「最後まで今日は笑顔でいる! 悲しくても絶対、泣かない!」

 デート当日。鏡の中の自分の目を見て私はうなずいた。
 舞衣ちゃんと一緒に行ったショッピングで見つけたこのホワイトブルーのワンピースが、私に元気をくれるような気がする。

 それに、このワンピースの色は青白く輝くシリウスの色だ。
 星の色は表面温度によって異なり、温度の高い順に、青(青白)・白・黄色・オレンジ・赤となっている。

 青白い光を放つ星の中で私が好きなのは、おとめ座のスピカ。オリオン座のリゲル。そして、全ての星の中で最も明るく輝くおおいぬ座のシリウス。

 暖色の赤色の方が温度が高いように思うけれど、赤は青よりずっと温度が低い。昼間に地球を照らす太陽は黄色で、青い星たちは太陽よりもずっと表面温度が熱い星だった。

 私はワンピースの色を見つめて、シリウスに祈る。
 今は季節が夏で、冬になるまでシリウスには会えないけれど、どうか今日一日キラキラの笑顔で笑うことが出来ますように……。
 遠い昔、神として崇められていたシリウス。

「私に、力を貸して下さい」

 そして私は、ヒスイさんとの待ち合わせ場所へと向かった。


 私が指定した駅前の広場には、小さな噴水がある。駅の改札を出た場所から、噴水の前に立つヒスイさんの姿が見えた。ヒスイさんの元へと駆け寄ろうとした時、前から歩いてきた二人組の女性の会話がすれ違い様に耳に入ってくる。

「さっきの人、イケメンだったね〜」
「身長も高くてカッコよかったね! 大学生かな?」
「彼女と待ち合わせっぽいね」
「そりゃいるでしょ、あのイケメンなら」
「どんな美人が来るのかしらね」

 彼女たちが歩いてきた方向から考えて、ヒスイさんの事だとすぐに分かった。今あの噴水の前にいる男性は、ヒスイさん一人だけだ。そう思うと途端に、ヒスイさんの待ち合わせ相手が自分なんかでいいのだろうかと不安な気持ちになってくる。

 でも、今日で最後だから、もう少しだけあなたを私に独り占めさせて下さい。
 私はギュッと手のひらを握り締めて、ヒスイさんの元へ駆け出した。

「おはようございます!」
「おはよ。あれ? そのワンピースの色って……」

 ヒスイさんが気付いてくれた事が嬉しくて、声が弾んでしまう。

「はい! 私の部屋の机に飾っていたレターセットと同じ色です」
「だよな。それに、澪が好きなシリウスの色だ。やっぱり綺麗な青だな。澪に似合ってるよ」

 そんな言葉が嬉し過ぎて、どんどん頬が熱くなっていくのを感じる。私がうつむいて顔を上げられずにいると、優しい手がポンポンッと頭を弾くように撫でた。

「行くぞ」

 その言葉と同時に今度は手を引かれ、私は緊張しながらヒスイさんの隣を歩く。

 まるで、手に心臓があるみたい。
 指先から伝わる熱に、ヒスイさんの存在を益々意識してしまう。すぐに、胸の中がドキドキでいっぱいになった。

 ヒスイさんと一緒に電車に乗る。
 しばらくして一人分の席が空き、「座りな」とヒスイさんが席を勧めてくれた。お礼を言って腰を下ろすと、ヒスイさんが私の前に立ち吊り革を持つ。

「四つ目だったよな」

 駅名が表示されたドア付近のパネルに視点を向けて、ヒスイさんがつぶやいた。私は返事をするのも忘れて、目の前のヒスイさんに見惚れていた。
 今は実体化している為、ヒスイさんはいつもと違い季節に合わせた初夏の装いをしている。黒の半袖サマーニットとインナーに白のTシャツを重ね着した姿が、とても爽やかで格好よかった。
 もちろん、普段の黒シャツとネクタイに黒のロングコート姿も素敵なので、結局どんなヒスイさんも格好いいのだと改めて思った。

「ん?」

 あまりに見つめていたせいか、ヒスイさんが私の視線に気付いてこちらを向いた。

「あ、いえ……な、何でもない、です」

 私は大袈裟な程に首を横に振ってから俯き、膝の上で握り締めた自分の手を見つめて誤魔化した。

 四つ目の駅につくと、そこから歩いてすぐの場所に水族館がある。
 都会に建てられた水族館なのに、ここではイルカショーまで見る事ができる。自分にも好きな人ができたら一緒に来たいと、そう思っていた場所だった。

「あ、そうだ。ヒスイさんって人間のお金持ってますか?」

 入り口でふと気になり問い掛けてみる。
 舞衣ちゃんとの買い物の後、私は人生で初めて母にお小遣いの前借りをお願いした。今まで一度もそんなことを言ったことがなかったので、驚いた母に色々と聞かれたけれど、「どうしてもシリウスと同じ色のワンピースが欲しかった」と話すと納得してくれた。
 そして、「ワンピース代はお母さんが出すわ。澪がこんなお願いするなんて、初めてだもの。本当に小さい頃から星座好きね。それから、舞衣ちゃんに借りた分はすぐに返すのよ」とお金を出してくれたのだ。

「お金のことなら大丈夫だよ」

 ヒスイさんが笑顔で、ポケットから一枚のカードを取り出す。
 実体化申請と一緒に、人間界での通貨使用時に世界中で使用可能なカードの申請も一緒にしたのだと話してくれた。

「天界には、そんな便利なものがあるんですね」

 私は笑う。
 普段、滅多に使用申請が通らないカードらしい。

「下界でのカード使用金額がさ。所属部署の来期予算ポイントから引き落とされる事になってて、予算を削られることを嫌う各部署の隊長達が、なかなか承認しないんだよ」

 天使協会の若いメンバーは、このカードの申請が通っているのを見た事がない者ばかりで、ヒスイさんの同期の間でも、『幻のカード』と呼ばれているそうだ。その正式名称は、下界通貨変換カードというものだった。

「そんなカード、よく承認してもらえましたね」

 ヒスイさんから隊長の愚痴を聞いた事がある。
 あまり良い印象を受けない人だったけれど、その人がすんなりと承認してくれたのはどうしてなのだろうと私は首を傾げた。

「今回の件は……俺が、交換条件をだしたから」
「交換条件?」
「うん、まぁ……。そんなことは澪が気にしなくてもいいよ。…………ほら、行こう! イルカショー見るんだろ?」

 繋いだ手を強く引かれて、私は駆け足で水族館の中へと入って行った。

 イルカショーの会場は、三百六十度ぐるりと座席になっていて、どこからでもショーが見渡せる設計になっていた。
 コミカルな音楽に合わせて中央の水槽にトレーナーとイルカたちが登場すると、自然と満員の客席から大きな拍手がおこる。私たちは比較的前列に座る事が出来たので、イルカの水飛沫が飛んでくるかもしれない。

「楽しみですね!」

 テンションが上がり、思わず声が大きくなる。こちらを見たヒスイさんも嬉しそうに笑っていた。
 トレーナーの合図でショーが始まり、三頭のイルカ達が一気に水の中に潜っていく。そして一斉に、高く高くジャンプした。そんなイルカ達の動きと、水槽を照らす照明の光と音がシンクロするような演出になっている。客席全体を照らす淡いブルーの光も、まるで海の中にいるような世界感を醸し出していた。

 すごいな。
 ヒスイさんも楽しんでいるだろうかと隣を見ると、同じタイミングでこちらを向いた彼と思い切り目が合った。

「楽しんでるか?」
「はい、ものすごく!」

 私がヒスイさんの事を気にしたように、彼も私が楽しんでいるか気に掛けてくれたのかもしれない。そう思うと、また一つ胸の中にキュンが増えた。

 今度は私たちがいる座席エリアの前で、イルカ達が大きく跳ね、体を回転させながら着水する。瞬間、勢いよく水飛沫が客席へ向かって飛んできた。

「きゃっ」

 エリア一体から同時に沢山の歓声が上がり、私は反射的に目を瞑ってヒスイさんの腕に掴まり身を屈めていた。

「予想以上に濡れたな」

 楽しそうな声に顔を上げると、髪から少し水が滴っているヒスイさんと目が合う。濡れても格好いいんだなと思わず見惚れていると、ヒスイさんの指先が私の濡れた髪にそっと触れた。

「髪についた雫がキラキラしてる。……綺麗だな」

 何気ない一言に、どうしようもなく胸が高鳴る。綺麗だと言われたのは、光で反射する水滴のことなのに、まるで自分が褒められたような錯覚をしてしまう。言葉が出ずにヒスイさんを見つめていると、場内で一際大きな歓声が上がった。驚き反射的にそちらへ視線を向ける。三頭のイルカたちが、その日一番の高いジャンプを成功させていた。

 幻想的な光の演出から、館内がフッと通常の灯りへと戻り、そこでイルカショーの幕が降りた。客席から大きな拍手が湧き起こる。

 けれど私は、あんなに見たかったイルカショーより、隣にいるヒスイさんの事で頭の中がいっぱいになっていた。後半は特に、イルカよりも彼を見つめていたような気がする。
 そして私は、今頃ようやく自分の手がずっとヒスイさんの腕に掴まったままだった事に気付いた。

 やだ、どうしよう。
 焦って手を離すと、柔らかな低音の声に「そのまま掴まってな」と言われる。

 館内に終了アナウンスが流れ、一斉に客席から人が移動し始めた。座席の間にある通路と階段が、ひどい混雑状態だ。
 だからヒスイさんは、私がそこで転んだりしないように、そのまま捕まっていろと言ってくれたのだろう。

 困ったなと、私は思う。
 だって、側にいればいるほど、こんなにも素敵だなと思うところばかり発見してしまう。大好きな思いばかり増えていく。これ以上、好きになっても仕方ないのに……。

 今日一日、全力で恋をすると決めていたのに、その先の運命を思いまた落ち込んでしまいそうになる。

 ダメダメ。笑顔、笑顔!
 心の中で自分を励まして、私は「有り難うございます」と笑顔でヒスイさんの服をギュッと握り締めた。

 昨日の夜、ヒスイさん宛の手紙を書いた。
 宝物のレターセットに。

 なかなか想いがまとまらず、何度も何度も書いては消しを繰り返した。
 そして、悩み抜いて、どうしても伝えたい一言だけを手紙に書き記したのだ。

 今の私の、ありったけの想い。
 それはとても短い一文だけど、それ以上に伝えたい言葉など見つからなかった。

 心で、そっと祈る。
 どうかこの想いが届きますように。私の記憶が消えても、あなたの心に残りますように。

 そんな祈りと同時に、ホワイトブルーのワンピースの裾が、柔らかな風でフワリと揺れた。