今にも溶け出しそうな薄雲が青空に伸びていた。満開の桜がひらりひらりと、命を削るように舞い落ちていく。その光景を見ていたら、心を分厚く覆っている皮膚が、ゆっくりと剥がされていくような気持ちになった。

「小野小町は六歌仙にも選ばれた歌人で、恋の和歌を数多く詠んだことで知られている」

広い庭を眺めながら、間崎教授はやわらかな声でそう言った。春風がいたずらをするように、彼の髪を乱していく。どこからかうぐいすがやってきて、花と戯れるように枝をしならせた。

「絶世の美女ともいわれているが、晩年は乞食になったとか、放浪して行き倒れになったとも伝わっているんだよ」

「そんなに美しい女性でも、幸せにはなれないんでしょうか」

わたしはカメラを膝の上に置いたまま、泡が消えるようにつぶやいた。

京都で春を迎えるのはこれで三度目だ。18歳だったわたしは、いつの間にか成人と呼ばれる年齢になった。髪は胸のあたりまで伸びて、人並みに化粧もするようになったけれど、2年前とあまり変わらないように思う。

ある日突然、普通の女の子が魔法少女に変身するように、子供と大人には明確な区切りがあると思っていた。だけど20歳になったからといって、いきなり大人になれるはずもない。よく考えたら、選挙権を与えられる年齢だって法律であっさりと変わってしまうし、成人式だって、いつか政治家の気まぐれでなくなってしまうかもしれない。年齢など何の意味も持たないと知った。

大人になりきれないわたしは、あいも変わらず教授と京都を巡っている。教授がわたしに知識を与え、わたしはカメラで写真を撮る。他人から見たらおかしな関係かもしれないけれど、これがわたしたちの日常だ。そう、日常になるように、あの琴坂でわたしがせがんだ。

それなのにわたしは今、カメラから手を離し、気づけば教授の横顔ばかり見ている。眼鏡の隙間から見えるまつ毛が長いことや、風に揺れる髪のやわらかさに、今更ながら惹かれてしまった。

教授は、決してわたしを見ない。空を舞う桜の花弁、その一枚一枚を愛しそうに眺めている。きっと、繊細な人なんだろう。花びらが一枚散っただけで過ぎてゆく季節を惜しんだり、はるか昔に生きていた人の思いを感じて心を痛めたりする。間崎教授は、そういう人だ。

その中の一つになれたらなんて、いつから思ってしまったのだろう。わたしとの時間が過ぎていくのを、惜しんでほしい、だなんて。

「教授」

それ以外の呼び方を、わたしは知らない。学生であることを利用しないと、きっとそばにいられない。

教授が振り向く。花に向けるものとは違う温度の瞳でわたしを見る。散りゆく桜の痛みのように、冷たい火花のように、優しくわたしの心を刺す。





目覚めた瞬間、ひゅっと喉に息が逆流した。ついさっきまで満開の桜が見えていたのに、突然暗闇の中に放り出されて、状況がよく理解できない。

フィルムを現像する時のように、ゆっくりと周囲の様子が浮かび上がってきた。桜もなければ教授もいない。七畳一間の、わたしの部屋だ。

時刻を確認すると、午前2時を過ぎたところだった。首筋に触れると、じんわりと汗が滲んでいる。上半身を起こそうとしたら、背中が布団にくっついているように重かった。自分の部屋にいるはずなのに、見知らぬ場所のような冷たさを感じて、怯えるように暗闇を睨んだ。きっと今、世界にはわたしひとりしか存在していない。そうだったらいいのに。

くだらない夢を見た。眠る直前に写真の整理をしていたせいだろうか。春の陽気に浮かれて、頭がおかしくなってしまったのかもしれない。桜は人の心を惑わすという。昨日見た随心院の桜が、夢の中で咲き乱れていた。おそろしいほど美しかった。美しくて、泣きたくなった。

膝を抱え、腕の中に顔を埋めた。突然湧き出た感情に、頭がついていかない。夢の中とはいえ、なんてばかなことを思ってしまったのだろう。教授にとって、わたしはただの学生なのに。

夢でよかった。この感情は、誰にも気づかれることがない。気づかれてはいけない類のものだ。教授にも、そして自分自身にも。心の一番深いところに、しまっておかなければいけないものだ。そう思う一方で、あの時間が永遠に続いてほしかった、なんて願う自分もいた。





夢と知っていたのなら、目覚めなかったのに。