祇園祭が終わると、波が引くように街は元の姿形に戻る。山鉾が消え、浴衣や甚兵衛を来ている人たちも少なくなり、ただ暑いだけの8月が過ぎていく。
祭りのあとは、どうしてこうも気が抜けるのだろう。わたしですらこうなのだから、運営に携わっていた人たちはもっと脱力感を抱いているのかもしれない。
高校時代の文化祭を思い出した。当日よりも準備をしている時の方が、ある意味本番のような楽しさがあった。授業を早めに切り上げて、廊下に膝をつきながら、段ボールに色をつけていく。物静かな女の子が、とても絵が上手なこと。明朗快活な男の子が、手先がとても器用なこと。クラスメイトの意外な一面を知ったり、普段話さない子と交流したり。そういうことを含めて、非日常的だったと思う。
文化祭では図画工作が得意な子、体育祭では運動ができる子に、それぞれスポットライトがあたる。どちらでもないわたしは、主役を支える脇役として、リーダーの指示に従い作業を行うだけだった。いくら撮影が得意でも、役に立つことなんてない。そう思っていたけれど、それが必ずしも正解ではないことを知ったのは、高校3年生の時だった。
わたしの高校では、文化祭と体育祭をまとめて学園祭と呼ぶ。学園祭が終わって一週間ほど経った頃、学園祭の様子を撮影したデータが配布された。他のクラスの、顔も知らない男の子が、一眼レフで撮影したという。すごいねぇ、あの子、写真うまいんだね。まわりからはそんな声が溢れ、その男の子は陰の功労者として学園祭のMVPに躍り出た。
あとから聞いた話だけれど、その子は自ら学年主任に撮影係をしたいと申し入れ、カメラの持ち込みの許可を取り、みんなが楽しんでいる間も、熱心にシャッターを切っていたらしい。言われてみれば、カメラを持っている男の子を見かけたような気がしなくもない。写真には、ピースサインをする女子たちの後ろで、パンフレットを配っている自分が小さく写っていた。
わたしにその子のような積極性があったなら、撮られる側ではなく撮る側になっていただろうか。その子は高校1年生からカメラを始めたという。「小学生の頃から写真を撮っています」と、胸を張って言えたなら、称賛されるのも感謝されるのも、わたしだったのかもしれない。
とかなんとか考えたところで、これが本当の「あとの祭り」ってやつだ。結局、学園祭の写真は一度しか見ていない。
その頃に比べたら、自分の写真を見せることも、褒められることも増えた。みっちゃんと、間崎教授。たったふたりだけでも、わたしの小さな承認欲求を満たすには十分だ。
携帯電話を開いて、みっちゃんから送られてきた写真を見返した。突然撮られた、教授とのツーショットだ。もっと明るい場所で撮ればよかった。もっと笑顔を浮かべたらよかった。ちゃんと前髪を直したらよかった。見るたびに、そんなことを考えてしまう。
立ち上がり、棚からかんざしの箱をそっと取り出した。慎重にかんざしを手に取って、鏡の前で髪の近くにあててみる。つけてみたい、けれど、つけるのがもったいない。わたしにはまだ、その資格がないのかもしれない。
そんなことを考えていたら、携帯電話が短く鳴った。見ると、教授からメッセージが届いている。高台寺で百鬼夜行展があるから見にいかないか、というものだった。今年はプロジェクションマッピングも開催されるそうで、こちらは教授も見たことがないらしい。
行かない理由なんて、あるわけがない。わたしはかんざしを棚にしまい、すぐに返事をした。
当日。高台寺の周辺を散策しようと、予定より早く家を出た。夏は暑さを言い訳にひきこもりがちだが、せっかく出かけるならたくさん写真を撮っておきたい。夕方になれば少しは気温が下がるだろう。そう思っていたが、湿度が高く、少し歩いただけで汗だくになってしまった。
建仁寺の前まで来て、失敗したな、と気づいた。現在、時刻は17時半。ほとんどのお寺はとっくに閉門している時間帯だ。だからといって家に帰る時間もないし、カフェで時間を潰そうか。そう思った時、目の前を何かが横切った。
目をこすり、じっと目を凝らす。茂みの中に、きつねの尻尾のようなものが見える。しかし、こんなところに野生のきつねがいるだろうか。
カメラを見ると、いつもつけているこん様のストラップがない。どこかに落としたのだろうか。そう思って顔を上げると、茂みから小さなきつねが飛び出してきた。
「こん様!」
自分でも無意識のうちに名前を呼んでいた。確信があるわけではないのに、考えるより先に足が動いた。こん様(と、思われるきつね)は振り向くことなく走っていく。あとを追いかけてみるが、なかなか距離が縮まらない。
その時、ぐにゃりと景色が歪んだ。布団の上を歩いているように、足元がおぼつかない。
「琴子さん」
振り向くと、はるか先にいたはずのこん様がいた。
「何してるんですか、こんなところで」
「こん様こそ」
わたしはこん様の小さな体を持ち上げて立ち上がった。夢でもないのに、どうしてこん様に触れられるのだろう。ふと周囲を見渡すと、見知らぬ景色が広がっていた。どうやら、建仁寺とはまったく違う場所にやってきてしまったようだ。
近くには「幽霊子育飴」という、なんとも怪しげな看板があった。店のようだが、営業している様子はない。まだ薄明るいのに人ひとり歩いていないし、大通りにも車が走っている気配はない。それに、先ほどまで感じていたじめっとした湿気が、いつの間にかなくなっていた。風は秋のように冷たく、気づけば汗も乾いている。
「六道の辻に来てしまいましたね」
腕の中で、こん様が言った。
「六道の辻?」
わたしは聞き返した。
「六道って聞いたことありますか」
「なんとなくは知ってます。地獄道とか、餓鬼道とかでしょ」
「そう。六道とは、すべての衆生が生前の行いによって生死を繰り返す六つの迷いの世界、すなわち地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上のこと。六道の辻は、この六道の分岐点なんです」
「ってことは、つまり?」
「この世とあの世の境の辻。簡単に言うと、冥界への入口です」
突然そんなことを言われても、すぐには受け入れることができない。人影がないこと以外は、特に変わった様子はないように思える。
「本当にここが?」
こん様を信用していないわけではないが、いまいち現実感がない。いや、こん様とこうして普通に話している時点で、現実ではないのかもしれない。
「本当ですよ。見てください、ほら」
小さな前足で示された方向を見る。そこには、「六道の辻」と刻まれた石碑と寺門があった。
「そこにある六道珍皇寺には、小野篁が冥府通いのために使っていた井戸があるんですよ」
「そんなものあるんですか。見たいです。行きましょう」
「ちょっと、琴子さん」
こん様の制止も聞かぬまま進んでいくと、閉じていた門が歓迎するようにゆっくりと開いた。ああ、ほら。こん様が弱々しく鳴いている。わたしはこん様を安心させようと背中を撫でた。
「少しくらい平気ですって。それより、小野篁はどうして冥界に通っていたんですか?」
「閻魔王宮の役人だったからです。昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁に勤めていたんですよ」
こん様によると、はるか昔、紫式部が源氏物語を書いたことで人々を惑わせたとして、地獄に落ちたことがあったそうだ。その時に閻魔大王に取り計らって救い出したのが、小野篁だという。
裏庭に行くと、すぐに小さな井戸を見つけた。本当にここが冥界へ続いているのだろうか。近づこうとしたら、こん様が腕の中でじたばたと暴れ始めた。
「早く帰りましょう。大変なことになるかもしれない」
「ちょっとだけですから。すぐ帰りますから」
こん様をなだめながら、わたしは井戸の中をのぞき込んだ。暗くていまいちよく分からない。さらに奥をのぞこうとした瞬間、井戸の底からずず……と何かがこちらに這い上がってきた。
「いけない!」
こん様がわたしの腕の中から飛び出した。葉っぱを頭の上に乗せ、「こーん」と高らかに鳴く。その瞬間、周囲が暗闇に包まれた。
「目を閉じてください」
こん様がわたしの肩に乗る。わたしは言われた通りぎゅっと目をつぶった。荒々しい風が吹き、おどろおどろしい叫び声が聞こえてくる。急激に周囲の気温が下がり、体がぶるぶる震え始めた。
もしかして、冥界に足を踏み入れてしまったのだろうか。何が起きているのかさっぱり分からない。このまま帰れなかったらどうしよう。もう二度と間崎教授に会えなくなってしまうかもしれない――
「もう大丈夫です」
こん様の声で目を開けると、目の前にあったはずの井戸が、きれいさっぱり消えていた。どうやら、また別の場所へやってきてしまったらしい。風もやみ、叫び声も聞こえてこない。あの禍々しい「何か」の気配もなくなっている。
「現実世界に戻ってきたんですか?」
「ひとまずあの場所から逃げただけです」
本当に危なかったんですからね。こん様はそう言うと、脱力したようにわたしの肩からすべり落ちた。間一髪のところを両手でキャッチする。
「大丈夫ですか」
「今ので力を使い果たしてしまいました。帰る力が残っていません」
それは大変だ。このままだと、約束の時間に遅れてしまう。
「ここって、確か……」
「安井金比羅宮。悪縁を断ち、良縁を結ぶことで有名な場所です」
バスに乗っている時、何度か見かけたことがある。すぐに行ける距離にあるのに、四条通から少し離れているせいか、なかなか行く機会がなかった。鳥居の両脇には「御神燈」と書かれた灯篭があり、ぼんやりと光を放っている。
立ちどまっていても仕方がない。境内を歩いていくと、お札がたくさん貼られた石のようなものが現れた。真ん中には、人ひとり通れそうなくらい大きな穴があいている。お札の数がおびただしいせいか、境内には異様な空気が流れていた。真夏なのに、背筋がぞっと寒くなる。
あっ、とこん様が声を上げた。
「これです、これ!」
「これって?」
こん様はぴょんっと地上に飛び降りた。
「これは縁切り縁結び碑(いし)。まず願いを書いた形代(かたしろ)を持って、表から裏へ穴をくぐるんです。そのあと、裏から表へくぐってください。そうすることで悪縁を切り、良縁を結ぶことができるんです」
「へぇーっ、おもしろそう」
「そうじゃなくて、これを利用したら現実世界へ帰れるかもしれないってことですよ。ほら、形代に願いを書いてください」
なるほど。確かにそれなら、こん様の力を借りずとも元の世界に戻れるかもしれない。
わたしは形代に「現実世界へ帰れますように」と願いを書いた。その形代を持ったまま、碑の表から裏へと穴をくぐる。大きい穴とはいえ、少しくぐりづらい。続いて裏から表へもう一度くぐり、形代を碑にぺたりと貼った。
突然、周囲が真っ暗闇に包まれた。こん様がわたしの胸に飛び込む。嵐のような突風が吹いた、と思った次の瞬間、むわっとした暑さを感じ、額の汗を拭った。何も変わっていない、ようで何かが違う。東大路通まで出ると、いつもと同じように車が走っていた。
戻ってきたのだろうか。気づけば、胸に抱いていたこん様がいない。カメラを見ると、きつねのストラップがゆらゆらと揺れていた。
信号が青になった。横断歩道を渡ると、ちょうどよいタイミングで間崎教授と出くわした。
「さっき、ふしぎなことがあったんです」
高台寺へ続く坂道を上りながら、わたしは先ほどの出来事を教授に話した。ばかにされるかと思ったが、予想に反して教授は「そうか」と相槌を打つだけだった。
「信じてくれるんですか」
「六道の辻なら、そういうこともあるだろうと思ってね」
それに、と教授は続けた。
「信じないより、信じた方が人生は楽しい」
わたしはもう一度こん様のストラップを見た。こん様と話せることも、今日あったことも、信じた方がおもしろい。京都は、ふしぎなことが起こる場所なんだから。
太陽はもう沈み切り、空は黒く塗り潰されている。蒸し暑い夏の夜は、人でない何かに出会うかもしれない。わたしたちはこれから、百鬼夜行を見にいくのだ。
祭りのあとは、どうしてこうも気が抜けるのだろう。わたしですらこうなのだから、運営に携わっていた人たちはもっと脱力感を抱いているのかもしれない。
高校時代の文化祭を思い出した。当日よりも準備をしている時の方が、ある意味本番のような楽しさがあった。授業を早めに切り上げて、廊下に膝をつきながら、段ボールに色をつけていく。物静かな女の子が、とても絵が上手なこと。明朗快活な男の子が、手先がとても器用なこと。クラスメイトの意外な一面を知ったり、普段話さない子と交流したり。そういうことを含めて、非日常的だったと思う。
文化祭では図画工作が得意な子、体育祭では運動ができる子に、それぞれスポットライトがあたる。どちらでもないわたしは、主役を支える脇役として、リーダーの指示に従い作業を行うだけだった。いくら撮影が得意でも、役に立つことなんてない。そう思っていたけれど、それが必ずしも正解ではないことを知ったのは、高校3年生の時だった。
わたしの高校では、文化祭と体育祭をまとめて学園祭と呼ぶ。学園祭が終わって一週間ほど経った頃、学園祭の様子を撮影したデータが配布された。他のクラスの、顔も知らない男の子が、一眼レフで撮影したという。すごいねぇ、あの子、写真うまいんだね。まわりからはそんな声が溢れ、その男の子は陰の功労者として学園祭のMVPに躍り出た。
あとから聞いた話だけれど、その子は自ら学年主任に撮影係をしたいと申し入れ、カメラの持ち込みの許可を取り、みんなが楽しんでいる間も、熱心にシャッターを切っていたらしい。言われてみれば、カメラを持っている男の子を見かけたような気がしなくもない。写真には、ピースサインをする女子たちの後ろで、パンフレットを配っている自分が小さく写っていた。
わたしにその子のような積極性があったなら、撮られる側ではなく撮る側になっていただろうか。その子は高校1年生からカメラを始めたという。「小学生の頃から写真を撮っています」と、胸を張って言えたなら、称賛されるのも感謝されるのも、わたしだったのかもしれない。
とかなんとか考えたところで、これが本当の「あとの祭り」ってやつだ。結局、学園祭の写真は一度しか見ていない。
その頃に比べたら、自分の写真を見せることも、褒められることも増えた。みっちゃんと、間崎教授。たったふたりだけでも、わたしの小さな承認欲求を満たすには十分だ。
携帯電話を開いて、みっちゃんから送られてきた写真を見返した。突然撮られた、教授とのツーショットだ。もっと明るい場所で撮ればよかった。もっと笑顔を浮かべたらよかった。ちゃんと前髪を直したらよかった。見るたびに、そんなことを考えてしまう。
立ち上がり、棚からかんざしの箱をそっと取り出した。慎重にかんざしを手に取って、鏡の前で髪の近くにあててみる。つけてみたい、けれど、つけるのがもったいない。わたしにはまだ、その資格がないのかもしれない。
そんなことを考えていたら、携帯電話が短く鳴った。見ると、教授からメッセージが届いている。高台寺で百鬼夜行展があるから見にいかないか、というものだった。今年はプロジェクションマッピングも開催されるそうで、こちらは教授も見たことがないらしい。
行かない理由なんて、あるわけがない。わたしはかんざしを棚にしまい、すぐに返事をした。
当日。高台寺の周辺を散策しようと、予定より早く家を出た。夏は暑さを言い訳にひきこもりがちだが、せっかく出かけるならたくさん写真を撮っておきたい。夕方になれば少しは気温が下がるだろう。そう思っていたが、湿度が高く、少し歩いただけで汗だくになってしまった。
建仁寺の前まで来て、失敗したな、と気づいた。現在、時刻は17時半。ほとんどのお寺はとっくに閉門している時間帯だ。だからといって家に帰る時間もないし、カフェで時間を潰そうか。そう思った時、目の前を何かが横切った。
目をこすり、じっと目を凝らす。茂みの中に、きつねの尻尾のようなものが見える。しかし、こんなところに野生のきつねがいるだろうか。
カメラを見ると、いつもつけているこん様のストラップがない。どこかに落としたのだろうか。そう思って顔を上げると、茂みから小さなきつねが飛び出してきた。
「こん様!」
自分でも無意識のうちに名前を呼んでいた。確信があるわけではないのに、考えるより先に足が動いた。こん様(と、思われるきつね)は振り向くことなく走っていく。あとを追いかけてみるが、なかなか距離が縮まらない。
その時、ぐにゃりと景色が歪んだ。布団の上を歩いているように、足元がおぼつかない。
「琴子さん」
振り向くと、はるか先にいたはずのこん様がいた。
「何してるんですか、こんなところで」
「こん様こそ」
わたしはこん様の小さな体を持ち上げて立ち上がった。夢でもないのに、どうしてこん様に触れられるのだろう。ふと周囲を見渡すと、見知らぬ景色が広がっていた。どうやら、建仁寺とはまったく違う場所にやってきてしまったようだ。
近くには「幽霊子育飴」という、なんとも怪しげな看板があった。店のようだが、営業している様子はない。まだ薄明るいのに人ひとり歩いていないし、大通りにも車が走っている気配はない。それに、先ほどまで感じていたじめっとした湿気が、いつの間にかなくなっていた。風は秋のように冷たく、気づけば汗も乾いている。
「六道の辻に来てしまいましたね」
腕の中で、こん様が言った。
「六道の辻?」
わたしは聞き返した。
「六道って聞いたことありますか」
「なんとなくは知ってます。地獄道とか、餓鬼道とかでしょ」
「そう。六道とは、すべての衆生が生前の行いによって生死を繰り返す六つの迷いの世界、すなわち地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上のこと。六道の辻は、この六道の分岐点なんです」
「ってことは、つまり?」
「この世とあの世の境の辻。簡単に言うと、冥界への入口です」
突然そんなことを言われても、すぐには受け入れることができない。人影がないこと以外は、特に変わった様子はないように思える。
「本当にここが?」
こん様を信用していないわけではないが、いまいち現実感がない。いや、こん様とこうして普通に話している時点で、現実ではないのかもしれない。
「本当ですよ。見てください、ほら」
小さな前足で示された方向を見る。そこには、「六道の辻」と刻まれた石碑と寺門があった。
「そこにある六道珍皇寺には、小野篁が冥府通いのために使っていた井戸があるんですよ」
「そんなものあるんですか。見たいです。行きましょう」
「ちょっと、琴子さん」
こん様の制止も聞かぬまま進んでいくと、閉じていた門が歓迎するようにゆっくりと開いた。ああ、ほら。こん様が弱々しく鳴いている。わたしはこん様を安心させようと背中を撫でた。
「少しくらい平気ですって。それより、小野篁はどうして冥界に通っていたんですか?」
「閻魔王宮の役人だったからです。昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁に勤めていたんですよ」
こん様によると、はるか昔、紫式部が源氏物語を書いたことで人々を惑わせたとして、地獄に落ちたことがあったそうだ。その時に閻魔大王に取り計らって救い出したのが、小野篁だという。
裏庭に行くと、すぐに小さな井戸を見つけた。本当にここが冥界へ続いているのだろうか。近づこうとしたら、こん様が腕の中でじたばたと暴れ始めた。
「早く帰りましょう。大変なことになるかもしれない」
「ちょっとだけですから。すぐ帰りますから」
こん様をなだめながら、わたしは井戸の中をのぞき込んだ。暗くていまいちよく分からない。さらに奥をのぞこうとした瞬間、井戸の底からずず……と何かがこちらに這い上がってきた。
「いけない!」
こん様がわたしの腕の中から飛び出した。葉っぱを頭の上に乗せ、「こーん」と高らかに鳴く。その瞬間、周囲が暗闇に包まれた。
「目を閉じてください」
こん様がわたしの肩に乗る。わたしは言われた通りぎゅっと目をつぶった。荒々しい風が吹き、おどろおどろしい叫び声が聞こえてくる。急激に周囲の気温が下がり、体がぶるぶる震え始めた。
もしかして、冥界に足を踏み入れてしまったのだろうか。何が起きているのかさっぱり分からない。このまま帰れなかったらどうしよう。もう二度と間崎教授に会えなくなってしまうかもしれない――
「もう大丈夫です」
こん様の声で目を開けると、目の前にあったはずの井戸が、きれいさっぱり消えていた。どうやら、また別の場所へやってきてしまったらしい。風もやみ、叫び声も聞こえてこない。あの禍々しい「何か」の気配もなくなっている。
「現実世界に戻ってきたんですか?」
「ひとまずあの場所から逃げただけです」
本当に危なかったんですからね。こん様はそう言うと、脱力したようにわたしの肩からすべり落ちた。間一髪のところを両手でキャッチする。
「大丈夫ですか」
「今ので力を使い果たしてしまいました。帰る力が残っていません」
それは大変だ。このままだと、約束の時間に遅れてしまう。
「ここって、確か……」
「安井金比羅宮。悪縁を断ち、良縁を結ぶことで有名な場所です」
バスに乗っている時、何度か見かけたことがある。すぐに行ける距離にあるのに、四条通から少し離れているせいか、なかなか行く機会がなかった。鳥居の両脇には「御神燈」と書かれた灯篭があり、ぼんやりと光を放っている。
立ちどまっていても仕方がない。境内を歩いていくと、お札がたくさん貼られた石のようなものが現れた。真ん中には、人ひとり通れそうなくらい大きな穴があいている。お札の数がおびただしいせいか、境内には異様な空気が流れていた。真夏なのに、背筋がぞっと寒くなる。
あっ、とこん様が声を上げた。
「これです、これ!」
「これって?」
こん様はぴょんっと地上に飛び降りた。
「これは縁切り縁結び碑(いし)。まず願いを書いた形代(かたしろ)を持って、表から裏へ穴をくぐるんです。そのあと、裏から表へくぐってください。そうすることで悪縁を切り、良縁を結ぶことができるんです」
「へぇーっ、おもしろそう」
「そうじゃなくて、これを利用したら現実世界へ帰れるかもしれないってことですよ。ほら、形代に願いを書いてください」
なるほど。確かにそれなら、こん様の力を借りずとも元の世界に戻れるかもしれない。
わたしは形代に「現実世界へ帰れますように」と願いを書いた。その形代を持ったまま、碑の表から裏へと穴をくぐる。大きい穴とはいえ、少しくぐりづらい。続いて裏から表へもう一度くぐり、形代を碑にぺたりと貼った。
突然、周囲が真っ暗闇に包まれた。こん様がわたしの胸に飛び込む。嵐のような突風が吹いた、と思った次の瞬間、むわっとした暑さを感じ、額の汗を拭った。何も変わっていない、ようで何かが違う。東大路通まで出ると、いつもと同じように車が走っていた。
戻ってきたのだろうか。気づけば、胸に抱いていたこん様がいない。カメラを見ると、きつねのストラップがゆらゆらと揺れていた。
信号が青になった。横断歩道を渡ると、ちょうどよいタイミングで間崎教授と出くわした。
「さっき、ふしぎなことがあったんです」
高台寺へ続く坂道を上りながら、わたしは先ほどの出来事を教授に話した。ばかにされるかと思ったが、予想に反して教授は「そうか」と相槌を打つだけだった。
「信じてくれるんですか」
「六道の辻なら、そういうこともあるだろうと思ってね」
それに、と教授は続けた。
「信じないより、信じた方が人生は楽しい」
わたしはもう一度こん様のストラップを見た。こん様と話せることも、今日あったことも、信じた方がおもしろい。京都は、ふしぎなことが起こる場所なんだから。
太陽はもう沈み切り、空は黒く塗り潰されている。蒸し暑い夏の夜は、人でない何かに出会うかもしれない。わたしたちはこれから、百鬼夜行を見にいくのだ。