れおなは気絶した初瀬をぼろ布の上に寝かせた。冷たい石の床に直に寝かせるよりはマシだろう。

「さて……」

 動揺から落ち着いたれおなは、改めて壁の足場をのぼった。一番上まで到達し、下からハッチの天板を上げようと試みる。ただでさえ重たく、上から一人で上げるのも困難であるのに、不安定な体勢で下から開けようなどというのは無理な話だった。かなり鍛えた成人男性でも難しそうだ、とれおなは感じた。

「これは前途多難かな……」

 足場を降りて地下に戻る。まだ目を覚まさない初瀬を横目に、スマホを取り出した。物理的に開かない天板と格闘するよりは、他の手立てを考える方がいくらか現実的に思えた。

「圏外って久しぶりに見る字だな〜。ガラケーの頃はよく見たのに」

 どうでもいい独り言で気分を紛らわす。非常時こそ、平常心が大事だと思った。
 外部へ助けを呼ぶ手段を諦め、れおなは次に懐中電灯で地下室の探索を始めた。先ほどはぐるりと一周ざっと見ただけだったので、今度はくまなく調べる。

(皮肉なことに、時間はたっぷりありそうだからね)

 全体的に年月の経過で古びている石造りの壁面の途中、その中でも比較的新しそうな継ぎ目を見つける。

「隠し扉?」

 れおなは誰にともなく呟き、指をかけて扉を押した。非力な彼女には少し重い。肩を扉に押し当て、体重をかけてようやく開く。埃と黴が辺りに舞い、それらを吸い込んでしまったれおなは噎せた。

「けほけほ……探索も楽じゃないなぁ」

 鞄の中からハンカチを取り出し、口と鼻を押さえて隠し部屋の中へ足を踏み入れる。

「……」

 懐中電灯は、ある一点を照らし出した。それを目にした瞬間、唐突に臭気を感じ始める。視覚情報によって、腐臭が意識されたのだ。つまり、そこにあったのは――日常生活では到底見ることのないはずだった、人間の遺体だった。腐乱死体と表現するにはあまりにも原型を留めすぎており、死後何年も経過しているわけではなさそうだ、と直感で理解できた。腐り始めたその遺体は、清花の制服を着ていた。髪の色の印象は、確かにれおなが以前一度だけ会った城ケ崎碧のものと一致しているように思えた。
 遺体の凄惨な様子にれおなも怖気づいた。隠し部屋に入って数歩、そこから前に進む勇気はなかった。

(もう少ししっかり見るにしても、腹をくくる時間は欲しいな。喜多川先輩が目を覚ましてから相談しよう……)

 れおなは一旦隠し部屋を出て、扉を閉める。

 冬が近づく11月の日没、真っ暗な地下室は寒々しい。初瀬が眠っている場所まで戻ってきて、暖を取るように身を寄せる。あとどれくらいでこの場所を脱出できるだろうか? それとも、脱出の手立てが見つからずに自分たちもあの遺体のような末路を辿るのだろうか? 押し寄せる不安を抱えて、れおなは天井を見上げた。重たいハッチが開く様子はない。

「川嶋さん……ジュリくん……」

 明日の予定を思い、れおなは途方に暮れた。

「会いに行けないかも……ごめんね」

***

 11月2日、土曜日。その日の私立山手清花女子学院の校内は静かだった。死者の日のミサというのは、今年一年のうちに身内に不幸があった生徒とその家族などがやってきて弔いの時間を過ごす行事だった。まばらな来訪者たちはみな一様にまっすぐ教会――真新しい教会へ入ってゆく。
 死者の日のミサへ訪れた者の中に、白いセーラー襟の少女たちの集団があった。通常、この行事の趣旨として、来訪者は「一人の清花生とその家族」という組み合わせになることが多い。生徒同士の集団での参加者というのはつまり――親しい清花生の友人を亡くした少女たち、ということだった。

「碧……結局死んじゃったのかな」
「行方不明なんでしょ? あの碧のことなんだから、どこかで生きているかも……」
「でも、ひどい家族だよね。誰も碧が帰ってこないことを気にしてないんだから。失踪した当日も、家族からじゃなくてバイト先から問い合わせの電話があったなんて……信じられない」
「ほんと、薄情だよね」

 彼女たちは、昨年の冬に姿を消してしまった友人・城ケ崎碧のことを口々に語っていた。

「碧の手癖の悪いところはどうかと思ってたし正直キショ……とは思ってるけど、うちらにとっては楽しい友達だったのに……居なくなるなんて聞いてないし……」
「ね。いつか刺されるぞって冗談が言えてた頃が懐かしくなるなんてね」
「碧……どこ行っちゃったんだろうね……」

***

 午前11時。磐井洋品店の軒先で、淑乃はれおなを待っていた。想い人と初めて二人きりで出かけられることが、この上なく楽しみであった。それが例え、最後の思い出になるとしても。

(磐井さんはどんなお洋服で来るのでしょうか? 楽しみですわ……)

 悩みに悩んで選んだお気に入りの服。シルクのボウタイブラウスに、ヴァージンウールのミモザ色フレアスカート。ジャカード織りの日傘をさした彼女は、一目で育ちのいいお嬢様であることが見て取れた。街ゆく人々は、ぱっと明るく目立つスカートに目を奪われ、着こなす本人の佇まいに惚れ惚れしていた。
 11時10分。れおなはまだ来ない。

(おかしいですわね……磐井さんって待ち合わせには早めに来るタイプだと思っていました。部活動でも遅刻したことはありませんし……)

 11時20分。れおなはまだ現れない。

(……もしかして、わたくし約束をすっぽかされていますの……?)

***

 午前11時30分。樹里亜は、自室で出かける支度を済ませて最終チェックを行っていた。シフォンのフリルブラウスにハイウエストの黒いスカート、黒いニーハイソックス。ある意味ハードルの高い服装を、樹里亜なら着こなせた。

「お洋服よし、髪型よし! あとはネックレスでもつけようかな?」

 ジュエリーボックスの中から目ぼしいネックレスを掴み取る。

「これ、誰にもらったんだっけ? 何人前の彼氏だろ……? でも、わたしには波止場先輩が居るからもう要らないよね。過去の痕跡は消さなきゃ!」

 今度まとめてフリマアプリに出してしまおう、と樹里亜は不用品を仕分ける箱の中にダイヤのネックレスを入れた。

「じゃあ自分で買ったやつ着けていこうっと!」

 アメジストのプチネックレスを胸元に飾り、樹里亜は鏡の前で満足そうに頷く。

「後は……予定の確認」

 デスクの上のノートを開く。自分の中のもう一人、「ジュリ」との交換日記だ。

「えっと……数学と英語は月曜日までの課題あり。これは大丈夫。昨日の部活も問題なし。それから……今日の12:30に予定あり?」

 樹里亜はうーんと首を傾げた。

「それって、波止場先輩との約束のことだよね? ジュリくんはいつの間に知ってたんだろ? 正確には12時からだけど」

 その予定がまさか、ジュリとれおなのデートの約束を指しているなどとは夢にも思わない。そして男装をしないと表に出てこられないジュリが、樹里亜の致命的な思い違いを指摘することは叶わない。

「まあいいや。波止場先輩とのデート、嬉しいな!」

 家を出発して待ち合わせの場所へ向かう。休日の横浜駅は賑わっていた。駅ビル前へ到着し、柱を背に立って樹里亜はスマホを取り出す。

(ちょっと早かったかな? でも、遅れるよりいいよね)

 駅ビルの中を眺めると、幸せそうにショッピングを楽しむカップルが目に留まる。

(わたしも波止場先輩とあんなふうになれるんだ……)

 羨望する光景と、今からそれが叶う喜びで浮かれていると、不意に誰かから声をかけられた。

「すみません、この近くのおすすめのカフェって知りませんか?」

 それは大学生くらいと思われる見知らぬ男性だった。

「カフェですか? この近くだと、駅ビルの地下に紅茶の美味しいお店が……」
「じゃあ、一緒に行かない?」

 男性の急に馴れ馴れしい誘いに、樹里亜は呆れた気分になった。

(なんだ、やっぱりナンパか)

 樹里亜はにこりと微笑む。

「私、今から恋人とそこに行くので! どっか消えてください」
「あっ……あははー……そう……じゃ、失礼します……」

 力なくフェードアウトしていく彼の声に、樹里亜はほくそ笑む。すごすごと遠くへ去っていく男の哀愁漂う背中を見送り、もう一度スマホを取り出した。

(12時。そろそろ来るかな?)

***

 明かりを消した部屋。ブルーグレーの壁紙は、光のない空間では閉塞的な印象を与える。外はデートにぴったりの快晴だというのに、遮光カーテンは隙間なく閉ざされていた。デスクの前には大きなコルクボードが掲げられており、そこには銀髪の少女の写真が埋め尽くされている。天才子役として脚光を浴びていた頃の幼い彼女の写真。ネット記事の切り抜き。ドラマでの名シーンのスクリーンショットを印刷したもの。果ては、盗撮写真まで。
 夜半月七夏本人よりも夜半月七夏に執着した彼女――波止場水景は、仄暗い笑みを浮かべて七夏を見下ろした。そう、ベッドに手首を括りつけられた七夏を――。
 ここは、水景の部屋だった。水景は思い通りにならない七夏に痺れを切らし、彼女を監禁することにしたのだ。

「おはよう、七夏。気分はどう?」

 水景は達成感に満ちた様子で微笑む。対する七夏は無表情だった。

「最悪ってとこかな〜」
「違うでしょ、最高なんだよね? 怠け者の七夏は他人に面倒を見てもらえる方が楽だもんね」
「面倒を見てくれる人が誰でもいいなんて言ってないんだよね〜」

 昨日。初瀬を廃教会の地下室に突き落とした後、七夏は待ち伏せしていた水景に捕まった。あれよあれよと水景の家へ連れ込まれ、今は軟禁状態にある。

(現役時代のレッスンを続けていたら体力的に逃げ切ることもできたかな〜。まあそれを言っても後の祭りだよね)

 七夏はベッドの足と繋がれた手錠を外そうと試みる。

(撮影の小道具で見たことはあるし、外せないかな〜)

 当然、掌は金属の輪から抜けない。他の方法を考えながら、辛うじて触れることのできる鎖を撫でた。

「逃げようとしても無駄だよ。七夏はずっと俺のもので居てくれなきゃ」
「あたしが水景のものだったことなんて、今まで一度もなかったしこれからもないけどね〜」
「よく喋る口だね」

 水景はここぞとばかりに七夏を覗き込み、唇を寄せる。七夏は顔を背けようとしたが、顎を掴まれてしまった。同意のない口づけ。暫しの無言。

「しちゃった」
「きっしょ……」

 高揚する水景と、嫌悪感を露わにする七夏。二人の間には、埋めようのない隔たりがあった。

「俺、実はキスするのって初めてなんだよね。俺の初めてが七夏で嬉しいな」
「あたしは初めてじゃないけどね~」
「あー聞こえない聞こえない、そんなの七夏じゃないもんね。俺の七夏は、全部俺が初めてじゃなきゃ」
「事実改竄も甚だしい……」
「難しい言葉知ってるね!」
「あたし、水景ほどアホじゃないんだよね~」

 聞かなかったことにしようとしつつも、水景は少し声のトーンを落として訊ねる。

「……誰としたんだよ? 芸能人とか?」
「違う」
「じゃあ、誰と?」
「……あたしの邪魔した人、だよ」

 七夏は、五年前の出来事を思い返していた。

***

 芸能界への未練を絶つため、七夏は新たな生き甲斐を探していた。ちょうど私立山手清花女子学院中等部へ進学した彼女は、学業に励んだり、体育祭に向けて運動を頑張ってみたりした。しかし、進学校である山手清花には賢い生徒が多く、テストで上位を狙うのは難しかった。また、いくら演技のためのレッスンとして体力作りを行っていた七夏でも、小学生の頃から運動が好きでずっとトレーニングしてきた運動部の面々に勝つのも現実的ではなかった。
 七夏は心のどこかで一般人を――芸能人でない周囲の生徒たちを見下していた。しかしそれは思い込みだった。七夏が演技の練習に励む間、彼女たちも彼女たちなりに努力を積み重ねていた。その対象が勉学だったり、運動だったり人それぞれではあったが――平等に流れる時間を、それぞれの大切なことのために使っていた。だから、それを積み重ねてこなかった七夏が彼女らの土俵に挑むのは決して簡単なことではなかったのだ。
 自分の武器で戦える場所はどこか? 思い悩んだ七夏が見つけたのは、演劇部だった。結局彼女が勝てる場所は、嫌っていた演技の道しかないのだと思った。入部の前に部活見学を……と考えた七夏を迎えたのが、城ケ崎碧その人だった。女性にしては低い声の碧は、笑顔で七夏に問う。

「演劇部へようこそ! オレは中等部二年の城ケ崎碧です。入部希望の子かな?」

 黒髪にホワイトのエクステをつけ、黒縁のメガネをかけた城ケ崎碧は、なんと天才子役・夜半月七夏を知らなかった。若干プライドを折られたような気がして不服に思ったが、碧が七夏を知らないことは好都合であった。過去のことをいつまでも懐かしんでくる友人の鬱陶しさに飽き飽きしていたところだった。

「まだ決めてはいないんですけど。とりあえず見学を」

「オーケー、オレについてきて!」

 碧は七夏の手をひいて講堂の中を進み、階段状に連なる座席のもっともステージがよく見える特等席に座らせた。
 壇上では上級生たちが熱心に劇の練習をしている。七夏はそれを白けた目で眺めた。

(素人丸出しの演技。お遊戯会みたい)

 声の出し方、目線の配り方、立ち姿の重心、指先への気配り。プロであった七夏からみて、彼女たちの演技はなんともお粗末なものに映った。されど下級生たちはうっとりとした目で上級生の演技を見ている。

(まあ目の肥えてない人には分かんないか)

 七夏は心の中でため息をついた。それと同時に、ここでなら自分が一番になれそうだと思った。



 下校時刻になり、演劇部の面々はそれぞれ帰路についた。通学鞄を手にした碧は、七夏に声をかけた。

「どうだった?」

 七夏は表情と声色を作って答える。

「すごかったです」
「あ、嘘だね」

 間髪入れずに碧は指摘する。演技を見破られた七夏は少し驚いた。

「分かります?」
「そりゃあね。キミ、演技上手なんだね!」
「まあ……城ケ崎先輩って、テレビ見ない人ですか?」
「うん? そうだね、ネットしか見ないかも」

 なるほどそれであたしのことを知らないのか、と七夏は腑に落ちた。二人は講堂を出て、日の沈みかけた空の下へ出る。

「ねえねえ、オレのお相手してよ」

 碧の言葉の意図を、七夏は捉えかねた。

「お相手とは?」
「演技の練習の相手! オレたち下っ端下級生ってさ、全然名前つきの役もらえないの! だからできる練習にも限りがあってさ」
「なるほど……いいですよ」
「ほんと!? やった、じゃあこっちきて!」

 碧は七夏をとある場所へ案内した。それは古ぼけた教会――後に旧教会、と呼ばれる蔦の絡まるレンガ造りの建物だった。

「ここ、人が来なくて練習に最適なんだよね!」
「はあ……」

 もう時間も遅いのに、と七夏は一瞬思ったが、これが一生懸命打ち込める何かかもしれないと考え直した。
 教会の中は暗く静まり返っていた。碧は祭壇の上のカンテラに火を灯し、七夏に向き直る。

「そういえば名前聞いてなかった。キミ、なんていうの?」
「……夜半月七夏……」
「七夏だね。それじゃあ七夏、お手をどうぞ」

 ゆらめく灯火に照らされた碧は、恭しくかしずく。七夏は先程の演劇部の上級生が練習していた台本の内容を思い出していた。

「わたくしは毒の花、ベラドンナ。あなたは命を捧げる覚悟があるのかしら?」

 七夏の『本物』の振る舞いに、碧は瞳の中に嬉しそうな感情を灯す。

「ええ。すべてはあなたへの愛のために」

 七夏が手を取れば、二人きりのワルツが始まる。板張りの床を軋ませながら、優雅にステップを踏む。

「七夏、上手だね。どこで覚えたの?」
「まあ色々と」
「教えてくれないんだ?」
「知らなくてもいいこともありますよ」

 囁きで意思が交わせる距離。取り留めのない会話をぽつぽつと続けながら踊った。そのようなことが、何日も続いた。放課後の二人だけのエチュードは次第に、碧と七夏の心を近づけた。
 すっかり七夏が心を許した頃、碧は切り出した。

「オレと付き合ってくれない?」

 七夏は迷わず受け入れた。それが、二人が初めてくちづけを交わした日になった。



 季節は巡っていった。その間、水景から何度もアプローチを受けたが、七夏は知らぬ存ぜぬといった態度で受け流してきた。水景は面倒な存在ではあったが、隠れて碧と交流を重ねる七夏にとってはよい隠れ蓑だった。七夏は水景の把握しないうちに演劇部へ入部し、目立たぬ下働きのいち後輩を演じつつ、放課後の碧との逢瀬を繰り返した。親しくなるうち、碧は自分のことを話すようになった。自分は両性具有であること。そのせいで、両親から愛されなかったこと。「普通の女の子」として生まれてきた妹と比べて、軽んじられていること。健康のために必要な女性ホルモンの注射代のために、バイトの掛け持ちや援助交際を行っていること。七夏はすべて、受け止めた。

「七夏、これを受け取ってくれる?」

 放課後、教会にて碧は七夏に一本の鍵を差し出した。それは銀色に輝く太い鍵で、マンションや教室などの統一規格な場所に用いられるものではないだろうことは想像に難くなかった。

「これは、どこの鍵なの?」
「ここの鍵だよ。もうずっと使われていない地下室を開けるための鍵」
「どうしてそんなものを持ってるの?」
「最初にこの場所を練習場所にしようって決めたときに見つけたんだ。地下は防空壕だったみたいで、避難施設があるだけなんだけどね。秘密の共有ってドキドキしない?」
「いいね。もらっとく」

 七夏は受け取った鍵を、大切そうに握りしめた。



「城ケ崎先輩って知ってる?」

 ある日の昼時の食堂、少女たちは噂話に花を咲かせていた。七夏は水景と食事をとりながら、彼女らの話に耳をそばだてた。

「知ってる。短期間で彼女をとっかえひっかえしてるんでしょ?」
「彼女って……女同士じゃん。キモ」
「海外ドラマのイケメン俳優同士のBLなら美しくて好きだけど、レズはキモいよねー」
「自分が恋愛対象として見られるかもって思うとキショすぎてやばいわ」

 品性のない笑い声に、七夏は勝ち誇ったような気持ちになった。

(BLはよくて百合はキモいって基準が意味不明すぎ~。だいたいレズだからって女なら誰でもいいわけじゃないし。自分が性的な目で見られたらキモい~とか考えてるような人間のこと好きになるわけないじゃん! 自分が愛されるに値する人間かどうか考えてから発言しなよね~)

 そのうえ、碧は両性具有で心も中性であるので、女性ではない――つまり碧が女性と付き合ったところで、それはレズビアンの定義から外れる。

(ま、それを説明したところで理解できるわけないか。あたしが分かってればいいんだもんね。今までの他のどんな有象無象が碧の一時的な彼女にしかなれなかったとしても、あたしは特別だもん。なにもない凡人じゃない。あたしには愛される価値があるから!)



 七夏の余裕が崩されたのは、彼女が高等部二年の秋頃のことだった。
 いつものように下校時刻前の教会へ赴くと、そこには碧と見慣れぬ少女の姿があった。七夏は思わず建物の陰に隠れて様子を伺った。黒髪を高い位置で左右に三つ編みに束ねた少女の名前を思い出そうとする。

(誰だったっけ。ええと……そうだ、喜多川さんだ。下の名前は思い出せないけど。同じ学年だけどクラスが一緒になったことがないんだよね~……。でも、どうして喜多川さんがここに?)

 七夏がそのまま静観していると、二人の会話が聞こえてきた。

「初瀬は本当に演技が上手だね。今まで見てきた人の中で一番かも」
「お世辞どうもです」
「ほんとつれないね。本心なのに」
「碧先輩は誰にでもいい顔しますからね。今付き合ってる彼女さん、何人目なんです?」
「えー……忘れちゃった。二十……何人だったかな?」
「ほら、そういうところが気持ち悪いんですよ。最低ですね」
「じゃあもう会わなければいいのに」
「僕はあなたの人間性は本当にゴミだと思ってますけど、頑張り屋なところは嫌いではないです。その調子で更生してください」
「ひど! まるでオレが犯罪者みたいじゃん!」
「僕の中で二股は犯罪判定なので」

 二股、という言葉に七夏の心臓が収縮する。全身から音を立てて血の気が引いていくような心地がした。

(二股……? 碧が? あたしは二股されてるの? 喜多川さんと?)

 七夏は考える。しかし、うまくまとまらない。

「初瀬はオレと付き合ってくれないの?」
「誰とでも一線超えちゃうような貞操観念皆無の人とは無理です。今付き合ってる人たち両方と別れて、五年くらい身綺麗にしていてくれたら考えてあげてもいいですよ」
「五年って! オレの若い時代が終わっちゃうじゃん! 長すぎ! なんで五年なの?」
「五年も経てば全身の細胞が入れ替わるらしいですからね。実質誰とも未経験ってくらいになったら考えてあげます」
「初瀬ってば潔癖すぎ~!」

 そう言って喜多川初瀬を小突く碧の表情は、どこか穏やかで嬉しそうだった。そんな様子を見せられて、七夏は敗北を悟った。

(あたし、負けたんだ。喜多川さんに。碧のあんな表情、見たことないもん。あれは、恋してる人の顔だ)



 そして秋は過ぎ去り、十二月がやってきた。世間はクリスマスムード一色で、どこを歩いてもイルミネーションがきらめき、男女のカップルが行き交っていた。その様子を、七夏は忌々しげに眺めていた。
 あれから七夏は演劇部を退部し、碧との交流も絶った。何もかもが憂鬱だった。
 学内演劇主演の座を手にした碧は、日々練習に励んでいた。その様子を七夏が見に行くことはなかった。

 来たる12月24日、午前の部はクリスマスミサが執り行われた。白いガウンに身を包んだ聖歌隊の歌声が、新しくなった教会に響き渡る。キャンドルサービスの最中、水景は七夏に蠟燭の炎を受け渡す。オレンジ色の暖かい光に照らされた金髪の彼女は、美しかった。

(顔だけは最高なのが残念だな……)

 七夏は、冷めた目で彼女を一瞥した。

 午後の部は講堂にて学内演劇が披露された。男装姿を着こなした碧は、高らかに声を張り、その役を演じきった。実に堂々とした振る舞いだった。観客は皆、碧の虜だった。いや、七夏の隣の水景は不服そうではあったが。普段碧のことを「浮気性」「キモい」などと罵っていた少女らも、いっときの非実在性美青年を演じる碧の世界観に引き込まれ、思わず息を呑んでいた。七夏の苛立ちはますます募っていった。
 完璧に演じ上げた碧に、歓声と拍手が巻き起こった。最前列で見ていたらしい喜多川初瀬は、クリスマスローズとポインセチアの大きな花束を碧に差し出した。それを受け取り、高揚した碧は初瀬の頬にキスをしようとしたが、それはクールに躱された。七夏の中で、何かが壊れた音がした。



 放課後になり、七夏は碧のクラスの下駄箱の前で待ち伏せた。のこのことやってきた碧を呼び止める。碧の手には、大きな花束が抱えられていた。七夏はその花の彩りを眺め、微笑みを作る。

「一緒に来てくれる?」

 碧を案内した場所は旧教会の中だった。そこは七夏にとって逢瀬の思い出の場所であり、裏切りの記憶を刻み込まれた場所でもあった。

「懐かしい、ここで一緒に練習したよね」

 碧の何気ない反応が七夏を傷つける。

(たったひと月前まで一緒だったのに、もう「懐かしい」って扱いなんだ)

 そうだね、と答えて七夏は碧に目を向ける。胸元には花束を抱きかかえたままだった。

(邪魔だなぁ)

 七夏はそう思いつつ、声を高くして続けた。

「その花束、綺麗だね。見せてよ」
「うん? いいよ、ほら」

 碧が無邪気に少し掲げて見せる花束は、この季節にぴったりの真っ赤なポインセチアが実に印象的だった。七夏は碧に一歩、二歩接近する。七夏の身体が花束にぴったりくっつきそうなほどに距離を詰め、色鮮やかな花を覗き込む――ふりをした。

「わあ、本当に綺麗」
「……! ……ッ……!?」

 碧は言葉にならない言葉を発する。七夏は隠し持っていたナイフで、花束ごと碧を刺した。碧の身体がぐらりとバランスを失う。碧の両手からは力が失われ、花束を手放してそのまま倒れる。赤い花びらがはらはらと宙を舞った。

「本当に……赤くて、綺麗」

 七夏は、冷たくなってゆく碧を見下ろしていた。