しかし、昨日今日で、冴子様に話を切り出すのは勇気がいった。しつこくて面倒な嫁だと思われたくなかったのだ。

 頭を冷やせ、とも言われたし……。日をまたいだ方がいいのかもしれない。

 そう思っていた矢先、実家から電報が届いた。

「冴子様!」

 次の日の早朝から、急いで執務室に来るように、との連絡を受けた。伝えに来た使用人の顔も、どこか重々しい。

 思い当たる節があるとしたら、鉱山に出向いている大旦那様のことだ。
 何か事故でも起こったのか。不安が大き過ぎたあまり、ノックをすることも忘れて執務室の扉を開けた。

「大旦那様に何かあったのでしょうか」
「弓維さん……夫を気遣ってくれてありがとう。でも、違うのよ」
「違う、とは? まさか、肇さんに何か!」

 それならば私を呼び出した意味が分かる。形だけとはいえ、私は妻なのだから。

「できればその話をしたかったのだけど、そうもいかなくなってしまったのよ」
「どういうことですか、冴子様」
「弓維さんのご実家、川本呉服店から電報が届いたの」
「電報?」

 私を追い出しておいて? いや、直接連絡を取りたくないからした可能性もある。例えば、電話で話したくない、とか……。

 私は不安そうな顔をしている冴子様から、電報を受け取った。

『ハハキトクスクカエレ』

「っ!」
「弓維さん、何と書いてあったの? ウチでできることがあったら、すぐに言うのよ」
「母が危篤だと……知らせて、来ました」

 五年も連絡を取っていなかったから、余計に心配が募った。毎月お給金のほとんどを送っても、手紙の一つも寄越さない家族。

 具合の悪い母さんが言えないのは分かるけど……。
 父さんも兄さんも、そんなことになっているなら、連絡くらいしてくれればいいのに。危篤になる前に、何か手を打てたかもしれないでしょうが!?

『女は黙って言うことを聞いていればいいんだ!』

 父さんの怒鳴り声が聞こえてくるようだった。『帰れと言われたら、さっさと帰れ』とまで。

「……冴子様。しばらくの間、お(いとま)しても宜しいでしょうか」
「勿論よ、弓維さん。それに一人では何かと大変でしょう? 誰か供をつけてあげるから、その者と向かいなさい。必要な物があればその者に言うのよ」
「ありがとうございます」

 何から何まで、本当に頼りになる方だ。父さんの怒声を思い出した直後なだけに、胸の奥が熱くなった。

 思わず俯くと、背中まで擦ってくれる。冴子様が本当の母だったらと思わずにはいられなかった。

「弓維さん。気持ちがまだ落ち着かないと思うけど、早く自室に戻って準備をなさい」
「……はい」
「できないようなら、誰かに――……」
「いえ、そこまでしてもらうわけにはいきません」
「……そう。分かったわ。くれぐれも気をつけて行くのよ」

 言葉では励ましてくれているものの、顔には心配だと書いてあった。この時、私の気持ちに寄り添ってくれているのとばかり思っていた。一緒に母さんの心配をしてくれていると。

 けれど本当は、別のことを冴子様は心配していたのだ。それを知ったのは、二時間後。実家である川本呉服店に着いた時だった。


 ***


 川本呉服店は、筒鳥家と同じ東京にある。けれど立地は雲泥の差だった。
 百貨店が並び、車が盛んに通る繁華街と、下町情緒のある商店街。颯爽と歩きながら、お洒落なモダンの格好をする人々と、ゆっくり歩く着物姿の人々。
 まさに都会と田舎である。

 けれど私はそのどちらも好きだった。

 真新しい世界は未来を感じ、追いつこうと必死になる傍ら、穏やかな空気が流れる情緒豊かな街並は、心を落ち着かせる。
 そう、帰ってきたんだな、と私に思わせてくれるのだ。

 けれど実家は、私に冷たいままだった。

「やっと帰ってきたか」

 出迎えてくれたのは、川本呉服店を継いだ兄の公典(きみのり)
 父さんと同じ頑固者で、私の意見など聞くどころか、厄介払いした人物である。私を追い出すために、縁談を持って来たのも兄さんだと聞く。父さんを唆したのもまた……。

「やっとって、母さんは? 奥にいるの?」

 そんな人物を相手にしていたら、日が暮れてしまう。いや、私の気力が持ちそうにない。今はとにかく、母さんの現状を知りたかった。
 どのくらい悪いのか。兄さんの口調から、間に合わなかった可能性も否定できない。

 次第に募る想いが焦りとなり、私は判断を見誤った。

 そもそも母さんが危篤状態なら、兄さんは何故、玄関で私を出迎えられる? 母さんの面倒を義姉さんに看てもらっていたとしても、こんな悠長な態度を取れるだろうか。

 こんな簡単なことにも気づけずに、私は急いで靴を脱ぎ、中に入ろうとした。途端、腕を掴まれる。

「何を――……っ!」

 するの! と反射的に腕を引くが、兄さんの力に敵うはずもなく。さらに強く掴まれてしまい、私は小さな悲鳴をあげた。
 しかし兄さんはそれに反応などしない。気にすら留めずに廊下を歩き始めた。無論、私を引きずりながら……。

 向かう先は、恐らく母さんの元ではないのだろう。ここでようやく、兄さんたちが電報を送ってきた理由を悟った。

 恐らく私を家に帰すためだ。けれど何のために? 邪魔に思っている私を帰して、何の得があるというの? 働き手としか見ていない私を……!

 答えは一つしかない。離婚させるためだ。
 筒鳥家の人間である以上、他家へ奉公に出すことはできない。もっといい条件の働き口があったとしても、だ。

「はな、し、て……!」

 我が家の廊下が長くて助かった。足を踏ん張りながら、なるべく大きな声で抵抗した。
 聞こえなくてもいい。玄関の向こう、塀の外には筒鳥家から乗ってきた車があるのだ。
 その中には私付きの女中、芹が乗っている。

 少しでもいいから、異変に気がついて!

「相変わらず、(うるさ)い女だ。ここで大人しくしていろ」

 けれど家の奥へと連れて行かれてしまえば、外にいる人間に悟ることは不可能。
 いとも簡単に、私は部屋の中へ。まるで物を放り投げるかのように入れられた。

「痛っ!」
「下手な演技はやめろ」
「本当に痛いのよ! あと私を何だと思っているわけ? 乱暴なことをすれば怪我だってするんだから」
「鋼のような精神をしているんだ。体だって似たようなものだろう?」

 イカれた男め! 違った。どれだけ私を煙たがっているのよ。

「さっさと離婚して戻って来るのかと思えば、五年も居座って……。しかも筒鳥家なら、高月収かと期待するれば、それも違う」
「やっぱり離婚させて、別の家に奉公させる気なのね」
「それも考えたんだが、また嫁に行ってもらう」
「何ですって!」

 嫁に!?

「あぁ、筒鳥家よりも好条件なんだ。弓維も気にいると思うぞ。楽しみに待っているんだな」

 捨て台詞を吐くかのように、兄さんはそれだけ言うと(ふすま)をしめた。さらにつっかえ棒までして。

 こんな目に遭ったというのに、私は嘆くどころか、母さんが無事であることに安堵していた。
 私を帰すためにしていたのだから、恐らく危篤というのは嘘なのだろう。父さんと兄さんはあんなんだけど、母さんは優しい人だから。
 難点なのは、冴子様とちがって従順なところだった。

 私も母さんに似ていたら、こんな目に遭わなくて済んだのかな。もっと生きやすかったのかな、と思えてならなかった。