放課後になり、私は緊張しながら職員室の前でヒスイ先生を待っていた。もちろん職員室の中に入って声を掛ければ待たずにすむけれど、更に緊張してしまいそうな気がして一端廊下で気持ちを落ち着けることにした。

 落ち着け、私。
 大丈夫、大丈夫。

 心の準備の最中に、ヒスイ先生が職員室から出て来て、私の姿を見つけた途端に駆け寄ってきた。

「もしかして、ずっと職員室の前で待っててくれた? ごめんね」
「全然、まだ……心の準備が」
「え?」

 不思議そうに聞き返されて、私は焦って首を横に振る。

「い、いえ。待ってません。今、来ました」

 並んで廊下を歩きながらも、私はずっとうつむきがちに目線を下に向けてしまい、ヒスイ先生の目を見ることができない。

 嫌な態度だったら申し訳ないな。
 そう思いながらも、なかなか顔を上げられなかった。

「い、今から屋上観測を、する予定なんですけど……。でも、八時で校舎から全員退出する決まりがあって」
「そうなんだ。むしろ八時以降からが天体観測の本番みたいな感じなのにね」

 そんなヒスイ先生の言葉に、私はうつむいていた顔を勢いよく上げた。

「そ、そうなんです! 八時頃から見え始める星座が全く見れなくて」

 学校のルールなので仕方がないけれど、ずっと少し不満に思っていたことを、ヒスイ先生も同じように感じるのだと知れて嬉しかったのだ。

「秋の星座は一等星が一つしかなくて明るさに欠けますけど、ギリシャ神話で有名な星座がいっぱいあるし、それにまだ夏の星座だって見れるのに……」

 そこまで一気に話して、私はハッとして自分の口元を手で覆った。

「す、すみません! 私……星座の話になると早口でベラベラ喋ってしまう星座オタクで、普段は人見知りだから、その、上手く話せないんですけど」

 隣を歩きながら、ヒスイ先生にぺこぺこと頭を下げる。

「大丈夫だよ。俺も結構、星座オタクだから。アンドロメダとかペルセウスとか、秋の星座はギリシャ神話も面白いよね」
「はい! そうですよね! そうですよね!」

 ヒスイ先生と星座トークができた嬉しさに、私は手のひらをギュッと握り締めて何度も何度も強くうなずいていた。
 そんな風にずっと、上下に頭を振ってうなずく私を見て、ヒスイ先生が笑う。

「頭、フラフラになるぞ」

 言葉と同時に、ヒスイ先生の手が私の頭をポンっと一回優しく撫でた。
 その途端に、まるで心の奥底にあった想いのカケラが弾けるように鼓動が高鳴り始める。

 屋上へと続く階段をのぼりながらも、私は結局またうつむくことしかできなかった。



 屋上に出ると舞衣ちゃんが天体望遠鏡をセッティングしてくれていた。

「舞衣ちゃん、準備ありがとう」

 私が声を掛けると、こちらへ走り寄ってきて内緒話でもするように私に耳打ちする。

「澪、ヒスイ様とちゃんと話しできた?」
「舞衣ちゃん、ヒスイ様とか呼んじゃダメだよ。聞こえちゃうよ」
「イケメンの神が降臨してるんだから盛大に敬わないと! それに、ヒスイ様は澪に譲るんだから頑張りなさいよ」

 舞衣ちゃんにはお昼休みに、「澪、ヒスイ様に一目惚れしたでしょ! すぐに分かったし、友情のために私は四組の実習生タケル様推しでいくわ」と言われていた。

 舞衣ちゃんが私の体をそっと押して、ヒスイ先生との距離を近くする。私は近過ぎる距離に耐えられず、半歩だけまた距離をとった。

「か、観測を始める前に、みんなに紹介しておきます。今日から教育実習に来ているヒスイ先生が、ふく、副顧問として、部の活動に参加されます」

 緊張で少し声が震えたけれど、なんとか紹介することができた。

「教育実習で来ている間の二週間ですが、よろしくお願いします」

 ヒスイ先生の挨拶の後に観測を開始する。
 しばらくして、ヒスイ先生が私の身長に合わせるように屈んで、耳元で小さく問い掛けてきた。

「あの子達は、観測に参加しないの?」

 ずっと携帯を見ている、とり部員のことを言っているのだとすぐに分かった。

「それは……あの……」

 私も声を潜めて、学校が部活全員参加制であること、各文化部にはとりあえず入部してくる「とり部員」がいることを説明する。

「難しい状況だな。顧問の先生は、注意してくれないの?」

 この現状を目にして、ヒスイ先生が心配そうに私を見る。

「実は、とり部員に居てもらわなきゃ困るのは、私達の方なんです」
「どういうこと?」
「十人以下の部は、廃部になるから」
「なるほど……」

 三年生が引退して、今いる星好きメンバーはたった五人。二年に二人、一年に三人。とりあえず入部の「とり部員」たちがいなければ、十人以下で天文部は廃部となってしまう。

「それに、うちの部には専属の顧問がいなくて」
「村岡先生が顧問じゃなかったっけ? さっき職員室で紹介してもらったよ」
「村岡先生は、本来は手芸部の顧問なんです。廃部寸前の天文部の顧問を無理やり掛け持ちさせられたみたいで……。普段は部室にも屋上観測にも顔を出してくれません」

 恒例の合宿だけは、手配と引率をしてくれるようになんとかお願いをして、それだけはやってもらっている。

「この状況で部長をするの、大変だね」
「自信がなくて、不安でいっぱいだったんですけど……。尊敬する先輩が、私に任せたいって言ってくれて」

 それでも自信はなかった。自分にはできないと、そう思い込んでいた。そんな私の背中を誰かがそっと押してくれた。
 それが誰だったのか分からなくなってしまうなんて、自分でも信じられない。

 その時、とても大切な言葉をくれた。
 その大事な言葉さえ、今はもう思い出せないでいる。

「でも、上手くできているか分からなくて……。きっと失敗ばかりです」
「失敗して、いいと思うよ」
「え?」
「失敗して当然だよ。こんな状況だし、それに失敗は、成功の一歩目だから」

 この、言葉……!
 ヒスイ先生がくれたこの言葉と、思い出せずにいた大切な言葉が同じものだったと気付いて私は驚く。

「俺に、そう教えてくれた人がいるんだ。他にも黒はプライドの色だって話も聞いて、でも、そんな大事な言葉をかけてくれた人のことを、思い出せずにいる」

 ヒスイ先生から続いた言葉に、私は更に衝撃を受ける。
 まさか、ヒスイ先生も私と同じ思いをしていたなんて……。

「私も、ずっと思い出せない言葉があったんです。でも今、先程のヒスイ先生の言葉で思い出しました」

そんな私の言葉に、今度はヒスイ先生が驚きの表情を浮かべている。

「失敗と成功は切り離されたものではなく、そのほんの少し先で繋がっている。失敗は、成功の一歩目。そう教えてくれた誰かが、私にもいて、でも……」

 その誰かのことだけは、どうしたって思い出せないのだ。

 誰……?
 私の心の奥底にいる、あなたは誰ですか?

「同じ言葉と、同じ状況なんて、驚いたな」

 ヒスイ先生と私の視線が、真正面から絡み合う。

「部長! 雲が多くて……今日は時間的にもう無理かもしれません!」

 後輩から声を掛けられ、私はハッとして空を見上げた。

「そ、そうだね。雲が多くなってきたので今日は中止にします」

 私の声に、二年のとり部員は真っ先に階段を駆け降りて行く。一年のとり部員二人は、ヒスイ先生の元へ来て、何か質問をしていた。

 ヒスイ先生ともう少し話がしたかったけれど、日を改めた方がいいかもしれない。

 もう一度見上げた空は、心の中と同じ、不透明な膜に覆われたような星の見えない夜空だった。