乃彩は大胆なことを口走ってしまったという自覚はあった。

 だが、あの呪いを目にしたとき、すぐさま解呪しなければという気持ちに襲われた。黒い霧のようなものが遼真の身体全体を覆っていたのだ。本人はケロリとしていたが、霊力の弱い者であれば、寝込んでしまってもおかしくないような力である。

 あのまま放っておけば呪いに侵されて死ぬのがわかっていた。無視して通り過ぎればよかったのに、なぜか彼に向かって「結婚してください」と口走ったのは、頭の中でごちゃごちゃと考えすぎた結果なのかもしれない。

 彼に「屋敷に来るか」と言われ、迷うことなく肯定の返事をした。
 車に乗せられて連れていかれた先は、睦月公爵邸。無機質で近代的な卯月公爵邸とは異なり、古き趣を感じる建物であった。左右対称の構造となっており、白漆喰の壁に赤い屋根瓦がかわいらしい。玄関には採光用の窓がとりつけられていて、室内には太陽の光が十分に入り込む。

 部屋は和室と洋間が混在していた。乃彩が通されたのは、一階の日当たりのよい洋室である。
 その場でいろいろと事情を話すと、彼も笑いながら納得してくれた。ほっと胸をなでおろしたものの、解呪の条件を満たすためには、乃彩の両親が障害となる。

 しかし、家族は誰も口にしなかったが、乃彩は十八歳になったばかり。成人の仲間入りをした。となれば、もう好き勝手に結婚できる年齢でもあるのだ。

 親のいいなりで、愛のない結婚を、金のための結婚を繰り返してきたが、今度こそは愛する人と添い遂げられる年齢になった。
 そう思っていた矢先に出会ったのが、遼真だった。

 いろいろと話をして落ち着いたのか、これではあの親とやっていることは同じではないかと思い始めた。反省して遼真に「やっぱり結婚はなかったことにしませんか?」と伝えたところ「お前は、俺に死ねと言っているのか?」と切り返されたのが今のこと。乃彩が婚姻届けに自分の名を書こうとしたところで、ペンを止めたとき。

「……ですが、遼真様には婚約者がいらっしゃるのでは? もしくは心に決められた方とか」
「いない。いたら見合いなんてしない。むしろ、したくもないのにさせられる。会っても結婚するつもりもないのに、会うだけ会うだけと周囲がうるさいんだ。お前が罪悪感を持つのであれば、俺もお前を利用していると思えばいい。女除けと解呪のため」

 口調は乱暴なのに、その言葉の節々に優しさが隠れているような気がした。

 あの両親は優しく声をかけるものの、心が伴っていない。だけど遼真は言葉に棘があるのに、心を感じるのだ。両親とは真逆の彼。

「わかりました。では、わたしも割り切ります。もちろん、一億円を請求したりはしませんので。ご不安でしたら誓約書も書かせていただきます」
「はは、俺の妻は面白い人間だ」

 遼真の手が腰に回され、顔が頬に近づく。

「まだ妻ではありません」

 ピシャリと彼の手を叩くと「俺の妻は照れ屋のようだ」と言って、手を離す。

 その様子を見ていた啓介は、やれやれといった様子で肩をすくめていたことから、いつもこの調子なのだろう。

「よし、書けたな。では、これを出しにいくぞ」
「今からですか?」
「ああ。婚姻届けは二十四時間受け付けているし、何も、そんなに遅い時間ではないだろう?」

 日の入りの時間ではあるが、お役所などは窓口がしまっている時間でもある。

「善は急げ。お前の両親に気づかれる前に動いたほうがいいだろう」

 遼真の指摘はもっともである。門限は七時。それまでに戻らねば、親から連絡がくる。その前に先手を打ちたかった。

「わかりました。では、いきましょう」
「やはり、こういうのは夫婦二人揃っていくものだろ?」
「ですから、まだ夫婦ではありません。それに、遼真様の解呪が終わりましたら離婚しましょう。今までもそうしてきましたので。あ、ついでに離婚届ももらってきたほうがよいかもしれませんね」

 はっきりとした口調で乃彩が言うと、遼真はにやりと口元を歪める。

「残念ながら、俺はお前を手放す気はないよ」
「なっ……」
「お二人とも、仲がよろしいことで喜ばしいのですが。早くいきましょう」
 啓介が間に入ってくれなかったら、遼真とのやりとりがいつまでも終わらなかったかもしれない。




 婚姻届けを出し終えた二人は、卯月公爵邸を訪れていた。乃彩にとっては普段通り、家に帰るといったほうが正しいだろう。

 だが、今は違う。
 通された客室で、テーブルを挟んで両親と対峙している。

「睦月公爵が約束もなしにこのような時間に我が家を訪れるとは、いったいどのようなご用件でしょうか?」
「突然押しかけて申し訳ありません。このたびは結婚の報告をと思いまして」

 琳のこめかみがひくりと動いた。遼真が結婚の報告で屋敷を訪れ、その彼の隣に乃彩がいるのだ。

「乃彩さんと結婚いたしました。今後とも、よきご関係を築けるよう、ご挨拶に伺った次第です」
「乃彩。いったいこれはどういうこと?」

 腕を組みながら、彩音が冷たく言い放つ。

「今の言葉の通りです。このたび、睦月公爵家当主、睦月遼真様と結婚いたしました」
「私たちは同意しておりませんよ?」

 仮面のような笑顔を張り付かせる琳の口調は、いつもとかわらず穏やかだった。

「お父様、お母様。お忘れかもしれませんが、わたしも十八になりました。ですから、好きな方と結婚できる年になったのです」
「好きな人……あなた、もしかして睦月家の当主を好いているとでも言うの?」

 彩音の言葉に乃彩は身体をピクっと震わせた。それでもまっすぐに目の前の二人を見つめる。

「……はい。わたしは、遼真様をお慕いしております。今までは、解呪や治癒のための結婚でしたが、一度くらい、好きな方と結婚したいのです」
「乃彩……あなたの力は『家族』にしか使えないのですよ? 言い換えれば『家族』であれば使えるのです。睦月公爵家の当主を『家族』と認めるのですか?」

 琳の言葉には、ところどころ怒気が含まれていた。

「はい。遼真様はわたしの夫であり、わたしの家族です」

 バンと、琳がテーブルを叩きつける。顔には笑顔の仮面をつけているものの、テーブルの上の拳はふるふると震えていた。

「乃彩。これだけは覚えておきなさい。私たちは愛などで結婚できるような立場にないのです。結婚は家のため。わかりましたか?」

 ふん、と遼真が鼻で笑う。

「わかりました。そちらがそうおっしゃるのなら。卯月家が睦月家と手を結ぶ。そう考えれば、お互いにメリットがあるのでは? 俺だって妻の家族をどうこうしようとするわけではありませんからね。ですが、この結婚を認めてもらえないのであれば、こちらにも考えがあるということです」

 遼真は黙って席を立つと、乃彩に「帰るぞ」と促す。
 乃彩も慌てて立ち上がり「お世話になりました」と両親に頭を下げた。

「乃彩。睦月の家に行くのか?」

 このような琳の声色を知らない。いつだって穏やかで丁寧で、けして感情を表そうとはしない声であったのに。

「はい。わたしは卯月乃彩から睦月乃彩となりました」
「いこう、乃彩」
「はい」

 遼真の手は、自然と乃彩の腰に回ってきた。これだけ密着したら恥ずかしいとさえ思えるのに、今はそのような気にもならない。

 帰る前に自室に戻り必要最小限の荷物だけ詰め込む。

 遼真は黙ってそれを手伝っている。何も言わないほうが逆に助かった。

「お姉ちゃん……」

 顔をあげると、ドアの前に莉乃が立っていた。その両隣には双子の弟がいる。

「家、出ていくの?」
「ええ。結婚したから。今までだって何度も結婚したもの。それとかわらないでしょう?」
「結婚ったって、どうせ治癒のためだったじゃない? 結婚したって、この家にいたくせに。この家から旦那さんのところに通ってたんでしょ? 通い婚だったじゃない」

 遼真が何か反論しかけたところを、乃彩は手で制す。

「それは、治癒のための結婚だったから。今回は違うわ。好きな人と結婚をしたの」

 両親や乃彩の前では遼真を好きな人、愛する人と表現するが、それはその場しのぎの嘘である。さきほど会ったばかりで、好きだのどうのこうのという感情にはならない。

 ただ、彼の呪いを解き、彼の命を救いたいだけなのだ。

「私たちを見捨てるわけ?」
「見捨てはしない。莉乃がわたしを必要としたときは、助けにくるから」

 いくら生意気であっても妹は妹。血の繋がっている家族。それは弟も、もちろん両親も。

「莉乃。ごめんなさい。わたし、これ以上この家にいると、ダメになる……」

 両親はこれからも乃彩の力を金儲けのために使うだろう。そうやって『家族』を増やして『家族』を失うたびに、乃彩の心は悲鳴をあげていた。

 乃彩の力は家族を救うためにある。けして、この力で金儲けをしたいわけじゃない。

「乃彩(ねぇ)……」

 双子の弟たちも、不安そうにこちらを見ている。だけど乃彩は荷造りの手を止めはしなかった。
 荷物でぱんぱんに膨れ上がった鞄を、遼真は黙って手にした。

「ありがとう。さようなら」

 乃彩は妹たちにそう告げると黙って部屋を出る。

「お姉ちゃん!」
「乃彩姉!」

 彼女たちをこの家に置いていくのは、心が痛む。だけど今は、遼真を助けたい。両親は弟妹たちをまだ利用しないだろう。そう、まだ。

 だから遼真を助けるほうが先なのだ。彼の呪いを解いたら彼と離婚して、またこの家に戻ってくればいい。

 そのときにはきっと、遼真も後ろ盾になってくれるはず。彼が言った卯月家と睦月家の結びつきができるはず。

 きゅっと唇を結んで、乃彩は家を出た。
 家の前には啓介の運転する車が止まっていた。

「ここまでくれば、もう大丈夫だろう」
「はい。両親も睦月家が相手だから、下手に動けないと思います。ご協力、感謝いたします」
「なんだって、事務的だな。早く乗れ」

 乃彩の荷物は啓介がさっさとトランクに詰め込んでいた。
 遼真にうながされ、車へと乗る。

 車の中から遠ざかる家を見ると、胸の奥がツンと痛んだ。
 手にあたたかい何かが触れたと思ったら、遼真が手を繋いできた。

「俺たちは夫婦になったんだろ? 妻が悲しんでいたら、それを取り除きたいと思うのは夫の役目じゃないのか?」
「ですがわたしたちは、愛し合って結婚したわけではありません。お互いをお互いに利用するため。わたしはあの両親から離れるために、あなたを利用しました。あなたは解呪のためにわたしを利用する。それでよろしいではありませんか」

 彼は何か言いたげに口を開きかけたが、ふっと鼻で笑うだけだった。




 遼真と結婚したといっても、乃彩にとっては今までの四回の結婚となんら変わりない。解呪のために結婚をしたことに、違いはない。

「遼真様。今、お時間はよろしいでしょうか?」

 彼の部屋の扉をノックすると「入ってこい」と返事があった。

「どうした? 眠れないのか? それとも、結婚した日の初日だからな。初夜をご所望か?」

 風呂上がりの遼真からは、色気が溢れていた。髪の先は濡れており、雫がしたたって、首にかけてあるタオルがそれを吸い込む。

「いいえ。解呪を試してみたいと思いました」
「冗談が通じないやつだな」

 遼真の言葉に、乃彩は淡々と続ける。

「何度も申し上げたはずです。わたしと遼真様の結婚は、遼真様の解呪のため。睦月公爵家の当主が、後継を決めずに亡くなったら、術師界の揉め事の原因となりますから」
「なるほど。だから俺の妻は早く後継を望みたいと?」
「ですから、その呪いを解呪します。そうすれば、遼真様もきっと長生きできるはずです」

 会話がかみ合っているようでかみ合っていない。いや、遼真の言葉をまともに取り合ってはいけないのだ。彼は、乃彩をからかっているだけ。

「俺の妻は、照れ屋だな」
「照れておりません。事実を申し上げているだけです」
「そして、冷たい。これが、塩対応というものか。それもいいな。砂糖だけでは甘みが麻痺してしまう。隠し味的にも塩をいれるしな」

 先ほどから遼真が何を言っているのか、さっぱりわけがわからない。じろりと睨んでから、彼の手をとった。

「では、解呪に入らせていただきます。くれぐれも不埒なことはなさいませんように」

 今までの結婚は、すでに相手がいた男性が多かった。独身だったのは若梅男爵くらいであったが、そのときは彼の妹の治癒を行ったのだ。

「不埒? 不埒とはこういうことか?」

 いきなり遼真が顔を寄せ、乃彩の頬に口づける。

「なっ……!」
「真っ赤になってかわいいな。離婚歴が四回もある女性とは思えない」

 唇が触れた頬を、慌ててごしごしと拭う。

「ひどいな。人を雑菌扱いして」
「不埒なことはなさいませんようにと言ったばかりです。人の話を聞いていなかったのですか?」

 ははっと笑っている遼真には、何を言っても効果はないのかもしれない。

 大げさに息を吐いてから、乃彩は解呪を試みる。

 彼の霊力を探り、それを蝕んでいる原因を突き止める。もやっとした黒い何かを感じ、そこに乃彩の霊力を送り込む。さすがにその間、遼真は乃彩に触れたり変なことを口にしたりはしなかった。

「今日の分は終わりです」

 ふぅと息を吐いて、うっすらとした額の汗をぬぐう。それに気づいた遼真は、肩にかけていたタオルで乃彩の汗を拭きとった。柑橘系の香りがした。

「ありがとう。少しだけ、頭がすっきりした感じがする」
「ですが、この呪いは根が深いです。さすが酒呑童子の呪いなだけありますね。時間がかかりますので、毎日少しずつ、解呪していきます」
「つまり、毎日寝る前に、こうやって俺に会いに来てくれるわけだ。いっそのこと、同じ部屋にしたほうが効率はよいのではないか?」

 遼真が乃彩の手を掴んだが、彼女はじろっと睨んでからその手を振り払った。

「冗談がすぎますよ、遼真様。では、おやすみなさいませ」