い草の香りが漂う和室では欅の一枚板テーブルを挟んで、二組の男女が向かい合って座っていた。
「乃彩さん。では、この離婚届けに名前を書いてください」
背筋を伸ばして膝を揃えて座る男が、一枚の用紙を差し出す。そこにはしっかりと『離婚届』と書いてあり、氏名の『妻』の欄以外はすべてに記載があった。
目の前の元夫となるべき男、日夏徹の隣には、すでに別の女性がいる。彼女は春日部茉依。乃彩と同じ学校に通う女子高生である。
「ありがとう、乃彩。私のこの人を助けてくれて」
茉依がほろりと言葉をこぼした。
その言葉に頷いた乃彩は、離婚届けに今の名を書く。
『氏名、妻:日夏乃彩』
離婚の種別は『協議離婚』、それから戸籍は『元の戸籍に戻る』そこに結婚前の名前――卯月乃彩とペンを走らせた。
「乃彩さん、約二か月間。本当にありがとう」
「本当に乃彩のおかげ。私たちの結婚式には招待するわね。友人の特別席、空けておくから」
目の前の仲睦まじい二人を見ていると、乃彩の顔も自然とほころんだ。
「では、日夏さん。こちらが、卯月家に依頼した内容の内訳になります。金額は、きっかりと一千万」
そう言って割って入ったのは、乃彩の父親でもある卯月家当主の卯月琳。若くして乃彩の父親となった彼は、まだ三十代であり働き盛りの若々しさにくわえ、当主という威厳も持つ。端整な顔つきであるものの、切れ長の目が冷淡な印象を与える。
「え?」
明るかった目の前の二人の表情は一気に曇った。
乃彩も琳が提示したその金額に驚愕する。
「一千万……そんな大金……。それにこれから結婚式を控えていて……」
「乃彩のお友達ですからね。これでもまけたつもりです。一人の女性の人生に離婚歴をつけたのですから、それくらいは安いものですよね?」
金額一千万と書かれた請求書が、テーブルの上にどんと叩きつけられる。
「だって、そうしないと乃彩の力が使えないって聞いたから」
茉依の悲痛な声が響く。
「そうです。卯月家の力は貴重な力。特に乃彩の力は、卯月家始まって以来の力です。鬼からこの国を守っているのは、卯月の力であることを忘れないでいただきたい。そして、その鬼から呪いをかけられ、情けない姿を見せた術師はどこのどいつですか?」
琳の目が細められ、目の前の二人をギロリと睨んだ。
「も、申し訳ありません……。私が、屍鬼の討伐に失敗したばかりに……」
徹が慌てて頭を下げる。
「ええ。わかればいいのですよ、わかれば」
にたりと笑った琳は言葉を続ける。
「日夏徹さん。あなたは術師として屍鬼討伐に参戦し、見事に呪いを受けて帰ってきた。その呪いを解くには、霊力の高い者が解呪を行う必要があった。だけど、身近に霊力を持つ者がいなかった。だから、卯月家に助けを求めた。違いますか?」
「違いません……」
答えた茉依は声と共に身体も震わせる。
「乃彩の力は『家族』にしか使えません。だから、日夏徹さん。あなたは乃彩と結婚して、乃彩と家族になった。ただそれだけのことです。乃彩との結婚に愛はありましたか?」
「……ありません」
掠れた声で、徹は答えた。
わかってはいたけれど、愛はないとはっきり言われてしまえば心にぽっかりと穴が空いたような気分になる。
「つまり、あなた方は乃彩を弄んだわけだ」
「弄ぶだなんて……そんな。私たちは、友達の乃彩に助けを求めただけで……」
「茉依さん。友達のよしみでなんて、そんな甘いことを言っていられる世界ではないのですよ? それに日夏さんは、文月公爵家の分家でしょう? 本来であれば本家の文月家を頼るもの。ですが、文月公爵家でも匙を投げるような状態であったから、この卯月家に泣きついてきたのではありませんか?」
琳が不気味に笑うと、請求書をつつっと彼らの目の前に突きつける。
「誰がなんと言おうと一千万。きっかり支払ってもらいます。これでも十分にまけたつもりなんですけどね?」
そう言った琳の艶やかな唇は、綺麗に弧を描く。
茉依は、憎しみのこもった目で乃彩を睨みつけた。
それでも乃彩は、父親からは相手に弱みを見せてはならないと、何度も注意されていた。
「……乃彩。こんなにお金がかかるなんて、言ってなかったじゃない」
乃彩は何も知らなかったのだ。そして、このような仕事をもってくるのは琳で、報酬額を決めるのも琳なのだ。そこに乃彩の意思などない。言われた仕事をこなすだけ。
「私たち、友達よね? それとも騙したの?」
茉依がそう言うのも無理もないだろう。金額が金額である。
乃彩は否定したかったが、それは許されない。乃彩は切れ長の目で茉依を見つめ返す。
「騙すとは人聞きが悪い」
茉依の言葉にすかさず反応したのは琳。
「私は、最初に申し上げたはずですよ? 解呪にはそれなりの対価が必要になると。今回はお金だけで済んでよかったと思えばいい。場合によっては、五感すら失われることもありますからね。もしくは、その霊力とか……? そうそう、お金がいやならば、霊力でもいいですよ? あですが、そうなった場合、あなた方は術師華族という地位から転落しますけれどね? それに……あなた方の霊力では、大した霊石も作れなさそうだ」
唇をかみしめた茉依は、悔しそうに身体を小刻みに揺らしていた。
この世には、人の悪意を利用する『鬼』がいる。鬼に魅入られた者は、悪意の塊を増長させ、人を騙し人から奪う。奪われるものは大事な人であったり、その命であったり、人以外のものであったりと、さまざまなもの。
鬼からこの国を守るため、各家の術師が手を組んだ。術師とは霊力を備え、鬼のような人ならざるものと対抗できる力を持つ者。この霊力を備えた術師の血筋は、術師華族と呼ばれ術師特有の爵位を持つ。
四大術師公爵のうちの一つ、卯月家。均衡のとれた四大公爵であったが、ここ数年、他の三家よりも頭一つ抜きんでている。
当主の卯月琳には四人の子がいた。長女の乃彩は解呪と癒しの能力に長けており、卯月家が発展したのも彼女のおかげともささやかれている。
「さすが、私たちの自慢の娘ね」
辛うじて十代で乃彩を産んだ母親の彩音は、まだ二十代前半にしか見えない美貌の持ち主である。艶やかな黒髪は真っすぐに腰まで伸びており、まさしく美魔女という言葉が似合う。そんな彼女の手の中にあるのは、札束だ。
両親のこの姿を目にするたびに、乃彩の心はギシギシと軋む音を立てた。
ふっくらとした頬の丸顔の乃彩は、実年齢よりも幼く見えるものの、母親と同じような長い黒髪が彼女の妖艶さを際立たせ、父親と同じ切れ長の目が冷たい印象を与える。
家族団らんの時間。吹き抜けのリビングは解放感にあふれており、ガラス張りの向こう側には夜景が見える。明かりをともす建物によって、夜だというのに空はほんのりと明るい。乃彩はその空をぼんやりと見つめていた。
「だけど、不便よね? 家族にしか使えない能力だなんて」
それは彩音の本心ではない。むしろ、そういった制約があることで能力に価値が高まっているのを喜んでいるのだ。
「ですが、十七歳にして離婚歴が四つもつきました。この先、乃彩がまともな結婚をできるかどうか……それが心配なところですね」
それだって琳の思惑通りであるのに、乃彩を心配する素振りだけ見せる。
「へぇ、お姉ちゃん。また離婚したんだ。それ、慰謝料?」
一つ年下の妹の莉乃は、棒付きアイスを食べながらけらけらと笑う。くせ毛の彼女は、髪を伸ばすとわかめのようになるため、いつもショートヘアにしている。莉乃の髪は琳に似た。
「慰謝料ですか。それを忘れていましたね。まあ、今回は依頼料だけでこれだけふんだくれたのだから、大目にみましょう」
琳の言葉に、莉乃はニヤリと笑う。
乃彩と莉乃。年子の姉妹。術師華族の血筋のみが通うのを許されている、星暦学園の高等部に通っていた。この学園は幼稚舎から大学までの一貫教育を掲げており、普通に勉強をしながらも術師としての霊力を高めるのが目的でもある。
高等部三年の乃彩は、来年は大学への進学を控えている。
だが女性術師は、高等部を卒業したら同じ術師の誰かと結婚するのが一般的で、幼い頃から婚約者が決まっている者も多い。それは、女性術師は術師を育てるのが役目であるからだ。社会的性差をなくそうと叫ばれている昨今、術師界隈の考えはまだまだ古い。
それでも乃彩のように解呪や癒しなど、何かの術に特化している術師は例外でもある。大学へ進学し、さらなる霊力を高め、他の術師の補佐に入ることも許されるのだ。そして両親は乃彩にそれを望んでいた。
むしろ、結婚なんてしなくてもいいと言うかのように――
「で? お姉ちゃん、今回で何回目の離婚だっけ? 四回目? てことはバツが四つついた? その年で?」
ソファの背もたれに限界まで寄り掛かり、足まであげて大げさに笑う莉乃を「行儀が悪い」と咎める者はいない。
「こら、莉乃。誰のおかげでこのような生活ができていると思っているの? 乃彩のおかげでしょう? これからも乃彩には頑張ってもらわなければならないのに、そのような言い方をして」
彩音の口調は、まるで幼子を「めっ」と叱るかのよう。実際に、十歳になった双子の弟を叱るときは、そんな口調である。そして双子たちは、とっくに寝ている。
乃彩は、両親と妹の言葉を右から左へと聞き流した。
彼らにとって、乃彩は金儲けの道具。術師としての解呪と癒しの力を金儲けに使っている。それは、乃彩の力が『家族』にしか使えないからだ。乃彩が解呪し、癒せるのは『家族』のみ。厳密には、二親等以内。祖父母と兄弟、孫まで。乃彩にはまだ子も孫もいないから、実際の範囲は祖父母と両親、そして弟妹のみとなる。
だが霊力の強い乃彩は、他の術師では太刀打ちできない呪いでさえも解呪できるし、瀕死の術師を癒せる。実際に、琳は何度も乃彩に助けられた。
そしてその能力を、他の術師にも使ってほしいという要請がくる。そうなると『家族』という制限が枷になった。
乃彩が十六歳になった頃、突然、琳が乃彩に結婚するようにと言い出した。この国では術師華族のみ、十六歳になれば結婚が認められているからだ。これも古い考えを引きずっているようなもの。
しかし、成人は十八歳であるし、術師華族以外の者は十八歳にならないと結婚ができない。その間の術師華族の結婚は、親の同意が必要となる。
はじめての乃彩の結婚相手は卯月の分家である桜内侯爵家の当主であった。
年は三十歳を過ぎていて、むしろ父親に近い年齢である。彼は術師として屍鬼討伐に参戦し、瀕死の重傷を負った。呪術医の手にも負えず、何もしなければ一日以内に亡くなってしまうような、治療を施しても数日以内に亡くなるような、そんな状態だった。
その彼を助けるために、今すぐ結婚するようにと琳が言った。結婚すれば、桜内侯爵は乃彩の『家族』になる。
しかし桜内侯爵はすでに結婚をしており、幼い子もいた。それなのに彼を助けるため、彼の妻は一度離婚をし、乃彩と桜内侯爵の結婚を認めると言うのだ。それで彼の命が助かるならば、と。
そこまで決意した桜内侯爵夫人を、乃彩は見捨てることができなかった。
両親と侯爵夫人にうながされ、乃彩はすぐに桜内侯爵と婚姻の手続きをとった。彼の呪いが解け、怪我が治癒したら離婚することを前提に。
つまり、結婚の約束を婚約というならば、離婚の約束をした離婚約と呼ばれるものである。
高校生でもある乃彩は、学校の帰りに桜内侯爵家の屋敷へと寄る。そこで侯爵に解呪と治癒を施し、それが終わると自宅に戻る。結婚したといっても、本当に書類だけの家族。書類上は卯月乃彩から桜内乃彩に変わったが、学校では卯月のままで通していた。これは、学校側も特例で認めた。むしろ、四大公爵家の卯月家に逆らってはならないと、そんな通達が出ていたのかもしれない。
それでも乃彩が結婚している事実は、あっという間に学校中に広がる。
そして結婚して二か月後――
乃彩は桜内侯爵と離婚した。乃彩の懸命な治癒行為によって、起き上がって動き回れるまで回復したためである。
乃彩と離婚した桜内侯爵は、元サヤに戻るだけ。それも書類上だけの話で、あの屋敷内では書類上は赤の他人の男女が暮らしていたのだ。
桜内侯爵も侯爵夫人も、乃彩に感謝した。感謝してもしきれないというような、それだけ熱い言葉をかけてもらった。
しかしその数日後、琳が桜内侯爵家に莫大な報酬を請求していた事実を知る。
それからしばらくして、琳は乃彩に、若梅男爵と結婚するようにと命じてきた。若梅男爵は幸いにも独身であった。乃彩の能力を欲していたのは、若梅男爵の妹である。産後の肥立ちが悪いところに、霊力が不安定となり、生死の境目をさ迷っていた。
他の術師が治癒に挑むものの、なぜか彼女との霊力の相性が悪かった。そこで呼ばれたのが乃彩なのだ。若梅男爵と結婚することで、その妹も『家族』になる。産まれたばかりの彼女の赤ん坊を母なき子にしないためにも、乃彩は治療を施した。
さらに一か月後、乃彩は離婚した。若梅男爵のほうは、本人も独身であったことから、この婚姻関係を続けたかったようだが、それを断固として断ったのは琳と彩音だ。
乃彩が結婚してしまうと、乃彩の力を自由に利用できないから。
若梅男爵はかなり渋ったようだが、当初との契約違反をするのであれば多額の違約金を請求すると琳がつきつけたことで、彼も離婚届に判を押した。あの違約金を支払う財力など、若梅男爵にないのを知っていて、琳は提示したのだ。
三回目の結婚は、乃彩が十七歳になってから、高等部二年のときである。やはり、解呪のために結婚をして、それが終わると離婚した。
だから、今回は四回目だった。
同じクラスの春日部茉依は、高等部卒業後は、婚約者の日夏徹と結婚する予定であった。他にもそう言った同級生は何人かいたし、それが珍しいことでもなんでもない。むしろ女性術師は二十歳までに結婚しないと、いき遅れとか影でこそこそと言われ始める。
その茉依が乃彩に泣きついてきたのは、今から三か月ほど前。
今年で二十四歳になった徹は、街中を荒らす屍鬼の討伐隊の招集を受け、それに参戦した。屍鬼とは死者にとりつく鬼のこと。屍鬼は死体にとりつき、死体を己の身体として、人間を狩る。
その日は満月で、屍鬼を一か所の廃工場にまで追い込んだまではよかった。その廃工場に結界を張って、外部へ影響を出さぬようにしながら屍鬼を倒す。
しかしその屍鬼の力が思っていたよりも強く、徹は大怪我を負った。他にもちらほらと怪我人は出たようだが、その中でも徹だけが重傷であった。
茉依は卯月家の噂を耳にしたのだろう。徹を助けてほしいと、乃彩に泣きついてきた。乃彩にはそれを決める権限がない。だから、父親に相談してほしいとだけ告げる。
その結果、乃彩が四度目の結婚をすることになったのだから、琳と茉依の間で契約が成立したにちがいない。そのときに、報酬について話が出たはずなのだが。
しかしあのときの二人の驚きようを思い出すと、この金額を支払う必要はないと思っていたのかもしれない。琳も言ったように、今回の報酬は彼には珍しく値引きされている。
たいてい、婚姻関係が一か月につき一千万円を要求する。徹との場合はそれが二か月だったから、単純に見積もっても二千万円。それが半額なのは、どういった琳の意図があるのか。
それだけ法外な金額をふっかけるのは、乃彩に離婚歴がつくからだ、と琳は口にしている。本来であれば、乃彩の力に頼らないのが一番よい。乃彩の力は卯月家のためにあると、彼はよく言っていた。
実際、十六歳になるまでは乃彩は琳と彩音のみにその力を使っていた。双子の弟たちが術師として仕事をこなすようになれば、きっと彼らにも使うときがくると、そう思っていた力である。『家族』を守るためにある力。
それをこのような方法で、他の者に使う日が来るとは思ってもいなかった。
茉依は怒っているだろうか――
この札束も、二人の結婚式のために用意されていたものだろう。親や親戚に泣きついたようだと、そんな話も聞こえてきた。
卯月家の癒しの力を私的に使おうとしたから仕方ないと言う者もいれば、彼らに同情的な声も聞こえてくる。
挙句、卯月公爵は金にがめついだの、娘を金のために利用しているだの。それは、真実だから仕方ないのだが、口にすれば何をされるかわからないので黙っておく。
教室に入ると、いつもと違った視線が向けられた。人の顔を見ては、他の人とこそこそと何かを話す同級生たち。
この状況はよくない兆候である。
過去にも何度か経験をしたことがあった。そのときはまだ祖父母も健在であったし、卯月公爵家の権力をかざせば加害者の親が動いて事なきを得た。
しかし今は違う。祖父母は亡くなり、今の卯月公爵家は金の猛者に成り代わっている。
――ビッチ。
そんな声が聞こえてきた。それがよくない言葉であり、乃彩を誹謗しているのはわかる。
――いったい、何人旦那がいるんだよ。
くすくすと漏れ出る笑い声。その笑い声の中心には、茉依の姿があった。それを見て見ぬふりをして、席につく。
自分の机にあからさまな嫌がらせをされていないことだけを確認して、鞄を机にかけた。
でもあと半年。半年すればこの学校から解放される。両親は乃彩を大学へと進学させたがっているが、乃彩としてはまだ何も考えていない。そのまま、両親の望むまま大学へ進もうとしていたが、最近ではその気持ちすらぽっきりと折れ始めている。
両親は乃彩を術師としてではなく、我が子としてでもなく、ただの金のなる木とでも思っているのだ。
彼らは乃彩に誕生日がきたことさえ、覚えていない。
チャイムが鳴って、教師が教室にやって来た。
授業の合間は平穏な時間が過ぎる。問題はそれとそれの間の時間。あとは、学校が終わってからで。
「の~あちゃん。俺と、結婚しよ?」
昇降口でそう声をかけてきたのは、睦月公爵家分家の男であり、同じクラスで同級生でもある。
「のあちゃんさ。高等部卒業したらどうするの? 結婚しないの? 婚約者もいないでしょ? 俺なんかどう?」
術師としては下の上といったところだろう。彼の父親の爵位は子爵だったはず。となれば両親が許すはずがない。
「わたしを誰だと思っているの? あなたのような霊力の乏しい術者が軽々しく声をかけていいとでも? あまりにもおいたがすぎるようなら、睦月公爵家に抗議をいれますけれど、いかがいたしましょう?」
どうせ嫌われているのだ。これ以上嫌われようが、どうだっていい。
それを実感し始めたのは、高等部に入ってから。
それでも卯月公爵家という後ろ盾があって、こんなあからさまに声をかけてくる者はいなかった。
状況がかわっているのかもしれない。考えられるのは、四大公爵家の力関係である。
「ちっ、このビッチが調子にのりやがって」
どうやら朝に聞こえてきたビッチという言葉を使ったのは、彼のようだ。その言葉さえ口にすれば、乃彩が傷つくとでも思っているのだろうか。
「調子にのっているのはどちらかしら? 茉依に何を吹き込まれたのか知りませんが、わたしの能力を利用したのは茉依のほうよ。それにあなたが同じような目にあったとしても、わたしの能力は絶対にあなたには使わない。それだけは、覚えておいてくださいね」
トントンとつま先を鳴らしてから、乃彩は歩き出す。弱みを見せてはならないと、両親はきつく乃彩に言っていた。
最近は、迎えの車を断っていた。一人で歩いて帰りたかったからだ。この時間だけが、他人の目から解放される時間だと思っている。
昇降口を出た瞬間、空の青さに目を細くする。この瞬間が、一番好きだった。空は二度と同じ顔を見せない。明日はどんな空になるだろうと、そう考えながら帰路につく。
乃彩の能力に目覚めたのは、十歳のときだった。そのころはまだ祖父母も健在であり、琳も術師として鬼や屍鬼の討伐に駆り出されていた。
ある日、琳が大きな怪我をして呪術医院へと運ばれた。もちろん、討伐中に負った怪我である。術師が怪我をした場合、その怪我には鬼の妖力が練り込まれている場合がある。その妖力を取り除く必要があるため、普通の病院ではなく呪術医院での治療が必要となる。
この妖力が強かった場合、心身共に蝕んでいき、それが呪いとなる。
乃彩が琳の入院する呪術医院に呼び出されたのは、吐く息も白くなる凍り付くような早朝だった。琳が生死の境目をさまよっていた。
真っ白い病室でベッドに横たわる琳は、たくさんの管に繋がれていた。
『お父さん……』
ひんやりとする手を握って、乃彩は父親を想った。
『お父さん、死なないで!』
握られた手が光った。祖父母も驚き、彩音は目をしっかりと見開き、幼い弟妹は母親の足にひしっとくっついていた。
『お父さん?』
開けられることのなかった琳の瞼が、ゆっくりと開いた。
『おはようございます。今日はみんな集まって、何かのお祝いごとですか?』
そんなのんきな言葉を発して、悲しみに暮れていた家族の涙を引っ込ませた。
だが、乃彩の祖父母はそのときに乃彩の能力に気がついた。琳の退院とともに、乃彩は呪術師協会の本部へと連れていかれた。
術師協会とは四大公爵の当主たちを頂点とし、術師界の秩序と統一を図る組織であり、術師華族たちは必ずこの協会に属している。
そこで乃彩に治癒と解呪の能力があり、霊力が他の術師よりも高いことが認められた。
しかし、その能力が家族以外の者に使えないとわかったのも、それからすぐだった。だから、乃彩は『家族』のために能力を使った。
それが変わったのは、祖父母が屍鬼によって命を奪われてから。琳が卯月公爵家の当主となってから。さらに乃彩が十六歳の誕生日を迎え、結婚ができるようになってから。
変化点は一気に訪れたのだ――
そんなことを考えながら、背筋を伸ばして歩いていると、すれ違った男性におもわず目を奪われた。
太陽の下で輝く髪は、少し色素が薄いのか、金色にも見える。すっきりとした鼻梁に力強い茶色の瞳。彼とすれ違う女性は、思わず振り返るような目立つ容姿。
しかし乃彩が彼に目を奪われたのは、別の理由がある。カツカツと速足で彼に追いつき、その手首を掴む。
「あの……」
突然現れた制服姿の女子高生に、彼も驚きを隠せないのか目を見開いた。
「わたしと結婚してください」
目の前の女子高生を睦月遼真は見下ろした。その制服は遼真もよく知っている星暦学園のものである。となれば、彼女は術師華族。立ち居振る舞いと容姿からも、それなりの家柄と推測する。
けれども、いきなり遼真の手を掴んで「わたしと結婚してください」というのは、新手の軟派だろうか。
彼女の力強い瞳は、しっかりと遼真を見つめている。
「お前、名前は?」
「失礼いたしました。わたし、卯月乃彩と申します」
そう名乗った彼女であるが、遼真の手を離そうとはしない。
「卯月公爵家の?」
「長女です」
術師華族の四大公爵家の一つの卯月家。最近はいい噂を聞かない。それよりも、最近の彼らの行動には目にあまるものがあった。
娘を利用して、他家から金銭をむしり取っている――
それが噂であるか事実であるかを確認するため、卯月公爵を問い詰めたものの、穏やかな口調でのらりくらりとかわされたのは、つい先日のこと。
「お前、俺を睦月の者と知っていて声をかけたのか?」
卯月公爵家の長女であれば、あの噂の娘かもしれない。しかし、彼女の目は真ん丸になった。
「あ……も、申し訳ありません。睦月公爵家の血筋の方?」
彼女の様子を目にすれば、本当に遼真のことを知らなかったのだろう。術師協会に顔を出すようになるのは、成人してからだ。いくら術師であっても、未成年は協会に出入りできない。
遼真が睦月公爵を継承したのは今から一年半前、大学を卒業してすぐのことだった。その場に乃彩はいなかっただろうから、遼真の顔を知らなくても仕方あるまい。協会に入らなければ、術師同士、顔を合わせる機会もそうそうないのだ。生徒であればなおのこと。生徒同士、同じ学園の建屋で顔を見るだけ。
「俺が睦月公爵家当主、睦月遼真だが?」
彼女はひゅっと息を呑んだ。名前くらいは知っていたのだろう。だが、遼真を知らずに声をかけてきたようだ。
「……あっ」
はくはくと口を開けている彼女を見ると、庭の池の鯉を思い出す。
「お前は、卯月公爵から睦月家に入り込むようにとでも言われた……わけではなさそうだな」
そうであれば、遼真の名を聞いてここまで驚かないだろう。
「申し訳ありません。たいへん失礼いたしました」
彼女は遼真の手を掴んだままであり、やはりその手を解放する気はないようだ。
「この手を離してくれないか?」
小動物のようにふるふると首を横に振る。
「お前、そんなに俺と結婚したいのか?」
苦笑しながら遼真が尋ねると、乃彩は困ったように目尻を下げる。
神秘的な美少女といった印象を受けたが、ふとゆるんだ表情は年齢よりも幼く見えた。
「あの非常に言いにくいのですが……遼真様は、呪われていらっしゃいますよね?」
遼真は、その事実を誤魔化すかのように、周囲を大きく見回す。
「すまない。その話はここでするようなものではない……俺の屋敷に来るか?」
その言葉に、乃彩はゆっくりと頷いた。
どちらにしろ、遼真は今、屋敷に戻ろうとしていたところなのだ。ただ、彼女と並んで歩くと人の目が気になる。
遼真自身も他人から注目されやすい容姿をしているが、彼女も目を惹く。背筋が伸びて姿勢よく、艶やかな黒髪はまっすぐに背中に届き、まるで日本人形が制服を着て歩いているような感じである。
そのような彼女と遼真が並んで歩くと目立つ。
今も、人の視線に晒されないようにと気をつかって歩いていたというのに。さらにこのやりとりだけであっても、チラチラとこちらを気にしている人たちはいた。
仕方なくスマートホンを取り出して車を呼ぶ。この車から逃げていたはずなのに、自ら檻に戻った飼い犬の気分である。
「……啓介か? 車を頼む。場所は……」
用件を告げる前も告げたあとも、スマートホンの向こう側では相手がぎゃぁぎゃぁと文句を言っていた。だから必要最小限だけの会話にして、通話を切った。
「今、迎えがくる。俺もお前も、あまり外を出歩いてはならない人種のようだな」
遼真の言葉に、乃彩は首を傾げたものの、手を離してはくれなかった。
すぐに車はやってきた。後部座席に乃彩を押し込めて、屋敷へと向かう。
「遼真様。見合いをすっぽかして、軟派ですか?」
それは車を運転している冬月啓介の言葉である。
「うるさい、黙っていろ」
遼真がそうやって暴言を吐けるのも、啓介が信頼のおける人物だからだ。むしろ彼も遼真のこの言葉に慣れている。
やれやれとでも言いたそうな雰囲気が、ミラー越しに伝わってきた。
「それで、お前はいつまで俺の手をそうやって掴んでいるつもりなんだ?」
「ごめんなさい。一応、解呪を試みているつもりなのですが。やはり、遼真様はわたしの『家族』ではないので、うまくいきそうになくて……」
「解呪……そうだ、お前。俺が呪いを受けていることに気がついたんだよな?」
遼真が落ち着いた口調で告げると、乃彩はこくっと頷く。
「この呪い、霊力の弱いものは気づかない。それに、解呪もできない」
「睦月公爵家の当主様を呪うような相手とは、いったい……。それに、妖力も強い?」
遼真の手をさわさわと触れながら、彼女は目を細くした。呪いの根源となっている妖力を探っているようだ。
「……この、妖力……」
彼女の言葉の先を遼真が奪う。
「ああ、屍鬼のものじゃない。それの親玉、鬼の呪いだな」
「……もしかして、酒呑童子の呪い?」
彼女が口にしたのは、鬼の頭領の名でもある。遼真は自嘲気味に笑うものの、その呪いを感じ取った乃彩の霊力は興味深い。
「そうだ。不覚をとった」
「遼真様は酒呑童子とお会いになられた?」
「いや?」
遼真は呪いを受けた経緯をかいつまんで話した。
「つまり、贈り物を開封した途端、呪われたと?」
「ああ、油断していた俺の落ち度ではある」
ただでさえ、遼真が公爵位に就いたことを面白くないと思っている術師は多い。それに、鬼たちにとっては、年若い公爵は絶好の鴨でもある。経験も浅く、霊力も安定していないためだ。
遼真に呪いをかけたのが同じ術師か、はたまた鬼かはわからないが、こうやって酒呑童子の呪いをかけた。ただの呪いではない。霊力の弱い術者では、遼真が呪われていることすら気づかない。そういった緻密に術式が組み込まれている呪いである。
「ですが、この呪い……遼真様はお気づきですか?」
「何をだ?」
遼真の声が冷ややかになるのも仕方ない。ただでさえ、厄介な呪いであるため、少しでも情報は欲しい。
「この呪いは、遼真様の霊力と生命力を徐々に奪っていきます」
呪いは肉体を傷つける行為と併用されるのが多い。怪我をした場所から妖力が体内へと入り込み、その妖力を全身へと送り込む。妖力によって体内が侵される現象が呪いなのだ。
「まあ、呪いだからそうなるだろう。だが、俺は怪我をしていないし何も心配ない」
「いえ……遼真様は、あと一か月の命です」
ガタッと車は急ブレーキで止まった。
「おい、啓介。何をやっている」
「申し訳ありません。目の前を猫が横切ったもので」
その言葉の真偽を問い質すのはやめておこう。それよりも、乃彩の言葉のほうが気になる。
「……どういうことだ?」
「もし、わたしの言葉が信じられないのであれば、睦月の分家には呪いに詳しい家があったはずです。確か……冬月家? そちらの方にも視ていただいたほうがよろしいかと」
その息子なら目の前で車を運転している。だが啓介は遼真の呪いは知っているものの、それを解呪できる霊力など持ち合わせていないし、その命が一か月以内であるとも言っていない。
「ああ、わかった。すぐに冬月に視てもらう」
けして乃彩の言葉を信じなかったわけではない。ただ、信じられないという気持ちが働いたのだ。
屋敷に着くと、すぐさま啓介の父親を呼んだ。
応接室で彼の到着を待ちながら、乃彩の話を聞く。
「つまり、お前が俺に求婚したのは『家族』になる必要があるからだと?」
「……はい。遼真様の呪いをわたしが祓うためには、遼真様と家族にならなければなりません。わたしの力は、家族にしか使えないので」
そこで遼真は腑に落ちた。ちらほらと聞こえてきた卯月家の娘の話。そして、報酬の件。今の乃彩の話を聞けば、つながるものがある。
「もしかしてお前。今までもそうやって解呪やら治癒やらをしてきたのか? その、術師たちに」
「はい」
乃彩はしっかりと頷いた。
そこへ、ドタドタと足音を立てて白衣姿の冬月がやってくる。彼は呪術医である。
「遼真様。いったいどのようなご用件で? 今日はお見合いだったはずでは?」
きょとんとした顔で、冬月はずれ落ちた眼鏡を押し上げる。
「冬月。俺にかけられている呪いを視てくれ」
彼は驚いたように息子の啓介に視線を向け、厳しく問いただす。
「啓介。遼真様の呪いとはいったい、なんなんだ?」
「冬月。そう声を荒らげるものではない。お前に黙っておけと言ったのは、俺だから」
父親と遼真に挟まれた啓介は居たたまれないのか、身体を小さくしている。
「ですがね。なんのために啓介を遼真様のお側においているのか、お考えください。遼真様のことを逐一、私に告げ口するためですよ」
冬月は遼真の手をとり、目を閉じて何やら呟く。しばらくの間そうしてから、かっと目を見開いた。
言いにくそうに、不自然に身体を動かしている。
「どうだ? 俺の命はあと一か月か?」
「ご存知だったのですか? この呪い……鬼の妖力? とてつもなく強い力を感じます。早く解呪をしなければ、遼真様の命はあと一か月で妖力に呑み込まれます」
「なるほど。では、解呪師を手配しよう。お前が知っているもっとも腕のいい解呪師をここに呼んでくれ」
冬月は黙ったままで、何も言わない。困っているようにも見えるし、悩んでいるようにも見える。
「私が知る限り、この呪いを解呪できるのは卯月公爵家くらいでしょう」
「なら、問題ない」
遼真がさらりと答えると、冬月は眉間に力をこめて深くしわを刻む。
「卯月の娘ならそこにいる」
その言葉に合わせて乃彩は深く頭を下げると、黒い髪も一緒に揺れ動く。一つ一つの所作が整っており、つい目を奪われる。
「もしかして、遼真様のお見合いの相手……は、分家の侯爵家だったはず……。え? お見合い、すっぽかして、女子高生と逢引ですか?」
親も親なら子も子であり、遼真にこのような口をきけるのも冬月親子くらいしかいない。
「ちがう。いいから黙って聞け」
遼真は乃彩から聞いた話を、要点だけおさえて冬月に伝える。
その結果、彼は眼鏡を外して目頭を押さえていた。
「なんて、むごい……乃彩様の力を金のために利用していたと……それでも彼らは乃彩様の親ですか! それでは、毒親じゃないですか」
冬月の悲痛な叫びに、乃彩は少しだけ眉尻を下げる。冬月には啓介という息子がいるからこそ、親としての痛みがあるのかもしれない。
「……だから、俺は彼女と結婚しようと思う」
遼真の言葉に冬月も啓介も目と口を大きく開けるが、乃彩だけはやわらかく微笑んでいる。その間も、遼真の手を握っていた。
「ですが、乃彩様は未成年では? いくら術師華族であっても、未成年の結婚には親の同意が必要なはず。乃彩様と遼真様の婚姻では、あの親が許さないのではないですか? もしくは一億とかふっかけそうですよね」
ははっと冬月は笑うが、その言葉が真実味を帯びているのが怖い。そもそも四大公爵の関係は仲良しこよしというものではない。互いに互いを見張るような、それで釣り合いがとれている関係なのだ。
「わたし、十八歳になりました。ですから、わたしの意思で結婚できます。もう、あの人たちの許しなどいらないのです」
乃彩は生徒手帳を制服から取り出し、遼真に手渡す。そこには彼女の誕生日が書かれており、その日付は昨日だった。
彼女が涙を見せたわけではない。それでも、彼女が泣いているような気がした。
「逆プロポーズも悪くないな。よし、結婚するぞ。啓介、今すぐに準備してくれ。冬月は自分の仕事に戻っていい」
「仕事に戻っていいって。この状況で戻れるわけがないでしょう? 啓介は急いで乃彩様の部屋の準備を。他の使用人たちにも声をかけて。私は婚姻手続きの書類関係を準備します」
慌てて彼らが部屋を出ていくが、乃彩は少しだけ身体を震えさせながら、遼真の手をしっかりと握っていた。
乃彩は大胆なことを口走ってしまったという自覚はあった。
だが、あの呪いを目にしたとき、すぐさま解呪しなければという気持ちに襲われた。黒い霧のようなものが遼真の身体全体を覆っていたのだ。本人はケロリとしていたが、霊力の弱い者であれば、寝込んでしまってもおかしくないような力である。
あのまま放っておけば呪いに侵されて死ぬのがわかっていた。無視して通り過ぎればよかったのに、なぜか彼に向かって「結婚してください」と口走ったのは、頭の中でごちゃごちゃと考えすぎた結果なのかもしれない。
彼に「屋敷に来るか」と言われ、迷うことなく肯定の返事をした。
車に乗せられて連れていかれた先は、睦月公爵邸。無機質で近代的な卯月公爵邸とは異なり、古き趣を感じる建物であった。左右対称の構造となっており、白漆喰の壁に赤い屋根瓦がかわいらしい。玄関には採光用の窓がとりつけられていて、室内には太陽の光が十分に入り込む。
部屋は和室と洋間が混在していた。乃彩が通されたのは、一階の日当たりのよい洋室である。
その場でいろいろと事情を話すと、彼も笑いながら納得してくれた。ほっと胸をなでおろしたものの、解呪の条件を満たすためには、乃彩の両親が障害となる。
しかし、家族は誰も口にしなかったが、乃彩は十八歳になったばかり。成人の仲間入りをした。となれば、もう好き勝手に結婚できる年齢でもあるのだ。
親のいいなりで、愛のない結婚を、金のための結婚を繰り返してきたが、今度こそは愛する人と添い遂げられる年齢になった。
そう思っていた矢先に出会ったのが、遼真だった。
いろいろと話をして落ち着いたのか、これではあの親とやっていることは同じではないかと思い始めた。反省して遼真に「やっぱり結婚はなかったことにしませんか?」と伝えたところ「お前は、俺に死ねと言っているのか?」と切り返されたのが今のこと。乃彩が婚姻届けに自分の名を書こうとしたところで、ペンを止めたとき。
「……ですが、遼真様には婚約者がいらっしゃるのでは? もしくは心に決められた方とか」
「いない。いたら見合いなんてしない。むしろ、したくもないのにさせられる。会っても結婚するつもりもないのに、会うだけ会うだけと周囲がうるさいんだ。お前が罪悪感を持つのであれば、俺もお前を利用していると思えばいい。女除けと解呪のため」
口調は乱暴なのに、その言葉の節々に優しさが隠れているような気がした。
あの両親は優しく声をかけるものの、心が伴っていない。だけど遼真は言葉に棘があるのに、心を感じるのだ。両親とは真逆の彼。
「わかりました。では、わたしも割り切ります。もちろん、一億円を請求したりはしませんので。ご不安でしたら誓約書も書かせていただきます」
「はは、俺の妻は面白い人間だ」
遼真の手が腰に回され、顔が頬に近づく。
「まだ妻ではありません」
ピシャリと彼の手を叩くと「俺の妻は照れ屋のようだ」と言って、手を離す。
その様子を見ていた啓介は、やれやれといった様子で肩をすくめていたことから、いつもこの調子なのだろう。
「よし、書けたな。では、これを出しにいくぞ」
「今からですか?」
「ああ。婚姻届けは二十四時間受け付けているし、何も、そんなに遅い時間ではないだろう?」
日の入りの時間ではあるが、お役所などは窓口がしまっている時間でもある。
「善は急げ。お前の両親に気づかれる前に動いたほうがいいだろう」
遼真の指摘はもっともである。門限は七時。それまでに戻らねば、親から連絡がくる。その前に先手を打ちたかった。
「わかりました。では、いきましょう」
「やはり、こういうのは夫婦二人揃っていくものだろ?」
「ですから、まだ夫婦ではありません。それに、遼真様の解呪が終わりましたら離婚しましょう。今までもそうしてきましたので。あ、ついでに離婚届ももらってきたほうがよいかもしれませんね」
はっきりとした口調で乃彩が言うと、遼真はにやりと口元を歪める。
「残念ながら、俺はお前を手放す気はないよ」
「なっ……」
「お二人とも、仲がよろしいことで喜ばしいのですが。早くいきましょう」
啓介が間に入ってくれなかったら、遼真とのやりとりがいつまでも終わらなかったかもしれない。
婚姻届けを出し終えた二人は、卯月公爵邸を訪れていた。乃彩にとっては普段通り、家に帰るといったほうが正しいだろう。
だが、今は違う。
通された客室で、テーブルを挟んで両親と対峙している。
「睦月公爵が約束もなしにこのような時間に我が家を訪れるとは、いったいどのようなご用件でしょうか?」
「突然押しかけて申し訳ありません。このたびは結婚の報告をと思いまして」
琳のこめかみがひくりと動いた。遼真が結婚の報告で屋敷を訪れ、その彼の隣に乃彩がいるのだ。
「乃彩さんと結婚いたしました。今後とも、よきご関係を築けるよう、ご挨拶に伺った次第です」
「乃彩。いったいこれはどういうこと?」
腕を組みながら、彩音が冷たく言い放つ。
「今の言葉の通りです。このたび、睦月公爵家当主、睦月遼真様と結婚いたしました」
「私たちは同意しておりませんよ?」
仮面のような笑顔を張り付かせる琳の口調は、いつもとかわらず穏やかだった。
「お父様、お母様。お忘れかもしれませんが、わたしも十八になりました。ですから、好きな方と結婚できる年になったのです」
「好きな人……あなた、もしかして睦月家の当主を好いているとでも言うの?」
彩音の言葉に乃彩は身体をピクっと震わせた。それでもまっすぐに目の前の二人を見つめる。
「……はい。わたしは、遼真様をお慕いしております。今までは、解呪や治癒のための結婚でしたが、一度くらい、好きな方と結婚したいのです」
「乃彩……あなたの力は『家族』にしか使えないのですよ? 言い換えれば『家族』であれば使えるのです。睦月公爵家の当主を『家族』と認めるのですか?」
琳の言葉には、ところどころ怒気が含まれていた。
「はい。遼真様はわたしの夫であり、わたしの家族です」
バンと、琳がテーブルを叩きつける。顔には笑顔の仮面をつけているものの、テーブルの上の拳はふるふると震えていた。
「乃彩。これだけは覚えておきなさい。私たちは愛などで結婚できるような立場にないのです。結婚は家のため。わかりましたか?」
ふん、と遼真が鼻で笑う。
「わかりました。そちらがそうおっしゃるのなら。卯月家が睦月家と手を結ぶ。そう考えれば、お互いにメリットがあるのでは? 俺だって妻の家族をどうこうしようとするわけではありませんからね。ですが、この結婚を認めてもらえないのであれば、こちらにも考えがあるということです」
遼真は黙って席を立つと、乃彩に「帰るぞ」と促す。
乃彩も慌てて立ち上がり「お世話になりました」と両親に頭を下げた。
「乃彩。睦月の家に行くのか?」
このような琳の声色を知らない。いつだって穏やかで丁寧で、けして感情を表そうとはしない声であったのに。
「はい。わたしは卯月乃彩から睦月乃彩となりました」
「いこう、乃彩」
「はい」
遼真の手は、自然と乃彩の腰に回ってきた。これだけ密着したら恥ずかしいとさえ思えるのに、今はそのような気にもならない。
帰る前に自室に戻り必要最小限の荷物だけ詰め込む。
遼真は黙ってそれを手伝っている。何も言わないほうが逆に助かった。
「お姉ちゃん……」
顔をあげると、ドアの前に莉乃が立っていた。その両隣には双子の弟がいる。
「家、出ていくの?」
「ええ。結婚したから。今までだって何度も結婚したもの。それとかわらないでしょう?」
「結婚ったって、どうせ治癒のためだったじゃない? 結婚したって、この家にいたくせに。この家から旦那さんのところに通ってたんでしょ? 通い婚だったじゃない」
遼真が何か反論しかけたところを、乃彩は手で制す。
「それは、治癒のための結婚だったから。今回は違うわ。好きな人と結婚をしたの」
両親や乃彩の前では遼真を好きな人、愛する人と表現するが、それはその場しのぎの嘘である。さきほど会ったばかりで、好きだのどうのこうのという感情にはならない。
ただ、彼の呪いを解き、彼の命を救いたいだけなのだ。
「私たちを見捨てるわけ?」
「見捨てはしない。莉乃がわたしを必要としたときは、助けにくるから」
いくら生意気であっても妹は妹。血の繋がっている家族。それは弟も、もちろん両親も。
「莉乃。ごめんなさい。わたし、これ以上この家にいると、ダメになる……」
両親はこれからも乃彩の力を金儲けのために使うだろう。そうやって『家族』を増やして『家族』を失うたびに、乃彩の心は悲鳴をあげていた。
乃彩の力は家族を救うためにある。けして、この力で金儲けをしたいわけじゃない。
「乃彩姉……」
双子の弟たちも、不安そうにこちらを見ている。だけど乃彩は荷造りの手を止めはしなかった。
荷物でぱんぱんに膨れ上がった鞄を、遼真は黙って手にした。
「ありがとう。さようなら」
乃彩は妹たちにそう告げると黙って部屋を出る。
「お姉ちゃん!」
「乃彩姉!」
彼女たちをこの家に置いていくのは、心が痛む。だけど今は、遼真を助けたい。両親は弟妹たちをまだ利用しないだろう。そう、まだ。
だから遼真を助けるほうが先なのだ。彼の呪いを解いたら彼と離婚して、またこの家に戻ってくればいい。
そのときにはきっと、遼真も後ろ盾になってくれるはず。彼が言った卯月家と睦月家の結びつきができるはず。
きゅっと唇を結んで、乃彩は家を出た。
家の前には啓介の運転する車が止まっていた。
「ここまでくれば、もう大丈夫だろう」
「はい。両親も睦月家が相手だから、下手に動けないと思います。ご協力、感謝いたします」
「なんだって、事務的だな。早く乗れ」
乃彩の荷物は啓介がさっさとトランクに詰め込んでいた。
遼真にうながされ、車へと乗る。
車の中から遠ざかる家を見ると、胸の奥がツンと痛んだ。
手にあたたかい何かが触れたと思ったら、遼真が手を繋いできた。
「俺たちは夫婦になったんだろ? 妻が悲しんでいたら、それを取り除きたいと思うのは夫の役目じゃないのか?」
「ですがわたしたちは、愛し合って結婚したわけではありません。お互いをお互いに利用するため。わたしはあの両親から離れるために、あなたを利用しました。あなたは解呪のためにわたしを利用する。それでよろしいではありませんか」
彼は何か言いたげに口を開きかけたが、ふっと鼻で笑うだけだった。
遼真と結婚したといっても、乃彩にとっては今までの四回の結婚となんら変わりない。解呪のために結婚をしたことに、違いはない。
「遼真様。今、お時間はよろしいでしょうか?」
彼の部屋の扉をノックすると「入ってこい」と返事があった。
「どうした? 眠れないのか? それとも、結婚した日の初日だからな。初夜をご所望か?」
風呂上がりの遼真からは、色気が溢れていた。髪の先は濡れており、雫がしたたって、首にかけてあるタオルがそれを吸い込む。
「いいえ。解呪を試してみたいと思いました」
「冗談が通じないやつだな」
遼真の言葉に、乃彩は淡々と続ける。
「何度も申し上げたはずです。わたしと遼真様の結婚は、遼真様の解呪のため。睦月公爵家の当主が、後継を決めずに亡くなったら、術師界の揉め事の原因となりますから」
「なるほど。だから俺の妻は早く後継を望みたいと?」
「ですから、その呪いを解呪します。そうすれば、遼真様もきっと長生きできるはずです」
会話がかみ合っているようでかみ合っていない。いや、遼真の言葉をまともに取り合ってはいけないのだ。彼は、乃彩をからかっているだけ。
「俺の妻は、照れ屋だな」
「照れておりません。事実を申し上げているだけです」
「そして、冷たい。これが、塩対応というものか。それもいいな。砂糖だけでは甘みが麻痺してしまう。隠し味的にも塩をいれるしな」
先ほどから遼真が何を言っているのか、さっぱりわけがわからない。じろりと睨んでから、彼の手をとった。
「では、解呪に入らせていただきます。くれぐれも不埒なことはなさいませんように」
今までの結婚は、すでに相手がいた男性が多かった。独身だったのは若梅男爵くらいであったが、そのときは彼の妹の治癒を行ったのだ。
「不埒? 不埒とはこういうことか?」
いきなり遼真が顔を寄せ、乃彩の頬に口づける。
「なっ……!」
「真っ赤になってかわいいな。離婚歴が四回もある女性とは思えない」
唇が触れた頬を、慌ててごしごしと拭う。
「ひどいな。人を雑菌扱いして」
「不埒なことはなさいませんようにと言ったばかりです。人の話を聞いていなかったのですか?」
ははっと笑っている遼真には、何を言っても効果はないのかもしれない。
大げさに息を吐いてから、乃彩は解呪を試みる。
彼の霊力を探り、それを蝕んでいる原因を突き止める。もやっとした黒い何かを感じ、そこに乃彩の霊力を送り込む。さすがにその間、遼真は乃彩に触れたり変なことを口にしたりはしなかった。
「今日の分は終わりです」
ふぅと息を吐いて、うっすらとした額の汗をぬぐう。それに気づいた遼真は、肩にかけていたタオルで乃彩の汗を拭きとった。柑橘系の香りがした。
「ありがとう。少しだけ、頭がすっきりした感じがする」
「ですが、この呪いは根が深いです。さすが酒呑童子の呪いなだけありますね。時間がかかりますので、毎日少しずつ、解呪していきます」
「つまり、毎日寝る前に、こうやって俺に会いに来てくれるわけだ。いっそのこと、同じ部屋にしたほうが効率はよいのではないか?」
遼真が乃彩の手を掴んだが、彼女はじろっと睨んでからその手を振り払った。
「冗談がすぎますよ、遼真様。では、おやすみなさいませ」
乃彩がやってきてからというもの、屋敷の中が華やかになったような気がする。
使用人たちも、気づかぬうちに笑顔になっていることが多い。
その乃彩はまだ高校生ということもあり、決められた時間に学校へ行き、決められた時間に帰ってくる。
いつも澄ました顔をしている乃彩であるが、それはあの親の影響があるのだろう。
からかうと頬を赤らめて、必死に反論してくる姿は愛らしい。その瞬間は年相応の女子高生に見えるのだ。
「あぁ……気が重いな……というか、面倒くさい」
「はいはい、そういうことを言うのはやめましょうね」
啓介の運転する車で、遼真はぼやいた。それを宥めるのが啓介の役目でもあり、たいていここまでが一連の流れである。
今日は術師協会の幹部会の集まりである。幹部会とはその名の通り協会の幹部が集まる会合のこと。幹部は四大公爵の当主と、その当主を後継に譲ったいわゆる隠居によって構成されている。
卯月公爵家と睦月公爵家は先代が亡くなったため爵位を継いだが、他の二つの公爵家の文月家と神無月家には口うるさい隠居がいる。当主も遼真の親と同年代であり、さらにその上の年代の隠居とあれば、口うるさくても仕方ないのだが、とにかく煩わしい。
それだけでも気が重いのに、乃彩の父親と顔を合わせるのは必然となる。
特に年若い遼真は、彼らにとっては格好の的である。孤高と言えば聞こえはいいが、むしろ孤立といってもいいだろう。とにかく幹部会の中でも浮いている存在に違いはないのだ。
その幹部会において、結婚の事実を口にすべきか否か。だが卯月家としては乃彩の嫁ぎ先を睦月家であると知られたくないはずだ。
彼らはまだ、乃彩を利用する気でいる。とにかくあの日以降、卯月家がおとなしいのが不気味であった。脅しでもかけられるのかと思ったらそうでもない。
乃彩も学校の登下校時に待ち伏せされるのかと思ったが、そうでもないらしい。ただ妹だけが、下校前に乃彩を捕まえていろいろと文句を言っているようであるが、乃彩自身は慣れたものでそれを適用に受け流しているようだ。
そのためにも、彼女にも送迎をつけた。学校のロータリーで待っていられるのは目立つから嫌だと、散々文句を言っていたが、待ち合わせ場所を近くのスーパーの駐車場にすることで妥協したようだ。その間、彼女が一人になるのがこちらとしては心配なのだが、その気持ちは残念ながら通じなかった。自分だけは大丈夫という、根拠のない自信があるようだ。
そんな彼女が遼真の妻である。心配しないわけがない。
何度目かわからないため息をつくのは、彼女のこととこの幹部会の集まりのせいである。
隣の琳がじろりと睨んできたが、何かを咎めるわけでもなかった。
幹部会では、各家が討伐した鬼や屍鬼についての報告が行われる。これによって、鬼がどこを狙い、どこを侵略しようとしているのか、それを分析する。
卯月家も乃彩を失ってはいたものの、屍鬼討伐に手を抜いている様子はなかった。むしろ、睦月家が四家の中では討伐の結果が出せていない。
ご隠居から「次は頑張るように」と慰めのような蔑みのような言葉をもらって幹部会は終了となった。
卯月家も乃彩の結婚については話題にしなかった。だから遼真も何も言わない。帰り際の接触もなかったため、そのまま遼真は屋敷へと戻った。
とにかく不気味である。何かしら文句を言われ、金銭的要求があると思ったのに。乃彩が言うには契約結婚の相場は一か月一千万円だそうだ。そのような金、睦月公爵家にとっては端金とも言いたいところだが、そこはぐっとこらえておく。
「遼真様!」
書斎で各分家からあげられた鬼の報告書に目を通していたところ、啓介が乱暴に扉を開けて部屋に入ってきた。
「乃彩様が、約束の時間になっても姿を現さないと、佐津川から連絡がありまして」
佐津川とは乃彩につけていた運転手である。
バンと机を叩くと、書類の束が崩れる。
こうなることなどわかっていたはずなのに、彼女の「大丈夫」という言葉を信じていた。それに最近の卯月公爵は不気味である。一言二言、何かしら言ってくれればいいものの。そうであれば一千万円を支払ってやろうかと思っていたくらいだというのに。
スマートホンを取り出して、位置情報を検索する。こういうこともあるだろうと、乃彩が風呂に入っているときに、勝手に彼女のスマートホンをいじっておいた。
「やっぱり……卯月公爵邸に戻っている……」
「え? 監視してんの? それって、本人承諾してます?」
啓介の言葉は聞かなかったことにする。
「今すぐ車を出せ」
奪われたのであれば奪い返す。ただそれだけだ。
他よりも少しだけ小高い場所に建っている卯月公爵邸は、鉄筋コンクリートの建物であった。門扉はしっかりと閉められており、人の侵入をまるでこばむかのよう。
インターホンを押す。
『……はい』
「睦月遼真です。妻を返してもらいにきました」
『妻? 睦月公爵は結婚されていたのですか。そういった報告は幹部会ではありませんでしたが』
インターホンの向こう側にいるのは、琳である。機械越しの声であっても、落ち着きと丁寧さは健在であった。
「それはそうでしょう。公にできない結婚ですから。お互いに」
『それはどういった?』
「その話をここでしてもよろしいのですか?」
遼真としてはこのままインターホン越しに会話を続けてもかまわない。だがこれでは、周囲に誰かがいたら会話はダダ漏れである。ただ、この場所に人の気配はない。
門が開いた。
使用人が出てきて、屋敷まで案内すると言う。その彼の視線が遼真の荷物に向いたのを、彼は見逃さなかった。
「旦那様、お客様をお連れしました」
抑揚のない声で使用人が告げ、遼真は応接室へと案内された。それはほんの十数日前に足を踏み入れた場所でもある。
「あいかわらず、睦月公爵は礼儀のなっていないお方ですね。こういった突然の訪問は、困るのですよ」
口元は微笑んでいるのに、目は笑っていない。
「失礼しました。こちらも急を要しまして。まずは、こちらをお納めください」
アタッシュケースより、金の束を取り出し、テーブルの上にどんと並べる。
「乃彩から聞きましたところ、婚姻一か月につき一千万。それに、結納金なども納めませんでしたからね。それらをまとめまして、まずは二千万円」
「なるほど。睦月公爵家はこの問題を金で解決しようとするわけですね」
「彼女は俺の妻です。お金で解決できるのならば、そうします。できないのであれば、次の手を考えるまでです」
琳は不気味な笑みを浮かべ、言葉を紡ぐ。
「そういった考えは嫌いではありません。せっかくですから、これはいただいておきましょう。ですが、あなたは何か勘違いしている」
「何が?」
琳の意図がわからない。遼真は目を鋭くする。
「誤解がないよう伝えておきますが。私たちは乃彩を連れ去ったとか、そういったことはしておりませんよ? ここは乃彩の実家でもある。彼女が自らの意思でここに来たとは考えられないのですか? まあ、いいでしょう。乃彩を呼んで」
部屋の隅に控えていた使用人に声をかけた琳は、さも楽しそうにお茶をすすった。
「あら? 遼真様。どうしてこちらに?」
そんな間の抜けた声で、乃彩が現れた。
「どうぞ、お引き取りください。目の前で夫婦げんかなど見たくありませんからね」
乃彩を連れて卯月公爵邸を後にする。帰りの車で話を聞くと、莉乃がどうしても家で話がしたいと言うのでつきあったとのことだった。
「電話、つながらないから心配したんだ。せめて佐津川には連絡をいれろ」
「申し訳ありません。校内では電源を切っておりますので。莉乃がしつこくてすっかりと忘れておりました」
けろりと返されて、遼真は脱力する。
「遼真様。わざわざこちらにいらしてくれたのですね」
「お前が心配だったからな」
「そうですね。わたしがいなければ、遼真様は命を失ってしまいますからね。そういった意味では一心同体ですね」
そのような意味で言ったわけではないのに、彼女には通じないようだ。
「乃彩。お前……卯月公爵――父親とはきちんと話をしたほうがいい」
なんとなく、遼真はそう感じたのだ。あの男は何を考えているかわからないが、今のところ乃彩と遼真をどうこうしようとするわけではなさそうだ。もしかしたら、先ほどの賄賂が効いたのかもしれないが。
そうですね、と乃彩は小さく呟く。
隣から感じるほのかな体温に、安堵する。
それからというもの、乃彩はちょくちょくと卯月公爵邸に戻るようになった。弟妹たちに会いに行っているようだ。だから、彼女のスマートホンから、莉乃の声で連絡があったときには驚いた。
「お前が電話してくるなんて珍しいな」
そう言って電話に出た。
『もしもし? 睦月公爵ですか? 私、乃彩の妹、莉乃です』
だが、着信は乃彩の番号だった。
『お姉ちゃん、知りませんか? 今日も学校の前で待ち合わせしていたのに、お姉ちゃんがいなくて……スマホが落ちていて……』
その先は、言葉にならない。
「今から行く。お前はその場で待っていろ」
遼真はすぐに佐津川に連絡をいれた。電話の状況から莉乃を一人にしておくのは不安だと思った。
「啓介。星暦学園に向かってくれ」
ノートパソコンをパタリと閉じて、遼真は席を立つ。
「いったい、どうされたのです?」
「また、乃彩がいなくなった。どこにいったのか検討がつかない」
「お得意の位置情報で探せばいいじゃないですか」
「スマホは妹の手の中だ」
先ほどの会話を啓介に伝え、すぐさま車で向かう。その間、佐津川からも連絡が入り莉乃を保護したとのこと。
気は進まないが、卯月公爵にも連絡を入れる。途端に、冷静な声で叱られた。
『婿殿は無能だったのですね』
その言葉に反論などできない。
「申し訳ありません。すぐに乃彩を取り返します」
『当たり前です。なんのために乃彩をあなたに預けたと思っているのですか?』
違和感が走った。だが、それを突き止めている余裕はない。
申し訳ありませんと、もう一度伝えてから電話を切る。
莉乃と合流し、状況を彼女から詳しく聞く。
「いつもは、私のほうが早く校舎を出るのですが、今日はお姉ちゃんのほうが早かったみたいで」
使用する昇降口が異なることから、二人は校門の隣にある銀杏の木の下で待ち合わせをしているようだ。銀杏を踏まないようにというのが、生徒たちの共通事項でもある。
「だけど、私が来たときにはお姉ちゃんのスマホが落ちていて……」
「それで、俺に連絡をくれたわけか」
こくんと彼女は頷く。
「親には?」
「あっ。睦月公爵に電話したからいいやって、忘れてた」
「お前たちの親だ。戸籍は別れても血は繋がっている」
莉乃が慌ててスマートホンを取り出したところで、琳がやってきた。
「あ、お父さん……」
血相を変えた琳の姿を見て、莉乃も驚きを隠せない。
「乃彩はどこでいなくなったのです? 場所を案内しなさい。この件はまだ警察には言っておりませんね?」
その言葉は遼真に向かって言った言葉だろう。
「はい。人間の仕業か鬼の仕業か、わかりませんから」
「そういった判断ができるとことは、有能なようですね」
莉乃の案内によって、銀杏の木の下に向かう。金色に輝く銀杏の葉っぱの下には、銀杏がたくさん落ちていた。もちろん、踏み潰された跡もある。
「ここに、スマホが落ちていました」
「……なるほど」
琳はすぐさま何かを感じ取ったようだ。
「これは我々の管轄のようですね。それに、この相手は無能のようだ。気配をこれだけ残している」
うっすらと妖力を感じた。
「この妖力をたどっていけば?」
遼真の言葉に「その通りです」と琳も頷く。
「莉乃は帰りなさい。迎えを呼びます」
「だけど、お父さん。私も……」
「相手が何を考えているかわからない以上、莉乃を守れるほどの余裕が私にはありません。足手まといです。帰りなさい」
「啓介。卯月令嬢を公爵邸へ送ってやってくれ」
二人から突き放された莉乃は、啓介に支えられるようにしながらその場を去って行く。
「さて、婿殿。乃彩を迎えに行く間、私のおしゃべりにつきあっていただけますか?」
相変わらず何を考えているかわからない男である。それでも乃彩の父親というのだから、頭から否定してはならないだろう。
「どうぞ。無能の俺にもわかるように話していただけるのであれば」
残された妖力を探り、それをたどる。その間、淋はぽつぽつと話をする。
「私の両親も、あなたの両親も。鬼に襲われて亡くなっておりますよね」
だから互いに若くして当主に就いている。
「――つまり、術師の敵は鬼だけではないということですよ」
琳の言いたいことを察した。術師の頂点に立ちたいと思う者がいるということ。彼らにとって、当時の卯月公爵と睦月公爵は邪魔だったのだ。
「乃彩は、巻き込まれた?」
だが、遼真が乃彩と婚姻関係にあることは公にしていない。琳だって協会に報告していないだろう。彼女の過去四度の結婚も、あやふやなままだったのだから。
「卯月の家に生まれたときから、乃彩はこうなる運命だったのです。それが術師の宿命です」
それに返す言葉がみつからない。
だけど、自分の人生を運命や宿命といった言葉で片付けられるのは、乃彩だって望まないはず。
「だったら……その運命とやらをぶっ壊すまでだ」
妖力をたどって来た先は、廃工場である。
「なるほど」
どうやら琳はこの場所に見覚えがあるようだ。
「ここは以前、屍鬼を追い込んだ場所でしてね。ここで無様に術師の幾人かは屍鬼にやられたわけです」
頑丈な鉄製の扉を開ける。こういった廃れた場所を、鬼は好む。人の目が届かず、そしてどこかもの悲しい歴史がある場所。
天井が高く、平屋の造りではあるが、三階建ての高さはある。上階へと続く鉄製の階段は、二階、三階のギャラリーへと続いている。その奥に扉があって、どこかの部屋に続いているようにも見える。
「二階が怪しいですね」
琳の言葉に頷いたとき、その扉がバンと開いた。
「待ちやがれ、この女」
柄の悪い男たちが、一人の女性を追う。黒い髪をなびかせ、ギャラリーを走っている彼女は間違いなく乃彩である。
「乃彩!」
その声に反応した彼女は、いきなりギャラリーの柵に足をかけ、そこから身を投げた。
「乃彩!」
誰もがそれに気を取られている瞬間に、琳は霊力を放つ。
遼真は落ちてくる彼女へと駆け寄る。
――ドサッ
彼女を抱えたまま、尻餅をついた。
「ナイスキャッチです、遼真様」
満面の笑みでそう言われてしまえば、遼真も脱力してしまう。この緊迫した空気の中、彼女の周囲だけはおっとりと時間が流れている。普通の人間であれば、あの高さから落ちてきてこれだけの衝撃で済むはずがない。
乃彩は何かしらの術を使ったようだ。
「婿殿。乃彩が無事であるなら、力を貸しなさい」
「お父様?」
彼女は、その場に琳がいるのを、信じられないといった表情で見つめる。
琳の前には、軽く見積もって十体ほどの屍鬼が群がっている。
「遼真様の呪いは、屍鬼を寄せ付けます。ですから、むしろ、あちらの方をお願いします。屍鬼はわたしたちにお任せくださいませ」
乃彩の視線の先には、階段を駆け下りて逃げようとする人間がいる。
屍鬼も気になるところだが、ここは乃彩を信じるしかない。
逃げようとする二人の人間のうち、足の遅い女を狙う。射程圏内に入ったところで霊力を足元めがけて放つ。
「あっ」
足がもつれて転んだ女に、男も駆け寄ってきた。そこを霊力で捕縛する。
「君たちが、乃彩をさらった犯人か?」
身動きできず、尻餅をついている男女は星暦学園の制服姿である。
「どこの家の者だ?」
まずは男の制服の胸ポケットをあさり、生徒手帳を奪う。
「まさか、睦月の分家とはな」
あきれて物が言えない。
「遼真様」
けろりとした彼女の声で、遼真は振り返る。
「その二人を捕まえてくださったのですね」
「……乃彩」
「どうしてこのようなことを? 茉依……」
やはり乃彩の知り合いだった。制服を見たときからそうだろうとは思っていたのだ。
「どうして? どうしてって、わからないの? あんたのせいで、私たちは……」
「わたしのせい? 何が?」
「あんたが私たちからお金をむしりとったんでしょ!」
「そ、それは……」
乃彩が明らかに動揺している。
「言いがかりはやめてもらいましょうか? 春日部のお嬢さん」
あれだけの屍鬼を倒しておきながら、何事もなかったかのようにしている琳の霊力は計り知れない。いや、乃彩もだ。
「この、金の猛者。何が卯月公爵だ。金、金、金。そんなに金がほしいのか!」
女の甲高い声が、廃工場に響く。
「ええ。お金はないよりもあったほうがいいでしょう? それに、金で解決できるのであればそれに越したことはありません。睦月公爵もそうお思いでは?」
そう言って、琳に金を突きつけたのは遼真である。
「そうですね。金で物事が解決できるのであれば、安いものだ。世の中には、金で解決できない根深い問題だってあるわけですからね」
それが二家の両親の死の真相。金を積んで真相がわかるのであれば、いくらだって積んでやる。
「春日部のお嬢さんは、勘違いされているようですが。私は身分不相応な金を回収しているだけですよ。ですから、友達のよしみでまけてあげたのですが」
どういうこと? と首を傾げているのは乃彩である。
「あなたたちのことは、術師協会に報告し、そちらで裁いていただきます。ところで春日部のお嬢さん、誰から屍鬼の力を借りたのですか?」
琳の問いに茉依は顔を背けて答えようとはしなかった。
しばらくして、術師協会から派遣された術師捜査官がやってきた。彼らは、術師が犯した犯罪や事件を捜査する、術師のための警察官のような存在である。裁くのは協会の幹部を含む上層部。
捜査官に連行される二人の姿を見送った乃彩は、琳と向き合った。
「わざわざお父様のお手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした」
その会話はどこか事務的にも感じる。二人の間に高い壁が存在しているようにも見えた。
「私だってあなたの父親ですからね。娘を案ずることだってあるのですよ」
お互いに素直ではない父娘である。だが、遼真だって人のことは言えない。
「では婿殿。あとは頼みます」
乃彩は黙って琳の背中を見つめていた。
「帰るか?」
「そうですね」
遼真が差し出した手を、乃彩はそっと握り返した。
啓介を呼び、車で屋敷へと戻る最中、乃彩がことのいきさつを話し始めた。
莉乃と待ち合わせしていた場所へやってきたのが、クラスメートの茉依と祐二の二人だった。前々からこの二人に嫌がらせのようなものをされていたが、乃彩自信もそうされる心当たりはあったため、誰かに相談するとか、そういったことをしていなかった。
しかし、今日は二人の様子が普段と異なった。気がついたら、あの廃工場の二階の事務所にいたようだ。
「わたしの力は『家族』にしか使えませんから。既成事実を作ってしまうのが、手っ取り早いと思ったようです」
祐二という男は、乃彩に懸想していたのだろう。それを茉依に煽られたにちがいない。
それから、乃彩は茉依との間に起こったことも包み隠さず教えてくれた。だがそれは、すでに卯月公爵から聞いていた内容とリンクする。
「だからお前は、父親ときちんと話をしたほうがいい。だがあの父親じゃ、聞いても教えてくれなさそうだからなぁ」
そう言って遼真は言葉を続ける。
乃彩の力は術師協会の幹部でも噂になっていた。もちろん、卯月公爵家が解呪と治癒に特化した能力を持っていることを遼真もしっていたが『家族』という特別な条件が必要であるとは知らなかった。
その力を狙っているのが、他の二公爵家の神無月公爵家と文月公爵家らしい。乃彩が十八歳になったら息子と結婚させたいと、卯月公爵に迫っていた。だが、両家の息子といっても乃彩よりも十歳以上も年上であり、乃彩よりも琳に年が近いような、そんな男である。
父親としては複雑な気持ちだったのだろう。だから、彼らの考えを逆手にとった。
乃彩が十六歳になった途端、彼女の力を欲する者へ嫁がせた。こうやって金のために嫁がせていると噂が立てば、両家も諦めると思ったようだ。それには彩音も同意したようだ。
「卯月公爵は、乃彩が十八歳の誕生日を迎えたことも、覚えていたよ。だけど、それは祝いたくなかったようだ」
十八歳になれば、親の同意なしに結婚ができるからだろう。今までの話を聞くと、乃彩が大人になるのを恐れていたのかもしれない。
さらに琳は、闇雲に乃彩を結婚させたわけではなかったのだ。それなりに資産を持っているが、その資産をちょっと汚い方法で手に入れたような、そういった者に限定していたらしい。
「え? 茉依も?」
「春日部というよりは、日夏だな。あそこは土建業界と繋がりが強いからな」
「お父様は、汚い金を回収していた?」
身内の贔屓ではないが、今の遼真の話を聞く限り、そう考えてしまう。
「それは、卯月公爵本人にお前が聞くべきだろうな。だが、あの腹黒狸は言わなさそうだが」
「腹黒狸って……妻の父親に対して、失礼な言い方ですね」
そう言いながらも乃彩が笑っているのは、両親へのわだかまりが少しだけ溶けたからだろうか。
とにかく琳と話をした遼真は、術師協会に歪みがあるのがわかった。誰が仲間で誰が裏切りか。
――婿殿の呪い。むしろ、二公爵家によるものと考えたほうがよいかもしれませんね。
そう言った琳の表情が、遼真の心に引っかかっている。
乃彩と遼真が婚姻関係を結んで、およそ一か月。
その間、ちょっとした事件や行き違いはあったものの、なんとか夫婦生活を続けている。乃彩をさらった二人は、学園を退学した。卒業まであと半年もなかったのに、あれだけの事件を起こしてしまえば、学園に居続けることなどできない。
しかし、彼女たちが屍鬼を手に入れたルートだけはわからなかった。スマートホンを通して指示があったらしい。そのスマートホンも回収され、アクセスログなどをたどってみたものの、緻密にサーバを経由しており、まだ突き止められていないようだ。ログが残っているうちにわかるかどうか、らしい。
さらに、茉依と徹の婚約も解消された。琳が動いたことで、日夏の家と某土建会社の取引が明るみになったからである。術師の権力は、どこにでも潜んでいる。
「はい、終わりました」
そう言って乃彩は、遼真の手を解放した。
「これで、呪いはすべて解けたかと思いますが。いかがでしょう?」
毎日少しずつ彼女が霊力を注ぎ込むことで、酒呑童子の妖力を打ち消していた。
「完璧です」
眼鏡を押し上げながら、感動の声をあげたのは冬月だ。
「さすが、卯月公爵家の乃彩様。あの酒呑童子の呪いを打ち破るとは」
冬月もこう言うのだから、解呪が成功したことに間違いはないのだろう。それに遼真自身も、以前と同じような霊力を感じる。
というのも、乃彩がさらわれたときに彼女から「思ったより、遅かったのですね」と、あのあとさらりと言われたからだ。
思っていたより遅かったから、自力で逃げ出したとのこと。もう少し、かっこいいところを見せてくださいと。
相変わらずの塩対応である。
「では、約束通り。離婚いたしましょう」
そう言って彼女は、離婚届を遼真の前に突きつけた。
氏名の『夫』の欄意外はすべて記載済みであり、証人の欄には琳と冬月の名前が直筆で書いてある。
「お前、これ……」
「ええ、お父様が楽しそうに名前を書いてくださいました。冬月の伯父様も。遼真様はこちらに、お名前をお願いします」
助けを求めようと顔をあげると、すでに冬月の姿はないしいつも近くにいる啓介すらいない。
「あいつら……逃げたな」
遼真は大きく息を吐く。
「悪いが、俺はお前と離婚するつもりはない」
「なぜです? こうして遼真様の呪いは無事解けました。お互い、利用する約束だったはずではありませんか?」
「そうだな」
遼真は、隣に座る乃彩の腰に手を回す。
「お前は、もう少し俺を利用しろ。俺と別れて、変な男と結婚してもいいのか?」
乃彩もはっとして遼真の顔を見つめる。
「隙あり」
ちゅっと唇を重ねると、パシッと頬を叩かれる。
「な、何をするのです」
「俺たちは夫婦だ。キスくらいいいだろ?」
顔を真っ赤にして、何かしら反論しようとする乃彩の姿はかわいい。
「一生、側にいろ。俺にはお前が必要だ」
「呪いは解けたではありませんか」
「いや。俺は新しい呪いにかけられたんだよ、お前に」
そっと耳元でささやく。
「お前に惚れる。そういった種類の呪いだな」
乃彩は何か言いたそうに、ぷるぷると身体を震わせていた。
「というわけで、これはこうなる」
「あっ」
遼真は勢いよく離婚届を破いたのだった。
――こうなると思っていましたけどね。
と、遼真には琳の声が聞こえてきそうで、ちょっと悔しい。
【完】