「でかい天体望遠鏡だな」

 屋上に設置した望遠鏡を、ヒスイさんが指差す。
 普段学校で使っているものよりずっと倍率の高い望遠鏡を、自然センターからお借りしていた。

「六月は金星が最大輝度になるので、望遠鏡だとすごく綺麗に見えるんです」

 金星(ヴィーナス)。
 その呼び名は、美の女神アフロディーテの別称。

 今まであまりオシャレを気にした事がなかったけれど、ヒスイさんに出会ってから、少しだけ気になるようになった自分がいる。今も、寝起きで髪がボサボサだとか、あまり可愛くないTシャツだとか。そんな事が、気になって仕方ない。こんな気持ちになるのは、初めてだった。

 心の中で、私はアフロディーテに問い掛ける。
 どうしたら、今より少し綺麗になれますか。

 それでも夜空は相変わらずの厚い雲に覆われていて、美しいアフロディーテの姿は見えないままだった。

「ヒスイさん。私、天文部の次の部長にならないかって……尊敬してる今の部長さんからそう言われたんです」

 香織先輩に言われた部長の件をヒスイさんに話す。

「部長? すごいじゃないか。俺が所属する討伐本部でいうと、隊長って事だろ」
「でも、私には務まりそうになくて……」

 私の弱音に、ヒスイさんが優しく問い掛ける。

「やりたくないって、思ってるのか?」

 私は首を横に振った。
 やりたくないとは思っていない。私は『やりたくない』ではなく、自分には『できない』と、そう思っている。

「やりたくないと思ってる訳じゃないなら、やればいいと俺は思うよ」
「上手くできなくて、失敗しちゃうと思うんです」
「失敗して、いいと思うよ」
「え? でも……」
「尊敬する先輩が、澪にって、言ってくれたんだろ?」

 私はうなずく。

「上手くいかなくて失敗するかもしれなくても、それでも澪にって言ってくれたんだろ?」

 繰り返された問いに、私はもう一度強くうなずいた。

「それに失敗って、成功の一歩目だから」

 ヒスイさんの言葉に、私は振り返る。今もそっと抱き締めてくれているヒスイさんと目が合った。

「俺の尊敬する上司の言葉」
「前に話してた隊長さんですか?」
「違う違う! 全然、あいつじゃねーから!」

 ヒスイさんの穏やかな口調が少し悪くなる。隊長に対しては、かなり嫌な思いを抱えているようだった。

「もっと上の上司で、討伐本部全体の本部長をしてる。憧れの人なんだ」

 そう言って笑ったヒスイさんの瞳がキラキラと輝いたように見える。

「前に、俺の服装がどうして黒なんだって聞いただろ?」
「はい」

 ヒスイさんが所属する討伐本部にとってのプライドの色だと言っていた。

「黒だけは、他の色に染まる事のない色だから」

 悪魔の返り血を浴びても、その穢れに染まらない色であること。
 戦いの中で追い詰められる事があっても、悪魔に寝返る事のない、何者にも染まらない信念を示す色であること。
 黒が、物理的に、そして精神的にも、決して他の色に染まらない色である。それが、天使の中で唯一、戦闘を目的とした部隊の意志を示すプライドの色なのだとヒスイさんが教えてくれた。