小学生の頃、夏休みは何をしていただろう。大学生のわたしは、時折ふと考える。宿題をやるのがいやだった。どうして休みの日まで勉強をしなければいけないのか、小学生のわたしには分からなかった。特に、ポスターや自由工作がきらいだった。絵を描くことはすきだったけれど、やらされるのはすきではなかった。それに、成長するにつれて、うまくできない自分の不器用さや才能のなさが浮き彫りになるような気がした。

中学生になると、そういった宿題はなくなったけれど、代わりにテキストの量が増えた。夏休み明けには実力テストがあったので、苦しみながら問題を解いていたのを覚えている。勉強の合間に、父からもらったカメラを持って、写真を撮りに出かけた。近所の公園や街の風景を、飽きることなく何枚も撮った。その頃には、美術の授業くらいでしか絵を描くことはなくなっていた。

はたちになったわたしは、カメラへの愛は増す一方、酷暑の中出かける気力が失せ、薄着のままクーラーにあたってアイスを食べる日々が続いていた。暑さは人の体力を奪う。どうして小学生の頃は太陽光も気にせずあんなに走り回っていたんだろう。そんなに時間は経っていないはずなのに、あの頃の自分がちっとも理解できない。

とはいえ、今年の夏はそこそこ外出している方だ。祇園祭にも行ったし、高台寺にも行った。あとは五山の送り火を残すのみなのだが、ちょうど下鴨神社で「納涼古本まつり」というものが開催されていることを知った。

京都には、いろいろな行事がある。もしかしたらわたしが知らないだけで、地元でも多種多様なイベントが開催されていたのかもしれない。そうだとしても、京都で暮らしているとお寺や神社がぐんと身近に感じられ、こうした行事が目に留まりやすくなった気がする。

高校生までは寺社なんて、お正月か法事くらいでしか行かなかった。子供の頃のわたしは、特別な時に行く場所だと思い込んでいたのかもしれない。

古本は古本屋で買うのがあたりまえだと思っていたけれど、京都ではなんと市場が開かれるらしい。しかも、下鴨神社で。そういえば、最近本を読んでいない。小説はきらいではないけれど、漫画と違って挿絵がないので、どれが自分好みなのかいまいち分からず、結局手を出せないことが多い。

間崎教授は、よく本を読んでいる。講義で使うような専門書から、小説まで幅広く読む。今度おすすめの本でも聞いてみようかな。そんなことを思いながら、のろのろと出かける準備を始めた。送り火が終わったら帰省する予定だし、その前にもう少し京都を楽しんでおこう。今年のわたしは、ちょっぴりアクティブ。





夏の自転車は、苦手だ。歩いている時は帽子を被ったり日傘を差したりすればいいが、自転車に乗るとそうもいかない。暑い時は、公共交通機関を頼るに限る。   

下鴨神社の参道に広がる糺の森は、ユネスコの世界文化遺産にも登録されているらしい。普段はゆったりと散策している人や絵を描いている人が多いが、今日は白いテントがいくつも建ち並び、道を覆い尽くすほどの人でごった返していた。お年寄りから子供まで、さまざまな世代が集まっている。  

さすが京都、単なる古本市と侮るなかれ。祇園祭にも匹敵するくらいの人混みに、少しだけ怯んだ。古本まつりって、こんなに大きなイベントだったのか。ここまで人が多いとは思わなかった。京都には、読書好きな人が多いらしい。

テントには「高山文庫」「井上書店」など、古書店の看板やのれんが出ていた。古びた文庫や美術書、絶版になっていそうなほど昔の漫画まで、びっしりと本棚に敷き詰められている。

普段はあまり、古本は買わない。近くに古本屋がないのも一つの理由だが、小さい頃からの習慣、というやつだろうか。ほしい本がある時は、ついつい新品のものから探してしまう。

本の中には50円や100円で売られているものもあり、新本よりずいぶん安い。使うお金が限られているわたしには、古本の方が合っているかもしれない。

適当な本をぱらぱらとめくっていると、近くにいた小さな女の子が、熱心に児童書を広げていた。「ママ、これ買ってー」と母親にねだっている。かわいいですねぇ、何歳ですか。読書感想文に使う本を探しているんです。店主と母親が、そんな会話をしている。

そういえば、読書感想文も苦手だったな。どこがどうおもしろかったの。これを読んでどう思ったの。先生からの質問は、子供のわたしには拷問のようだった。思ったことを文字にすればするほど、嘘っぽくなるような気がした。おもしろいものはおもしろいし、すきなものはすきだ。感想なんて、それだけで十分じゃないか。今はそういった宿題がない分、かなり気が楽だ――なんてことを考えていたら、あっ、と思い出した。

しまった。夏休み明けに、源氏物語の発表があることをすっかり忘れていた。しかも、担当は間崎教授だ。まだまだ先だと思っていたが、この夏休み中に準備をしておかなければいけないんじゃないか。

わたしは慌てて源氏物語に関する書籍を探し始めた。今日思い出してよかった。夏休み最終日だったらどうなっていたことか。さすがの間崎教授でも、発表をすっぽかしたら単位はくれないだろう。ぐるぐると歩き回って、「眠れないほどおもしろい源氏物語」「源氏物語の時代」など、分かりやすそうな本を数冊購入することにした。

さまざまな古書店を渡り歩いていると、ふとふしぎな本が目に留まった。ぱっと見た感じ普通の絵本のようだが、タイトルがない。開いてみると、表紙どころか中身まで白紙だった。

「あの、これは何ですか」

わたしは店主にまっさらな本を差し出した。初老の男性は眼鏡をかけ直しながら、まじまじと本を見つめた。

「ああ、これは自分で作る本ですね」

「自分で?」

「そう。文章でも絵でも、何でもいいんです」

古本ではないんですが、紛れちゃったのかな。店主がふしぎそうに首を傾げる。

「気に入ったなら無料で差し上げますよ」

「でもわたし、文章も絵も得意じゃないし」

「いいんですよ。創作は、自由なんですから」

そういうものだろうか。わたしは本をじっと見つめた。悩んだ末お言葉に甘え、ついでに小説を3冊買って、マンションに帰ることにした。





その日の夜、早速白紙の本を開いてみた。手に入れたものの、何を書いたらいいのか分からない。物語を作ったことなんて一度もないし、そもそもわたしに文才はない。

写真を貼ってみようか。それとも、日記を書いてみようか。いやいや、すでに手帳は持っているし、同じ用途で使っては意味がない。

糺の森で、絵を描いている人を思い出した。以前、みっちゃんと散歩をしている時に見かけたことがある。目の前に広がる光景を、あたたかみのあるタッチで鮮やかに描いていた。あんな風に上手に描けたら、さぞかし楽しいだろう。わたしにも才能があったらよかったのに。上手に描けたら、よかったのに。

パソコンを開き、ずいぶん前に撮った桜の写真を表示してみた。シャープペンシルを手に持ち、桜の花弁を写生してみる。桜の花弁はこんな風になっていたのか。幹って、こんなにでこぼこしていたっけ。いつも見ているはずなのに、全然知らない花のようだ。

棚の奥から色鉛筆を取り出して、描いた桜に色をつけていく。濃淡がうまく表現できなくてもどかしい。どんな色を使おうか、それすら頭を悩ませてしまう。

完成した絵を眺めた。大学生になっても、相変わらずわたしに才能はない。平凡で、ありふれた、何の変哲もない桜の絵だ。

でも、これはこれで悪くないのかもしれない。夏休みの宿題でもないし、どこかの賞に出すわけでもないのだから。上手ではなくても、色がはみ出ても、それでいいのかもしれない。 

そんなの自己満足だ、ここをもっとこうしたら。おせっかいな他人は言うだろう。そんな言葉、知ったことか。わたしは、楽しいから描いている。誰のためでもない、わたしのために描いている。才能がなくたって、正しい手順でなくたっていい。創作は、自由だ。