【side:ヒスイ】

 隊長室の前で深い息を吐くと、俺は一つの覚悟を胸にその扉をノックした。

「ヒスイです。失礼します」
「どうした、期限は明日だろ。もう記憶を奪ったのか?」

 隊長がこちらに顔を向ける事なく、書類に視線を落としたまま問い掛けてくる。

「いえ。記憶は明日、消去します。その為に、あと一つだけお願いがあって伺いました」
「願いだと?」

 明らかに気分を害したような声を出し、隊長が書類からこちらへと視線を向ける。

「期間を伸ばしてやったのに、まだ何かあるのか?」
「はい。実体化申請の承認をして頂けないでしょうか」
「はぁ? なぜその必要がある?」

 隊長が、苛立ちの滲む声を上げる。

「奥井澪の希望で、最後に実体化したいと思っています」
「いつまで、ごちゃごちゃと人間の気持ちに寄り添ってるんだ、お前は! それなら他の者を下界に送ると何度も何度も言っただろっ!」

 またそう言われるだろうと予想はしていた。だからこそ、俺はある覚悟を胸にこのお願いに出向いたのだ。俺は拳を握りしめて、隊長の目を見つめた。

「今回の一連の事態、私のミスだったと上層部に報告し直して頂いて構いません」
「なに?」
「仮死状態の人間を誤ってお迎えに行き身分証を見せたこと。これが、隊長の指示により起こったミスではなく、副隊長の私が独断でとった行動だったと上層部に虚偽の報告をして頂いて構わないと申し上げたんです」

 本来、お迎え部隊の仕事に首を突っ込み、仮死状態の意識体に身分証を見せるなどあってはならない事だ。隊長は自分の判断ミスを挽回したくて必死になっている。

 そのミスを全て、俺が肩代わりすると提示した。
 そうしてでも、澪との別れの時間を、澪が望む形で実現させてあげたい。そう思ったのだ。

 記憶消去の期限が迫っていると伝えた時、瞳を潤ませ泣き出すのを堪えるように目元を擦りながら、それでも微笑んでくれた澪の顔が浮かぶ。

『オシャレをしてちゃんとデートがしたい』

 真っ直ぐな想いを伝えてくれた澪の為に、今の自分にできる全てをしてあげたいと思っていた。
 普段から俺の事をあまり良く思っていないこの隊長は、ミスを背負わせた後で、副隊長の座から俺を降格させようとするかもしれない。
 例え、そうなったとしても……。

「お願いします。実体化申請の許可を下さい」

 隊長に向かって頭を下げた。
 本当は一度だって、こんな上司に頭など下げたくない。強く握り締めた指の爪が、皮膚に食い込む痛みが走る。

「そうか、お前がこの一連の事態のミスをかぶるのか。なるほどな、お前がそこまで頼むのなら、その条件で実体化申請を許可してやろう」

 隊長はひどく満足げに片側の口角を上げ、ねっとりと絡みつくような笑みを浮かべている。
 やはり間違いなく、俺に降格処分を下すつもりだ。湧き上がる嫌悪と怒りを、奥歯を噛み締めやり過ごし俺は隊長室を後にした。


 廊下を歩きながら、澪のことを考える。

『もう一度、ヒスイさんとデートがしたいです』

 泣き出しそうな目で笑った顔が心に残る。別れの瞬間は、泣き顔ではなく心からの笑顔が見たい。そんな身勝手な事を無意識に願う自分がいた。

 そして、その日のうちに一連の事態が俺の独断による判断ミスだと上層部に伝わり、俺は副隊長の座から下される事となった。

「ヒスイ! なんでお前のせいになってんだよ?」

 同期が心配して駆け寄ってくる。

「俺があのクソ上司に、上層部にそう報告していいって言ったんだよ」
「何でそんな……!」

 澪との最後のデートの話を伝える。

「だからって、お前がそこまでする必要ないだろ? 一度でも降格処分を受けたら、余程のことでもない限り事実上はもう出世はないぞ」
「わかってる」
「わかってるってお前! ずっと本部長に憧れて、この討伐本部で上に行きたいって言ってたじゃねーか。どうしたんだよ、ヒスイ! お前、あの人間と出会ってから……」

 同期の言葉を遮るように、俺は声を大きくした。

「もう終わる! 明日、記憶を消す! それで終わる。全部、終わるんだよ!」

 そんな俺の肩を、同期が強く掴んだ。

「ヒスイ! お前……。今、自分がどんな顔してるか気づいてるのか?」

 その言葉に、ガラス扉に映る自分を見た。
 痛みに耐えるような、苦痛の表情を浮かべる自分が目に映る。

 天使が人間に、余分な感情を持ったらおしまい。

 だからこれは、出世が途絶えた胸の痛みだ。そう結論を出し、この感情から目を逸らす。それでも、どうしてもまだ心の一番深いところで、必死になって俺に伝えようともがく「何か」があった。

 天使が人間に、余分な感情を持ったらおしまい。
 それは、越えてはならない境界線。決して、犯してはならない罪だ。

「明日、俺が記憶を消す」

 もう一度その言葉を呟いた瞬間、心の奥で大切な何かが砕ける。
 その音が聞こえたような気がした。