い草の香りが漂う和室では欅の一枚板テーブルを挟んで、二組の男女が向かい合って座っていた。
「乃彩さん。では、この離婚届けに名前を書いてください」
背筋を伸ばして膝を揃えて座る男が、一枚の用紙を差し出す。そこにはしっかりと『離婚届』と書いてあり、氏名の『妻』の欄以外はすべてに記載があった。
目の前の元夫となるべき男、日夏徹の隣には、すでに別の女性がいる。彼女は春日部茉依。乃彩と同じ学校に通う女子高生である。
「ありがとう、乃彩。私のこの人を助けてくれて」
茉依がほろりと言葉をこぼした。
その言葉に頷いた乃彩は、離婚届けに今の名を書く。
『氏名、妻:日夏乃彩』
離婚の種別は『協議離婚』、それから戸籍は『元の戸籍に戻る』そこに結婚前の名前――卯月乃彩とペンを走らせた。
「乃彩さん、約二か月間。本当にありがとう」
「本当に乃彩のおかげ。私たちの結婚式には招待するわね。友人の特別席、空けておくから」
目の前の仲睦まじい二人を見ていると、乃彩の顔も自然とほころんだ。
「では、日夏さん。こちらが、卯月家に依頼した内容の内訳になります。金額は、きっかりと一千万」
そう言って割って入ったのは、乃彩の父親でもある卯月家当主の卯月琳。若くして乃彩の父親となった彼は、まだ三十代であり働き盛りの若々しさにくわえ、当主という威厳も持つ。端整な顔つきであるものの、切れ長の目が冷淡な印象を与える。
「え?」
明るかった目の前の二人の表情は一気に曇った。
乃彩も琳が提示したその金額に驚愕する。
「一千万……そんな大金……。それにこれから結婚式を控えていて……」
「乃彩のお友達ですからね。これでもまけたつもりです。一人の女性の人生に離婚歴をつけたのですから、それくらいは安いものですよね?」
金額一千万と書かれた請求書が、テーブルの上にどんと叩きつけられる。
「だって、そうしないと乃彩の力が使えないって聞いたから」
茉依の悲痛な声が響く。
「そうです。卯月家の力は貴重な力。特に乃彩の力は、卯月家始まって以来の力です。鬼からこの国を守っているのは、卯月の力であることを忘れないでいただきたい。そして、その鬼から呪いをかけられ、情けない姿を見せた術師はどこのどいつですか?」
琳の目が細められ、目の前の二人をギロリと睨んだ。
「も、申し訳ありません……。私が、屍鬼の討伐に失敗したばかりに……」
徹が慌てて頭を下げる。
「ええ。わかればいいのですよ、わかれば」
にたりと笑った琳は言葉を続ける。
「日夏徹さん。あなたは術師として屍鬼討伐に参戦し、見事に呪いを受けて帰ってきた。その呪いを解くには、霊力の高い者が解呪を行う必要があった。だけど、身近に霊力を持つ者がいなかった。だから、卯月家に助けを求めた。違いますか?」
「違いません……」
答えた茉依は声と共に身体も震わせる。
「乃彩の力は『家族』にしか使えません。だから、日夏徹さん。あなたは乃彩と結婚して、乃彩と家族になった。ただそれだけのことです。乃彩との結婚に愛はありましたか?」
「……ありません」
掠れた声で、徹は答えた。
わかってはいたけれど、愛はないとはっきり言われてしまえば心にぽっかりと穴が空いたような気分になる。
「つまり、あなた方は乃彩を弄んだわけだ」
「弄ぶだなんて……そんな。私たちは、友達の乃彩に助けを求めただけで……」
「茉依さん。友達のよしみでなんて、そんな甘いことを言っていられる世界ではないのですよ? それに日夏さんは、文月公爵家の分家でしょう? 本来であれば本家の文月家を頼るもの。ですが、文月公爵家でも匙を投げるような状態であったから、この卯月家に泣きついてきたのではありませんか?」
琳が不気味に笑うと、請求書をつつっと彼らの目の前に突きつける。
「誰がなんと言おうと一千万。きっかり支払ってもらいます。これでも十分にまけたつもりなんですけどね?」
そう言った琳の艶やかな唇は、綺麗に弧を描く。
茉依は、憎しみのこもった目で乃彩を睨みつけた。
それでも乃彩は、父親からは相手に弱みを見せてはならないと、何度も注意されていた。
「……乃彩。こんなにお金がかかるなんて、言ってなかったじゃない」
乃彩は何も知らなかったのだ。そして、このような仕事をもってくるのは琳で、報酬額を決めるのも琳なのだ。そこに乃彩の意思などない。言われた仕事をこなすだけ。
「私たち、友達よね? それとも騙したの?」
茉依がそう言うのも無理もないだろう。金額が金額である。
乃彩は否定したかったが、それは許されない。乃彩は切れ長の目で茉依を見つめ返す。
「騙すとは人聞きが悪い」
茉依の言葉にすかさず反応したのは琳。
「私は、最初に申し上げたはずですよ? 解呪にはそれなりの対価が必要になると。今回はお金だけで済んでよかったと思えばいい。場合によっては、五感すら失われることもありますからね。もしくは、その霊力とか……? そうそう、お金がいやならば、霊力でもいいですよ? あですが、そうなった場合、あなた方は術師華族という地位から転落しますけれどね? それに……あなた方の霊力では、大した霊石も作れなさそうだ」
唇をかみしめた茉依は、悔しそうに身体を小刻みに揺らしていた。
「乃彩さん。では、この離婚届けに名前を書いてください」
背筋を伸ばして膝を揃えて座る男が、一枚の用紙を差し出す。そこにはしっかりと『離婚届』と書いてあり、氏名の『妻』の欄以外はすべてに記載があった。
目の前の元夫となるべき男、日夏徹の隣には、すでに別の女性がいる。彼女は春日部茉依。乃彩と同じ学校に通う女子高生である。
「ありがとう、乃彩。私のこの人を助けてくれて」
茉依がほろりと言葉をこぼした。
その言葉に頷いた乃彩は、離婚届けに今の名を書く。
『氏名、妻:日夏乃彩』
離婚の種別は『協議離婚』、それから戸籍は『元の戸籍に戻る』そこに結婚前の名前――卯月乃彩とペンを走らせた。
「乃彩さん、約二か月間。本当にありがとう」
「本当に乃彩のおかげ。私たちの結婚式には招待するわね。友人の特別席、空けておくから」
目の前の仲睦まじい二人を見ていると、乃彩の顔も自然とほころんだ。
「では、日夏さん。こちらが、卯月家に依頼した内容の内訳になります。金額は、きっかりと一千万」
そう言って割って入ったのは、乃彩の父親でもある卯月家当主の卯月琳。若くして乃彩の父親となった彼は、まだ三十代であり働き盛りの若々しさにくわえ、当主という威厳も持つ。端整な顔つきであるものの、切れ長の目が冷淡な印象を与える。
「え?」
明るかった目の前の二人の表情は一気に曇った。
乃彩も琳が提示したその金額に驚愕する。
「一千万……そんな大金……。それにこれから結婚式を控えていて……」
「乃彩のお友達ですからね。これでもまけたつもりです。一人の女性の人生に離婚歴をつけたのですから、それくらいは安いものですよね?」
金額一千万と書かれた請求書が、テーブルの上にどんと叩きつけられる。
「だって、そうしないと乃彩の力が使えないって聞いたから」
茉依の悲痛な声が響く。
「そうです。卯月家の力は貴重な力。特に乃彩の力は、卯月家始まって以来の力です。鬼からこの国を守っているのは、卯月の力であることを忘れないでいただきたい。そして、その鬼から呪いをかけられ、情けない姿を見せた術師はどこのどいつですか?」
琳の目が細められ、目の前の二人をギロリと睨んだ。
「も、申し訳ありません……。私が、屍鬼の討伐に失敗したばかりに……」
徹が慌てて頭を下げる。
「ええ。わかればいいのですよ、わかれば」
にたりと笑った琳は言葉を続ける。
「日夏徹さん。あなたは術師として屍鬼討伐に参戦し、見事に呪いを受けて帰ってきた。その呪いを解くには、霊力の高い者が解呪を行う必要があった。だけど、身近に霊力を持つ者がいなかった。だから、卯月家に助けを求めた。違いますか?」
「違いません……」
答えた茉依は声と共に身体も震わせる。
「乃彩の力は『家族』にしか使えません。だから、日夏徹さん。あなたは乃彩と結婚して、乃彩と家族になった。ただそれだけのことです。乃彩との結婚に愛はありましたか?」
「……ありません」
掠れた声で、徹は答えた。
わかってはいたけれど、愛はないとはっきり言われてしまえば心にぽっかりと穴が空いたような気分になる。
「つまり、あなた方は乃彩を弄んだわけだ」
「弄ぶだなんて……そんな。私たちは、友達の乃彩に助けを求めただけで……」
「茉依さん。友達のよしみでなんて、そんな甘いことを言っていられる世界ではないのですよ? それに日夏さんは、文月公爵家の分家でしょう? 本来であれば本家の文月家を頼るもの。ですが、文月公爵家でも匙を投げるような状態であったから、この卯月家に泣きついてきたのではありませんか?」
琳が不気味に笑うと、請求書をつつっと彼らの目の前に突きつける。
「誰がなんと言おうと一千万。きっかり支払ってもらいます。これでも十分にまけたつもりなんですけどね?」
そう言った琳の艶やかな唇は、綺麗に弧を描く。
茉依は、憎しみのこもった目で乃彩を睨みつけた。
それでも乃彩は、父親からは相手に弱みを見せてはならないと、何度も注意されていた。
「……乃彩。こんなにお金がかかるなんて、言ってなかったじゃない」
乃彩は何も知らなかったのだ。そして、このような仕事をもってくるのは琳で、報酬額を決めるのも琳なのだ。そこに乃彩の意思などない。言われた仕事をこなすだけ。
「私たち、友達よね? それとも騙したの?」
茉依がそう言うのも無理もないだろう。金額が金額である。
乃彩は否定したかったが、それは許されない。乃彩は切れ長の目で茉依を見つめ返す。
「騙すとは人聞きが悪い」
茉依の言葉にすかさず反応したのは琳。
「私は、最初に申し上げたはずですよ? 解呪にはそれなりの対価が必要になると。今回はお金だけで済んでよかったと思えばいい。場合によっては、五感すら失われることもありますからね。もしくは、その霊力とか……? そうそう、お金がいやならば、霊力でもいいですよ? あですが、そうなった場合、あなた方は術師華族という地位から転落しますけれどね? それに……あなた方の霊力では、大した霊石も作れなさそうだ」
唇をかみしめた茉依は、悔しそうに身体を小刻みに揺らしていた。