鞄がある事に気づく。
「え?」
鍵がかかっていたのに、どういうことだ。
鞄を持たずに帰ることは考えられない。
「奥井さん!」
俺は廊下に出て呼びかける。女子トイレの前まで行き、大きな声で呼んでみたが返事はなかった。
途端に、何か嫌な予感がして俺は走りだす。彼女の身に、何かあったとしか思えない状況だった。
あの幼馴染と一緒に帰ったんじゃないのか。
「奥井さん! 奥井さんっ」
とりあえず思いつく場所は、天文部の部室だ。
「クソッ、特別教室棟の一番奥だ」
俺は本館から続く長い渡り廊下を全力で走る。
何もなければいい。ただの杞憂に終わるのならそれでいい。楽しそうに、部室で話をしているだけならそれでいいのだ。
「……はぁ、っ……」
息を切らして駆けつけた部室は真っ暗で、鍵もかかっていた。念のため廊下から名前を呼んでみたが、やはり返事はない。
「奥井さんっ!」
もう一度叫んだ声が、静かな廊下に反響する。
俺はもう一度教室まで戻ってくると、奥井さんの鞄を持って職員室へ急いだ。
「山内先生っ!」
「どうしたの? そんなに息を切らして」
「奥井さんの鞄が、まだ教室にあったんです」
「え? 教室は施錠されていたのに?」
「そうです。学校のどこかにまだいるのかもしれません。俺はもう一度校内を見てくるので、先生は個人名簿で五組の立木くんに連絡をとって下さい。彼と奥井さんは、一緒に帰ったはずなんです」
「分かった。五組の立木くんだね」
「よろしくお願いします」
俺はそう言うなり、また走り出した。
どこだ? 考えろ。
彼女が行きそうな場所。恐らく鍵を掛けられて、出られなくなるような……。
「屋上か!」
俺はまた職員室に戻り、キーボックスから屋上の鍵をとる。そして全力で、広い校内を走った。秋の夜。遮る壁のない屋上には、相当強い風が吹きつけている。真冬でないことが、唯一の救いかもしれない。
全力で走る俺の脳裏には、必死に涙を堪え、それでも堪えきれずに涙する彼女の顔が浮かんでいた。
『ヒスイさん……私、あなたのことが……』
かつて、その言葉の続きを遮ったのは自分だ。目の前で崩れ落ちていく彼女を両手で受け止めた。そんな記憶、あるはずもないのに……。それでもその言葉を聞き、その涙を確かに見たと、胸の奥で何かが叫ぶ。
本当はずっと、ちゃんと守りたかった。
あの時も、忘れてほしくなどなかった。
あの時とは一体いつのことなのか。
何も分からないのに、それは自分の中に確かに残っている記憶のカケラなのだと鼓動が叫ぶ。
息を切らせて駆け付けた屋上の扉の鍵を開け、俺は勢いよく重い鉄の扉を開け放った。その目に、扉横の壁際でうずくまり震える彼女の姿が映る。
「澪っ!」
その声に顔を上げた彼女が俺を見て、走り寄ろうとした瞬間に力無く崩れ落ちた。彼女の身体が床に倒れ込む寸前のところで、俺はどうにか両手を伸ばして受け止める。
「澪っ! ……澪!」
名前を呼ぶと、俺を見つめた彼女が嬉しそう微笑んだ。
「ヒス……イ……先生」
「大丈夫か?」
「はい。私……ごめんなさい。勝手に、屋上に出て……」
「分かった。話は後でいい」
俺は冷え切った彼女を抱える手に力を込めて、屋上から続く階段を慎重に降りて行った。彼女を抱えて職員室まで戻ってくると、他の場所を探していた山内先生が戻ってきた。
「奥井さん! 大丈夫? どこにいたの?」
「屋上で見つけました」
「屋上? 冷たい風の吹きさらしじゃないか。温かい飲み物を用意しなきゃね」
まず先に彼女の体を心配する山内先生と違って、残っていた一部の先生の中の一人が、「校則違反だよ。大問題だよ。こんなに沢山の人に迷惑をかけて!」と澪を怒鳴りつけた。確かに注意と指導は必要だが、教師ならまず先に生徒の体の心配をするべきだろと俺は苛立ちを覚える。
「こういう場合、確認不足で施錠した教師の方が責任問題になるんじゃないですかね。普通は、その場に本当に誰もいないか確認すると思うんですけど」
怒鳴りつけた先程の先生が施錠担当だったらしく、俺の言葉を聞いて焦り始めた。
「ま、まぁ、無事に見つかったようだし。大きな問題にはしなくていいでしょう」
見事な手のひら返しに俺は呆れて溜息を吐いた。
こういう姿を見て、生徒が教師を信用しなくなるんだよと俺は嫌になった。
****
「大丈夫?」
「はい。もう、平気です」
保健室の鍵を借りて、ベッドに彼女を座らせ問い掛けると笑顔でうなずいた。先程までは弱々しい声だったが、今はしっかりしたものに戻りつつある。
「よかった。でもなんで、あんな時間に一人で屋上に行ったの?」
「ごめんなさい。それは……」
責めるつもりはなかった。
それでもその問い掛けは、責める口調になっていたかもしれない。
心配で、堪らなかったから。
「星が見たくて、勝手に屋上に上がりました」
「今まで、そんなことした事なかったよね? 立木 蓮くんと何かあった?」
その問い掛けに、驚いたように俺を見る。
「私がカッとなって……蓮ちゃんを傷つけるようなことを言ってしまって……。いっぱい後悔して、泣きそうになって……でも、傷つけた私の方が泣くなんておかしいと思って我慢したけど……ダメで、屋上で星座を見たら我慢できるような気がして……」
天文部の話し合いでも、カッとなった人を止めることが多いのに、彼女がカッとなって相手を傷つけるようなことを言うなんて、何か余程のことがあったに違いない。
「君がカッとなるなんて、何を言われたんだ?」
「私が……私が、先生のこと……」
一瞬ためらうように言葉を止めて、それでも何か決心したように、真っ直ぐにこちらを見つめて言葉を続ける。
「私が、ヒスイ先生の事を好きになった気持ちを否定されて……。先生の事を想う気持ちを、『出会ったばかりで、そんな簡単に好きになるのか』って言われて……だから私、この気持ちは簡単なものじゃないって、ヒスイ先生のことを簡単に好きになった訳じゃないって言い返して、それから……。蓮ちゃんには分かる訳ないって言っちゃったんです」
そこまで話終えた彼女の瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。
「ごめんなさい。蓮ちゃんを傷つけて。ごめんなさい。先生達に迷惑をかけて……。ごめんなさい、ヒスイ先生をこんなに……こんなに好きになって、ごめんなさ……」
俺は手を伸ばして包み込むように彼女の体を抱き締めた。
「謝らなくていい。謝らなくていいから」
何より調和を大切にして、いつも相手の気持ちを考えている彼女が、それでも澪が、幼馴染を傷つけてでも叫ばずにはいられなかった想いは……。
俺への、恋心だったのだ。
「先生っ……見つけ出してくれて……ありがとうっ……心の中でずっと、ヒスイ先生の名前を呼んでた」
俺は澪を抱き締める手に力を込める。
今度こそ……。
「守るよ。俺がずっと、ずっと澪を守る」
出会うためにここに来た。
その理由なき不確かな思いの答えは今も知らない。それでも今度こそ、胸の中に仕舞い続けた想いを俺は伝えなければいけない。
「この教育実習が終わって、俺と君が先生と生徒じゃなくなったら、その時は俺に言わせて欲しいんだ」
胸の中にある。
この想い全部。
例え実習生であっても、この期間はちゃんと教師でいたい。その立場のまま愛を告げるのは、なんとなく違う気がした。もう抱き締めてしまっているし、守ると宣言までしている。それでも核心の愛しさを言葉にするのだけは、期間限定の先生をやり終えてからにしたかった。
変なところでクソ真面目だよなお前と、昔からよく友人に笑われた記憶がある。けれど尊敬する人に、『君のような真っ直ぐな志を』と、それを褒められた事もあったような気がした。
「実習後に、伝えたい言葉があるから聞いて欲しい」
濡れた瞳で真っ直ぐこちらを見つめた澪が、ハニカミながら「はい」とうなずく。
『愛した人に、二度目の恋をしておいで』
かつて自分の背中を押してくれた誰かの言葉が、不意にまた耳の奥で響いたような気がした。