――ブオオオォ……。
 紺色の(とばり)の下。大きなエンジン音を響かせて、迷子たちを乗せたバスは進む。


 ***


 高校を卒業してすぐに地元の役所に就職した私は、入職してまもなく、心が折れかけていた。
 役所という職場は、私が思っていたよりも特殊な場所だった。
 辞令(じれい)をもらい、各課挨拶を済ませたら、さっそく仕事が始まる。
 それぞれ新採用職員に割り振られる仕事はべつべつで、同じ課だろうとそれぞれ仕事は違う。そのため、新人だろうと仕事を教えてくれるひとはいない。
 基本的に前任者の引き継ぎを受け、マニュアルに沿って仕事を覚えていくが、前任者によっては、マニュアルがないこともある。
 仕事が始まって一ヶ月が過ぎた頃、私は大きな失敗をしてしまって、落ち込んでいた。

 深夜、最終のバスに乗ってようやく家路に着く。
 しばらくして最寄りの停留所に停車するが、家に帰る気にならなかった私は、そのまま終点までバスに揺られていた。
満月洞(まんげつどう)、満月洞。終点です。忘れ物のないようにお気を付けください。本日はご利用ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております』
 アナウンスを聞きながら、とぼとぼとバスを降りる。
 停留所にはうすぼんやりとした街灯ひとつのほかに明かりはなく、辺りは真っ暗闇。
 ――意味もなくこんなところまで来ちゃったけれど……これからどうしよう。
 もうバスはないし、タクシーに乗るお金もない。
 周囲を見るが、近くに宿らしきものも見当たらない。
 ほかの乗客たちはどこに行くんだろう……。
 バスには、私の他に女性が三人乗っていた。
 明るい茶色の髪をハーフツインテールにした同世代くらいの女性と、黒髪の物静かそうな女性、それからキリッとした顔のメガネをかけた女性だ。
「あの」
 私は思いきって、一番話しかけやすそうだったハーフツインテールの女性に声をかけた。
「ん? なに?」
 女性が振り向く。女性はまだあどけない顔立ちをしていた。もしかしたら歳下かもしれない。
 一瞬怖気付くも、勇気を振り絞る。
「私、このへんあまり詳しくなくて……近くに宿とかってあったりしますか? できれば、安めの」
 恥を忍んで訊ねると、女性は眉間に皺を寄せて唸った。
「宿ねぇ……あ、もしかしてあんた、傷心旅行かなんか? えーなになに! 失恋!? もしかして失恋なの?」
 女性はパッと瞳を輝かせて、私に詰め寄ってくる。私は慌ててぶんぶんと首を横に振って、否定した。
「ちちち、違います!」
「なぁんだ。違うの。じゃ、どしたの? ここ、海以外なにもない町だよ?」
「えっと、その……実はうっかり乗り過ごしてしまって……。でもタクシーに乗る余裕もないし、とりあえず今日はどこか、安い宿にでも泊まろうかなって」
「そうだったんだ。んーでも生憎(あいにく)、近くに宿はないんだよねぇ。でも、この森を抜けた先に夜だけやってる秘密のアクアリウムならあるよ」
「アクアリウム……?」
「うん。私、これからそこに行くんだけど、よかったら一緒に来る?」
 女性の話に、私は「えっ」と思わず驚いた声を上げた。
「こんな夜中に、水族館がやってるんですか?」
「そう! あの森を抜けた先にあるんだよ。夜が明けるまでの暇つぶしにはなると思うけど、どうする?」
 宿に泊まるより安いよ、入場料ワンコインだから。と、女性は言う。
 すると、「なら、私もいいだろうか」と一緒のバス停で降りたメガネの女性が私たちの話に入ってきた。
「もちろん!」
 すかさず女性が笑顔で頷く。
「それなら、私も……」
 すぐ近くにいた黒髪の女性もおずおずと手を上げる。
 その場にいた女性がみんな行くということなので、私も混ざることにした。
 ナイトアクアリウムなんて行ったことないし、ちょっとした気分転換にはいいかもしれない。
「じゃっ、しゅっぱ〜つ!」
 まんまるの月が浮かぶ夜空に、女性のハツラツとした声が響く。
 こうして私たちは、月明かりだけを頼りに海を目指して歩き出した。


 ***


 森の中を進みながら、だれかが「ねぇ、自己紹介しない?」と言った。
 顔を上げると、斜め前を歩いていたハーフツインテールの彼女と目が合った。どうやら、発言したのは彼女のようだ。
「私の名前はハル! 走ることが大好きな高校二年生! 学校では、陸上部に入ってます! 今日はちょっといろいろあって、久しぶりに家族に会いたいなって思って、あのバスに乗ったの」
 言い出しっぺのハーフツインテールの女性が、相変わらずよく通る声で挨拶をした。
「家族? お前の家族はそのアクアリウムに勤めてるのか?」
 自己紹介をしたハルさんのとなりを歩いていた背の高いメガネの女性が首を傾げて訊ねる。
「ううん。住んでるの」
 ――住んでる?
 前を歩くふたりの会話に首を傾げていると、となりの女性は納得したように頷いた。
「あぁ、なるほど。お前、もしかして人魚(マーメイド)か」
 ハッとしてハルさんを見る。
 ――人魚。
 となりの女性は今、たしかにそう言った。
「イエース!」
 ハルさんは、にっと歯を見せて笑いながら、ピースサインを私たちに向けた。
「私、人魚でーす」
「わっ……そうだったんですね!」
 活発そうで親しみの持てる笑顔を向けるハルさんは、言われてみれば、たしかに人魚っぽい気もする。
 ――そう。
 この世界には、いろんな種族がいる。
 人間、人魚族、狼族、小人、地底族、妖精、天狗、雪女……そのほか、私が知らない生き物もまだまだたくさんいるだろう。
 ハルさんはどうやら人魚らしい。
 ティーシャツとショートパンツから覗く手足はこんがり小麦色に焼けていて、ほっそりとしている。
 人魚族は基本みんな海で暮らしていると聞くが、ハルさんは例外だった。
 ハルさんは普段、地上で生活しているらしく、変身魔法で人間の姿になっているのだという。
「じゃあ次、あなたの番!」
 ハルさんが元気よく私を指名した。
「あ、えと……私はミオといいます。私は人間です。隣町の役場に勤めています。えっと……バスで帰宅中だったんですが、つい寝過ごしてしまって……気づいたら終点でした。あ、歳は十九です」
 自己紹介を終え、ふう、と息を吐く。
 ――緊張した。
 そういえば私、こういう自己紹介苦手だったなぁ、と学生時代を回顧する。
 ハルさんのように特技も好きなものもなく、生まれもふつうの私は、いつも小さな声で簡潔に挨拶をして終わりだった。
 私にもなにか特別なものがあればいいのに、と昔は思っていたけれど……今はもう、諦めてしまった。
 自己紹介を終えると、すぐとなりにいた物静かそうな女性に視線を流す。
「私はナツメ。大学三年。えっと……私は雪女と妖精のハーフ、です。今日は……なんとなく海を見たくなったので、ひとりで来ました」
 ナツメさんが話し終えるとほぼ同時に、ハルさんがナツメさんに飛び付いた。
「やっぱりスノーフェアリー!! なっちゃんってきれいだもんね! 空気感ひんやりしてるし、儚いし! 羨ましい〜」
「あ……そう?」
 ナツメさんは、どこか恐縮したような硬い笑みを浮かべていた。
 ――……本当、きれいで羨ましいな。
 しかし、羨ましいと思いながらもハルさんのように素直に口に出せない自分がいる。
「では、最後は私だな」
 まだ自己紹介をしていなかったメガネの女性が、顔の前に垂れた髪をさっと後ろへ流した。ふわりと甘い香りがした。
「私はイロハだ。警察庁(けいさつちょう)に勤務している。今日は急遽決まった地方への出張の帰りだったんだが、私としたことが、うっかり寝過ごしてしまって今ここにいる」
「うんうん! で、イロハっちは人間?」
 ハルさんはナツメさんから離れると、今度はイロハさんの肩に手を回した。
 ハルさんは人懐っこくて、距離が近いひとのようだ。イロハさんは一度眉を寄せてハルさんを睨んだものの、小さく「私は白鬼と人間のハーフだ」と返した。
 すると、だれより早くハルさんが声を上げた。
「マジ? 白鬼ってめっちゃエリートじゃん!」
「出自は関係ない。私は私だ」
「うわあ、その物言いが既にもう!」
 ――すごいなぁ……。みんな、特別なひとたちなんだ。私とは大違い。
「……人間は私だけなんですね」
 みんなそれぞれ、しっかりとしたアイデンティティがある。
 ――それに比べて、私は。
 私にはなにもない。立派な家柄も、きれいな容姿も、夢も、なにも。
 俯きかけたとき、ハルさんが私の肩をぽんっと叩いた。 
「ほら! 下向かないの! ここで出会ったのもなにかの縁だよ。今日は特別なアクアリウムで心も身体もほぐそう!」
「……はい。ありがとうございます」
 ハッと我に返って、再び足を前に踏み出す。
「アクアリウムなんて、子供の頃以来だな」
「私は初めて」
 顔を上げると、葉と葉の隙間から満天の星空が見えた。
 星々は、ちらちらと消えそうで消えない。儚い瞬きを繰り返していた。


 ***


 そうして私たちは、他愛のない話をしながらしばらく森の中を歩き続けた。
 しばらくして森を抜けると、入江に出た。
 目の前には、広大な海が広がっている。
 穏やかな海の上には、黄金色の満月と薄く筆で刷いたような雲が浮かんでいた。
 海面が月明かりにきらきらと煌めき、光がひとつの道のように、とある場所へと続いている。
「この月明かりが秘密の道なの。行くよ」
「えっ? でも、海の中ですよ?」
「そうよ。私たち、ハルちゃんと違って人魚じゃないから、水の中じゃ呼吸ができないわ」
「大丈夫、この辺はずっと浅瀬だから。あそこ、見て」
 ハルさんが指をさす。不思議な月光の道の先に、小さな洞窟(どうくつ)が見えた。
「洞窟か。面白い」
「素敵。まるでおとぎ話みたいね」
「はぁ〜い、みなさん、私のあとに着いてきて〜」
 ハルさんが先陣を切り、海の中を進んでいく。
 パンプスが濡れることに一瞬躊躇(ためら)いを感じたものの、もうどうでもいいや、と思って一歩を踏み出した。
 とぷん、と柔らかい水の中に足が沈む。
 波が優しく私のくるぶしを撫でていく。
 九月の海の水は、少しひんやりとしていた。


 ***


「――さぁて、到着!」
 洞窟の中は、一面青色に光っていた。
 ――これは、なんの色なんだろう。
 疑問に思ってその光を眺めていると、ハルさんが教えてくれた。
「その光はね、ウミホタルっていう生き物なの」
「ウミホタル……」
「これは見事だ」
「きれい……」
「海には……こんなにきれいな生き物がいるんですね」
 ほう、とため息が漏れる。
 神秘的な空間に、それぞれ無意識に声を漏らした。
 淡い青色の光を見つめたままぼんやりと佇んでいると、ハルさんに手を取られた。
「ねー、きれいだよね。でもこの子たちは、私たちを楽しませるために光ってるんじゃないんだよ」
「え?」
「そうなのか?」
「うん。この子たちは、敵を威嚇するために光ってるんだ。もしかしたら、私たちを警戒してるのかもね」
「へぇ……」
「……そうなんですか」
 生き物って不思議だ。
 淡い光をそっと両手で包むように掬うと、発光が強くなった。
「大丈夫。怒らないで。私はなにもしないよ」
 そっと呟くと、光が少し弱まったような気がした。気のせいかもしれないけれど。
「さっ、こっちだよ」
 ハルさんに手を引かれ、そろそろと奥に進む。
 まるで、見えない結界があるようだった。
 ――どぷんっ。
 入った瞬間、世界が、いや、それまでの常識がぐるりと変わる。
 そこには、この世とは思えないほど神秘的で鮮やかな(あお)の世界が広がっていた。
 洞窟は、水の中に沈んでいた。
 それなのに、息ができる。目の前を、たくさんの色鮮やかな魚の群れや、イルカたちが通り過ぎていく。
 まるで、自分が魚になったかのような感覚になった。
「なんだこれ……人魚の魔力が強いことは知っていたが、まさかここまでとは」
 戸惑いの声を漏らしたイロハさんに、ハルさんが得意げに言った。
「ま、海は人魚の縄張り(テリトリー)だからね! ここは、私たち海の世界に住む生き物にとっては秘密の楽園なんだ」
「すごいわ……なんだか、夢を見ているよう」
「あはは。夢だなんて! フェアリーにそんな言葉をもらえるとは光栄だよー」
 ハルさんが不思議な空間をすいっと優雅に泳ぎながら、仰向けになって目を閉じた。
 いつの間にか彼女の姿は、人間の女の子から、銀青色の髪とうろこを持った人魚の姿に変わっている。
「すごい……」
 ハルさんの身体はしなやかで、水の中をすいすいと自由自在に泳いでいる。
 ヴェールのような半透明の尾びれがひらひらとなびく姿は幻想的で、夢でも見ているかのようだった。
 ――いいなぁ……私もできるなら、あんなふうに。
 そう思って、私もハルさんのように泳いでみようとするけれど、泡が生まれるだけで上手く前に進まない。
 すると、「無理に泳がなくていいんだよ」と、ハルさんが笑った。
「私ね、いやなことがあったときとか、寂しくなったとき、いつもここにくるの。ここはどんなときでも、どんな私でも受け入れてくれるからさ。だから、ミオりんはミオりんのままで大丈夫なんだよ」
 ――どんな、私でも……。
「……はい」
 泳ぐことをやめて、水の流れに身を任せてみる。
 ハルさんの言うとおり、ゆっくりだけど私の身体はちゃんと流れに乗って、先へ進んでいた。
「ねっ?」
「はいっ」
 ふうっと息を吐くと、自然と身体から力が抜けていく。それで自覚する。
 私は少し、力み過ぎていたのかもしれない。
「私ね、ずーっと人間に憧れてたんだよ。だから、頑張って魔法の勉強して、人魚をやめて陸に来たの」
「……どうして? ハルさんはどうして、人間に憧れたんですか? 人間なんて、人魚と違って魔力もなにもないのに……」
「まあ、それはたしかにそうだけどさ。でも、ミオりんは、私にはない足を持ってるでしょ?」
「足?」
「そ。足。だから、憧れたんだ」
「へぇ……」
 私にとっては、広い海の中で自由に優雅に泳げる人魚のほうが、よっぽど羨ましいのに。
「私ね、高校ではね、念願の陸上部に入ったんだ!」
「陸上! すごいです。ハルさん、足速そうですもんね!」
「うん! ずっとやりたかったことができてて、今はすごく楽しい! ……だけど、たまにちょっと寂しくなるんだ。海の世界が、海のみんなが恋しくなる」
 ハルさんは、ほんの少し声のトーンを落としてそう言った。
 分かる気がする。
「ま、好きなことやってるだけなのにって、みんなには思われるかもしれないけどね」
 わがままだよね、と自嘲気味な笑みを漏らすハルさんに、私はぶんぶんと首を横に振る。
「……そんなことないですよ。好きなことをやっていたって、辛いときはあります。好きだからこそ、周りと比べて落ち込んだりとか……」
 私の周りを行ったり来たりと忙しなく泳ぐ魚たちを見つめながら、ぼんやりと思った。
 コツン、と音がした。
 驚いて振り向くと、私のすぐそばにナツメさんが立っていた。
「……うん。その気持ち、私も分かるわ」と、ナツメさんが静かに頷いた。
「ほんと?」と、ハルさんが嬉しそうに訊く。
 ウェービーなセミロングの髪は透明感のある黒色で、長いまつ毛に縁取られた瞳は憂いげに伏せられている。
 ――きれい。
 初めて見たときも思ったが、ナツメさんはとてもきれいなひとだ。
 雪女も、妖精も、容姿端麗の種族だと聞く。そのハーフともなると、やはりその美しさは別格だった。
 魅入っていると、ぱちりと目が合った。
 ハッとして、慌てて前を向く。すると、ナツメさんがくすりと笑った。ちらりと目を向けると、その笑みは思いのほか柔らかくて驚いた。
 ナツメさんは私のとなりに佇んで、魚を見つめたまま、言った。
「……私、よく誤解されるの」
 現在大学三年生だというナツメさんは、雪女と妖精のハーフということから、容姿がとても整っている。
 そのせいか、周りに勝手なイメージを持たれがちで、自分を偽る毎日を過ごしているという。そんな日常がたまに息苦しくなると、ふらりと見知らぬ街に来て、海辺や森を散歩したくなるらしい。
「私、あまり笑わないし口数も少ないから……よく、冷たいひとって思われる」
「あぁ〜たしかにね。きれいなひとって、笑ってないとツンとしてるって思われがちだよねぇ。美人あるあるってやつ?」
「……でも本当は違う。ただ人見知りだから……上手く笑えないだけなの」
「わ、私も人見知りなので、その気持ちはすごくよく分かります!」
 共感して大きく頷く私を見て、ナツメさんは優しく微笑んだ。
「家ではよくお笑いを見て、笑うのだけど」
「えっ!?」
「ナッちゃんお笑い好きなの!? 意外過ぎ〜!!」
 ハルさんがけらけらと笑う。そんなハルさんを見て、ナツメさんはわずかに眉を寄せた。
「お笑いは好き……だけど、大学の友だちはみんな私を大人しくて上品な子って思ってるから、イメージと違うって思われるのが怖くて……お笑いの話とかできない」
「あぁ……」
 ハルさんが頬を掻く。
「分かるー……イメージ作られちゃうと、本音とか話しづらいよねぇ。私も顧問からよく、お前は叩いて伸びるタイプだからとか勝手に決め付けられて、結構厳しく言われるんだ。男友だちからも女の子扱いされなかったり……でもそれ、いやって言えなくて。空気壊すし」
 ひとは、それぞれ勝手にイメージを抱く。
 たとえば、ハルさんは元気で無邪気な女の子。
 ナツメさんはきれいで物静かなお嬢様。
 イロハさんはまっすぐで強いひと。
 私が今抱いている三人への印象だ。
 でも、それはきっと間違っているのだろう。
 ハルさんは、緊張とか萎縮とかとは無縁のムードメーカーだから、周りは少しくらい悪ノリしてもいいだろうとか、雑に扱ってもいいだろうとか思って接されがち。
 本当はそんなことはない。
 ハルさんだって、周りと比べられたら落ち込むし、からかわれたりしたら傷付く。なんでもないふりをして、笑っているだけなのだ。
 ナツメさんだってそう。
 外見に恵まれていて、みんなから羨ましがられる。みんなに優しくしてもらって、愛されている。だけど、だからこそみんなからの期待に応えなきゃいけないと思って、本当のじぶんを出せないでいる。
 好きなことを好きとすら言えない。もしイメージと違ったら、じぶんを愛してくれるひとたちを裏切ることになってしまうから。
 ――気付かないうちに、私もそうしてしまっていた。
 そのひとのなにも知らないというのに、服装とか声のトーンとか、肩書きなんかで勝手に人物像を想像する。
 そして、自分が構築したそのイメージが崩れると、ギャップを感じる。ときにはそれがマイナスに働いて、裏切られたと思うこともあるかもしれない。
「私は、好きなものを好きって言えない自分がきらい。勝手なイメージを押し付けてくる周りがいやになることもある。……だから、日常に窮屈になったとき、こうやって宛もなくひとりで散歩をする。私のことをだれも知らない場所に行きたくなる」
 ナツメさんの言いたいことは、とてもよく理解できた。
 私も、すぐ落ち込むじぶんがきらい。不器用なじぶんがきらい。言いたいことを呑み込んでしまうじぶんが、だいっきらい。
 変わりたいけど、変わるのは怖い。
 周りに変な目で見られるかもしれないと思うと、足がすくんで動けなくなってしまう。
 だからつい、我慢してしまう。
 けれど、その我慢はいつまでもは続かない。埃のように心に降り積もって、いつか、キャパを超える。
 その我慢が限界になったのが、今夜だった。
 だって、家に帰ったら、また諦めてしまうから。
 家に帰りたくなかった。いつもと同じようにお風呂に入って、ベッドで眠れば、また、いつもと同じ朝が来てしまう。
 だから、バスを降りることができなかった。
 ふと、ナツメさんのそばに、小さな生き物がふわふわと近付いてきた。
「可愛い……」
「クリオネ? 初めて見ました」
「私も」
 ナツメさんはひっそりとした笑みを浮かべて、クリオネを両手で包んだ。
「あなた、もしかして慰めてくれてるの?」
 クリオネはふわふわとその場で漂って、ずっとナツメさんから離れない。 
「わぁ……可愛いですね。ナツメさんに懐いてるみたい」
 ナツメさんの心に共鳴しているのかもしれない。ハルさんとナツメさんと、三人で海の妖精に和んでいると、
「――くだらない」
 水を割くような鋭い声がした。と同時に、どろり、とその場で凝っていた水が動いた。
「……イロハさん」
 イロハさんは厳しい顔つきで、ナツメさんを見つめていた。
「初めに自分を偽って友人関係を築いたのは、他でもないお前自身なのだろう。それならば、皆の思うお前がたとえ偽りの姿だとしても、最後までそのうそを貫き通すのが筋というものだ」
「それは……」
 水温が数度下がったような気がした。
 ナツメさんはわずかに頬を赤くして、俯いた。イロハさんに対して萎縮しているように見えた。
 その姿が職場でのじぶんを見ているようで、私まで悲しくなってくる。
「ちょっとちょっとイロハっち! そんな言い方しなくてもいいじゃん!」
 重い空気を壊してくれたのは、ハルさんだった。
「みんながみんな、イロハっちみたいにズバズバ本音を言えるわけじゃないんだよ」
 しかしイロハさんは、ハルさんの言葉に眉をひそめた。
「言えないんじゃない。言わないんだろう? 周りにきらわれることを恐れて」
 その瞬間、ナツメさんがかすかに表情を変えた。パッと顔を上げ、イロハさんを睨むように見つめる。
「……そうよ。言えないの。きらわれたくないから。それのなにが悪いの?」
 震える声で小さく、しかしたしかにナツメさんはイロハさんに言い返す。すると、イロハさんが鼻で笑った。
「くだらない。他人にどう思われるかなんて気にしていたら、社会では話にならない。仕事も勉強も、スポーツだって、すべてが競争で成り立っているのだから」
 それは、たしかにそのとおりだ。
 だけど、社会がそうであるからといって、みんながその波に乗れているかといえばそうではない。
 その競争が苦手なひとも少なからず一定数はいるのだ。
 私や、ナツメさんみたいなひとが……。
 じぶんが言われたような気になり、心が沈む。
「…………」
 ナツメさんは黙り込んでしまった。
「でもま、イロハっちの言いたいことも分かるけどね。ライバルがいればいるほど、やったるぜ! って燃えるし」
 負けるとめちゃくちゃ悔しいけどなーと、ハルさんがにっと笑ってイロハさんを見上げる。
 どうやら、ハルさんもこの意見には同意らしい。
 ハルさんはからっとした笑みを浮かべて、私とナツメさんの周りをくるくると泳ぐ。彼女なりに気を遣ってくれているのかもしれない。
「……あなたには、悩みとかないの?」
 ナツメさんがイロハさんに訊く。すると彼女はやはり「くだらない」と言って笑った。
「悩んでいる暇があるなら、ほかにやるべきことがあるだろう。周囲にどう思われているか気にして悩むなど、時間をドブに捨てているようなものだ」
 そう力強く言い捨てて、イロハさんは洞窟の奥へ行ってしまった。
「…………警察庁に勤められるようなエリートのイロハさんに、私の気持ちなんて分からないわ」
 ナツメさんが、イロハさんの背中に向かってぽつりと呟いた。
 イロハさんはナツメさんの声は聞こえなかったのか、こちらを振り返ることはなかった。
「まあね……そうだよね。いやでも、イロハっち、さすがだわ〜。私もイロハっちを見習いたいや」
 魔力主義のこの世界では、魔力が強ければ強いほど権力を持つ。
 現在のトップは鬼の一族だと聞いたことがある。つまり、白鬼であるイロハさんは生まれながらのエリートだ。
 現に、彼女の背中は絶対的な自信にあふれていた。
 けれど……気のせいだろうか。その背中は、とても寂しそうに見えた。
「あの、私……イロハさんのところ、先に行ってますね」
「えっ? ミオりん?」
 不思議そうな顔をするハルさんを振り返る。
「私も……その、ナツメさんと同じで、競走とかそういうのは苦手で、いつもひとの目ばかり気にしてしまうタイプで……だから、ちょっとイロハさんのことは苦手っていうか……最初怖いなって思ったんですけど……でも……イロハさんって、生まれながらに高貴なかたで、エリートじゃないですか。周りからの期待もすごくて……どちらかと言うと、ナツメさんと似た境遇のひとですよね」
 ナツメさんがハッとした顔をする。
「それは、そうね……」
「だから、もしかしたらイロハさんも……強がってるだけで、本当はだれにも頼れなくて、本心を言えなくて、でも、期待されてるから無理しなきゃいけなくて……頑張ってるんじゃないのかなって」
 生まれが偉大なひとの苦労は、凡人の私には分からない。だから、私の感じた思いは間違っているかもしれない。
 でも……あの背中は、とても寂しそうで、儚げに見えた。今、彼女をひとりにしてはいけないような気がした。
 ……と、思って、水を掻き分けて必死に泳ぐのだけど、景色は一向に変わらない。
 ――そうだ。私、泳げないのだった。
 だが、ただ漂うだけでは先に行ってしまったイロハさんには追いつけないし、今は無茶でも泳ぐしかない。
 ばたばたと手足を動かすが、そうこうしているうちにイロハさんの姿は暗闇の向こうに溶けて見えなくなってしまった。
「むぐぐっ……」
 私の行く手を阻むように、いくつもの泡がはじける。
 次第に息が切れ始めた。
 ――どうしよう。
 これじゃあイロハさんには追いつけない。
 途方に暮れていたときだった。
「……キミ、もしかして泳げない子だね?」
 いつの間にか、ハルさんが私のすぐ横にいた。呆れたように私に問いかけてくる。
「う……運動は、ハイ。ちょっと苦手です」
「ちょっとではないよね。うん、まぁいいや。仕方ないよね」
 手伝うよ、とハルさんが私の手を取り、泳ぎ出す。ぐんっと、一瞬にして景色が流れていく。
「わっ! すっ、すごい、早いです!」
「そりゃそーよ。私、これでも人魚だからね。もっと早くだって泳げるよ!」
 泳ぐ快感を初めて味わった私は、思わず感動で声が出た。
「いいなぁ……海の中でこんなに早く泳げたら、きっと気持ちいいんでしょうね……」
 私には、ハルさんのような美しいひれはないし、運動神経もないからきっと一生無理だろうけれど。
「結局、隣の芝生は青く見えるってことなんじゃないかな!」
「え?」
 となりを見ると、ハルさんが穏やかな笑みを浮かべていた。
「私もミオりんと同じ。ミオりんは、足のひらで砂を踏む感覚ってどんな感じだろうって想像した私と一緒なんだよ」
「……そっか」
 じぶんにとっては当たり前。でも、ほかのひとにとっては特別のもの。
 私たちはわがままだ。ないものねだりばかりしてしまう。
「……たしかに、そうかもしれませんね」
「私も手伝うわ」
 ハルさんと繋いでいないほうの手を、ナツメさんが握った。ナツメさんの背中には、半透明の羽根が付いている。その羽根がひらひらと動くたび、銀色の鱗粉(りんぷん)のようなものを散らした。
「わ……きれい」
 思わず漏れた言葉に、ナツメさんがふっと微笑む。
「ありがとう」
「あ、いえ! こちらこそ、ありがとうございます」
 礼を言うと、ナツメさんは優しく微笑んだ。
「元はと言えば私のせいだし……。それに、ミオちゃんに言われて気付いたけど、イロハさんにもイロハさんなりの悩みがあるのよね」
「ナツメさん……」
「私もイロハさんのこと、放っておきたくない」
「あのひと、弱音とか吐くの下手そうだもんな〜。そのくせプライドだけは超高そうだし」
「ふたりとも……」
 なんて優しいひとたちだろう。
「……ナツメさんの印象、やっぱり間違ってました」
「え?」
「ナツメさんは容姿だけでなく、心までとってもきれいなかたです」
 ナツメさんの頬が、ぽっと薄紅色に染まる。白い肌に浮かぶ薄紅色は、まるで幻の花のように美しい。
「……ありがとう」
「おや。なっちゃんが照れてる」
「……ミオちゃんの言葉ってまっすぐでうそがないから、素直に受け入れられちゃうの。不思議ね」
「え、そ、そうですか?」
「分かる。悪意がないっていうか。初対面なのに、無条件に信じたくなるんだよ」
 ふたりの言葉に、胸がきゅっとなる。
「そんなこと、初めて言われました……」
「うそ? みんなそう思ってると思うよ。わざわざ口にしないだけでさ」
「そうね。だからつい、こうやってかまい過ぎちゃうのかな」
「かまい過ぎちゃう……」
 そうなのだろうか。
 とろくて不器用な私は、いつも職場の先輩たちに怒られてばかりで、すっかりきらわれてしまっていると思っていた。
 ――でも、もしかしたら。もしかしたら、先輩たちは私を育てようと……助けようとしてくれていた?
 涙が滲んで、私はぎゅっと目を瞑った。目を開き、ふたりを見る。
「……だれかに自分を見せるのは、こわいです。否定されるかもしれないと不安になります。でも……今日こうしてナツメさんやハルさんや、イロハさんと出会えて、みなさんのことを知ることができてよかった。もっと知りたいって思います」
「……ほんと?」
「はい!」
「……ありがとう」
 恥ずかしそうにはにかむナツメさんに、ハルさんがにっと歯を見せて笑う。
「私も、ふたりに出会えてよかった! この夜があってよかった」
 本当に、この夜があってよかった。この夜がなかったら、私はきっと、職場の先輩たちの優しさに、愛情に気付けないままだっただろう。
 落ち込むのも、案外悪いことではないのかもしれない。
「さて、イロハさんのところに行きましょう」
「……そうね」
 私たちは光るクリスタルの花畑を抜け、さらに先へ進む。
 そしてイロハさんのいる洞窟の奥へと向かった。


 ***


 イロハさんを追って泳ぎ続けていると、突然パッと視界が開けた。
 眩しさに目がくらみ、一瞬、足が止まる。明るさに目が慣れてきたところで、目を開けると、目の前に大きな船があった。
 触れたらほろほろと崩れてしまいそうな、ずいぶんと古い船だ。
 ()は破れ、一部破損した船体には(こけ)珊瑚(さんご)たちが繁殖して、小魚たちが楽しそうに鬼ごっこをしている。
 船の中では既に、天然の生態系が確立されているようだった。
「すごい。これは、沈没船?」
「いいでしょーっ! ここは私の隠れ家なんだ。ここに住んでるのは、みんな私の友だち!」
「本物なんですね! さすがです! ハルさん」
 初めて見る大きな船に、私とナツメさんが瞳をキラキラさせていると、
「あっ、イロハっちいた!」と、ハルさんが叫んだ。
 ハルさんの視線を辿った先にイロハさんがいる。
 私たちは急いで沈没船の甲板(かんぱん)へ向かった。
「イロハさん」
 沈没船の甲板の先に佇むイロハさんに声をかけると、彼女は一度ちらりと私たちを見たものの、すぐに視線を外した。
「なんだ。説教でもしにきたのか」
「まさか」
 イロハさんのとなりに並ぶ。私たちの目の前を、すいすいと優雅に色鮮やかな魚たちが泳いでいく。
「ただ、心配になったから来ただけです」
「心配? まさか、私が心配だとでもいうのか?」
「そうですよ」
「呆れて言葉も出ないな」
 イロハさんは深いため息を漏らし、私を拒絶するように背を向ける。
 その態度に、それまで大きくなっていた自信は風船が萎むかのように勢いを失っていく。
 私は、歯を食いしばった。
 ここで引いちゃダメだ、と。
 私は震える声で言った。
「……イロハさんは、きっととても真面目で、仕事もきっちりできてしまうから、きっと甘えることが苦手なんです。いつもひとの上に立っていたから、甘えかたを知らないまま今まできてしまったけれど、本当はずっと、だれかに甘えたかったんじゃないですか? 本当は、今のじぶんを変えたいんじゃないんですか、イロハさんも」
「……私は、べつに……」
 それまで強かったイロハさんの声が、わずかに動揺に揺れる。私は畳み掛けるように続けた。
「ナツメさんのこともそうです。イロハさんはべつに、責めたかったわけじゃないですよね? ただ、励ましたかっただけなんですよね? ナツメさんと、それからじぶんのことを」
 イロハさんが驚いた顔をして、私を見る。
「なんだ、いきなり」
 あのとき、イロハさんはくだらないと言った。でもそれは、ナツメさんにではなく、じぶん自身に向けた言葉だったのだと、私は思う。
「なんとなく、そんな感じがしたんです。わざと言葉にしてじぶんに言い聞かせて、奮い立たせようとしてるっていうか」
「……ふん」
「違いましたか?」
 イロハさんは黙ったまま、瞬きをする。そして、静かな声でぽつりと漏らした。
「……お前は、変わってるな」
「よく言われます」
 イロハさんは降参だというように手を挙げて、小さく笑った。
「……そうだよ」
 それは、どこか溜め込んでいた空気をぷはっと吐くような言いかただった。
「……本当は、私も迷っていたんだ」
 目の前を、大きなクジラがゆったりと横切っていく。それを眺めながら、イロハさんは話し出した。
「今の仕事は、じぶんがやりたくて就いた仕事だ。上司に期待され、後輩に頼られ、それなりに充実している。だが……仕事への向き合いかたや後輩への指導に息苦しさを感じていたのも事実だ。私は白鬼。ハーフとはいえ、完璧な存在として周りからは認識されている。だから私は……生まれたときから、だれかに頼るということを許されなかった。無論、仕事で迷っても、相談できるひとなんていなかった。だから……迷いながらも、己の道を突き進んできた。たまに周りにとやかく言われることがあったが、結果は出ているし、今のスタイルこそが完璧なのだと、疑問や不満の声を無視して貫き通した。私は白鬼……完璧でなければならない。弱音なんて吐いてはいけない。厳しすぎるときらわれても、それが結果に繋がるなら気にすることはないのだと」
 本気でそう思っていた、とイロハさんは話す。しかし、つい先日一番近くで成長を見てきた後輩が、突然辞めてしまったのだという。
「辞めた後輩が、最後に言ったんだ。ずっとそばにいるのに、イロハさんの視界に入ってる気がしない。このままイロハさんのそばで働き続けるのは、体力的にも精神的にも辛い。……そう言って、辞めていった」
 これまでの自分を、全否定されたような心地だった。私は、彼女の人生を狂わせかけていたのかもしれない。そう気付いて、恐ろしくなった。
 イロハさんは私たちにそう打ち明けながら、静かに涙を流していた。
「ナツメには散々なことを言っておいて、情けないだろう。……笑いたければ笑えばいい」
 自嘲気味な笑みを漏らすイロハさんを、ナツメさんは静かに見つめて……首を横に振った。
「情けなくなんてない。そもそも、完璧であろうとするイロハさんは間違ってないわ。私にはとても真似できないし、かっこいいと思う」
「よしてくれ。余計惨めになるだろ」
 イロハさんが背を向け、船内へ歩き出す。その背中に、私は叫ぶ。
「そんなことありませんよ!」
 イロハさんが顔を上げる。
「惨めだなんて、そんなことぜったいにないです! 私も完璧であろうとするイロハさん、かっこいいと思います」
 イロハさんに微笑みかけるが、彼女は戸惑うような表情のまま。
「……かっこいいもんか。結果、私は後輩を守れなかった。私のやりかたは間違っていたんだ」
「違うよ」
 今度はハルさんが言った。
「イロハっちは間違ってない。ただちょっと、言葉が足りなかっただけだよ」
「こと、ば……?」
 イロハさんが眉を寄せる。
「……私もそう思う。その子は、じぶんが頼りにされていないと思ったんじゃないかな。完璧なイロハさんに憧れてたからこそ……ただ、イロハさんに認めてもらいたかっただけなんだと思う」
 ナツメさんの言葉に、イロハさんはハッとしたように瞬きを繰り返した。
「そういうものなのか……?」
「心の声は、相手には届きませんから……。たったひとことの労いや笑顔で救われることだってあると思うんです」
 言葉は、ときにひとを傷付ける。しかし逆に、救うこともあるのだ。私はそれを、今夜知った。
「…………」
 イロハさんは黙り込んだ。その頬はこころなしか、じんわり赤くなっているような気がする。
「つまり、イロハっちは愛情表現が足りなかったってことだな」
「そういうことね」
 イロハさんは唇を引き結んだ。
「……でも、そんなのは私のキャラではない」
「あれ? だれにどう思われても気にしないと言ったのはだれでしたっけ?」と、ナツメさん。
「ぐっ……」
 今度こそ、イロハさんが言葉に詰まった。
「なぁんだ。イロハっちも結局、イメージに囚われてたってことなんだねぇ」
「ふふっ。なんだかちょっとホッとした。イロハさん、可愛いところもあるんじゃない」
 ――ナツメさん、楽しそう……。
 ナツメさんは案外Sっ気があるのかもしれない。
 新たな一面を見て、少し心が弾む。
「くそっ」
 イロハさんは悔しそうに顔を背けた。
「……あの、イロハさん」
「なんだ? まだなんかあるのか」
 身構えるイロハさんを、ナツメさんがまっすぐに見つめる。
「ずっと完璧じゃなくてもいいんじゃないかな? 少なくとも私たちはイロハさんの上司じゃないし、後輩でもない。イロハさんになにかを期待したりしないわ」
「そーそー! ただ同じバスの乗客ってだけ」
「ですね」
「……まぁ、それもそうか」
 イロハさんはふぅ、と息を吐きながら、ぐるりと周囲を見回した。
 赤やオレンジ色の珊瑚礁、イワシの群れや、それを追いかけるイルカたち。船体や岩についた苔をのんびり食べるジュゴンに、ふよふよとただ海の中を漂うだけのクラゲ。
「……きれいだな」
「ですね」
「本当はな、寝過ごしたというのはうそだったんだ。どうしても、降りるボタンを押すことができなかった。仕事を、辞めたくなってた」
 これまでのじぶんをすべて否定されたような気がして。
 イロハさんは目を閉じ、ふうっと息を吐く。
「……こうやって、気負わず、本当のじぶんに戻れる時間というのはいいな」
「……はい」
「バスに乗ったときは、正直明日のことなんて考えられなかった。でも、今は少し……夜明けが怖くないよ」
「……私も。悩んでるのは、私だけじゃないんだって思えたし、本当の私を受け入れてくれた、みんながいるから」
 そっと微笑むナツメさんに、私も頷く。
「はい」
「私たち、なんだかんだめっちゃ相性いい気がするんだよね! ねっ? 思わない?」
 ハルさんが明るい声で言う。
 ナツメさんがぎゅっと私の腕に絡みつく。
「そうね! ね? ミオちゃん」
 すぐ間近にナツメさんの美しい顔があって息を呑んでいると、ナツメさんは美しい顔をくしゃっとさせて、あどけなく笑った。
 それまでの品のある微笑みとはまた違って、とても可愛らしい笑みだった。
「ですねっ!」
 ナツメさんと笑い合っていると、ふとイロハさんの視線を感じた。
 見ると、イロハさんは神妙な顔をして、ナツメさんを見つめている。
 イロハさんはナツメさんに歩み寄ると、唐突に言った。
「……お前、なかなかいいな。警察庁受けてみる気はないか? 若しくは警視庁でもいい。案外取り調べに向いてそうだ」
「へっ? い、いや! 私は……」
 慌てふためくナツメさんを見て、イロハさんが笑う。
「冗談だ」
「……じょ、冗談なの? もう、心臓に悪いわ……」
 げんなりするナツメさんを見て笑うイロハさんは、とても美しかった。
 その横顔に、私は小さく呟く。
「でも、ちょっとイロハさんの下で働いてみたいかも……」
「ミオちゃん?」
「あ……いや、なんていうか、厳しそうだけどちゃんと面倒見てくれそうだなって」
 ちょっとしゅんとした私を見て、イロハさんが目を開く。
「なんだ。もしかしてお前、転職を考えてるのか?」
 図星を付かれ、きゅっと唇を引き結ぶ。
「その……実は、今日……ここに来るまでは、私もイロハさんと同じくちょっと思ってました。仕事、辞めようかなって。でも、辞める勇気も持てなくて……」
「まぁ。どうして?」
「……それは……」
 私の家は母子家庭だった。しかも、血の繋がりのない家族。
 私の育ての母は、魔女だったのだ。
 人間界に来たその日、森に捨てられていた赤ん坊の私を拾って育ててくれたのだという。
 女手ひとつで育ててくれた母は既に高齢で、だから私は、大好きな母を楽させてあげたくて、高卒で地元の市役所に入った。
 配属されたのは魔法関係を対応する部署。
 窓口対応が多く、魔法を使うことができず、しかも人見知りな私には、どう考えても不向きな部署だった。
 それに、もともとマイペースな性格をした私は、とろくて仕事覚えも悪い。
 今日まで、怒られてばかりの毎日だった。
 おまけに大きな失敗をしてしまって、落ち込んでいたところだ。
「お前なら大丈夫だよ」
 イロハさんが優しい顔で、私を見つめる。
「え」
「お前は、強い」
「強い……?」
 ――私が?
 そんなこと、言われたことない。
「優しさは、一番の強さだ。お前は、私たちのことを絶対に否定しなかった。それは、きっとお前の一番の武器になる」
「イロハさん……」
 イロハさんの言葉に、目に涙が滲んだ。
 頬を伝う涙はあたたかくて、それは皮膚からじんわりと内側に染み込んで、心まであたためる。
「そうね。それに、ミオちゃんは言うほど人見知りじゃないと思うよ」
 今度はナツメさんが言った。
「え……そうですか?」
「えぇ。だって、初対面の私たちとふつうに会話してたし」
「あっ……そういえば」
 あまり緊張しなかったかも、と漏らしてから、思わず口元を押さえた。
「もしかしたら、人見知りというのはミオちゃんが自分でじぶんにかけた呪いのようなものなのかもしれないわ」
 ――呪い……。
「そっか」
 それは、私がいつの間にか私にかけてしまった呪い。
 周りの輝きに圧倒されて、勝手にじぶんに自信を失くして……。
「周りと比べて設定した自己評価なんて、あてにならないものだ。正しいのは、じぶんを認めてくれるひとの評価だ。お前は、私たちの評価とじぶんのことだけを信じればいい。私たちとお前自身だけは、うそをつかないから」
「じぶんを……?」
「そうだ。お前は、今のままでいい。今のまま胸を張って生きろ」
 イロハさんは優しく微笑む。ナツメさんやハルさんも、私を見て笑顔で頷いていた。
「……はい!」
 なんだか嬉しくなって、私はくすくすと笑った。
「……みなさんと話していたら、元気が出ました。みんないろいろ悩みがあって、その中で日々を頑張って生きてるんですね。強そうなひともきれいなひとも、元気なひとも……それぞれなにかを抱えてる。私、もう少し頑張ってみようと思います。この仕事」
 そう宣言すると、ハルさんが私の腕に絡みついてきた。
「うん! 頑張れミオ!」
「えらい! 一緒に頑張ろう、ミオちゃん!」
「はいっ!」
 ナツメさんも、優しく私の頭を撫でてくれる。ナツメさんはなんだか、優しいお姉さんみたいだ。
「……とはいえ、どうしても辛いときは我慢するなよ。体調を崩したら元も子もない。一番大事なのは、お前の健康だからな」
「はい! ありがとうございます、イロハさん」
 イロハさんの言葉に、私は元気よく頷いた。


 ***


「あ〜今日は楽しかったな〜!」
 帰り道、ハルさんは水の中をくるくると回転しながら、手をぐんと伸ばした。
「こんなに楽しい夜はいつぶりだろ〜!」
 本当に、こんな夜は初めてだ。
 水の中に身体が慣れたのか、私はゆっくりだけど泳ぐことができるようになっていた。
「ねぇ」と、ハルさんと前を歩いていたナツメさんが、振り向く。
「私たちって、似ているようでぜんぜん違うのね。ひとりになりたかったはずなのに、今日……すごく楽しかった。私……三人と話してると、なんだか息がしやすくなる気がする」
「私もです。肩肘張らなくていいっていうか……私は私でいていいんだって思えます」
「お互い、ひとには言えない秘密をバラし合った仲だからな。今さら気遣いもなにもないんだろう」
「もし、また会えたら今度は違う場所でたくさんお話がしたいな!」
「楽しそう」
「同じ町に住んでるんだ。どうせどこかで行き合うだろ」
「だね〜っ!」
 顔を上げると、ほんのりと光が見えてきた。洞窟の入口が近付いてきたのだ。
 洞窟を出ると、眼前に広がる海は既に薄紫色に染まっている。朝焼けだ。
「もう朝なんですね」
「あっという間だったな」
「見て、朝焼け!」
「また一日が始まるのね」
 四人で過ごす不思議な夜は、驚くほどあっという間で、まるで夢を見ていたのではないかと思ってしまうくらいだった。
 でも、違う。
 これはたしかに現実だったのだと、靴の裏についた砂や海の匂いのする服が教えてくれた。
 ――帰り道は、べつべつに。
 そう言ったのは、イロハさんだった。
 私たちはもう、それぞれでもちゃんと歩いていけるから大丈夫だと。
「それじゃあ、ここで別れよう」
「はい、また」
「バイバイ」
「ありがとうございました」
 森の出口。
 私たちはそれぞれ、紫色に染まる朝焼けの下でさよならをした。
 また会えますようにと、明け星に願って。


 ***


 ひとり暮らしをしているマンション『四角(しかく)水荘(すいそう)』へ帰り、シャワーを浴びて、新しい服に着替える。
 化粧をし直して、バッグを持って、もう一度玄関の扉に手をかけた。
 昨日はあんなに重かった足が、今日は羽根のように軽い。昨日の不思議な出会いのおかげだろうか。
 私の中で、きっとなにかが変わった気がする。
「よし! 行ってきます」
 鏡の前で笑顔を作って、勢いよく玄関の扉を開く。
 ――と。
 タイミングよく、となりの部屋と、そのまた向こうの部屋が同時に開いて、中の住人が顔を出した。
 そういえば、おとなりさんとはまだ顔を合わせたことがなかった。
 ちょうどいい。
 挨拶をしてみよう。
 少し緊張するけれど、きっと大丈夫。だって私は人見知りじゃない。
 昨日だって初対面のハルさんたちと話せたんだから。
「あっ……あの、おはようございます!」
 私は覚悟を決めてパッととなりを見た。 
「――え?」
「――は?」
 顔を向けた先には、ついさっきまで一緒にいたはずのひとたちがいた。
「えっ……と、イロハさんに……ナツメさん? え……えっ!?」
 ふたりとも、きょとんとした顔のあと、みるみる目を丸くした。
「お、お前ら……まさか、同じマンションだったのか」
「……みたい……ですね」
 驚いて言葉を失くしていると、背後の扉が開いた。振り返って、反対側の部屋を見ると――。
「へっ?」
 顔を出したのは、やはりと言うべきか。
 みずみずしい高校の制服に身を包んだハルさんだった。
「わぉ! なに? もしかして私たちって、同じマンションだったの?」
「そ、そうみたい……です?」
「うっそぉ!」
 ……世界は、私たちが思うよりずっと、不思議と奇跡に満ちている……らしい。
 全員顔を見合わせて、笑い合った。
「近過ぎだろ……」
「まさかおとなりさんだったなんて……」
「すごい縁ですね」
「なぁんだ」
 私たちはそれぞれ忙しい日々に追われていて、そんなことにすら気付いていなかったのだ。
 青々とした空を見上げる。
 同じ青なのに、昨日の洞窟の景色とはぜんぜん違う。
 私たちが俯いているこの瞬間も、世界は目まぐるしく移り変わっている。
 ずっと俯いていたら、きっと私たちはなんの変化にも気付けないまま。
 花も草木も枯れて、あっという間に季節は過ぎ去ってしまう。
 ちょっとした不思議も、楽しみも見落としてしまう。
 だから、辛いときこそ顔を上げて。
 きっと、気付いていないだけで手を差し伸べようとしてくれている仲間がいるから。
 私が好きになれない私を認めてくれるひとは、ぜったいにいるはずだから。