三学期に入るころには、僕たちの距離はただの同期だった頃よりだいぶ縮んでいた。「お前らできてんの?」と先輩にからかわれるようになった。廊下でたまたま会ったとき、普通に話し込むようになった。本気で勝負したら仲が良くなるなんてどこのスポーツ漫画だよ、と思った。
 朝、昇降口で早月と会った。
「あのさ、僕やっぱり出ることにしたよ。それでバイトするから、応援よろしく」
「えっ、お金もらうなんてさすがに悪いよ!」
「いいのいいの、僕が好きでやってることだから」
 君に勝つために走り込みをするついでです、なんて言うのは僕のプライドが許さなかったのでぼかして伝えた。
「昴、優しいよね。私、だいぶ無茶苦茶な要求してるよ」
「でも、線引きはしっかりしてるじゃん」
 人生の根幹にかかわるようなプロジェクトを手伝ってほしい、確かにずいぶんと重い要求だ。早月は世間知らずだから無自覚にやっているのかと思ったが、自覚がある方が嬉しい。家族や女友達に気を遣う早月が、我儘だとわかったうえで僕を頼ってくれる方が嬉しいと思えるようになっていた。
 三時間目、退屈な英語の授業で居眠りしていると窓の外から救急車の音が聞こえた。校内放送で英語の白井先生が職員室に呼ばれ、僕たちのクラスは自習になった。寝ぼけ眼で聞いた放送には「大至急」の言葉が含まれていた。白井先生は一年一組、早月のクラスの担任だ。嫌な予感がした。救急車が遠ざかっていく音がする。
「えっ、やばい! 一組の仁科さんが倒れたんだって!」
 女子の一人がスマホを見ながら叫んだ。僕はその瞬間、脇目も振らず教室を飛び出した。廊下を全力疾走して、昇降口まで走った。その途中何人かの先生に見つかったが全部振り切った。救急車はもう発車した後で、どこの病院に向かったかはわからなかった。
 僕は街中を駆け回り、近隣の大病院を片っ端から探すことにした。病院の場所を調べるたびに目につくクラスメイトや親からの通知が鬱陶しかった。
 全部悪い夢だと信じたかった。ついさっき話したばかりだった。朝はあんなに元気だったのに。嘘だと信じたくてラインを送っても、既読はつかなかった。
 夕方まで探し回っても、どこの病院かわからなかった。コートも着ないで飛び出したから、寒さで体には限界が来ていた。
「平賀瀬総合病院」
 一通の通知が来た。早月からだった。僕は急いで早月に電話をかけた。
「早月! 大丈夫?」
「昴の方が大丈夫じゃなさそうだけど……まあ、一応回復した。しばらく入院になるかも」
 早月の声を聞いて安心して泣きそうになった。でも、泣いている声を聞かれたら早月を不安にさせてしまうから、いったん電話を切った。
「ごめん、電波悪いっぽい」
 僕は嘘をついた。そのままテキストメッセージでやり取りを続ける。
「昴、今どこにいるの?」
「地下鉄」
 僕はまた嘘をついた。僕は今寒空の下にいる。
「昴が学校脱走したってラインでみんな大騒ぎしてたよー。私が倒れたことより大騒ぎだったかも」
「僕、優等生キャラじゃないからさぼりくらい普通だよ」
「さぼりはさすがに初めてでしょ」
「そうかも」
 画面の中では淡々とやり取りが進むが、僕は道の真ん中でうずくまって泣いている。
「入院中暇だから、いつでも遊びに来てよー」
 メッセージとともに、早月が宇宙人のスタンプを送ってきた。早月に一刻も早く会いたくて病院の前まで行ったが、面会時刻を過ぎていたので仕方なく家に帰った。

 親からの説教は上の空でやり過ごした。翌朝、僕は学校に行くふりをして早月の病院に向かった。また家に連絡が来ると厄介なことになるので学校には体調不良と連絡を入れた。
「あっ、さぼりだ。いけないんだー」
 早月は個室に入院していた。僕が病室に入るなり、僕をからかう早月の声は嬉しそうだった。明るい声とは裏腹に、腕に繋がれた点滴が痛々しかった。あの日僕の心を揺らしたポニーテールは、低い位置でサイドテールにまとめられていた。
 時々学校を休んでいるとはいえ、具合が悪そうにしているところを見るのは初めてだった。心のどこかで、病気なんて全部ドッキリでしたと言われるのを期待していたが全部打ち砕かれた。
「もったいないなー。皆勤賞継続中だったんじゃないの?」
「いいよ別に。中学で表彰されたとき、目立っちゃったし。僕、目立つの嫌いなんだよ」
「来てくれるのは嬉しいけどさー、さすがに毎日さぼらせるのは申し訳ないから明日からは放課後に来てよ」
 来るな、と言われなくてほっとした。

 学校のある時間に早月の病院に行くとかえって気を使わせてしまうので、翌日からはちゃんと学校に行った。いろいろと質問攻めにされたが、全部右耳から左耳に抜けていってろくに受け答えができなかった。何を答えたのかも覚えていない。
 六時間目が終わるとすぐに病院までダッシュした。一秒でも早く早月に会いたかった。一秒でも長く早月といたかった。
 日は少しずつ長くなっているとはいえ、面会時間終了よりも先に日は落ちた。病室の窓からは星が見えた。
「あ、アンドロメダ銀河発見」
 早月が北西の空を指さした。アンドロメダ銀河は肉眼で見える地球から最も遠い天体だ。
「250万光年だっけ」
 光の速さで行っても、250万年かかる距離。それでもまだ宇宙の深淵ではないのだから、宇宙とはどれだけ果てしない物なのだろう。
「行ってみたいな」
 早月がぼそりと呟いた。行けるよ、とは言えなかった。僕らが生きている間に、そんな技術ができるとは思えない。行けるとしたら、それは早月の死を意味するから。
「案外明日ひょっこり、宇宙人の方から会いに来たりしてな」
 そんな高度な文明を持った宇宙人がいるならば、今すぐここに来て早月の病気を治してほしい。そんな祈りをこめて言った。
「宇宙人って緑色なのかな」
 宇宙の話をする早月は楽しそうだった。病気なんて全部嘘だと思えるほどに。
「どうだろう? もしかしたら人間には視認できない肌の色かもしれない」
「えーっ、そしたら私たちに見えてないだけで、宇宙人が今ここにいるかもしれないってこと?」
 早月はキラキラした目ではしゃいだ。なあ、宇宙人。もしそこで聞いてるなら、今すぐ早月の病気を治してくれ。

 日に日に早月はやつれていった。
「あのさ、私生きてここ出られないかもってさ」
 窓の外を見ながら早月が言った。心臓と肺をつぶされたように息ができなくなった。
「なんかねー、オブラートに包んで言われたけど要約すると大体そんな感じだった」
 早月は僕の方を見なかった。
「実はさ、前回入院してた時にも一回余命一年って言われてさ、それは一回覆して今生きてるわけですよ。まあ、でもそう何度も起こらないから奇跡なんだよね。なんか、今回は正確っぽいね。体感、そんな感じ」
 早月は一気に早口でまくし立てた。わざとへらへらした口調で笑いながら言ったけれど、僕の方を一度たりとも見なかった。
「決めつけんなよ。奇跡が起こらないなんて」
 心の中で無責任な僕が産声を上げた。早月が驚いた顔をして僕の目を見た。
「僕が奇跡を起こしてやる」
 気休めの嘘でしか君を笑わせることができないならば、その嘘を本当にしてしまえばいい。僕は宣言した。
「僕が医者になって、早月を治す」
 真面目に勉強をしてきたのも、英語を忘れないようにしていたのも、全部このためだったのかもしれない。僕の人生は、早月のためにあったのだ。
「まだ一年あるだろ。アメリカの医大に留学して、飛び級する。来月までに何とかして編入して、一か月で一年ずつ飛び級して、半年以内に治療法見つけたら、間に合うんだ。僕ならそれができるんだ」
 最初からこうすればよかった。死んだ友達を宇宙に送るプロジェクトじゃなくて、友達を死なせないためのプロジェクト。もう二度と誰かを救えないなんてごめんだ。僕が十六年の人生で培ってきたすべてを早月のために捧ぐ。
「間に合わないよ、それじゃ」
 早月が悲しげに笑った
「間に合う、間に合わないじゃなくて、間に合わせるんだよ! 早月の十八歳の誕生日まで一年と三か月あるだろ!」
 余命宣告が正確ならば、タイムリミットは来年の五月だ。
「三か月だよ」
 わめき散らかす僕の言葉を早月が訂正した。
「ごめんね、黙ってて。私、病気で高校入学一年遅れてるから、今十七なんだ」
 僕は言葉を失った。
「二年前かな。中学で部活引退したちょっと後くらいから一年間ずっと入院してて、高校受けてないんだよね。推薦の話とかも全部断っちゃったし。日常生活は遅れるようになったから、最期に高校生やりたいなーって思って入学したけど、先輩扱いされるの嫌だから、先生たちには私がみんなより年上だって言わないでってお願いしたんだ」
 僕の学校は恐ろしくまともだ。教師の口は信じられないくらい堅い。僕が帰国子女だということすら秘密にしてくれているのだから、年齢なんて孤立に直結しそうな事情を言いふらす教師がいるはずもなかった。
 天真爛漫な中にもどこか大人びていて僕には敵わないという雰囲気があったのも、同級生よりも先輩たちといる方が自然体に見えたのも全部説明がつく。
 ということは、早月は本当は僕より一つ年上で、早月の十八歳の誕生日。Xデーは来年ではなく今年の五月。あと三か月だ。あの日、僕が一年半だと思っていた余命は実は半年しか残されていなかったのだ。
「だったら、あと三か月でできること、僕が探す」
 僕の声は震えていた。窓の外に星が見えた。夜空は皮肉なほどきれいに晴れ渡っていて、冬の澄んだ空気の中無数の星が瞬いていた。僕は思い出す。願いを叶える、全世界共通の魔法を。僕は窓を開け放った。
「早月の病気を治してください、早月の病気を治してください、早月の病気を治してください」
 夜空に向かって叫ぶ。流れ星が消えるまでに三回願い事を唱えたら、どんな願い事も叶う。僕らが鬼ごっこをしたあの日、僕は流れ星を見送ってしまった。今までの人生でたくさんの流れ星を逃してきた。その一つにでも願えていたら、運命は変わったかもしれない。
「昴、もういいよ」
「よくない! ずっと叫んでれば、流れ星がいつ来ても三回間に合うだろ!」
 滑舌には自信がある。アメリカ人より早口で英語を話すことだってできる。早月のために使えるものはなんだって使ってやる。
「早月を治して」
 僕は泣きながら叫んだ。十六歳にもなってこんな迷信に縋るしかできない。
「早月を助けて、助けて、助けて、助けて」
 床に膝をついて泣き続けた。流れ星は一向に現れない。成績がよくたって、英語ができたって早月を助けられないなら意味がない。どんなに足が速くなっても、流れ星一つ捕まえられない。
「もういいよ」
 後ろから早月に抱きしめられた。
「もういいよ、昴」
「ごめん、早月」
 掠れた声で謝ることしかできなかった。早月のおかげで少しだけ僕は自分のことが好きになれたのに、僕は早月に何もできなかった。
「昴にしかできないこと、頼んでいい?」
 優しい声で早月が言った。早月は笑顔だった。
「聞く。なんでも聞く。早月の望みなら全部叶えるから、生きてくれよ」
 早月がまっすぐに僕の目を見て言った。
「私ね、昴のことが好き。だから私と本当の恋人になって。最期まで昴と一緒にいたい」
 その瞬間、僕はようやく気付いた。僕は早月のことが好きなのだと。ああ、やっぱり僕は肝心なところでダメ人間だ。女の子に先に言わせるなんて。
「僕も、早月が好きだ。宇宙で一番、大好きだ」
 僕は早月を強く抱きしめた。このまま時間が永遠に止まってほしいと思った。