顔も知らないまま結婚する、というのがおかしくない時代。
縁談のお話をいただいた私は、筒鳥家に行儀見習いとして入り、女主人である筒鳥冴子様に気に入られ、その息子である筒鳥肇さんと無事、結婚する運びとなった。
それから五年、私は筒鳥弓維として冴子様の秘書を務めることになるのだが……。肇さんはその間、私の前に一度も姿を現すことはなかった。
何か事情があるのだろう、と思って、それとなく使用人たちに尋ねても、知らぬ存ぜぬと間を取り持ってはくれない。
冴子様でさえ、のらりくらりと躱されてしまう有り様だった。
豪商、筒鳥家のご長男だというのに、この扱いは一体何なのだろうか。
***
ある日のこと。冴子様の執務室にて、愚痴ともいえる不安を打ち明けた。
「婚礼も行わず、私は本当に筒鳥家に嫁入りしたのでしょうか。筒鳥家の嫁ではなく、冴子様の秘書として雇われたのではないかと、時々思うことがあります」
現にお給金もいただいている。
「何を仰るの? 弓維さんはれっきとした筒鳥家の嫁です。まさか、侮辱する様な愚か者でもいましたか?」
「いいえ。皆さま、よくしてくださいます」
肇さんのこと以外は……。だからこそ、余計に気になってしまう。何故、私だけ秘密にされているのか、を。
「それなら良かったわ。行く行くは弓維さんに、この筒鳥家を率いてもらいたいから」
「ま、待ってください! 私は嫁ですよ。冴子様のような――……」
「家付き娘ではない、と言いたいのでしょう? けれど優秀な者が上に立たずに、誰が立つと言うのですか」
そんな啖呵を切られても……困ってしまう。
艶やかな短髪をそっと撫でる冴子様。二十三歳の息子がいるとは思えないほど凛とした姿は、洋装に映えてさらに美しさを伴う。
だからだろうか。冴子様に大声を出されてしまうと、体がすくんでしまうのだ。
和装で、さらに華やかさのない小紋を着ている私としては……。
「冴子様はそう仰いますが、ほぼ身売り状態で嫁入りした私に、誰がついて行こうと思うんですか? 今の私は、冴子様の保護下にあって成り立っているんです」
そう、私と肇さんの縁談には裏があった。私の実家である川本呉服店は、洋装の流行を受けて、徐々に傾きつつあった。
洋装店へと名前を変更して、時代に乗っていく呉服店があれば、その逆もまた然り。例に洩れず、我が家は頑なに呉服店であり続けた。
江戸時代から続く由緒ある呉服店なのだと、言い張って。
流行りに乗れなければ、川本呉服店は潰れる。由緒と言っても、ご先祖様が何をしてくれると言うの? 私たちの生活を支えてくれるとでも?
誇りで飯が食えるかーーー!!
そう、父親に怒りをぶちまけたところ、まるで追い出されるかのように、私は筒鳥家へお嫁に行かされたのだ。
結納金を得るために。そして私からの仕送りを当てにして。
故に私の恰好は、呉服店の娘らしく着物で。さらにいただいたお給金は、ほぼ仕送りに回していたため、新しい着物なんて夢のまた夢。
最初の頃は冴子様も窘めていらっしゃった。
『筒鳥家の嫁に、そんな格好をさせられないわ!』
そう仰って、私に新しい着物を仕立ててくれた。一応、私の実家のことを配慮してくれたらしい。
けれど次第に事情を知っていくにつれて、とうとう冴子様も、私の恰好を改めるようには言わなくなった。
今、着ているのは、派手さはないが落ち着いた若草色の小紋。襟や袖、裾に小さな梅があしらわれている。これも冴子様に仕立てていただいたものの一つだった。
「弓維さんの言いたいことは分かるわ。でもね――……」
「でしたら、肇さんに会わせてください。冴子様のお考えは分かっても、肇さんはどうでしょうか。形だけの婚姻をしてから五年です。好いた方と添い遂げてください」
五年もの間、私に会わない理由。それは私のことが気に入らないか。もしくは好きな方がいらっしゃるに違いない。
肇さんがどういう方なのかは分からないが、勝気な冴子様の性格を考えると、反発できない大人しい方なのだろう。そうすると、この婚姻は押し付けられたのも同然。
けれど肇さんにだって意思はあるはずだ。小さな抵抗として、私に会おうとしないのがいい証拠である。
「つまり、離婚したいと言いたいのね」
「はい。けれどお恥ずかしい話、私は実家に仕送りをしなければならない身。厚かましいのは重々承知ですが、離婚していただいた後も、ここで働かせてもらえないでしょうか」
筒鳥家に行儀見習いとして入ったのは十六歳の時。家業の手伝いをしていた私は、他家へ奉公した経験がない。
二十一歳で奉公など……しかも離婚した女を、どこの誰が雇ってくれるのだろうか。
私はさらに恥を忍んで、頼みごとを口にした。勿論、頭を下げて。
「それがダメでしたら、せめて他家への推薦状を……」
「どちらも引き受けることはできません!」
「何故ですか!?」
意味が分からない! けれど、そこまで言う勇気はなかった。私の命綱を握っているのは冴子様。逆鱗に触れるのは自殺行為に等しかった。
「とりあえず、肇と話を……はできないから、自室に戻りなさい。今日の業務は私だけでも処理できるものだから。……もう少し我慢してちょうだい。私も説得してみるから」
「……はい」
冴子様にそう言われては、引き下がることしかできなかった。というよりも、冴子様をもってしても、どうにもできない事態に、内心驚いた。
これじゃ、離婚してほしい、という私の望みなんて……叶うはずがない!
冴子様の執務室を出た私は、廊下を走りたい衝動を抑えながら、自室へと向かっていった。
縁談のお話をいただいた私は、筒鳥家に行儀見習いとして入り、女主人である筒鳥冴子様に気に入られ、その息子である筒鳥肇さんと無事、結婚する運びとなった。
それから五年、私は筒鳥弓維として冴子様の秘書を務めることになるのだが……。肇さんはその間、私の前に一度も姿を現すことはなかった。
何か事情があるのだろう、と思って、それとなく使用人たちに尋ねても、知らぬ存ぜぬと間を取り持ってはくれない。
冴子様でさえ、のらりくらりと躱されてしまう有り様だった。
豪商、筒鳥家のご長男だというのに、この扱いは一体何なのだろうか。
***
ある日のこと。冴子様の執務室にて、愚痴ともいえる不安を打ち明けた。
「婚礼も行わず、私は本当に筒鳥家に嫁入りしたのでしょうか。筒鳥家の嫁ではなく、冴子様の秘書として雇われたのではないかと、時々思うことがあります」
現にお給金もいただいている。
「何を仰るの? 弓維さんはれっきとした筒鳥家の嫁です。まさか、侮辱する様な愚か者でもいましたか?」
「いいえ。皆さま、よくしてくださいます」
肇さんのこと以外は……。だからこそ、余計に気になってしまう。何故、私だけ秘密にされているのか、を。
「それなら良かったわ。行く行くは弓維さんに、この筒鳥家を率いてもらいたいから」
「ま、待ってください! 私は嫁ですよ。冴子様のような――……」
「家付き娘ではない、と言いたいのでしょう? けれど優秀な者が上に立たずに、誰が立つと言うのですか」
そんな啖呵を切られても……困ってしまう。
艶やかな短髪をそっと撫でる冴子様。二十三歳の息子がいるとは思えないほど凛とした姿は、洋装に映えてさらに美しさを伴う。
だからだろうか。冴子様に大声を出されてしまうと、体がすくんでしまうのだ。
和装で、さらに華やかさのない小紋を着ている私としては……。
「冴子様はそう仰いますが、ほぼ身売り状態で嫁入りした私に、誰がついて行こうと思うんですか? 今の私は、冴子様の保護下にあって成り立っているんです」
そう、私と肇さんの縁談には裏があった。私の実家である川本呉服店は、洋装の流行を受けて、徐々に傾きつつあった。
洋装店へと名前を変更して、時代に乗っていく呉服店があれば、その逆もまた然り。例に洩れず、我が家は頑なに呉服店であり続けた。
江戸時代から続く由緒ある呉服店なのだと、言い張って。
流行りに乗れなければ、川本呉服店は潰れる。由緒と言っても、ご先祖様が何をしてくれると言うの? 私たちの生活を支えてくれるとでも?
誇りで飯が食えるかーーー!!
そう、父親に怒りをぶちまけたところ、まるで追い出されるかのように、私は筒鳥家へお嫁に行かされたのだ。
結納金を得るために。そして私からの仕送りを当てにして。
故に私の恰好は、呉服店の娘らしく着物で。さらにいただいたお給金は、ほぼ仕送りに回していたため、新しい着物なんて夢のまた夢。
最初の頃は冴子様も窘めていらっしゃった。
『筒鳥家の嫁に、そんな格好をさせられないわ!』
そう仰って、私に新しい着物を仕立ててくれた。一応、私の実家のことを配慮してくれたらしい。
けれど次第に事情を知っていくにつれて、とうとう冴子様も、私の恰好を改めるようには言わなくなった。
今、着ているのは、派手さはないが落ち着いた若草色の小紋。襟や袖、裾に小さな梅があしらわれている。これも冴子様に仕立てていただいたものの一つだった。
「弓維さんの言いたいことは分かるわ。でもね――……」
「でしたら、肇さんに会わせてください。冴子様のお考えは分かっても、肇さんはどうでしょうか。形だけの婚姻をしてから五年です。好いた方と添い遂げてください」
五年もの間、私に会わない理由。それは私のことが気に入らないか。もしくは好きな方がいらっしゃるに違いない。
肇さんがどういう方なのかは分からないが、勝気な冴子様の性格を考えると、反発できない大人しい方なのだろう。そうすると、この婚姻は押し付けられたのも同然。
けれど肇さんにだって意思はあるはずだ。小さな抵抗として、私に会おうとしないのがいい証拠である。
「つまり、離婚したいと言いたいのね」
「はい。けれどお恥ずかしい話、私は実家に仕送りをしなければならない身。厚かましいのは重々承知ですが、離婚していただいた後も、ここで働かせてもらえないでしょうか」
筒鳥家に行儀見習いとして入ったのは十六歳の時。家業の手伝いをしていた私は、他家へ奉公した経験がない。
二十一歳で奉公など……しかも離婚した女を、どこの誰が雇ってくれるのだろうか。
私はさらに恥を忍んで、頼みごとを口にした。勿論、頭を下げて。
「それがダメでしたら、せめて他家への推薦状を……」
「どちらも引き受けることはできません!」
「何故ですか!?」
意味が分からない! けれど、そこまで言う勇気はなかった。私の命綱を握っているのは冴子様。逆鱗に触れるのは自殺行為に等しかった。
「とりあえず、肇と話を……はできないから、自室に戻りなさい。今日の業務は私だけでも処理できるものだから。……もう少し我慢してちょうだい。私も説得してみるから」
「……はい」
冴子様にそう言われては、引き下がることしかできなかった。というよりも、冴子様をもってしても、どうにもできない事態に、内心驚いた。
これじゃ、離婚してほしい、という私の望みなんて……叶うはずがない!
冴子様の執務室を出た私は、廊下を走りたい衝動を抑えながら、自室へと向かっていった。