この世には、人の悪意を利用する『鬼』がいる。鬼に魅入られた者は、悪意の塊を増長させ、人を騙し人から奪う。奪われるものは大事な人であったり、その命であったり、人以外のものであったりと、さまざまなもの。

 鬼からこの国を守るため、各家の術師が手を組んだ。術師とは霊力を備え、鬼のような人ならざるものと対抗できる力を持つ者。この霊力を備えた術師の血筋は、術師華族と呼ばれ術師特有の爵位を持つ。

 四大術師公爵のうちの一つ、卯月家。均衡のとれた四大公爵であったが、ここ数年、他の三家よりも頭一つ抜きんでている。
 当主の卯月琳には四人の子がいた。長女の乃彩は解呪と癒しの能力に長けており、卯月家が発展したのも彼女のおかげともささやかれている。



「さすが、私たちの自慢の娘ね」

 辛うじて十代で乃彩を産んだ母親の彩音は、まだ二十代前半にしか見えない美貌の持ち主である。艶やかな黒髪は真っすぐに腰まで伸びており、まさしく美魔女という言葉が似合う。そんな彼女の手の中にあるのは、札束だ。

 両親のこの姿を目にするたびに、乃彩の心はギシギシと軋む音を立てた。

 ふっくらとした頬の丸顔の乃彩は、実年齢よりも幼く見えるものの、母親と同じような長い黒髪が彼女の妖艶さを際立たせ、父親と同じ切れ長の目が冷たい印象を与える。

 家族団らんの時間。吹き抜けのリビングは解放感にあふれており、ガラス張りの向こう側には夜景が見える。明かりをともす建物によって、夜だというのに空はほんのりと明るい。乃彩はその空をぼんやりと見つめていた。

「だけど、不便よね? 家族にしか使えない能力だなんて」

 それは彩音の本心ではない。むしろ、そういった制約があることで能力に価値が高まっているのを喜んでいるのだ。

「ですが、十七歳にして離婚歴が四つもつきました。この先、乃彩がまともな結婚をできるかどうか……それが心配なところですね」

 それだって琳の思惑通りであるのに、乃彩を心配する素振りだけ見せる。

「へぇ、お姉ちゃん。また離婚したんだ。それ、慰謝料?」

 一つ年下の妹の莉乃(りの)は、棒付きアイスを食べながらけらけらと笑う。くせ毛の彼女は、髪を伸ばすとわかめのようになるため、いつもショートヘアにしている。莉乃の髪は琳に似た。

「慰謝料ですか。それを忘れていましたね。まあ、今回は依頼料だけでこれだけふんだくれたのだから、大目にみましょう」

 琳の言葉に、莉乃はニヤリと笑う。

 乃彩と莉乃。年子の姉妹。術師華族の血筋のみが通うのを許されている、星暦(せいれき)学園の高等部に通っていた。この学園は幼稚舎から大学までの一貫教育を掲げており、普通に勉強をしながらも術師としての霊力を高めるのが目的でもある。

 高等部三年の乃彩は、来年は大学への進学を控えている。
 だが女性術師は、高等部を卒業したら同じ術師の誰かと結婚するのが一般的で、幼い頃から婚約者が決まっている者も多い。それは、女性術師は術師を育てるのが役目であるからだ。社会的性差(ジェンダー)をなくそうと叫ばれている昨今、術師界隈の考えはまだまだ古い。

 それでも乃彩のように解呪や癒しなど、何かの術に特化している術師は例外でもある。大学へ進学し、さらなる霊力を高め、他の術師の補佐に入ることも許されるのだ。そして両親は乃彩にそれを望んでいた。
 むしろ、結婚なんてしなくてもいいと言うかのように――

「で? お姉ちゃん、今回で何回目の離婚だっけ? 四回目? てことはバツが四つついた? その年で?」

 ソファの背もたれに限界まで寄り掛かり、足まであげて大げさに笑う莉乃を「行儀が悪い」と咎める者はいない。

「こら、莉乃。誰のおかげでこのような生活ができていると思っているの? 乃彩のおかげでしょう? これからも乃彩には頑張ってもらわなければならないのに、そのような言い方をして」

 彩音の口調は、まるで幼子を「めっ」と叱るかのよう。実際に、十歳になった双子の弟を叱るときは、そんな口調である。そして双子たちは、とっくに寝ている。

 乃彩は、両親と妹の言葉を右から左へと聞き流した。

 彼らにとって、乃彩は金儲けの道具。術師としての解呪と癒しの力を金儲けに使っている。それは、乃彩の力が『家族』にしか使えないからだ。乃彩が解呪し、癒せるのは『家族』のみ。厳密には、二親等以内。祖父母と兄弟、孫まで。乃彩にはまだ子も孫もいないから、実際の範囲は祖父母と両親、そして弟妹のみとなる。

 だが霊力の強い乃彩は、他の術師では太刀打ちできない呪いでさえも解呪できるし、瀕死の術師を癒せる。実際に、琳は何度も乃彩に助けられた。

 そしてその能力を、他の術師にも使ってほしいという要請がくる。そうなると『家族』という制限が枷になった。

 乃彩が十六歳になった頃、突然、琳が乃彩に結婚するようにと言い出した。この国では術師華族のみ、十六歳になれば結婚が認められているからだ。これも古い考えを引きずっているようなもの。
 しかし、成人は十八歳であるし、術師華族以外の者は十八歳にならないと結婚ができない。その間の術師華族の結婚は、親の同意が必要となる。



 はじめての乃彩の結婚相手は卯月の分家である桜内(さくらうち)侯爵家の当主であった。
 年は三十歳を過ぎていて、むしろ父親に近い年齢である。彼は術師として屍鬼討伐に参戦し、瀕死の重傷を負った。呪術医の手にも負えず、何もしなければ一日以内に亡くなってしまうような、治療を施しても数日以内に亡くなるような、そんな状態だった。

 その彼を助けるために、今すぐ結婚するようにと琳が言った。結婚すれば、桜内侯爵は乃彩の『家族』になる。

 しかし桜内侯爵はすでに結婚をしており、幼い子もいた。それなのに彼を助けるため、彼の妻は一度離婚をし、乃彩と桜内侯爵の結婚を認めると言うのだ。それで彼の命が助かるならば、と。

 そこまで決意した桜内侯爵夫人を、乃彩は見捨てることができなかった。

 両親と侯爵夫人にうながされ、乃彩はすぐに桜内侯爵と婚姻の手続きをとった。彼の呪いが解け、怪我が治癒したら離婚することを前提に。
 つまり、結婚の約束を婚約というならば、離婚の約束をした離婚約と呼ばれるものである。

 高校生でもある乃彩は、学校の帰りに桜内侯爵家の屋敷へと寄る。そこで侯爵に解呪と治癒を施し、それが終わると自宅に戻る。結婚したといっても、本当に書類だけの家族。書類上は卯月乃彩から桜内乃彩に変わったが、学校では卯月のままで通していた。これは、学校側も特例で認めた。むしろ、四大公爵家の卯月家に逆らってはならないと、そんな通達が出ていたのかもしれない。

 それでも乃彩が結婚している事実は、あっという間に学校中に広がる。



 そして結婚して二か月後――

 乃彩は桜内侯爵と離婚した。乃彩の懸命な治癒行為によって、起き上がって動き回れるまで回復したためである。
 乃彩と離婚した桜内侯爵は、元サヤに戻るだけ。それも書類上だけの話で、あの屋敷内では書類上は赤の他人の男女が暮らしていたのだ。

 桜内侯爵も侯爵夫人も、乃彩に感謝した。感謝してもしきれないというような、それだけ熱い言葉をかけてもらった。
 しかしその数日後、琳が桜内侯爵家に莫大な報酬を請求していた事実を知る。



 それからしばらくして、琳は乃彩に、若梅(わかうめ)男爵と結婚するようにと命じてきた。若梅男爵は幸いにも独身であった。乃彩の能力を欲していたのは、若梅男爵の妹である。産後の肥立ちが悪いところに、霊力が不安定となり、生死の境目をさ迷っていた。

 他の術師が治癒に挑むものの、なぜか彼女との霊力の相性が悪かった。そこで呼ばれたのが乃彩なのだ。若梅男爵と結婚することで、その妹も『家族』になる。産まれたばかりの彼女の赤ん坊を母なき子にしないためにも、乃彩は治療を施した。

 さらに一か月後、乃彩は離婚した。若梅男爵のほうは、本人も独身であったことから、この婚姻関係を続けたかったようだが、それを断固として断ったのは琳と彩音だ。

 乃彩が結婚してしまうと、乃彩の力を自由に利用できないから。

 若梅男爵はかなり渋ったようだが、当初との契約違反をするのであれば多額の違約金を請求すると琳がつきつけたことで、彼も離婚届に判を押した。あの違約金を支払う財力など、若梅男爵にないのを知っていて、琳は提示したのだ。

 三回目の結婚は、乃彩が十七歳になってから、高等部二年のときである。やはり、解呪のために結婚をして、それが終わると離婚した。



 だから、今回は四回目だった。

 同じクラスの春日部茉依は、高等部卒業後は、婚約者の日夏徹と結婚する予定であった。他にもそう言った同級生は何人かいたし、それが珍しいことでもなんでもない。むしろ女性術師は二十歳までに結婚しないと、いき遅れとか影でこそこそと言われ始める。

 その茉依が乃彩に泣きついてきたのは、今から三か月ほど前。

 今年で二十四歳になった徹は、街中を荒らす屍鬼の討伐隊の招集を受け、それに参戦した。屍鬼とは死者にとりつく鬼のこと。屍鬼は死体にとりつき、死体を己の身体として、人間を狩る。

 その日は満月で、屍鬼を一か所の廃工場にまで追い込んだまではよかった。その廃工場に結界を張って、外部へ影響を出さぬようにしながら屍鬼を倒す。
 しかしその屍鬼の力が思っていたよりも強く、徹は大怪我を負った。他にもちらほらと怪我人は出たようだが、その中でも徹だけが重傷であった。

 茉依は卯月家の噂を耳にしたのだろう。徹を助けてほしいと、乃彩に泣きついてきた。乃彩にはそれを決める権限がない。だから、父親に相談してほしいとだけ告げる。

 その結果、乃彩が四度目の結婚をすることになったのだから、琳と茉依の間で契約が成立したにちがいない。そのときに、報酬について話が出たはずなのだが。

 しかしあのときの二人の驚きようを思い出すと、この金額を支払う必要はないと思っていたのかもしれない。琳も言ったように、今回の報酬は彼には珍しく値引きされている。

 たいてい、婚姻関係が一か月につき一千万円を要求する。徹との場合はそれが二か月だったから、単純に見積もっても二千万円。それが半額なのは、どういった琳の意図があるのか。

 それだけ法外な金額をふっかけるのは、乃彩に離婚歴がつくからだ、と琳は口にしている。本来であれば、乃彩の力に頼らないのが一番よい。乃彩の力は卯月家のためにあると、彼はよく言っていた。

 実際、十六歳になるまでは乃彩は琳と彩音のみにその力を使っていた。双子の弟たちが術師として仕事をこなすようになれば、きっと彼らにも使うときがくると、そう思っていた力である。『家族』を守るためにある力。
 それをこのような方法で、他の者に使う日が来るとは思ってもいなかった。

 茉依は怒っているだろうか――

 この札束も、二人の結婚式のために用意されていたものだろう。親や親戚に泣きついたようだと、そんな話も聞こえてきた。
 卯月家の癒しの力を私的に使おうとしたから仕方ないと言う者もいれば、彼らに同情的な声も聞こえてくる。

 挙句、卯月公爵は金にがめついだの、娘を金のために利用しているだの。それは、真実だから仕方ないのだが、口にすれば何をされるかわからないので黙っておく。







 教室に入ると、いつもと違った視線が向けられた。人の顔を見ては、他の人とこそこそと何かを話す同級生たち。
 この状況はよくない兆候である。

 過去にも何度か経験をしたことがあった。そのときはまだ祖父母も健在であったし、卯月公爵家の権力をかざせば加害者の親が動いて事なきを得た。
 しかし今は違う。祖父母は亡くなり、今の卯月公爵家は金の猛者に成り代わっている。

 ――ビッチ。

 そんな声が聞こえてきた。それがよくない言葉であり、乃彩を誹謗しているのはわかる。

 ――いったい、何人旦那がいるんだよ。

 くすくすと漏れ出る笑い声。その笑い声の中心には、茉依の姿があった。それを見て見ぬふりをして、席につく。
 自分の机にあからさまな嫌がらせをされていないことだけを確認して、鞄を机にかけた。

 でもあと半年。半年すればこの学校から解放される。両親は乃彩を大学へと進学させたがっているが、乃彩としてはまだ何も考えていない。そのまま、両親の望むまま大学へ進もうとしていたが、最近ではその気持ちすらぽっきりと折れ始めている。

 両親は乃彩を術師としてではなく、我が子としてでもなく、ただの金のなる木とでも思っているのだ。
 彼らは乃彩に誕生日がきたことさえ、覚えていない。

 チャイムが鳴って、教師が教室にやって来た。

 授業の合間は平穏な時間が過ぎる。問題はそれとそれの間の時間。あとは、学校が終わってからで。

「の~あちゃん。俺と、結婚しよ?」

 昇降口でそう声をかけてきたのは、睦月公爵家分家の男であり、同じクラスで同級生でもある。

「のあちゃんさ。高等部卒業したらどうするの? 結婚しないの? 婚約者もいないでしょ? 俺なんかどう?」

 術師としては下の上といったところだろう。彼の父親の爵位は子爵だったはず。となれば両親が許すはずがない。

「わたしを誰だと思っているの? あなたのような霊力の乏しい術者が軽々しく声をかけていいとでも? あまりにも()()()がすぎるようなら、睦月公爵家に抗議をいれますけれど、いかがいたしましょう?」

 どうせ嫌われているのだ。これ以上嫌われようが、どうだっていい。

 それを実感し始めたのは、高等部に入ってから。

 それでも卯月公爵家という後ろ盾があって、こんなあからさまに声をかけてくる者はいなかった。
 状況がかわっているのかもしれない。考えられるのは、四大公爵家の力関係である。

「ちっ、このビッチが調子にのりやがって」

 どうやら朝に聞こえてきたビッチという言葉を使ったのは、彼のようだ。その言葉さえ口にすれば、乃彩が傷つくとでも思っているのだろうか。

「調子にのっているのはどちらかしら? 茉依に何を吹き込まれたのか知りませんが、わたしの能力を利用したのは茉依のほうよ。それにあなたが同じような目にあったとしても、わたしの能力は絶対にあなたには使わない。それだけは、覚えておいてくださいね」

 トントンとつま先を鳴らしてから、乃彩は歩き出す。弱みを見せてはならないと、両親はきつく乃彩に言っていた。

 最近は、迎えの車を断っていた。一人で歩いて帰りたかったからだ。この時間だけが、他人の目から解放される時間だと思っている。

 昇降口を出た瞬間、空の青さに目を細くする。この瞬間が、一番好きだった。空は二度と同じ顔を見せない。明日はどんな空になるだろうと、そう考えながら帰路につく。
 乃彩の能力に目覚めたのは、十歳のときだった。そのころはまだ祖父母も健在であり、琳も術師として鬼や屍鬼の討伐に駆り出されていた。



 ある日、琳が大きな怪我をして呪術医院へと運ばれた。もちろん、討伐中に負った怪我である。術師が怪我をした場合、その怪我には鬼の妖力が練り込まれている場合がある。その妖力を取り除く必要があるため、普通の病院ではなく呪術医院での治療が必要となる。

 この妖力が強かった場合、心身共に蝕んでいき、それが呪いとなる。
 乃彩が琳の入院する呪術医院に呼び出されたのは、吐く息も白くなる凍り付くような早朝だった。琳が生死の境目をさまよっていた。

 真っ白い病室でベッドに横たわる琳は、たくさんの管に繋がれていた。

『お父さん……』

 ひんやりとする手を握って、乃彩は父親を想った。

『お父さん、死なないで!』

 握られた手が光った。祖父母も驚き、彩音は目をしっかりと見開き、幼い弟妹は母親の足にひしっとくっついていた。

『お父さん?』

 開けられることのなかった琳の瞼が、ゆっくりと開いた。

『おはようございます。今日はみんな集まって、何かのお祝いごとですか?』

 そんなのんきな言葉を発して、悲しみに暮れていた家族の涙を引っ込ませた。

 だが、乃彩の祖父母はそのときに乃彩の能力に気がついた。琳の退院とともに、乃彩は呪術師協会の本部へと連れていかれた。

 術師協会とは四大公爵の当主たちを頂点とし、術師界の秩序と統一を図る組織であり、術師華族たちは必ずこの協会に属している。

 そこで乃彩に治癒と解呪の能力があり、霊力が他の術師よりも高いことが認められた。
 しかし、その能力が家族以外の者に使えないとわかったのも、それからすぐだった。だから、乃彩は『家族』のために能力を使った。

 それが変わったのは、祖父母が屍鬼によって命を奪われてから。琳が卯月公爵家の当主となってから。さらに乃彩が十六歳の誕生日を迎え、結婚ができるようになってから。
 変化点は一気に訪れたのだ――



 そんなことを考えながら、背筋を伸ばして歩いていると、すれ違った男性におもわず目を奪われた。

 太陽の下で輝く髪は、少し色素が薄いのか、金色にも見える。すっきりとした鼻梁に力強い茶色の瞳。彼とすれ違う女性は、思わず振り返るような目立つ容姿。

 しかし乃彩が彼に目を奪われたのは、別の理由がある。カツカツと速足で彼に追いつき、その手首を掴む。

「あの……」

 突然現れた制服姿の女子高生に、彼も驚きを隠せないのか目を見開いた。

「わたしと結婚してください」