やがて試験も終わり、春休みに入った。両親が何も言わないということは学年一位は維持できたのだろう。僕は相変わらず早月の病院と家を往復する生活を送っていた。
「宇宙葬のことなんだけどさ、忘れてくれないかな」
 唐突に早月が告げた。何かの間違いかと思った。確かにいざ早月が入院すると死と向き合うのが怖くてその話題を避けていた。一年の猶予があると思っていたせいで、目標額にも届かなかった。
「あ、忘れてって言ったけど、一緒にフリーマーケットやったこととか、宇宙の話したこととかは忘れないでほしいな。私も楽しかったし、青春そのものだったから、私も忘れたくないなって。陸上以外の青春、知らなかったけど、昴が教えてくれて本当に高校生活楽しかったから」
「じゃあ、なんで」
「お母さんがさ、最近ずっと泣いてるんだよね。私、ずっと苦労かけっぱなしだったし、金銭的にも精神的にもこれ以上迷惑かけたくないなって。お母さん、私のこと色々守ってくれたし」
 離婚で苦労を掛けたのは母親の方だろ、とはとても言えなかった。そこまで踏み込んではいけない。
「守るって、何からだよ」
「マスコミ……とか?」
 早月はあいまいに答えた。意味が分からず僕は困惑した。
「それにさ、使っちゃったんだよね。お母さんに対して一生のお願い」
「何、頼んだの」
 宇宙に行く夢よりも大切なこと。そんなものがあるのだろうか。
「私が死ぬときは最期に昴に会いたいから絶対に呼んで、って」
「なんで……」
 わかっている。もしもの時に、普通は家族しか会えない。普通を覆そうとしたら、家族に話を通しておかないというのは不可能だろう。「もしもの時の話はしない」その信念を破り、親を泣かせてまで早月に僕と最期に会うことを選ばせてしまった。僕が、早月の人生を捻じ曲げてしまった。
「逆の立場だったら昴もそうしてくれたでしょ?」
 当り前だ。迷わずそうするだろう。だからこそ、苦しかった。
「宇宙葬のこと、隼兎にも内緒にしてね」
「言ってなかったんだ」
 とても意外だった。今の早月と隼兎はとてもいい関係を築けているように見えたからだ。
「まあ、私お姉ちゃんですから。あんまり弟には弱み見せたくないし、迷惑かけたり悲しませたりしたくないわけよ。姉としての矜持ってやつ」
「早月はそれでいいの?」
「運命だし仕方ないよ。私が病気になったのも、お金間に合わなかったのも全部」
 すべてを諦めたように早月が呟いた。
「死にたくないなあ」
 初めて聞いた早月の弱音だった。
「死にたくない、死にたくないよ……!」
 早月が顔を覆って泣き出した。早月は強がるとき、いつも僕から目をそらしていた。泣いているのを初めて見た。誰よりも幸せにしたいと願った人が僕の前で泣いている。僕は無力だ。
「早月」
 名前を呼んだはいいが、僕は気の利いた言葉一つ言えない。だから、早月を抱きしめた。消えそうなほど細くなった早月が僕の腕の中から離れていかないようにただただ抱きしめた。僕の腕の中で早月はずっと泣いていた。
 長い時間の後、早月は僕のシャツに頬擦りをすると、一言だけ言った。
「やっぱり昴は優しいね」
 顔を上げた早月と目が合った。涙で濡れた早月の頬に僕はそっとキスをした。
「ヘタレ。普通、唇にするでしょ」
 拗ねたような声で早月が言った。想定外のカウンターパンチをくらってしまい、少し傷ついた。
「嘘。昴のおかげで、ちょっと気持ち楽になった。ありがと」
 早月が笑ってくれた。そう言うなり、早月は僕に身を寄せて胸にもたれかかった。
「もう一回、ぎゅってして」
「うん」
 僕は早月を優しく抱きしめた。早月が少しでも元気になってくれるなら、僕は何でもする。

 しばらくして、腕の中で早月が突然声を出した。いつもの明るい声だった。
「よしっ! 吹っ切れた!」
 早月は僕の腕をすり抜けて、サイドテーブルの引き出しから「遺書」と書かれた封筒と、何枚かの便箋を取り出した。中にはぐしゃぐしゃに丸まったものもある。封筒の中から手紙を取り出す。「お母さんへ」で始まるそれには、宇宙葬をしてほしいこととその段取り、そのためのお金が少し足りないことへの謝罪が書かれていた。日付は早月が入院した日のものだった。早月はそれをびりっと一気に破った。真っ二つになった手紙を重ねてもう一度破り、それを繰り返して最後には跡形もないほどばらばらな破片になった。
 次の便箋も同じようなことが書かれていたが、「お金は今貯めています。足りなかったらごめんなさい」と途中経過であることが示されていた。日付は僕が宇宙葬の方法を伝えた日だった。
 早月は覚悟していたのだ。このプロジェクトが始まったとき、あるいはその前からずっと。
 その手紙も同じように破った。残りの紙は書き損じだった。それらを一枚一枚細かく破っていく。やめてくれ、僕たちの夢を塵にしないでくれ。僕は叫びたかった。書き損じの紙すら後生大事にとっておくくらいに大切だったんじゃないのか。でも、僕は何も言えなかった。また早月を泣かせてしまうと思ったから。
 目はそらさなかった。責任を持って見届けようと思った。僕たちの夢の終わりを。
 早月がぐしゃぐしゃになった便箋を開いた。「本当は宇宙の果てまで行きたい。すごくお金がかかってしまうけど、一生に一度のお願いです」と書かれていた。最後の一枚を早月は破り捨てた。
 二度と復元できなくなった僕らの夢の跡を、早月はお菓子の空箱に入れた。そしてそれを僕に渡した。
「最期のお願い。昴が終わりにして」
「どうしたらいい……?」
 僕はかろうじて声を絞り出した。早月が窓の外を指さす。
「なるべく高く、遠くに撒いてほしい。宇宙に届くくらいに」
「それが、宇宙葬の代わり……でいいんだね?」
 早月が静かにうなずいた。僕は黙って窓を開けた。
 紙くずになった僕らの願いを掴んで、なるべく高く放り投げる。紙吹雪がはらはらと舞って地面へと落ちていく。一度では撒ききれなかった。僕はもう一度勢いよく腕を振り上げた。僕の手から夢のかけらが零れ落ちていく。白く舞い散るそれはさながら宇宙から地表への散骨のようだった。
 背中に視線を感じたが、とても振り返ることはできなかった。泣きたかったけれど泣かなかった。早月の方が何億倍も辛いはずだから。
 最後の一掴みが、夕日の中地面におちて静かな死を迎えた。僕らの名もなきプロジェクトはこうして終わりを告げた。