「ナナくん、好きです!」

 その言葉とともに手紙を差し出され、ナナ――男装姿の七夏は困惑した。
 ここは放課後の旧聖堂懺悔室で、男装喫茶部の活動拠点だ。かつて懺悔室として使われていたらしいその場所は小さな喫茶室として改装され、心安らぐ空間となっている。ナナが返答に困っていると、レコードの音楽だけが部屋の中を満たしてゆく。

「……ええと」

 ナナはそれだけ捻り出して間を持たせようとする。震える手が差し出す手紙――十中八九中身はラブレターだろう――の封筒は金箔入りの和紙で、なかなか経済的に余裕のありそうな子だ……と冷静に観察していた。

「私っ、ずっと前からナナくんのファンでした! 雲の上の人だと思っていたナナくんとこうしてお話しできるなんて夢みたいで……ずっとこうして居られたらなって思います。ナナくん、私とお付き合いしてください!」

 この客人が男装喫茶にやってくるのはもう10回目で、指名は必ずナナだった。ナナに対して「前からファンだった」と言う者の殆どは「今は芸能界を引退してしまった元天才子役・夜半月七夏」のファンであり、この少女もそうだった。

「……絵美ちゃん。たくさん来てくれてありがとう。それから、いつも僕を指名してくれることも。嬉しいよ」

 少女は不安と期待に彩られた表情でナナを見上げる。ナナは心苦しそうな顔を作って、彼女に返事をした。

「でもね、ごめん。恋人同士としてのお付き合いはできないんだ」
「それはっ……女同士、だからですか……?」

 絵美は男装喫茶でわざわざ口に出すことは野暮とされる性別についての質問を切り込む。食い下がるにはそれしかないと思ってのことだろう。

「……。それを否定したい訳じゃないんだよ。ただ僕は、特定の一人と恋仲になるつもりはないんだ。みんなにとって平等な『ナナ』でありたいから」

 絵美は失意のうちに目を伏せ、しばらく黙り込む。受け取られることのなかった手紙を握りしめて。

「そう……なんですね。……ナナくんは、プロなんだなぁ……」

 彼女の言葉選びには、夜半月七夏が芸能人であった頃と重ね合わせる様子が見て取れた。胸のうちにせり上がってくる不快感を飲み込み、ナナは優しい微笑みをを作る。

「また、お客さんとして来てくれると嬉しいな」

***

「ってことがあったんだよね〜」
「ふーん……」

 唐揚げラーメンと本日の定食Aを挟み、七夏と水景は雑談を交わしていた。栄養バランスのとれた本日の定食Aを注文したのは水景で、カロリー爆弾と名高い唐揚げラーメンは七夏の注文だった。身体にいいものを! と水景が説教をするも虚しく、七夏は提案を無視して爆弾――大きな唐揚げを口に運んでいる。

「なに水景、面白くなさそうな顔して」
「ナナくんの自慢話嫌だなと思って」

 水景は分かりやすく拗ねている。

「分かった。七夏は俺に焼きもちやいてほしくてその話してるんだな?」
「水景は前向きすぎる」

 心にも無い気持ちを演じることも容易い七夏がわざと本心で冷たく言い放っているのに、水景は飽くまで自分に都合のいいように解釈して勝手に納得している。

(ほんとお節介なんだよね〜。それに水景はあたしのこと好きかもしれないけど、あたしは水景のこと好きじゃないし)

 七夏がこうして水景と昼食を摂る理由の一つ目は水景が強引に連れ立つからで、二つ目は水景と一緒に居れば野次馬が寄ってこないのが気楽だからという目論見だった。

(昨日の部活動の話を振ったのも、子役時代の話を持ち出すなって牽制のつもりだったんだけどなぁ。水景みたいな鈍感人間には分かんないだろうな)

 七夏はかたちのいい唇でラーメンのスープを啜る。

「こら、スープは塩分が多いからほどほどにしなさい」
「うるさ……」
「俺はさ、せっかく美人さんな七夏が栄養の偏りで肌荒れするのは勿体ないって言ってんの。幼馴染が天才女優なんて誇らしいのに七夏は引退しちゃってさ。七夏の活躍、また見たいよ」
「……」

 水景が七夏に対して異様に好意を抱いている理由もまた、天才子役・夜半月七夏への思い入れだった。



 夜半月七夏は、かつて神童と呼ばれた少女だった。わずか3歳にして多彩な演技を披露し、芸能界で持て囃された。
 神童も歳を取ればただの人、とはよく言ったもので、七夏もその「ただの人」に過ぎなかった。徐々に自分の才能の天井が見え始め、七夏は零落を恐れた。
 時を同じくして、七夏の周囲には少女子役を性の対象として見る劣悪な男性スタッフが群がっていた。

(あたしの周りにロリコンが多かっただけなのかもしれないけど、男のキショいところを知るには充分な経験だったなぁ……)

 己の才能の限界と、薄汚い業界人への嫌悪感。その二つが高じ、七夏は自身の人気が絶頂期のうちに芸能界を去ったのであった。



 年端も行かない少女を性的な目で見る男たちへの拒否反応から男性全体への不信感を募らせた七夏は、自宅からそう遠くない女子校である私立山手清花女子学院に入学した。中等部の入学式の日、七夏は多忙から疎遠となっていた幼馴染の波止場水景と再会した。

「七夏、久しぶりだね!」

 無邪気に声をかけてきた水景に対し、激務をこなしていくうちに忘れっぽくなってしまった七夏は首を傾げた。この人誰だっけ、と。

「あれ? 覚えてないの? 俺だよ、水景! 昔一緒に遊んでたじゃん」
「……そうだったっけ」
「つれないなぁ! 俺はテレビ越しにずっと七夏のこと見てたのに」
「その話、聞きたくない」

 過去を切り捨てるために選んだ学校で、七夏はいきなり過去の栄光を持ち出されて嫌な気持ちになった。

(あたしは、天才だった頃のあたしの話をする人が嫌い。もう神童の夜半月七夏はどこにも居ないのに)

 残念ながら忘れっぽい性質は水景の方も同じで、子役時代の話はもうやめて、と何度水景に言っても彼女は注意された内容を翌日には忘れてしまっていた。
 七夏の悩みは、なかなか他者には理解されなかった。周囲の平均的な高校生の多くにとって、人生における大きな挫折はまだ遠いものであり、七夏に共感を示してくれる存在は居なかった。

(何か別の目標を決めなきゃ。演技の道とは違う目標を。熱中できる何かに出会えれば、少しは過去のことを忘れられるはず)

 女優の道を諦めた七夏は次の目標を探すために、校内の部活見学やイベントへの積極的な参加を行った。しかし既に人生に疲れ始めていた七夏は、すぐに精神力が尽きてしまった。
 疲れて怠惰になった七夏が次の目標として定めたのは、「玉の輿に乗ること」だった。
 自分の限界を知った七夏は、他者に救われることを求めた。
 ただし七夏は男性を嫌っているので、相手は女性でなくてはならなかった。

(お金持ちの女の子と付き合って、同性婚できる国に移住しよう。なかなか大きい夢だし、夢中になれそう)

 七夏の希望を叶えてくれる存在、それには「女性」であり「金持ち」であることが必須条件だ。

(水景は顔はいいけど将来性がな〜。あたしには厳しいくせに自分には甘いし、大成するタイプじゃないよね。やっぱり……)

 水景の背中越しに食堂を見渡す七夏は、一人の少女の姿を目にとめた。

(……来た!)

 本日の定食Bが載ったトレイをテーブルに置いて着席するその少女――川嶋淑乃の方へ近づく。

「やっほ~淑乃ちゃん。ここ座っていい?」

 七夏が背後から声をかけると、淑乃は美しく微笑んだ。

「あら夜半月先輩、ごきげんよう。よろしくてよ」

 淑乃の横を回り込みつつ、七夏は正面の席に座る。膝の上にナプキン代わりのレースのハンカチを広げる淑乃は、正真正銘のお嬢様だ。

「淑乃ちゃんが学食なんて珍しいんじゃない? あたし食堂で淑乃ちゃん見かけるの初めてかも~」
「あ、えっと……今日は学食の気分でしたのよ」

 淑乃は口ごもりながら箸を取る。

「そうなの? ここのご飯美味しいし、淑乃ちゃんも普段からもっと来ればいいのに~」
「ふふ、そうですわね」
「それともお嬢様の淑乃ちゃんのお口には合わない?」
「今食べてみますわ」

 淑乃は半ば七夏に急かされる形でささみチーズカツを一切れ口に運ぶ。

「わりと美味しいんじゃないかしら。これなら通ってみてもいいですわね」
「あ、そう? 庶民の食べ物はまずいって言われるかと思っちゃった」
「夜半月先輩はわたくしのことをなんだと思っていらっしゃるのかしら……」
「お嬢様」
「そのまんまですわね。まあ揚げ油の使いまわしは気になりますけれど、まずくて食べられないほどじゃありませんわ」
「食べただけで分かるんだ。すご~い」
「夜半月先輩、もしかしてわたくしのことバカにしてますの?」
「違うよぉ。いいものとそうじゃないものの違いが分かる淑乃ちゃんはすごいねってこと」

 淑乃の前で頬杖をつき、七夏はふにゃりと笑う。

(本物のお金持ちの淑乃ちゃん。淑乃ちゃんなら、あたしのこと幸せにしてくれそう)

 幸せな未来に思いを馳せる七夏。彼女のことを、向こうの席から水景がじっとりとした目で見ていたことは誰も知らない。

***

「お待たせしました。本日の紅茶はディンブラのロイヤルミルクティーです」

 長い髪を後ろに束ねて男装した淑乃――シノは、ティーセットを用意して懺悔室の中へ戻ってきた。
 今日の放課後はシノが当番の日で、来客は菓子折りを手に飛び込んできた新規客だった。

「ありがとうございます、シノくん。ディンブラってどんな茶葉なんですか?」

 来客たる少女はシノに訊ねる。

「ディンブラはクセがなく香りがよい、紅茶初心者でも楽しめるハイスタンダードな茶葉です。ロイヤルミルクティーにしても美味しいですよ。僕もこの茶葉が好きで、よく飲みます」
「そうなんですね。いただきます」

 そうして少女とシノの和やかな語らいは始まった。紅茶やお菓子の話を交えつつ好きな食べ物、普段の生活の話題などへ移り変わってゆく。
 すっかり打ち解けた彼女は、終わりの時刻間際にこんなことを言い出した。

「ねえシノくん。『リボンの誓い』って知ってますか?」
「リボンの誓い? 初めて耳にしました」
「愛し合う二人は、お互いの制服の胸元のリボンを贈り合う。この学園に伝わる、愛の誓いの儀式だそうです」
「それはまた……ロマンチックですね。しかし、この学園ということは女生徒同士で、ということですか?」
「そうなりますね。シノくんは、女の子同士の恋愛って変なことだと思いますか?」

 シノは顎に指を当てて思案する。

「聖書では、女は男の肋骨から生まれ、男女は互いを補い合うものとして創られたと書いてあったような……」

 当たり障りなくはぐらかそうとすると、少女はくすくすと笑った。

「やだ、シノくんは聖書とか真に受けてるんですか? あんなのファンタジー小説ですよ。シノくんったら信心深~い」

 シノは苛立ちに眉をひそめそうになるのを抑え、作り笑いを浮かべた。

「そういうつもりではなかったのですが。貴方が女性同士の愛を大切にしているということは伝わってきました」
「それならよかったです! 私、今度親友とリボンの誓いをしてみようかなって思ってるんですよ」
「親友さんとは恋人としてお付き合いされているのですか?」
「いいえ。でも、きっと私の愛を受け入れてもらえると思います! シノくんは応援してくれますか?」
「はい、勿論」

 シノは愛想笑いでそう答えるしかなかった。



 客人が去って後片付けをしているシノのもとへ、一人の訪問者が現れた。

「お疲れ様~、淑乃ちゃん」

 まだ男装姿の淑乃――シノは、片付けの手を止めて顔を上げる。

「夜半月先輩。僕はまだ『シノ』の格好なので、その呼び方はご遠慮ください」
「あらあら、『シノくん』ったらプロフェッショナル~」

 訪問者である七夏は目を細めて笑う。下校するつもりだったのか、手には通学鞄が握られていた。

「シノくん、入部当初は男装するの嫌がってたのにねぇ」

 シノが歩き出すと、七夏もついてくる。

「当然です。紅茶部だっていうから入部したのに、いざ入ってみれば男装喫茶部だったんですから。ホストクラブの真似事をするために入部したんじゃないです」
「でも、今は?」
「やると決めたからには本気でやります」
「シノくんのそういうところ、あたし好きだよ」
「お褒めにあずかり光栄ですね」
「あら、つれない」

 部室近くの給湯室に入り、シノは使用済みの食器を洗い始める。

「ねぇ、知ってる?」

 シンクで洗い物に励むシノの背後に向かって七夏は質問を投げかけた。

「何をですか?」
「『リボンの誓い』。シノくんは知ってるのかな~って」
「えっ」

 思いもよらぬ話題に驚き、シノは手の中のティーカップを取り落とした。白磁のティーカップは呆気なく割れ、周囲に破片が飛び散る。

「なぜ急にその話題を……?」

 ついさっき飛び込みの来客がなければ、シノにとって知る由もなかった儀式『リボンの誓い』。なぜ七夏はこのタイミングでその話題を切り出したのか、シノには分からなかった。

(だって、懺悔室には盗聴器が仕掛けられてるもんね)

 七夏は内心でほくそ笑む。

(昨日の喫茶業務が終わって片付けをしている時に気づいたんだけど。あの盗聴器を仕掛けたのはタイミング的に水景。どうせあたしの会話を盗み聞きしたかったとかそんなところだろうけど、部室に受信機放置は迂闊すぎだよね~)

 七夏の鞄の中には部室から拝借した受信機が入っている。まさか自分の会話が盗み聞きされているとは思いもしないシノに向かって、七夏は持ち前の演技力で屈託のない笑みを作って見せた。

「え? なんかおかしかった?」
「いえ……ついさっき、お客様から同じ話を聞かされたばかりだったので、驚いただけです」
「あ、そうなんだ。すごい偶然だね~」

 シノは備品棚から掃除用具を取り出し、割れたティーカップの片付けに着手する。

「ねえ、シノくん。『リボンの誓い』を交わした二人は、永遠に結ばれるんだって」
「へえ……お伽噺ですね」
「あたしは信じてみたいな。だって、夢があるじゃない?」

 七夏はじっと、シノの背中を見つめていた。