みっちゃんと廬山寺に行ったおかげか、夏休み中になんとか発表の準備を終わらせることができた。相変わらずうだるような暑さが続くが、ショーウィンドウに長袖が並んでいるのを見ると、季節が前に進んでいるのを感じる。

夏休み明けは、間崎教授の「国語学国文学演習」から始まった。事前に準備していたレジュメを配り、教壇に立ち、担当の部分をたどたどしく解説していく。苦労して完成させたわりに、教授の反応は無難なものだった。過度に褒められたわけもなければ、貶されたわけでもない。他の学生に対する反応と同じように、あっさりしたものだった。

間崎教授って、優しいよね。他の学生は、そんなことを言う。専門的で難しいけど、怒らないし、単位もくれるし。

確かに、講義中の教授は穏やかだ。たとえ学生の発表が拙くたって、遅刻や欠席が多くたって、教授は決して怒らない。

わたしに接する時の態度とあまりにも違うから、最初は単に学生にいい顔をしているだけだと思っていた。他人にいいように見られたいからとか、そういう理由だと思っていた。だけど違う。教授は、他人に関心がないのだ。だから怒らないし、単位も与える。そう気づいた時に、わたしは少し嬉しくなった。教授は写真に興味があるから、というのが大前提だけれど、わたしに対する歯に衣着せぬ物言いは、わたしに優越感を与えるものだった。だからこそわたしは、教授からの関心がなくなることが、たまにおそろしくなる。

「どうでしたか」

講義が終わったあと、素っ気ない講評に満足できず聞いてみた。

「さっき言った通り。可もなく不可もなし」

「うえぇ」

「現代語訳はいいが、既存の資料を丸写ししただろう。その上で注釈をつけ足しても、正解にうまく合わせにいったようにしか見えない」

そんなこと言われても。反論しようとして、やめた。言い訳をしたところで、さらにぼろくそに言われるに違いない。

「でも、夏休みを返上して頑張ったんですよ。みんなが休んでいる間に、わたしだけ何日も図書館にこもって」

とにかく大変だったんです。写真も撮る暇がないくらい、ものすごく頑張ったんです。おいしいものが食べたいです。

ぎゃんぎゃん喚いているわたしを、通り過ぎる学生たちがふしぎそうに見ている。教授は「分かったから静かにして」と、保護者のようにわたしを諫めた。

「じゃあ、土曜日の10時」

都合が悪いなら別にいいけど。そうつけ加えられて、ご褒美をくれるのだ、と気づいた。

「悪くないです。あいてます」

「場所はまた連絡するから、さっさとどっか行って」

教授は犬を追い払うように右手を振った。失礼極まりないが、上機嫌なわたしは素直にその場を離れた。





「どうしたの、にやにやして」

ちょっと気持ち悪いよ。みっちゃんがカフェラテを飲みながら言った。

発表を無事終えたあと、わたしたちはいつものように空きコマを大学のカフェで過ごしていた。もう10月になったとはいえ、京都はまだ暑さが厳しい。まわりにいる学生も、半袖の人がほとんどだ。

「分かった。教授に発表を褒めてもらえたんでしょ」

「いや、褒めてもらってはないんだけどね」

それだったらどんなによかったか。教授の評価を思い出し、浮ついていた気持ちが少し沈んだ。

「でも、悪くはないって感じだったからよかった。だってもう、あれ以上むりだもん」

「よく頑張ったよ。あたしだったら絶対できない」

で、ご機嫌の理由は何? みっちゃんが金色の髪を揺らした。みっちゃんは、髪の色をころころ変える。先週染めたばかりだという金髪は、揺れるたびきらきらと透けてとてもきれいだ。就活始まったら黒髪にしなきゃいけないからなー、と、不満そうに言っていた。

「土曜日にご褒美くれるんだって。場所はまだ聞いてないけど、朝ってことはモーニングかな」

「ほんと、特別扱いされてるなぁ」

特別。その言葉は、わたしの心をほんのちょっぴり上向きにする。大学の教授と学生、という立場を超えて、友人のように出かけることができるのは、素直に嬉しい。自分では思いつかないような場所に行くことができたり、知らない話題を楽しむことが新鮮なのかもしれない。

「そういえば、間崎教授って東京に行っちゃうんだって?」

え、と短い声が出た。アイスティーに伸ばした手が、中途半端に空中でとまる。みっちゃんがしまった、という顔をした。 

「何それ、どういうこと。え、何で?」

「いや、昨日たまたま小耳に挟んだだけ」

みっちゃんいわく、昨日文学部の学生が「間崎教授が東京に行くからさみしい」というような趣旨の話をしていたのだという。

「大学教授って転勤とかあるの?」

「いや、知らんけど。でもまぁ、そういうのじゃないかもしれないよ」

「そういうのって何」

「会えなくなるとか、そういうことじゃなくてさ。ほら、出張みたいな」

そうだ、きっとそれだ。みっちゃんが取り繕うように言った。

「そうだよね。教授が京都から離れるなんて、想像できないもん」

自分に言い聞かせるようにうなずいて、アイスティーを一気に飲み干した。万が一京都を離れるとしても、きっとわたしには伝えてくれるはずだ。他の学生に伝えてわたしに伝えないなんてこと、あるだろうか。





みっちゃんの言葉が引っかかっていたせいか、土曜日の朝は盛大に寝坊してしまった。教授から指定されたのは、四条木屋町を下ったところにある「フランソア喫茶室」だ。店内に入ると、すでに教授の姿があった。わたしに気づき、読んでいた本を閉じる。

「すきなものをどうぞ」
 
向かい側に座ったわたしに、教授がメニューを差し出した。トーストやサンドイッチなど、いかにも喫茶店らしいメニューが並んでいる。チーズトーストと紅茶にしようかな。そう思ったところで、「特製プリン」の文字を見つけてしまった。朝からプリンはいかがなものか。そう思ったが、教授が「頼みたかったら頼めば」と言うので、お言葉に甘えることにした。

「素敵な空間ですね」

注文を終え、改めて店内を見渡した。まるでイタリアの豪華客船のようだ。窓のステンドグラスもさることながら、赤いビロードの椅子も、壁にかけられた絵画も、かすかに流れるクラッシック音楽も、喫茶店とは思えない。

「ここは、喫茶店として初めて国の登録有形文化財に指定された場所なんだ」

久しぶりにゆっくりモーニングをしようと思ったのに……と、教授は小さな声でつぶやいた。どうやらわたしは、元々の予定に便乗させてもらったらしい。

しばらくして、トーストとセットのサラダ、飲み物がふたり分運ばれてきた。シンプルな味つけが、からっぽの胃に優しく染みる。贅沢な空間とモーニングについごまかされそうになるが、わたしの疑念はまだ解消されていない。目の前でのんびりシナモンシュガートーストを食べているこの人に、聞かなければならないことがある。

「あの、東京に行くって本当ですか」

「ああ、まだ先だが」

意を決して尋ねたわたしに対し、教授はあまりにもあっさりと答えた。どうしてそんな重要なことを「ちょっと鴨川散歩してくる」みたいなノリで言うのか。軽い、あまりにも軽すぎる。

「いやです、行かないでください」

わたしはトーストを皿に置いた。

「教授がいなかったら、わたしは京都のことが何も分かりません。もっと上手に撮影できるよう頑張りますから。だから、東京なんか行かないでください」

「一体何の話をしているんだ」

教授は眉間にしわを寄せた。

「東京に行くのは仕事と休暇。京都から離れる予定は、今のところない」

「本当ですか?」

「本当に本当」

どうしてそんな勘違いを……と教授が嘆いた。どうやら嘘をついているわけではないようだ。

気が抜けた。3日間たまりにたまっていた不安が、一気に体から出ていった。何だ、やっぱり勘違いだったのか。

「よかった。教授がいなくなったらどうしようかと思いました」

「何で」

「だって、やっぱり教授には京都が似合いますもん。東京の街に染まってしまうのは悲しいです」

都会的な街も似合うといえば似合うが、やはり教授といえば京都だ。満員電車に揺られる教授は想像できない。

「まぁ、京都が一番住み慣れているし、どこにも行くつもりはないよ」

それに、と教授はつけ足した。

「行ってしまうのは、君の方でしょう」

「それって……」

どういうことですか。そう尋ねようとしたちょうどその時、店員が特製プリンを運んできた。喫茶店らしい固めのプリンの上に、輪切りのレモンが乗っている。想像していたものよりずっとおいしそうだ。

「すごいですね、これ」

わたしは携帯電話で写真を撮った。こんな個性的なプリンは見たことがない。店内の雰囲気と昔ながらのトースト、そしてインパクト抜群のプリン。どうりで、朝からお客さんがたくさん入っているわけだ。教授もちゃっかり自分の分まで頼んでいる。おかげでテーブルにはもう隙間がない。





トーストとプリンをぺろりと平らげて、フランソア喫茶室を出た。用事があるという教授とはそこで別れ、河原町をぶらぶらしてからマンションに戻った。

プリン、おいしかったな。せっかくなら教授とどこかに出かけたかったけれど、忙しそうだったし仕方ない。そんなことを思いながら、古本市で買った本に、プリンの絵を描いていく。最近ではすっかり絵を描く楽しさにハマっている。写真を撮るよりも気楽にできるので、ちょうどいい息抜きになりつつある。

ふと、卓上カレンダーが9月のままだったことに気づいた。発表の準備に集中しすぎて、めくるのを忘れていたらしい。この間桜が咲いたと思っていたのに、もう10月になってしまった。来月には暑さもやわらぎ、もみじが赤く色づくだろう。去年は紅葉の写真をフォトコンテストに応募したけれど、今年はどうしようか。挑戦してみたい気持ちもあるけれど、また落選してしまうかもしれないと考えると、尻込みしてしまう。もう傷は癒えたと思っていたが、まだ完全に立ち直ってはいないのかもしれない。

――行ってしまうのは、君の方でしょう。

フランソア喫茶室での、教授の言葉が気になった。あれは一体どういう意味だろう。教授はともかく、わたしはどこかに引っ越す予定なんてまったくないのに。そう考えて、あ、と気づいた。

来年、わたしは4回生になる。就職活動も始まり、進路について考え始める時期が来る。卒業したら、わたしはどうなるんだろう。京都に残るのか、それとも、別の土地に移るのか。やりたいことも、入りたい会社も、まだ何も思いつかない。

京都に来たばかりの頃を思い出した。茂庵で偶然教授に出会い、金福寺に行き、三室戸寺であじさいを見て、興聖寺で青もみじの美しさに気づいた。だから、もっと知りたいと思った。間崎教授に、京都のことを教えてほしいと伝えたのだ。あの時、何て言ったっけ。
 
卒業するまでの間でいいんです。卒業するまでの間でいいから、京都のことを教えてほしい。そう、わたしは言ったのだ。 

どうして忘れていたんだろう。どうして、特別なんて思ったりしたんだろう。どれだけ親しくなったつもりでも、教授と学生、その立場は変わらないのに。 





わたしたちの関係には、タイムリミットがある。