【side:ヒスイ】
澪の隣で笑いながら、必死に心の中である言葉を繰り返している自分がいた。
妹。
妹みたいな存在だから、守りたいと思うし、大切だとも思う。けれどそれは、天使として越えてはならない感情を持った訳ではない。それでも、出会った頃よりキラキラとした瞳で変わっていく澪の姿を眩しく感じていた。
手を繋いだ自分の隣で、恥ずかしそうにハニカミながらうつむく澪の髪の隙間から、ほんのり赤く染まった耳が見えた。「ヒスイさんのお陰で、変わりたいと思った」と、そんなことを言われて、可愛いなと思わずにはいられない自分がいる。
最後に記憶を奪うこと。
それは、天使である自分の使命だ。
分かってる。
ちゃんと、分かっている。
やり切れない思いを自分の中に飲み込んで、俺は隣を歩く小柄な澪を見下ろして微笑んだ。
イルカショーの会場を出てから、ペンギンやアザラシ、カワウソがいるエリアに行くことになった。その途中にあるフードコートで飲み物を買うため、澪に声を掛ける。
「そこで待ってて、買ってくるから」
休日の水族館はフードコートもかなり混雑していて、座席がほぼ埋まっている。運良くすぐ近くの席が空き、澪にそこで待っていてもらう事にした。
レジも相当な列が出来ており、ようやくアイスコーヒーとオレンジジュースを買うことができた俺は、澪が待っている席の方を振り返る。すると、二人組の若い男に澪が何か声を掛けられているのが見えた。
急いで席の方へ戻ると、「満席なんで、もしよかったら相席いいかな? 一人? 一人だったらこのあと一緒に見て回ろうよ」と話す男達の声が聞こえてくる。
下界の若者は、草食系なんじゃねーのかよ。
特に日本はそうだと、天界で問題になっていた。神や天使も日本の少子化を嘆いている。それなのに、目の前の男達に限っては、戸惑う澪に次々と言葉を掛けているのだ。
近い、近い。
離れろ。
苛立ちを覚え、俺は二人の言葉を遮るようにその背中に向かって声を掛ける。
「あの。一人じゃないんで、そこ、どいてもらえます?」
自分で思っている以上に、低い声がでた。
俺の声に振り返った二人組が、「なんだ……やっぱり男いるか」とつぶやき離れていく。
澪の向かいの席に腰を下ろすと、「あの、有り難うございました。急に話し掛けられて、びっくりしたんですけど、あの人たち席を探していたみたいです」と説明してくれた。
いや。
どう見ても、席を探す事が第一目的ではないだろう。
けれど澪はオロオロしつつも、至って真面目にそう話しており、本気で座る事だけが目的だと思っていそうな雰囲気だ。
これでは、危なっかしいにも程がある。
「ああいうの、ちゃんと断れるように練習しときな」
オレンジジュースを差し出しながら、つい余計なことを言ってしまった。下界ではこういう態度の事を『彼氏ヅラをする』というらしい。
天使協会には人間の行動や考えを熟知する為の『リサーチ部隊』がいて、その他の部隊に所属する天使達も、ひと月ごとにこの部隊の講習を強制的に受けさせられる。直近に受けた講習に、ちょうど『彼氏ヅラしないで!』という例文がでていた。
別に。
彼氏ヅラとかじゃなくて、これはあくまで兄のような、そういう目線だよ。
また、誰に向かってなのか分からない言い訳を心の中で繰り返す。
「は、はい……。断る練習しておきます!」
俺の心情を知らない澪は、そう言って真面目にうなずいていた。
この出来事に、自分は何をそこまで苛立っているのだろう。
けれど本当は、その苛立ちの答えをもう知っているような気がした。だがそれは、決して気付いてはいけない答えだ。天使として、知ってはいけない感情だ。
分かってる。
心でもう一度そうつぶやいてから、俺は澪に視線を向けた。
「もう少し休憩したら、ペンギンとカワウソ見に行こうか」
笑ってそう言うと、少し心配そうにこちらを見ていた澪が安心したように微笑んだ。もしかすると苛立ちが、雰囲気に出ていたのかもしれない。
ごめんな。心でそう謝罪してから、俺は努めて明るい声で言葉を続ける。
「ペンギンの赤ちゃんがいるみたいだよ」
「可愛いだろうなー。ペンギンって、赤ちゃんの頃はふわふわなんですよね」
「そうみたいだね」
うなずいてから微笑むと、澪も俺を見つめて、恥ずかしそうに、けれどたまらなく嬉しそうに笑った。
今日、澪の中にある自分の記憶を奪う。
やり切れない思いに、鼓動が激しく悲鳴を上げ脈打っているのを感じた。
**
館内を充分に堪能してから水族館を出る。
そこから、澪が入ってみたいと言っていたカフェのランチに向かった。時刻は午後二時前、水族館でゆっくりしていたせいか、もうランチタイム終了間際だった。
「よかったな、間に合って」
「はい!」
ふわふわのパンケーキランチを澪と楽しんでいると、あっという間に実体化していられる時間の限界になり、俺たちは急いで澪の部屋へと帰宅した。
実体化を解いた俺は、普段通りの天使に戻っている。見た目では何も変わらないが、途端に体を軽く感じた。
「水族館とカフェのデート、楽しかったです」
「俺も、楽しかったよ」
今度は澪に淹れてもらったアイスコーヒーを飲みながら、マタタビも一緒に穏やかな時間を過ごす。そんな時間が、今日が、長く長く続けばいい。澪の部屋にある壁掛け時計の針が進んでいくたびに、胸の奥がたまらないほど苦しくなった。
「ナー」
俺や澪の深層心理を感じとっているのか。
マタタビが、「どうして二人とも、悲しそうなんだ?」と話しかけてくる。
こいつと初めて会った日。マタタビは、澪のことが大好きなのだと語った。そして俺にも、澪をどう思っているのか聞いたのだ。その問いに俺は、「大切だと思ってる」と、そう答えた。今からその澪を泣かせるかもしれないことに、更に辛さが募る。
「ごめん。お前の大事な人を、傷付ける」
掠れてしまいそうなほど小さな声で、マタタビにそう告げた。
いつしか窓から見える空は茜色に染まり、そして、深い漆黒へと塗り変わっていく。
もうすぐこの部屋の窓からも満月を見ることができるだろう。
「澪」
真剣な声で名前を呼ぶと、澪の肩がビクリッと震えるのが見えた。泣き出しそうになるのを堪えているのか、口元が小さく震えている。
「ヒスイさん。私……」
言葉が途切れ、長い長い沈黙の後に、澪の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「ヒスイさん、私……。私、あなたのこ」
「ごめん」
俺はその言葉を遮るように、澪の体を引き寄せた。そして、柔らかな唇に自分のそれを重ねる。
記憶を奪うこと、それが、天使の使命だ。
澪の言葉の続きを聞いてしまったら、もう、こうする事ができないような気がして……。
サヨナラ。
その言葉さえ言えないまま、最初で最後の口付けが、澪の中の自分を消し去っていく。
「澪」
眠るように崩れ落ちたその体を両手で受け止めた。
次に澪が目を覚ました時、彼女の中にはもう俺は存在しない。小柄な体を強く抱き締めて、俺はその場に力なく座り込んだ。
これでいい。
これでいいんだ。
叫び出しそうな思いを抑え、俺は必死にその言葉を繰り返す。自分がこれをしなければ、他の天使が澪の記憶を奪うことになる。だからこれでいい。
「これで……いいんだ」
その時、意識のない澪の手からワンピースの色と同じホワイトブルーの封筒が滑り落ちていくのが見えた。
『ヒスイさんへ』
そう記された封筒に震える手を伸ばし、俺は拾い上げる。そして、便箋に書かれた文字を見た瞬間に俺の瞳から堪らず涙がこぼれ落ちた。
澪の隣で笑いながら、必死に心の中である言葉を繰り返している自分がいた。
妹。
妹みたいな存在だから、守りたいと思うし、大切だとも思う。けれどそれは、天使として越えてはならない感情を持った訳ではない。それでも、出会った頃よりキラキラとした瞳で変わっていく澪の姿を眩しく感じていた。
手を繋いだ自分の隣で、恥ずかしそうにハニカミながらうつむく澪の髪の隙間から、ほんのり赤く染まった耳が見えた。「ヒスイさんのお陰で、変わりたいと思った」と、そんなことを言われて、可愛いなと思わずにはいられない自分がいる。
最後に記憶を奪うこと。
それは、天使である自分の使命だ。
分かってる。
ちゃんと、分かっている。
やり切れない思いを自分の中に飲み込んで、俺は隣を歩く小柄な澪を見下ろして微笑んだ。
イルカショーの会場を出てから、ペンギンやアザラシ、カワウソがいるエリアに行くことになった。その途中にあるフードコートで飲み物を買うため、澪に声を掛ける。
「そこで待ってて、買ってくるから」
休日の水族館はフードコートもかなり混雑していて、座席がほぼ埋まっている。運良くすぐ近くの席が空き、澪にそこで待っていてもらう事にした。
レジも相当な列が出来ており、ようやくアイスコーヒーとオレンジジュースを買うことができた俺は、澪が待っている席の方を振り返る。すると、二人組の若い男に澪が何か声を掛けられているのが見えた。
急いで席の方へ戻ると、「満席なんで、もしよかったら相席いいかな? 一人? 一人だったらこのあと一緒に見て回ろうよ」と話す男達の声が聞こえてくる。
下界の若者は、草食系なんじゃねーのかよ。
特に日本はそうだと、天界で問題になっていた。神や天使も日本の少子化を嘆いている。それなのに、目の前の男達に限っては、戸惑う澪に次々と言葉を掛けているのだ。
近い、近い。
離れろ。
苛立ちを覚え、俺は二人の言葉を遮るようにその背中に向かって声を掛ける。
「あの。一人じゃないんで、そこ、どいてもらえます?」
自分で思っている以上に、低い声がでた。
俺の声に振り返った二人組が、「なんだ……やっぱり男いるか」とつぶやき離れていく。
澪の向かいの席に腰を下ろすと、「あの、有り難うございました。急に話し掛けられて、びっくりしたんですけど、あの人たち席を探していたみたいです」と説明してくれた。
いや。
どう見ても、席を探す事が第一目的ではないだろう。
けれど澪はオロオロしつつも、至って真面目にそう話しており、本気で座る事だけが目的だと思っていそうな雰囲気だ。
これでは、危なっかしいにも程がある。
「ああいうの、ちゃんと断れるように練習しときな」
オレンジジュースを差し出しながら、つい余計なことを言ってしまった。下界ではこういう態度の事を『彼氏ヅラをする』というらしい。
天使協会には人間の行動や考えを熟知する為の『リサーチ部隊』がいて、その他の部隊に所属する天使達も、ひと月ごとにこの部隊の講習を強制的に受けさせられる。直近に受けた講習に、ちょうど『彼氏ヅラしないで!』という例文がでていた。
別に。
彼氏ヅラとかじゃなくて、これはあくまで兄のような、そういう目線だよ。
また、誰に向かってなのか分からない言い訳を心の中で繰り返す。
「は、はい……。断る練習しておきます!」
俺の心情を知らない澪は、そう言って真面目にうなずいていた。
この出来事に、自分は何をそこまで苛立っているのだろう。
けれど本当は、その苛立ちの答えをもう知っているような気がした。だがそれは、決して気付いてはいけない答えだ。天使として、知ってはいけない感情だ。
分かってる。
心でもう一度そうつぶやいてから、俺は澪に視線を向けた。
「もう少し休憩したら、ペンギンとカワウソ見に行こうか」
笑ってそう言うと、少し心配そうにこちらを見ていた澪が安心したように微笑んだ。もしかすると苛立ちが、雰囲気に出ていたのかもしれない。
ごめんな。心でそう謝罪してから、俺は努めて明るい声で言葉を続ける。
「ペンギンの赤ちゃんがいるみたいだよ」
「可愛いだろうなー。ペンギンって、赤ちゃんの頃はふわふわなんですよね」
「そうみたいだね」
うなずいてから微笑むと、澪も俺を見つめて、恥ずかしそうに、けれどたまらなく嬉しそうに笑った。
今日、澪の中にある自分の記憶を奪う。
やり切れない思いに、鼓動が激しく悲鳴を上げ脈打っているのを感じた。
**
館内を充分に堪能してから水族館を出る。
そこから、澪が入ってみたいと言っていたカフェのランチに向かった。時刻は午後二時前、水族館でゆっくりしていたせいか、もうランチタイム終了間際だった。
「よかったな、間に合って」
「はい!」
ふわふわのパンケーキランチを澪と楽しんでいると、あっという間に実体化していられる時間の限界になり、俺たちは急いで澪の部屋へと帰宅した。
実体化を解いた俺は、普段通りの天使に戻っている。見た目では何も変わらないが、途端に体を軽く感じた。
「水族館とカフェのデート、楽しかったです」
「俺も、楽しかったよ」
今度は澪に淹れてもらったアイスコーヒーを飲みながら、マタタビも一緒に穏やかな時間を過ごす。そんな時間が、今日が、長く長く続けばいい。澪の部屋にある壁掛け時計の針が進んでいくたびに、胸の奥がたまらないほど苦しくなった。
「ナー」
俺や澪の深層心理を感じとっているのか。
マタタビが、「どうして二人とも、悲しそうなんだ?」と話しかけてくる。
こいつと初めて会った日。マタタビは、澪のことが大好きなのだと語った。そして俺にも、澪をどう思っているのか聞いたのだ。その問いに俺は、「大切だと思ってる」と、そう答えた。今からその澪を泣かせるかもしれないことに、更に辛さが募る。
「ごめん。お前の大事な人を、傷付ける」
掠れてしまいそうなほど小さな声で、マタタビにそう告げた。
いつしか窓から見える空は茜色に染まり、そして、深い漆黒へと塗り変わっていく。
もうすぐこの部屋の窓からも満月を見ることができるだろう。
「澪」
真剣な声で名前を呼ぶと、澪の肩がビクリッと震えるのが見えた。泣き出しそうになるのを堪えているのか、口元が小さく震えている。
「ヒスイさん。私……」
言葉が途切れ、長い長い沈黙の後に、澪の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「ヒスイさん、私……。私、あなたのこ」
「ごめん」
俺はその言葉を遮るように、澪の体を引き寄せた。そして、柔らかな唇に自分のそれを重ねる。
記憶を奪うこと、それが、天使の使命だ。
澪の言葉の続きを聞いてしまったら、もう、こうする事ができないような気がして……。
サヨナラ。
その言葉さえ言えないまま、最初で最後の口付けが、澪の中の自分を消し去っていく。
「澪」
眠るように崩れ落ちたその体を両手で受け止めた。
次に澪が目を覚ました時、彼女の中にはもう俺は存在しない。小柄な体を強く抱き締めて、俺はその場に力なく座り込んだ。
これでいい。
これでいいんだ。
叫び出しそうな思いを抑え、俺は必死にその言葉を繰り返す。自分がこれをしなければ、他の天使が澪の記憶を奪うことになる。だからこれでいい。
「これで……いいんだ」
その時、意識のない澪の手からワンピースの色と同じホワイトブルーの封筒が滑り落ちていくのが見えた。
『ヒスイさんへ』
そう記された封筒に震える手を伸ばし、俺は拾い上げる。そして、便箋に書かれた文字を見た瞬間に俺の瞳から堪らず涙がこぼれ落ちた。