【side:ヒスイ】

 俺は重い足取りで本部へと戻ってきた。
 今はただ無感情に直属の上司である隊長の元へ向かう。機械的に足を動かし、まるで心を無くしたロボットのように俺は歩いていた。

「奥井 澪の記憶を消去しました」

 入室後に抑揚の無い声でそう告げると、隊長は嬉しそうに声に弾ませる。

「そうか。すぐに上層部へ連絡を入れる」

 そんな隊長の態度にさえ、今はもう何も感じない。喜怒哀楽をどこかに置き忘れてきたような、そんな心持ちだった。

「もう一つ、報告があります」
「もう一つ?」

 俺はうなずいて、言葉を続ける。

「私は、下界の人間に恋をしました」
「何? 随分とあの人間に肩入れしていると思っていたが、やはりそうだったか。しかしお前は、それがどういう事になるのか、分かって言っているのか?」

 まるでこうなる事を望んでいたかのように、隊長が薄笑いを浮かべながら問い掛けてくる。恐らくずっと、部下の立場でありながら苦言を呈してくる俺の存在が邪魔だったのだろう。

「その若さで副隊長の座にまで上りつめたのに、一気に下界落ちとは……。優秀な部下に期待していた私を失望させないでくれ」

 言葉の内容に反して、隊長の声は失望どころかこの状況を楽しんでいるように弾みだした。

「お前も知っていると思うが、天界での記憶は全て奪われ、下界に堕とされる。転生場所と状況は、お前自身の希望は通らない。それを馬鹿正直に申告なんかして、天使という立場を捨て下界に行っても想い人には会えないうえに、例え出会っても記憶はないんだからな!」

 それでも、澪がくれた想いに応えたかった。
 奥井澪という人間に惹かれ、いつしか自分も恋をしていたという事実を、もうこれ以上誤魔化したくはない。だから俺は、天界の禁を犯した自分を、自分で裁くつもりで申告したのだ。

 そうだ。
 いつまで落ち込んでいるつもりだ、俺は!
 心の中で、自分自身に気合いを入れる。

 ようやくいつも通りの自分を取り戻すことができた俺は、先程までとは違う意志のこもった強い視線を隊長に向けた。

「全ての記憶を奪われ、下界に落とされることは分かっています。それでも、これは私にとって大きな意味のある選択です。今まで、お世話になりま……」

 そこまで言って、俺は言葉を止めた。
 この上司に、お世話になった覚えなどない。

「どう考えても、お世話になってませんでした。むしろ、討伐本部にいながら一度も前戦に立った事もない。そんな役立たずの隊長の代わりに、私がいつも活躍していましたから」

 そう言って、俺は片側の口端を上げてニヤリと笑った。

「なっ……お前っ……! それが! それが上司に対する部下の態度か!」

 声を裏返らせ、顔を真っ赤にしながら隊長が怒声を上げる。

「部下としてのモラルなんて知りませんよ。俺、もう堕天使なんで」

 唖然としている隊長に背を向け、部屋を後にする。いつもは丁寧に閉めていた扉を、思い切り力を込めて閉めた。その風圧で、バンッと大きな音が廊下にまで響き渡る。その瞬間、心の中で一気に色んなことが吹っ切れていくのを感じた。

 クソ上司のねちっこい嫌がらせにはいつも辟易していたが、今回だけはその嫌味のお陰で、落ち込んだ心が奮起した。

 あのクソ上司も、最後だけはいい仕事したな。
 心でそう呟き、先程の上司の顔を思い出しながら俺は「フフッ」と声を出して笑ったのだった。


 その数時間後に俺の処遇が通告され、天使協会内が一時騒然となった。

【懲戒辞令】
 悪魔討伐本部 第一部隊 副隊長・ヒスイを堕天使とし、月の終わりに下界へ追放する。

 心配した同期達が俺の元へと駆けつけてくれたけれど、即刻謹慎となりみんなと会話する事は許されなかった。俺が天使協会内にある独身寮の自室で謹慎していると、扉をノックする音が響いた。

 まさか、クソ上司か?

 隊長が記憶があるうちに反省文を書けと言ってきたが、「反省することはありません」と無視をしていた。恐らく、また嫌がらせにでも出向いてきたのかもしれない。扉を開けずにそのまま無視しているとノック音が次第に大きくなり、扉が壊れそうなほどの連打になった。

「しつけーな」

 クソ上司が!
 仕方なくドアを開けると、そこには悪魔討伐本部の最高位である本部長の姿があった。

「ほ、本部長!」
「ヒスイくん。私はあともう少しで器物破損してしまうところだったよ」
「あ、あの……すみません。てっきり、クソが来たのかと思って」
「クソ?」
「あ、いえ……第一部隊の隊長が来たのかと思って、つい……」
「ふふふ。クソか……。否定はしないよ。でも建前上、直属の上司をクソ呼ばわりするのは感心しないな。例えば敬意を表して、『様』をつけるといいかもしれないよ」

 本部長がお茶目にウインクしながら笑う。
 クソに様を付けるなんて……。

「そっちの方が問題ありませんか?」

 俺も釣られるように笑った。
 いつもさりげなく温かい声を掛け、部下として育ててくれたこの本部長に、結果として俺は恩を仇で返す形になってしまった。その上、こんな部下の自室にまで本部長に足を運ばせてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「本部長、この度は本当に申し訳ありませんでした。こちらから謝罪に伺うべきところ、即刻自室での謹慎となった為……」
「はい、ストップ!」

 俺の言葉を遮るように、本部長が片手をあげる。

「見つからないようにこっそりここまで来たからね、続きの話は後で、とりあえず部屋の中に入れてもらえるかな?」
「へ? あ、はい。それは勿論、どうぞ……」

 戸惑いながらも部屋の中に入ってもらい扉を閉めた。


「さて、ヒスイくん。作戦会議を始めるよ」


 そう言って、本部長がこちらを見つめる。

「作戦会議……?」

 本部長の言葉の意味が分からず、俺は戸惑いながら聞き返した。

「あの、何の、作戦でしょうか?」
「君の」
「私の?」

 本部長が深くうなずく。

「そう。君をこっそり奥井澪に出会える状況に転生させる為の悪巧みだよ」
「は? まさかそんなこと……」

「できる」
 
 俺の言葉を遮るように、本部長がそう言い切った。

「だがその前に、まずは私の昔話でも聞いてもらおうかな」
「え?」

 一向に状況が見えず困惑する俺の前で、本部長が何かに思いを馳せるように目を細めた。

「私がまだ若手だった頃はね……。下界では今よりずっと多くの戦争が起こっており、天使協会のお迎え部隊は混乱を極めていた」

 まだ仮死状態の人間を間違ってお迎えにいく事態が、頻発していたという。
 本部長はその頃から討伐本部の所属だったが、多くの同期がお迎え部隊に所属していたのだと話した。

「その時、私の親友がね。下界の若い女性に恋をしたんだ」

 まるで、俺と同じ状況だ。

「当時の私は、親友が堕天使にならないように必死に説得したよ。それは、天界の禁を犯す事になるのだと」

 目を伏せていた本部長が、静かに俺を見据える。

「でもね。その親友に言われたんだ。『俺はこの心を罪だと思っていない。この想いを、罪だなんて思わない。だから俺は胸を張って天界を去る』と、真っ直ぐな目で言われてね。そこまでの覚悟を知った私は、どうにかして親友を想い人の元へ転生させる方法はないかと探した」

 本部長が、今度は悪い大人の目をして笑う。

「当時はね。天使協会内をチェックする監査部隊がまだ無くて、肝心の書類審査がゆるゆるだったんだ。だからちょこっとだけね、こっそーりと書き換えさせてもらったよ。親友の転生場所を」

 どちらかと言えば、罪を犯したのは親友じゃなくて私の方だね。そう付け足し、本部長がテヘヘと笑う。

「何、やってるんですか……」
「勿論反省しているよ。二度としないと心に誓った。だけど……君のような真っ直ぐな志を目にするとね。罰すべき罪とは何か、また疑問が心に湧いてくる」

 フッと、本部長が柔らかな笑みを浮かべる。

「それに、君の同期たちが泣きながら私の所に来たよ。君のために何かできる事はないかと、必死に相談を受けてね。本当はみんな君と話がしたかったと思う。でも謹慎中の君の元へ大人数でやってくるのは得策じゃない。天界のルール上、あくまで建前は私も君の同期達も、君に失望しているというスタンスをとらないといけないからね」

 俺の脳裏に同期達の顔が浮かんでくる。
 一番仲の良かった同期は、ずっと心配して声を掛けてくれていた。何も話せないまま天界を去ることになり、申し訳ない思いと寂しさが胸に広がる。

「だが、今の監査部隊はきっちりしているから、あの頃と同じ方法では通らない。けれど今はね、私もそこそこ偉くなった。根回しという大人の暗躍ができる立場になり、そして監査部隊にも、私と同じ考えを持つ同期がいる。だからね。なんとかなるよ転生場所については、ただ……」

 そこでいったん言葉を区切り、一呼吸置いてから、本部長が俺の目を真っ直ぐに見つめて言葉を続ける。

「それでも、記憶だけは残せない。これは天界の絶対的ルールだ。だけど送り届ける! 彼女と出会える状況と場所に、だから後は君次第だよ。記憶なんか無くても、強く心惹かれた人に、二度目の恋をしておいで」

 本部長の言葉で、俺の目頭が熱くなっていく。

「ありがとうございます! 本部長っ……ありがっ……ござい、ます」

 涙が溢れ、うまく言葉を紡げない。
 俺は勢いよく腰を折って頭を下げた。

「お世話になりました。ありがとうございました」

 そんな俺の肩を叩き、本部長が微笑む。

「顔を上げてヒスイくん。笑顔で別れよう。元気で……」
「はい。本部長も、お元気で」

 月が満ちる夜に、俺は下界へ落とされる。
 その日までの謹慎期間を、俺は家族や同期たちへの感謝の手紙を書いて過ごそうと決めた。

 記憶を失っても、この感謝の気持ちと澪への想いを、どうか俺の鼓動が覚えていますように……。