「あれ?」

 自室で目を覚した私は、ベッドから体を起こした。そして、お気に入りのワンピースを着たまま居眠りをしていた自分に驚く。

 私、いつ眠っちゃったんだろう。
 誰かと遊びに行く約束をしていた訳でもないのに、なぜ普段より少しオシャレをして眠っていたのか分からなかった。

 出掛けて、いたんだっけ?
 どれだけ考えても、肝心な部分に靄がかかったようで答えが出ない。それでも、このホワイトブルーのワンピースを似合うと言われてとても嬉しかった、その想いだけが強く心に残っていた。

「私は、誰に褒められて、嬉しかったの……?」

 問い掛けの答えが自分の中には見当たらなくて混乱する。
 ただ、ひどく幸せだった想いと、それと同時に締め付けられるような胸の苦しさだけが私の中に残っていた。

「舞衣ちゃんと買いに行った服。どうして、電車賃が足りなくなるのに、そうまでしてこれが欲しかったんだろう」

 シリウスと同じ、ホワイトブルーだから?
 だからって、友達にお金を借りてまで……。私が、そんなことを?

「これを着て、誰かに」

 何かを思い出せずモヤモヤとしているのに、何を思い出したいのか分からない。
 こんな風に、自分で自分の心の一部が見えなくなるような想いは初めてだった。

 その時、カリカリと乾いた音が部屋に響き、私は深い霧がかかった思考の中から引き戻される。愛猫のマタタビが、立ち上がって窓辺の壁を掻いていた。

「マタタビ? どうしたの?」

 私の声に振り返ったマタタビが、何かを訴えるように「ナァー、ミャー」と鳴き、またすぐに窓越しの空を見上げる。

「空に、何かあるの?」

 私は立ち上がって窓を開けた。
 途端に夜の風が吹き付け、私の猫っ毛で柔らかな髪を揺らす。夕方までずっと晴れていた天気がいつの間にか雨に変わっていて、小さな雨の雫が風と一緒に吹き付け私の髪を濡らした。
 そのまま空を見つめていると、不意に突風が吹いて雨粒が大量に部屋の中に入ってきた。

「わっ」

 反射的に身を屈める。
 その姿勢のまま、ふとどこかで今と同じような状況があったような気持ちになった。

 こんな風に水飛沫を避けた。
 その時の自分は、嬉しくて幸せな想いを胸に抱いていたような気がする。


『予想以上に、濡れたな』
『髪についた雫がキラキラして、綺麗だな』


 不意に胸の中で、誰かの声が響いた。
 その途端に、私の視界が徐々に濡れた膜で覆われていく。不思議に思い瞬きをすると、いつの間にか瞳の中いっぱいに溜まっていた涙が溢れ、静かに頬をつたい落ちていった。

「あれ……? なんで、泣いてるのかな?」

 理由も分からないまま、私は止めどなく溢れてくる涙を拭う。

「どうしよう。涙、止まらない」

 あの声は、いったい誰の声だったのだろう。
 どうして、こんなに胸が苦しくなるのだろう。

 分からない。
 何も、分からないのに……。

 それでも鼓動が、精一杯何かを伝えたがっている。
 どうしようもなく、そんな気がするのだ。

「忘れたくない」

 無意識につぶやいていた言葉に、驚いて口元を押さえる。
 私は、誰を忘れたくなかったのだろう。思い出せないもどかしさに顔を両手で覆ってうつむいた。

「ナー、ニャー」

 マタタビの声に顔を上げる。勉強机の上に飛び乗ったマタタビが、何か伝えようとするかのように私を見て鳴き続ける。

「マタタビ。何て言ってるの?」
「ミャー」

 ふと、机にいつも飾っていたお気に入りのレターセットが無くなっている事に気付いた。

「嘘……! あのレターセットがない!」

 私は勉強机に駆け寄る。
 このワンピースと同じ、ホワイトブルーの美しい封筒と便箋。
 不透明な記憶の中で、そこに何かを書いて、誰かに渡したような気がする。

「私……誰に……?」

 結局その誰かは分からないまま、答えの代わりのように、涙がまた私の頬をつたい落ちていく。

「マタタビ」

 これ以上、涙が溢れないように……。
 私はマタタビを抱き締めて、ギュッと瞳を閉じたのだった。
 


***


 心の奥底で響いた声が誰のものだったのか分からないまま、それでも私の日常は変わりなく過ぎて行った。
 夏が終わって秋へと季節が巡り、夜空には秋の星座が顔を出し始める。秋の夜空は、四つの季節の中で一番控えめな夜空だ。

 低い空に、みなみのうお座のフォーマルハウト。
 一等星が、たった一つしかない。

 けれど日が落ちる時間が早くなり、夏に比べて湿度も下がって空が澄んでいる。そして冬ほど寒さに備える必要もないので、天体観測しやすい季節でもある。

 天文部の普段の活動は、火曜と木曜の週二回。二十時には校舎から退出しなければならず、なかなか陽の落ちない夏場は屋上観測ができなかった。近頃は五時には空が暗くなるようになり、ようやく屋上での観測活動を再開していた。

「部長、方角はこっちでいいですよね?」

 星好きな一年生部員に呼ばれて、私は駆け寄る。

「うん。そっちで大丈夫。紙の星座早見盤が分かりづらかったら、携帯の天文系アプリを使えば簡単にわかるよ」
「そっか、ありがとうございます」

 星好きの相手なので、なんとか人見知りを発動せずに、私は接することができていた。

「部長〜、いい感じじゃん」

 舞衣ちゃんが私の側に来て、人差し指で腕をツンツンする。

「揶揄わないでよ、舞衣ちゃん」
「香織先輩にも澪のこの姿を見せてあげたかったな〜」
「でも、全体をまとめるのは全然できてないよ」

 三年生が引退して私が部長となった今も、とりあえず入部の「とり部員」との間には溝があるままだった。
 一応部活には顔を出すけれど、積極的に活動に参加する気はないようで、今も屋上の入り口付近で時間が過ぎるのを携帯を見て待っている。

「あの。天体、望遠鏡……のぞ、覗いてみない? きれいだよ」

 緊張で鼓動が早くなりながら、とり部員に話し掛ける。

「別に……いい」

 即座に断られてしまい、私はうつむいてうなずくことしかできなかった。

 部長を引き受けようと思ったのは、私一人の決断だったのだろうか。私一人で、勇気を出せたのだろうか。

 頑張りたいと思った。でも、ものすごく不安だったはず。
 そんな私の背中を、誰かがそっと押してくれた。その誰かの言葉で、私は勇気を出せたのだ。


「あなたは、誰ですか?」


 夜空を見上げて小さく問い掛ける。
 美しい星空は、何も教えてくれなかった。