三千院を出たわたしたちは、そのまま宝泉院へと向かった。朝から降り続いていた雪はやみ、空は青さを取り戻しつつある。弱い太陽光が、地上にぬくもりを届けていた。

建物に入ってすぐ、わたしは小さな庭にカメラを向けた。「鶴亀庭園だよ」間崎教授が言った。

「池の形が鶴で、築山が亀、山茶花の古木が蓬莱山」

「雪で全然分かりません」

「ここにあるということだけ、覚えていればいいんだよ」

宝泉院は、すぐ近くにある勝林院の塔頭で、日本音楽の源流といわれる「声明(しょうみょう)」の発祥地だそうだ。長い歴史を持つ寺院だが、囲炉裏の部屋もあり、住宅のような雰囲気も感じる。

客殿に行くと、巨大な樹木がわたしの目を奪った。柱と柱の間いっぱいに広がり、まるで額縁の中に描かれているようだ。

「すごく大きな木ですね」

そう言うと、教授は「樹齢700年の五葉松だ」と言った。

「高浜虚子が俳句を詠んだことでも知られている」

大原や無住の寺の五葉の松。教授が歌うように諳(そら)んじる。

ずっしりとそびえ立つその迫力は、なるほど、確かに700年の重みを感じさせる。雪をまとった姿も美しいが、緑に溢れた姿はどんな風に見えるのだろう。冬が去り、春が来て、生命力に満ちた五葉松を想像した。頭の中で、シャッターを切る。

「琴子さん」

教授がわたしの名を呼んだ。振り返ると、天井を指さしている。

「これは何でしょう」

目を凝らして見てみると、そこには濃いしみのようなものが広がっていた。

「もしかして、血天井ですか?」

「そう。伏見城の遺構」

「興聖寺にもありましたね。あと、源光庵でも見ました」

懐かしさに、思わず笑みがこぼれる。興聖寺に行ったのは、1回生の春だった。琴坂の緑が太陽の光に透けて、きらきらと輝いていたのを覚えている。あの時、水のせせらぎを聞きながら、わたしは教授に言ったのだ。「京都のことを教えて」と。卒業するまでの間でいいから、と。

大学生になったばかりのわたしは、卒業なんて遠い未来のことだと考えていた。18歳のわたしにとって、4年という歳月は、頂上が見えない山を登っていくような、途方もない道のりに思えて仕方なかったのである。

あの時は、それでいいと思っていた。だってわたしは単なる学生で、教授は大学教授という高尚な立場にいる人だったのだから。話しかけるだけでも勇気が必要で、ましてや一緒に出かけたり食事をしたりするなんて、そんな特別なことが何度もあっていいはずがない、日常になるはずがない。あの時のわたしは、そう思っていたのだ。

抹茶と和菓子をいただきながら、庭を眺めた。拝観者は少なく、ゆったりとした時間が流れている。映画のように動きがあるわけでもない。華やかな花が咲いているわけでもない。それなのに、いつまでもこうして眺めていられるような気がする。もしもわたしが無機物だったら、きっとそれが叶うのに。生命なんてなかったら、百年だって千年だって、ここに留まることができるのに。

「そろそろ行こうか」

現実に引き戻すように、教授が腰を浮かせた。再生ボタンを押したように、時が再び動き出した。

「まだここにいたいです」

「昼ご飯、食べないのか」

「食べたいです。食べたいですけど、もうちょっとだけここにいたいです」

興聖寺の時も、同じようなことを思った。わがままだと思われるかもしれない。子供っぽいと笑われるかもしれない。それでも、言わずにはいられなかった。わたしはきっと許されたいのだ。子供が「まだ遊びたい」と駄々をこねるように、恋人にプレゼントをねだるように、興聖寺の時には言えなかった思いを伝えて、教授に、許されたかった。

盤桓園、か。ぽつりと教授がつぶやいた。この庭の名前だろうか。その意味を尋ねる前に、教授は再び腰を下ろした。

「いいんですか」

「まあ、ゆっくりできるのも今のうちだろうし」

え? わたしは聞き返した。それ、どういう意味ですか。

「そろそろ、就職活動が始まるでしょう」

その言葉を聞いた瞬間、隣にいるこの人が、途端に3年前に戻ったような気がした。名前しか知らなかったあの頃のような、一緒に歩いてきた道のりを否定されたような、容赦のない冷たさに震えた。

「……わたし、大学院に進もうかと思ってるんです」

わたしは咄嗟に顔を背けた。自分を守るように、両手を膝の上で固く握る。

「行きたい企業も、なりたい職業も、全然考えられないし。カメラが得意でも、それを生かせる仕事に就くのって難しいじゃないですか。まだ行っていない場所もたくさんあるし、もう少し京都で写真を撮りたいなって」

蜘蛛の糸のようにするすると、言い訳がましい理由が出てくる。このくらい言ってもいいじゃない。せっかくふたりでいるんだから。まだ、春ではないのだから。

教授からの返事はない。おそるおそる横顔をのぞくと、教授は庭を眺めていた。だけどその目は、適切な言葉を探しているように見えた。

「……もし、君がただ京都を巡りたいだけで進学を考えているのなら、やめておきなさい」

長い沈黙のあと、教授は静かに口を開いた。

「君が1回生の時、講義で言った言葉を覚えているか。『文学というものは、就職活動に役立つわけでもないし、なければないで困ることは何もない。物語というものは、世の中の役に立つようにはできていない』と」

あの日のことは、昨日のことのように覚えている。講義を途中で終わらせて、ふたりでチェルキオに行った。一緒に食べたメロンパンがおいしかった。特別な1日だったわけじゃない。それなのに、記憶に栞を挟んだように、一瞬で思い出すことができた。

「大学院に進むことが悪いとは言わない。だが、文学を嗜むことはどこでもできる。君は一度外に出て、もっと広い世界を知るべきだ」

どうして、そんなことを言うの。きつく唇を結んだら、代わりに涙がじんわりと滲んだ。三千院で雪を投げ合っていたのが、遠い過去のように思えた。ねぇ、どうして? どうしていきなりそんな態度を取るの? さっきまで、友人のように過ごしていたのに。どうして突然距離を取るの。

カメラを持って教授と京都を巡り、撮影した写真を教授に送り、何気ないメッセージを送り合い、休日にはお茶をして。何気ない出来事を重ねるたびに、わたしの心は風船のように膨らんだ。どこまでも空高く飛んでいけるような気がしたし、雨が降っても雷が落ちても、永遠に飛んでいられるような気がしていた。

それなのに今、教授は突然鋭い針で、わたしの心を刺したのだ。空気が抜けて、真っ逆さまに落ちていく。

「……進路を決めるのはわたしです。どう進もうが、教授が決めることではないと思います」

突き放すように言うと、教授は「そうだな」と弱く同意した。

「でも、ただなんとなく院に進んでも意味がない。京都巡りなんて、その気になれば社会人になってもできるんだ。週末にひとりでどこかに立ち寄ることだって……」

「ひとりでは、意味がないんです」

わたしの声に呼応するように、五葉松に積もった雪が、どさりと音を立てて落ちた。近くにいた拝観者がちらりとわたしを見て、すぐに顔を背けた。

分かっているくせに。わたしの迷いも、わたしの望みも、わたしがどんな言葉がほしいかも。全部、分かっているくせに。それなのにどうして、今更教授らしいことを言うの。どうしていきなり突き放すの。わたしたちが過ごした3年間をむだにするような。そんな、ことを。

――御坂さんって、間崎教授と仲良いよね。

ある時、誰かにそんなことを言われた。そんなことないよ。そう否定しながらも、わたしは嬉しかったのだ。他の人から見てもわたしは特別で、ただの「学生A」ではないと、証明されたような気がしたから。名前のある人間として、認識されていると実感できたから。

でもそんなの、何の意味もなかった。ふたりでこうして過ごすことは、特別の証明にはならなかった。

何年経ってもわたしはわたしのままで、教授は教授のままだった。だってそれ以外に、関係性を表す言葉が見つからない。「特別扱いされている」とみっちゃんは言った。今すぐ彼女に会いたい。ねぇ、本当に? 本当にそう思う? 会って、強く問いただしたかった。

京都のことを知りたいとか、写真を撮ってほしいとか。理由がないと一緒にいられない関係に、一体何の意味があるのだろう。どれだけ同じ時を過ごしても、どれだけ隣にいても、この人とわたしは、教授と学生の枠から出ない。それ以上でもそれ以下でもない。

ずっと学生でいられたら、見放されることはないのだろう。突然離れることはないのだろう。でもその代わり、何もない。前にも後ろにも進めない。それでも、わたしはそれに縋るしかないのだ。

わたしたちの関係には、タイムリミットがある。卒業すればきっと、この肩書きすらなくなって、わたしたちを繋ぎとめるものは何にもなくなる。もっともっと、遠くなる。

「ひとりだったら分かりません。その場所にどんな歴史があるのかも、どんな思いが込められているのかも。自然の美しさだって、見落としてしまうかもしれないんです。……教授がいるから、いい写真が撮れるのに」

「……君は、私がいなくても素晴らしい写真は撮れる」

「撮れません。教授はカメラのことなんて何も分からないじゃないですか。学生時代に挑戦しようとしてやめたって、前に言ってましたよね。そんな人に、写真の何が分かるっていうの」

言えば言うほど、爪で引っかかれたような痛みがあった。相手に向けたはずの刃が跳ね返り、自分の胸に突き刺さる。こんなにひどいことを言っているのに、こういう時に限って教授は何も言わない。本当は叱ってほしかった。そんなことを言うんじゃないと、ちゃんと怒ってほしかった。そしたらきっと確信できる。わたしの想いはちゃんと届いていると、信じることができるのに。

どれだけ言葉を並べても、心は雪のように溶けていく。あなたに伝わる前に消えていく。伝わらない、伝えられない、伝わってほしい、いいえ、伝わらないでほしい。わたしですら気づいていないこの気持ち。春の夢の中に閉じ込めて、抑えていたこの想い。そのひとかけらを、ようやくあなたに差し出した。道端に咲いた花を差し出す子供のような、取るに足りない想いだった。それなのにあなたは、それすら受け取ってはくれない。

この関係が、この日常が、いつか終わりになるならそれでもいい。ただ、花が散るのを惜しむように、わたしとの時間を惜しんでほしい。そのくらいの年月を、積み重ねてきたはずなのに。

「教授、わたしは」

「……だめだよ」

わたしの言葉を奪うように、言った。いつもの厳しい声ではない。雪のように淡く、弱い声だった。艶やかな寒椿がいつの間にか雪に覆われ、その色を奪われているように、気づけばわたしは、呼吸をすることすら忘れていた。

教授はまっすぐ前を見ている。景色に見とれるふりをして、わたしから目を逸らしている。傷つくことも、傷つけることもおそれるように。

その表情を、わたしは前に見たことがある。あれは、いつだったっけ。1回生の秋、竹情荘に行った時だ。あの時教授は、ご主人の問いに怯えるような顔をした。その時ふと思ったのだ。この人はわたしが思うほど、強くないのかもしれない。他の人は完璧だとか形容するけれど、それは大きな間違いなのだと。

あなたは、わたしのことを何だって分かっているような顔をするけれど。わたしだってこの3年間、何も見てこなかったわけじゃない。これだけの時間を、ともに過ごしてきたのだから。いろいろな場所に行き、いろいろな話をし、心を共有してきたのだから。

教授はわたしの方に顔を向けると、諭すように微笑んだ。

「卒業、しなさい」

灰色の空から、再び雪が降り出した。さみしさを覆い隠すように、音もなく地面に積もっていった。