「蓮ちゃん、改まって話ってなに?」
私はまた自分の席に腰を下ろし、蓮ちゃんに隣の席をすすめた。
今日の昼休みに蓮ちゃんからメッセージをもらい、久し振りに一緒に帰る約束をしていたのだ。バスケ部の顧問の先生の都合で、部活が急遽休みになったようだった。
「あぁ、うん。……澪、天文部の部長はうまく出来てるのか?」
そう言って、蓮ちゃんが鞄の中から紙パックのオレンジジュースとスポーツ飲料を取り出し、私の机にオレンジを置いた。
「これ、好きだよな」
「うん! ありがとう。いただきます」
蓮ちゃんからもらったオレンジを飲みながら、私は天文部のことを話す。
「なんとか、周りのみんなのお陰で部長をこなせてるよ。最近ね、部がまとまり出していい感じなんだ。実習生のヒスイ先生が副顧問として顔を出してくれていて、色々とアドバイスをもらってるの」
ヒスイ先生の話を出した途端に、蓮ちゃんの表情が曇る。
「さっき、泣いてなかった?」
「え?」
「泣きながら教室を出て行く澪が見えて、その後であいつが教室から出てきたから」
蓮ちゃんは先程の私の様子を目にして、心配してくれているようだった。
「心配しないで、あれはね、目にゴミが入っただけだよ」
ヒスイ先生に「澪」と名前を呼ばれた瞬間、たまらない気持ちになり、気付くと涙が溢れていた。嬉しくて、ずっとそう呼ばれたかったのだと主張するように鼓動が激しく脈打ったのだ。
泣き出した私の頭を、ヒスイ先生は遠慮がちに撫でてくれていた。
『ヒスイ先生』
『うん』
『ヒスイ先生……』
『うん』
名前を呼ぶと、優しくうなずいてくれて、思わずヒスイ先生のスーツの裾をキュッと掴んでいた。その時、私より一回り以上大きなヒスイ先生の手のひらが、私の体を抱き締めるように伸ばされた。けれど実際に抱き寄せられることはなく、その指先はためらうようにスッと離れていったのだ。
あの時、抱き締められることを期待した。
その腕の中が、どんなに温かで安心できる場所か私は知っているから。
知って……いる?
嘘。そんな事実ないのに、都合のいい妄想が頭の中に浮かんでくる。私はその思考を振り払って蓮ちゃんを見つめた。
「ただゴミが目に入っただけだから、全然大丈夫だよ。それに、ヒスイ先生はすごく優しいから、蓮ちゃんが心配するような……」
「あいつの話はいいから」
「え……あ、うん。…………そ、そうだ! 蓮ちゃんの話って、なに? ごめんね。私、自分の話ばかりしちゃって」
蓮ちゃんがまた少し不機嫌になり、私は話題を変える。
あの時、私が泣いてしまったせいで蓮ちゃんの中のヒスイ先生のイメージが悪くなってしまって申し訳無いような気持ちになった。
「澪……。今、好きなやつ、いる?」
視線を逸らして、蓮ちゃんがぶっきら棒に私に尋ねる。
ヒスイ先生の話はもういいと言われた直後に、またヒスイ先生のことを話しても大丈夫なのか分からず、私はどうすればいいのか迷ってしまう。
「う、うん。好きな人……いるよ」
嘘はつきたくなくて、そこだけを答えた。
「誰?」
「えっと……ヒスイ先生」
迷った後で、小さく答えると、それを聞いた蓮ちゃんが大きな声を出した。
「なんでっ! なんで、あいつなんだよ? この前、実習に来たばかりなのに……澪の一番近くにいる男ってずっと俺だっただろ? 俺は……お前が好きだよ」
蓮ちゃんの言葉に、私は驚いてなにも言えなくなる。
まさか蓮ちゃんが私を好きだなんて、全く想像していなかった。
蓮ちゃんが私に向ける感情に、恋や愛は一切含まれていないのだと思っていた。私と向き合う蓮ちゃんは、人が持つ情や正義感のような、そういった感情なのだとずっと思っていた。
「本当は今日、告白する前に、澪に謝ろうと思ってた」
「謝る……?」
蓮ちゃんの言葉の意味が分からず、私は小さく聞き返す。
「俺はずっと、澪は、守ってやらなきゃいけない存在なんだって思ってた。でも、澪から頼られたり、澪を助けたりすることで、本当はいつも……俺が安心してたんだ」
蓮ちゃんはいつも、自分よりも優秀なお兄さんと自分を比べていた。蓮ちゃんはすごい人なのに、いつも自分はダメなのだと言っていた。
「兄貴と比べて卑屈になって、自分より弱い存在に頼られることで、自分の自尊心を満たしてた。澪のことを助けながら、何もできずにいる澪のことを、どこかで見下して安心してたんだ。ごめんっ!」
「蓮ちゃん……」
蓮ちゃんが私に向かって、深く頭を下げる。
「だから最初は、変わり始めた澪を見て不安になった。変わらなくていいのにって、苛立った。でも、どんどんキラキラと輝いていく澪を見て……一歩ずつ前へ進んで行く澪を見て……。気付いたら、好きになってたんだ。今までごめん! ごめん、澪!」
蓮ちゃんを責める気持ちなんか、全くなかった。
初めて蓮ちゃんの本当の心の中が知れた気がして嬉しかった。
「蓮ちゃんが私を助ける瞬間に、そう思っていたのかもしれないけど。でも、私は助けてもらって嬉しかった。私が蓮ちゃんに救われた事実は変わらない。でも……」
好きだと言ってくれた想いには、応えられなかった。
どうしようもなく、好きな人がいる。
「蓮ちゃん、私ね……。ヒスイ先生のことが大好きなんだ。ごめん」
そんな私の言葉に、蓮ちゃんが立ち上がってギュッと私の手首を掴む。
「まだ会って数日しか経ってない奴だろ? あいつのこと、何も知らないだろ? そんな相手を、そんな簡単に好きになるのか!」
確かに知らなかった。
たった数日間、ほんの少し交わした言葉しか、私はヒスイ先生のことを知らない。
それでも、『簡単』などではなかった。
ヒスイ先生を好きだと思うこの気持ちは……。
「簡単なものなんかじゃないよっ!」
叫んだ言葉に、蓮ちゃんが瞳を大きく見開く。
「蓮ちゃんには分からない」
鼓動が、この人に会いたかったと叫ぶ感覚。
あるはずもない、幸せな記憶の残像に胸が苦しくなって。
『澪!』
名前を呼ばれた瞬間、込み上げる涙を抑えきれなくなった。そんなどうしようもないこの想いを……。
「蓮ちゃんに、分かる訳ないっ!」
もう一度叫んだ言葉で、蓮ちゃんの表情が苦しげに歪むのが見えた。私はそこで、自分がひどく蓮ちゃんを傷つけたことを自覚する。
「分かった。ごめんな、澪」
私の手を離し、蓮ちゃんが背を向けて歩き出す。
「蓮ちゃん、ごめん……。私、酷いこと言って……ごめんね!」
涙声で叫んだ私を、蓮ちゃんが振り返る。
「酷いこと言ったのは、俺の方だから……。でも、ごめん。今日は一人で帰るな」
蓮ちゃんが前を向いて歩きながら、小さく手を振った。
あんなに傷ついた顔をした蓮ちゃんを見たのは初めてだった。あんな風に誰かに大きな声で言い返したのも、生まれて初めてだった。
私は机に突っ伏して、ギュッと目を閉じる。
私が蓮ちゃんを傷付けた。
今、本当に泣きたいのは蓮ちゃんの方だ。私が、泣いていい訳がない。
「……っ……」
それでも涙が溢れてきて、せめて瞳の中からこぼれ落ちたりしないように、私は上を向いて教室の天井を見た。徐々に視界が薄い水の膜で覆われていく。教室の天井ではなく、星空が見たいと思った。星空を見れば、泣くのを我慢できる気がして……。
私はゆっくりと息を吐いて涙を堪える。
そして教室を飛び出し、屋上へと向かった。
方位磁石がなくても、この屋上の方角は頭に入っている。
秋の星座を探す目印は、『秋の四辺形』と呼ばれる少し歪んだ四角形を探すこと。それはペガスス座とアンドロメダ座を繋ぐ四辺形で、そこから北上した直線上には、Wの形をしたカシオペア座がある。
けれどこれらの星座には、一等星がない。
秋の星は、少し寂しく切ない夜空だ。
冬になれば、星たちの中で一番明るいシリウスが現れる。青白く輝く。あの神秘的な光に会いたい。
「……っう……」
泣かないつもりでここへ来たのに、結局私は泣いてしまった。
一人で散々涙を流し、ようやく落ち着くことが出来た私は、屋上から出ようと鉄の扉に手を掛ける。
「あれ?」
ドアノブが動かない。
「嘘……どうして?」
焦ってガチャガチャと回してみるがやっぱり動かなかった。
私はハッとして腕時計を見る。とっくに、校舎から退出しなければいけない八時を過ぎていた。
「どうしよう」
最終時刻に当番の先生が各場所の施錠をして回ると言っていた。今日は天文部の活動日でもないので、誰もいないと思って鍵を掛けられてしまったに違いない。
教室からここへは携帯も持たずに来てしまった。教室に置いた鞄は机の横に掛けた状態なので、残っている生徒がいると気付いてもらえなかったのかもしれない。
「誰か! 開けて下さいっ。誰か! まだここにいますっ」
バンバンと扉を叩くが、何の反応も返ってこない。
時間の経過と共に吹き付ける風が徐々に強くなり、寒さに私は身を縮めた。
「誰か……」
助けて。
恐怖と肌寒さで体が震える。
「ヒスイ先生……ヒスイ先生、助けて」
うずくまり、自分の手で体を抱き締めながら、私はヒスイ先生の名前を呼び続けていた。
私はまた自分の席に腰を下ろし、蓮ちゃんに隣の席をすすめた。
今日の昼休みに蓮ちゃんからメッセージをもらい、久し振りに一緒に帰る約束をしていたのだ。バスケ部の顧問の先生の都合で、部活が急遽休みになったようだった。
「あぁ、うん。……澪、天文部の部長はうまく出来てるのか?」
そう言って、蓮ちゃんが鞄の中から紙パックのオレンジジュースとスポーツ飲料を取り出し、私の机にオレンジを置いた。
「これ、好きだよな」
「うん! ありがとう。いただきます」
蓮ちゃんからもらったオレンジを飲みながら、私は天文部のことを話す。
「なんとか、周りのみんなのお陰で部長をこなせてるよ。最近ね、部がまとまり出していい感じなんだ。実習生のヒスイ先生が副顧問として顔を出してくれていて、色々とアドバイスをもらってるの」
ヒスイ先生の話を出した途端に、蓮ちゃんの表情が曇る。
「さっき、泣いてなかった?」
「え?」
「泣きながら教室を出て行く澪が見えて、その後であいつが教室から出てきたから」
蓮ちゃんは先程の私の様子を目にして、心配してくれているようだった。
「心配しないで、あれはね、目にゴミが入っただけだよ」
ヒスイ先生に「澪」と名前を呼ばれた瞬間、たまらない気持ちになり、気付くと涙が溢れていた。嬉しくて、ずっとそう呼ばれたかったのだと主張するように鼓動が激しく脈打ったのだ。
泣き出した私の頭を、ヒスイ先生は遠慮がちに撫でてくれていた。
『ヒスイ先生』
『うん』
『ヒスイ先生……』
『うん』
名前を呼ぶと、優しくうなずいてくれて、思わずヒスイ先生のスーツの裾をキュッと掴んでいた。その時、私より一回り以上大きなヒスイ先生の手のひらが、私の体を抱き締めるように伸ばされた。けれど実際に抱き寄せられることはなく、その指先はためらうようにスッと離れていったのだ。
あの時、抱き締められることを期待した。
その腕の中が、どんなに温かで安心できる場所か私は知っているから。
知って……いる?
嘘。そんな事実ないのに、都合のいい妄想が頭の中に浮かんでくる。私はその思考を振り払って蓮ちゃんを見つめた。
「ただゴミが目に入っただけだから、全然大丈夫だよ。それに、ヒスイ先生はすごく優しいから、蓮ちゃんが心配するような……」
「あいつの話はいいから」
「え……あ、うん。…………そ、そうだ! 蓮ちゃんの話って、なに? ごめんね。私、自分の話ばかりしちゃって」
蓮ちゃんがまた少し不機嫌になり、私は話題を変える。
あの時、私が泣いてしまったせいで蓮ちゃんの中のヒスイ先生のイメージが悪くなってしまって申し訳無いような気持ちになった。
「澪……。今、好きなやつ、いる?」
視線を逸らして、蓮ちゃんがぶっきら棒に私に尋ねる。
ヒスイ先生の話はもういいと言われた直後に、またヒスイ先生のことを話しても大丈夫なのか分からず、私はどうすればいいのか迷ってしまう。
「う、うん。好きな人……いるよ」
嘘はつきたくなくて、そこだけを答えた。
「誰?」
「えっと……ヒスイ先生」
迷った後で、小さく答えると、それを聞いた蓮ちゃんが大きな声を出した。
「なんでっ! なんで、あいつなんだよ? この前、実習に来たばかりなのに……澪の一番近くにいる男ってずっと俺だっただろ? 俺は……お前が好きだよ」
蓮ちゃんの言葉に、私は驚いてなにも言えなくなる。
まさか蓮ちゃんが私を好きだなんて、全く想像していなかった。
蓮ちゃんが私に向ける感情に、恋や愛は一切含まれていないのだと思っていた。私と向き合う蓮ちゃんは、人が持つ情や正義感のような、そういった感情なのだとずっと思っていた。
「本当は今日、告白する前に、澪に謝ろうと思ってた」
「謝る……?」
蓮ちゃんの言葉の意味が分からず、私は小さく聞き返す。
「俺はずっと、澪は、守ってやらなきゃいけない存在なんだって思ってた。でも、澪から頼られたり、澪を助けたりすることで、本当はいつも……俺が安心してたんだ」
蓮ちゃんはいつも、自分よりも優秀なお兄さんと自分を比べていた。蓮ちゃんはすごい人なのに、いつも自分はダメなのだと言っていた。
「兄貴と比べて卑屈になって、自分より弱い存在に頼られることで、自分の自尊心を満たしてた。澪のことを助けながら、何もできずにいる澪のことを、どこかで見下して安心してたんだ。ごめんっ!」
「蓮ちゃん……」
蓮ちゃんが私に向かって、深く頭を下げる。
「だから最初は、変わり始めた澪を見て不安になった。変わらなくていいのにって、苛立った。でも、どんどんキラキラと輝いていく澪を見て……一歩ずつ前へ進んで行く澪を見て……。気付いたら、好きになってたんだ。今までごめん! ごめん、澪!」
蓮ちゃんを責める気持ちなんか、全くなかった。
初めて蓮ちゃんの本当の心の中が知れた気がして嬉しかった。
「蓮ちゃんが私を助ける瞬間に、そう思っていたのかもしれないけど。でも、私は助けてもらって嬉しかった。私が蓮ちゃんに救われた事実は変わらない。でも……」
好きだと言ってくれた想いには、応えられなかった。
どうしようもなく、好きな人がいる。
「蓮ちゃん、私ね……。ヒスイ先生のことが大好きなんだ。ごめん」
そんな私の言葉に、蓮ちゃんが立ち上がってギュッと私の手首を掴む。
「まだ会って数日しか経ってない奴だろ? あいつのこと、何も知らないだろ? そんな相手を、そんな簡単に好きになるのか!」
確かに知らなかった。
たった数日間、ほんの少し交わした言葉しか、私はヒスイ先生のことを知らない。
それでも、『簡単』などではなかった。
ヒスイ先生を好きだと思うこの気持ちは……。
「簡単なものなんかじゃないよっ!」
叫んだ言葉に、蓮ちゃんが瞳を大きく見開く。
「蓮ちゃんには分からない」
鼓動が、この人に会いたかったと叫ぶ感覚。
あるはずもない、幸せな記憶の残像に胸が苦しくなって。
『澪!』
名前を呼ばれた瞬間、込み上げる涙を抑えきれなくなった。そんなどうしようもないこの想いを……。
「蓮ちゃんに、分かる訳ないっ!」
もう一度叫んだ言葉で、蓮ちゃんの表情が苦しげに歪むのが見えた。私はそこで、自分がひどく蓮ちゃんを傷つけたことを自覚する。
「分かった。ごめんな、澪」
私の手を離し、蓮ちゃんが背を向けて歩き出す。
「蓮ちゃん、ごめん……。私、酷いこと言って……ごめんね!」
涙声で叫んだ私を、蓮ちゃんが振り返る。
「酷いこと言ったのは、俺の方だから……。でも、ごめん。今日は一人で帰るな」
蓮ちゃんが前を向いて歩きながら、小さく手を振った。
あんなに傷ついた顔をした蓮ちゃんを見たのは初めてだった。あんな風に誰かに大きな声で言い返したのも、生まれて初めてだった。
私は机に突っ伏して、ギュッと目を閉じる。
私が蓮ちゃんを傷付けた。
今、本当に泣きたいのは蓮ちゃんの方だ。私が、泣いていい訳がない。
「……っ……」
それでも涙が溢れてきて、せめて瞳の中からこぼれ落ちたりしないように、私は上を向いて教室の天井を見た。徐々に視界が薄い水の膜で覆われていく。教室の天井ではなく、星空が見たいと思った。星空を見れば、泣くのを我慢できる気がして……。
私はゆっくりと息を吐いて涙を堪える。
そして教室を飛び出し、屋上へと向かった。
方位磁石がなくても、この屋上の方角は頭に入っている。
秋の星座を探す目印は、『秋の四辺形』と呼ばれる少し歪んだ四角形を探すこと。それはペガスス座とアンドロメダ座を繋ぐ四辺形で、そこから北上した直線上には、Wの形をしたカシオペア座がある。
けれどこれらの星座には、一等星がない。
秋の星は、少し寂しく切ない夜空だ。
冬になれば、星たちの中で一番明るいシリウスが現れる。青白く輝く。あの神秘的な光に会いたい。
「……っう……」
泣かないつもりでここへ来たのに、結局私は泣いてしまった。
一人で散々涙を流し、ようやく落ち着くことが出来た私は、屋上から出ようと鉄の扉に手を掛ける。
「あれ?」
ドアノブが動かない。
「嘘……どうして?」
焦ってガチャガチャと回してみるがやっぱり動かなかった。
私はハッとして腕時計を見る。とっくに、校舎から退出しなければいけない八時を過ぎていた。
「どうしよう」
最終時刻に当番の先生が各場所の施錠をして回ると言っていた。今日は天文部の活動日でもないので、誰もいないと思って鍵を掛けられてしまったに違いない。
教室からここへは携帯も持たずに来てしまった。教室に置いた鞄は机の横に掛けた状態なので、残っている生徒がいると気付いてもらえなかったのかもしれない。
「誰か! 開けて下さいっ。誰か! まだここにいますっ」
バンバンと扉を叩くが、何の反応も返ってこない。
時間の経過と共に吹き付ける風が徐々に強くなり、寒さに私は身を縮めた。
「誰か……」
助けて。
恐怖と肌寒さで体が震える。
「ヒスイ先生……ヒスイ先生、助けて」
うずくまり、自分の手で体を抱き締めながら、私はヒスイ先生の名前を呼び続けていた。