【side:ヒスイ】
教育実習が始まって三日が過ぎ、少しずつ緊張もとれてクラスのみんなと話をする機会も増えていた。
だが、天文部の屋上観測の時に奥井さんと話しをして以来、彼女と二人だけでゆっくりと言葉を交わす機会はなく、『記憶の中から大切な何かを忘れている』状況については、詳しく話を聞くことができていなかった。
今日も慌ただしく一日の授業スケジュールを終えて、放課後になり職員室のデスクで俺はようやく一息つく。
記憶の欠落以外にも、俺には腑に落ちないと思う点がいくつかあった。
それは自分の生い立ちについて、ふとその過去を振り返った時に、なぜかいつもモヤモヤとした気持ちになるのだ。
俺は孤児院で育ち、引き取ってくれた老夫婦が亡くなる前に残してくれた少しのお金と、自身でバイトを掛け持ちしながら貯めたお金でどうにかやりくりしている。大学に通えているのは、奨学金制度を利用したからだ。
裕福な家庭で育った人に比べると、それなりに苦労の多い日々だったと思う。だが、自分の過去を思い返す時、なぜかいつも他人事のような気持ちになった。
どうしてもその過去が、自分が積み重ねてきた時間だという実感を持つことができず、まるで用意された他人の人生を振り返っているような感覚がずっとあった。
頭の中で、その違和感の霧がスッと晴れたのは教育実習の初日。彼女の声を聞き、その目を真正面から見つめた瞬間だった。
あぁ、これでいい。
心の中で誰かがそうつぶやいた。
出会う為にここに来たのだと、今ままで感じていた違和感が綺麗に腑に落ちていく。
それでも、そんな風に感じたのはなぜなのか。それだけはどうしても、分からないままだった。
『失敗と成功は切り離されたものではなく、そのほんの少し先で繋がっている。失敗は、成功の一歩目。そう教えてくれた誰かが、私にもいて、でも……』
あの日の屋上で、彼女の言葉は何と続くはずだったのだろう。
やはり二人の間には、自分たちが思い出せずにいる共通の出来事があるのではないかと、そんな気持ちになってくる。
だが現実的に考えて、二人同時に同じ記憶を無くす状況などあるはずがない。どうしたってそんなこと、起こり得ないのだ。
「神崎くん、神崎くん!」
思考の海に沈んでいた俺の意識が、名前を呼ばれて一気に浮上した。なぜかこの苗字もしっくりこず、聞き慣れないという思いを拭えずにいる。
「あ、山内先生。申し訳ありません。考え事をしてしまって」
「慣れない実習で、ちょうど疲れがでる頃だけど、大丈夫?」
山内先生は今年四十五歳になる柔和で優しいベテラン教師で、実習期間中に俺の教育係をしてくれれている、あのクラスの担任だ。
今も穏やかに、俺を気遣う言葉を掛けてくれた。
「はい、大丈夫です」
「今日は週に二回の天文部の活動の日でしょ。もう、そっちに行って大丈夫だよ」
「ありがとうございます。今から行ってきます」
笑顔で報告して、俺は職員室を後にした。
この学校には、大きな二つの校舎がある。一つが、全学年の教室と職員室がある本館。そしてもう一つが、家庭科室や音楽室に理科室などがある特別教室棟。
天文部が部室として使っているのは、本館から渡り廊下で繋がっている特別教室棟二階の一番奥にある空き教室だった。
人気の文化部から順に、本館から近い位置の空き教室を使っているらしく、廃部寸前の天文部は最奥に追いやられているらしい。
天体望遠鏡も過去に買ってもらった古い一台を大切に使い、代々それを引き継いでいるとのことだった。
その部室の前まで来て俺は足を止めた。少し揉めているような会話が、扉越しに聞こえてきたからだ。
確か今日は、文化祭の出し物を決める話し合いをすると言っていた。恐らく、とり部員と星好き部員で意見の食い違いが起きたのだろうと予想がつく。俺は扉をノックして、教室の中へと入った。
ピリッとした空気が広がっており、部長である彼女は困ったような表情を浮かべている。
そして相変わらず、兼任顧問の村岡先生は不在だった。本来ならこういう時、顧問がクッション役になり場をとり持ったりするのだが、話を聞く限り村岡先生が何かしてくれることはなさそうだ。
「揉めてるみたいだけど、大丈夫かな? どんな状況なの?」
穏やかな声で問い掛けると、「実は……」と、奥井さんが遠慮がちに説明してくれた。
毎年天文部は文化祭の出し物として、星座やギリシャ神話についてまとめた天体新聞を作り、それと一緒に六月の合宿で撮った天体写真を部室の壁に貼って展示するのが恒例らしい。
だがそれは全く人気がなく、いつもほとんど人が来ない状況だったようで、奥井さんの隣に並んで座っている彼女……柏木舞衣さんが、「段ボールを使ったプラネタリウムを作ってみたい」と新たな案を出した。
しかし二年のとり部員である芝野さんと佐藤くんから、事前準備が大変過ぎることはしたくないという反対意見があがり、更には一年のとり部員三名の、「地味な事より、もっとオシャレなカフェとかがしたい」と、全く天文部とは関係のない出し物の意見まで出てきてしまい、どうするべきかと悩んでいるようだった。
その時、二年のとり部員の芝野さんが、苛立ちをぶつけるように奥井さんにきつい言葉をかけた。
「奥井さん、部長のくせに黙ってないで何か言ったら!」
「ご、ごめんね。あの……もう少し考えてみたくて……みんなの、それぞれの意見を……少しずつ取り入れたような……そんなのが無いかなって」
「そんなの、あるわけないでしょ」
芝野さんの言葉に、奥井さんの友達である柏木さんが言葉を挟む。
「ちょっと! その嫌味な話し方、やめてくれない。いつも何も意見言わないくせに、あれは嫌、これは嫌って」
「舞衣ちゃん待って、落ち着いて」
奥井さんが彼女を止める。
「部長の奥井さんが少し考えたいって言ってるし、決定は次の部活にするのはどうかな?」
俺の言葉にみんながうなずき、話し合いは持ち越しとなった。
とり部員たちが、そそくさと帰っていく。
「何よ、あの態度! 許せないよ〜。澪、大丈夫?」
「舞衣ちゃん、心配してくれてありがとう。私ね、早いテンポの会話とか、その場で即判断しなきゃいけない事とか凄く苦手なんだけど、でも、じっくり考えることはできるから、みんなの意見を少しずつ活かせないか。一度、考えてみる。でも……結局、何もいい案が出なくて……今日と同じ状況のままかもしれないけど」
そう言ってうつむいた彼女に、俺は声をかける。
「何もせず案がでないのと、考えたけど案が浮かばなかったのは、全然違う状況だよ。部長として自分ができることをやり切ったなら、自分で自分に納得できると思う。そしたら、うまくいかなかった経験でさえ、君の中の自信になる」
これは自分の体験談だ。
「ヒスイ先生、ありがとうございます! ずっと、自信を持てるようになりたかったから、私……考えてみます!」
彼女の視線が、真っ直ぐに俺を見つめて笑う。
覚悟と決意は、目に現れる。
それを体現するかのように、彼女の瞳の中にキラキラとした輝きが見えた気がした。
教育実習が始まって三日が過ぎ、少しずつ緊張もとれてクラスのみんなと話をする機会も増えていた。
だが、天文部の屋上観測の時に奥井さんと話しをして以来、彼女と二人だけでゆっくりと言葉を交わす機会はなく、『記憶の中から大切な何かを忘れている』状況については、詳しく話を聞くことができていなかった。
今日も慌ただしく一日の授業スケジュールを終えて、放課後になり職員室のデスクで俺はようやく一息つく。
記憶の欠落以外にも、俺には腑に落ちないと思う点がいくつかあった。
それは自分の生い立ちについて、ふとその過去を振り返った時に、なぜかいつもモヤモヤとした気持ちになるのだ。
俺は孤児院で育ち、引き取ってくれた老夫婦が亡くなる前に残してくれた少しのお金と、自身でバイトを掛け持ちしながら貯めたお金でどうにかやりくりしている。大学に通えているのは、奨学金制度を利用したからだ。
裕福な家庭で育った人に比べると、それなりに苦労の多い日々だったと思う。だが、自分の過去を思い返す時、なぜかいつも他人事のような気持ちになった。
どうしてもその過去が、自分が積み重ねてきた時間だという実感を持つことができず、まるで用意された他人の人生を振り返っているような感覚がずっとあった。
頭の中で、その違和感の霧がスッと晴れたのは教育実習の初日。彼女の声を聞き、その目を真正面から見つめた瞬間だった。
あぁ、これでいい。
心の中で誰かがそうつぶやいた。
出会う為にここに来たのだと、今ままで感じていた違和感が綺麗に腑に落ちていく。
それでも、そんな風に感じたのはなぜなのか。それだけはどうしても、分からないままだった。
『失敗と成功は切り離されたものではなく、そのほんの少し先で繋がっている。失敗は、成功の一歩目。そう教えてくれた誰かが、私にもいて、でも……』
あの日の屋上で、彼女の言葉は何と続くはずだったのだろう。
やはり二人の間には、自分たちが思い出せずにいる共通の出来事があるのではないかと、そんな気持ちになってくる。
だが現実的に考えて、二人同時に同じ記憶を無くす状況などあるはずがない。どうしたってそんなこと、起こり得ないのだ。
「神崎くん、神崎くん!」
思考の海に沈んでいた俺の意識が、名前を呼ばれて一気に浮上した。なぜかこの苗字もしっくりこず、聞き慣れないという思いを拭えずにいる。
「あ、山内先生。申し訳ありません。考え事をしてしまって」
「慣れない実習で、ちょうど疲れがでる頃だけど、大丈夫?」
山内先生は今年四十五歳になる柔和で優しいベテラン教師で、実習期間中に俺の教育係をしてくれれている、あのクラスの担任だ。
今も穏やかに、俺を気遣う言葉を掛けてくれた。
「はい、大丈夫です」
「今日は週に二回の天文部の活動の日でしょ。もう、そっちに行って大丈夫だよ」
「ありがとうございます。今から行ってきます」
笑顔で報告して、俺は職員室を後にした。
この学校には、大きな二つの校舎がある。一つが、全学年の教室と職員室がある本館。そしてもう一つが、家庭科室や音楽室に理科室などがある特別教室棟。
天文部が部室として使っているのは、本館から渡り廊下で繋がっている特別教室棟二階の一番奥にある空き教室だった。
人気の文化部から順に、本館から近い位置の空き教室を使っているらしく、廃部寸前の天文部は最奥に追いやられているらしい。
天体望遠鏡も過去に買ってもらった古い一台を大切に使い、代々それを引き継いでいるとのことだった。
その部室の前まで来て俺は足を止めた。少し揉めているような会話が、扉越しに聞こえてきたからだ。
確か今日は、文化祭の出し物を決める話し合いをすると言っていた。恐らく、とり部員と星好き部員で意見の食い違いが起きたのだろうと予想がつく。俺は扉をノックして、教室の中へと入った。
ピリッとした空気が広がっており、部長である彼女は困ったような表情を浮かべている。
そして相変わらず、兼任顧問の村岡先生は不在だった。本来ならこういう時、顧問がクッション役になり場をとり持ったりするのだが、話を聞く限り村岡先生が何かしてくれることはなさそうだ。
「揉めてるみたいだけど、大丈夫かな? どんな状況なの?」
穏やかな声で問い掛けると、「実は……」と、奥井さんが遠慮がちに説明してくれた。
毎年天文部は文化祭の出し物として、星座やギリシャ神話についてまとめた天体新聞を作り、それと一緒に六月の合宿で撮った天体写真を部室の壁に貼って展示するのが恒例らしい。
だがそれは全く人気がなく、いつもほとんど人が来ない状況だったようで、奥井さんの隣に並んで座っている彼女……柏木舞衣さんが、「段ボールを使ったプラネタリウムを作ってみたい」と新たな案を出した。
しかし二年のとり部員である芝野さんと佐藤くんから、事前準備が大変過ぎることはしたくないという反対意見があがり、更には一年のとり部員三名の、「地味な事より、もっとオシャレなカフェとかがしたい」と、全く天文部とは関係のない出し物の意見まで出てきてしまい、どうするべきかと悩んでいるようだった。
その時、二年のとり部員の芝野さんが、苛立ちをぶつけるように奥井さんにきつい言葉をかけた。
「奥井さん、部長のくせに黙ってないで何か言ったら!」
「ご、ごめんね。あの……もう少し考えてみたくて……みんなの、それぞれの意見を……少しずつ取り入れたような……そんなのが無いかなって」
「そんなの、あるわけないでしょ」
芝野さんの言葉に、奥井さんの友達である柏木さんが言葉を挟む。
「ちょっと! その嫌味な話し方、やめてくれない。いつも何も意見言わないくせに、あれは嫌、これは嫌って」
「舞衣ちゃん待って、落ち着いて」
奥井さんが彼女を止める。
「部長の奥井さんが少し考えたいって言ってるし、決定は次の部活にするのはどうかな?」
俺の言葉にみんながうなずき、話し合いは持ち越しとなった。
とり部員たちが、そそくさと帰っていく。
「何よ、あの態度! 許せないよ〜。澪、大丈夫?」
「舞衣ちゃん、心配してくれてありがとう。私ね、早いテンポの会話とか、その場で即判断しなきゃいけない事とか凄く苦手なんだけど、でも、じっくり考えることはできるから、みんなの意見を少しずつ活かせないか。一度、考えてみる。でも……結局、何もいい案が出なくて……今日と同じ状況のままかもしれないけど」
そう言ってうつむいた彼女に、俺は声をかける。
「何もせず案がでないのと、考えたけど案が浮かばなかったのは、全然違う状況だよ。部長として自分ができることをやり切ったなら、自分で自分に納得できると思う。そしたら、うまくいかなかった経験でさえ、君の中の自信になる」
これは自分の体験談だ。
「ヒスイ先生、ありがとうございます! ずっと、自信を持てるようになりたかったから、私……考えてみます!」
彼女の視線が、真っ直ぐに俺を見つめて笑う。
覚悟と決意は、目に現れる。
それを体現するかのように、彼女の瞳の中にキラキラとした輝きが見えた気がした。