第4章『またね、あの場所で。』

 私は「またね」という言葉が嫌いだ。
 それはお父さんが亡くなる前に残していった言葉だったからだ。
 父はあまり「またね」と言う人ではなかった。
 私がほしいと言ったものはすぐに買ってくれたし、たくさん甘やかしてもらった記憶がある。

 しかし、お父さんが行方不明になる日の朝、私は
「お父さんが釣ってきたマグロが食べたい」
と言った。それに対して父は
「マグロかぁ。それはちょっと難しいかも知れないな。また機会があった時な」
と返した。

 結局、お父さんがもう釣りに行くこともお父さんが釣った魚を食べることもなかった。
 そのときから私は「また」という言葉を信じなくなり、使わなくなった。
 人生はいつ何があるか分からない。

 もしかしたら明日はないかも知れないし、一秒後の未来だって分からない。

 未来に「幸せ」を期待しないって決めていたのに。……どうして。


                *


 私と啓太が奇跡的な再会を果たしてから半年が経った。

 あれから私の頭の中には啓太の事しかなかった。

 両思いだということは確かめあったのに、私たちの関係は曖昧なものだった。

 友達関係は一緒に話したら友達だよ、みたいな暗黙の了解があるが、
 恋人関係は「付き合って下さい」「はい、私で良ければ」
 みたいな一連の流れが大体決まっている。

 今振り返れば、私たちそんな流れしなかった。

 啓太なら
「えっ、もうあれって付き合ってる判定じゃなかったの?」
 みたいな返事が返ってきそうだが、食い違いが起こると怖いので曖昧な関係ということで私は理解しておこう。

 冬休み直前の十二月中旬。

 週末だというのにうちの旅館は閑散としていた。
 最近は三組ほどお客様がいれば良い方かなと思えてくるくらい客入りが少なかった。
 今年は異例の寒さで伊東でもたぐいまれな頻度で雪が降ると予想されている。

 一碧湖はもう早速、フィギュアスケートができるくらいに水面が凍っている。

 こんなに寒い冬になるというのに小雪はあれからずっと帰ってこない。
 もしかしたら、またどこか家に勝手に居座っているのかも知れない。
 うちに来る前も小雪は元々野良猫だったから。

 少しゲームをして、宿題をしてから、お隣に回覧板を回しに行く。

 ピンポーンと呼び鈴を鳴らすと、すぐに顔見知ったおばちゃんが出てきて、「寒いのに偉いねえ」と言って玄関を開けたまま居間に戻っていった。
 少しして、おばちゃんはまた袋いっぱいに詰め込んだお菓子を差し出してきた。

 うちのご近所さんはみんな優しい。
 夏にはたくさんの野菜を持ってきてくれるし、冬には蜜柑が食べきれないほどやってくる。
 余ったらいつもお客さんに食べてもらうようにしている。

 私はおばちゃんにお礼を言って静かに戸を閉め、家に戻った。

 すると、家の玄関の前には小さくて真っ白な背中の来客があった。
 一瞬猫のように見えたその背中だが、二本の足で立っていたので猫ではないのかと思った。
 その見覚えのある真っ白な猫ともなんとも言えない生物は小さな右手を丸めて玄関の戸をこんこんと叩いた。

 私はその姿に驚いて立ち尽くしていると、その白い生き物が後ろを振り返り、ジッと見つめる私に気がついた。
 慌てた様子で前足を地面につき、私を見つめてからふあと大きなあくびをする。

 それから一つ「にゃあー」と鳴いた。
 私は半年ぶりに小雪を見つけた。

 私はこの半年間、小雪の心配ばかりしていた。
 猫らしくないこの猫だが、最近は飼い猫らしく私たちがご飯をあげていたため、野生に戻ってもご飯の取り方を忘れてしまったのではないかと思った。
 どうせなら、私たちのように誰か餌を与えてくれる人のもとに居候していてくれた方が良いなと思っていた。

 そして私は帰ってきた小雪を見て、怒りがふつふつと湧いてきた。
 私の想像以上に面倒を見てくれた人が甘やかしたのだろう。
 ぶくぶくに太ってやがる。

 心配なんてする必要もなかった。
 私は怒りに任せて小雪を追い出してやろうかと思ったが、うちでしっかりと体重管理する必要があると感じた。
 そして、小雪がまた現れたことに何か嫌な予感を感じ取った。

 家の中に入り、ソファに腰を下ろす。
 ずでーんと上半身も倒し、上向きに寝っ転がる。
 小雪も私の隣に来てすとんと腰を下ろした。
 私たちは目をつぶり、夢の中へと旅へ出た。

 私はその旅先の夢の中で悪夢を見た。
 うなされながら目をゆっくりと開く。

 誰か大切な人が私のところからいなくなってしまう夢。
 顔は見えなかったけれど、過去の経験がまた呼び起こされる。

「もう大事な人がいなくなるのは嫌だ!」と夢の中で叫んでいた気がする。

 隣で同じく眠っていたまん丸な小雪は私が起きたときの物音でむくっと目を見開いた。
 再度目をつぶり寝ようとするが、一度起きたらなかなか寝付けない。
 人間も猫も同じようで、とうとう諦めて起き上がった。

「にゃあ、にゃあー」

 小雪は可愛らしく鳴く。
 ご飯をせがむように。

 私は仕方なく少しだけおやつをくれてやる。
 さっき、ぽっちゃりと激変した小雪に向かって文句ぶーぶー言っていたくせに結局甘やかしてしまうのはどこのどいつだ。
 猫らしくない行動をよくする小雪だが、猫らしいときの小雪は一言では言い表せないほど可愛い。

 小雪は一応旅館の看板猫であるため、私たちの自宅ではなく三歩離れた旅館自体に住み着いている。

 だから、小雪のご飯やらなんやらは全て向こうに置いてあることに気づいた。
 私たちは一度家の玄関から外へ出て、旅館なぎさの中へとおやつを求めて移動していく。

 建付けの悪い戸をがたがたと揺らしながら開く。
 中を見渡すも人が誰もいない。
 私と小雪は音を立てて軋む長い廊下を端まで歩いて行く。

 カラーボックスの中をあさりながら小雪にどのおやつをあげようかと考えていると、ジリリリリーと廊下に置いてある電話がなった。
 誰もいないのでここは私が出るしかない。
 走って向かい、踊りながら音をならす黒電話の受話器を取った。

「はい、もしもし。旅館なぎさでございます」
『あの、吉田菜月さんのご家族の方ですか?』
「いえ、私が本人ですが……」
『それは失礼しました。私は和泉啓太の母です。菜月さんにお伝えしなければいけない事がありまして……』

 私はその言葉を聞いてごくんと唾を飲み込んだ。この口調と空気感はただならない。

「ガッシャン」

 私はその後、啓太の母から発せられた言葉を聞いて受話器を手から滑らせた。
 膝から崩れ落ち、ぽっかりと穴の開いた心で愕然とする。
 隣には小雪がやってきて「にゃあにゃあ」と鳴き、
 力なく垂れ下がった黒い受話器は「ぴーっぴーっ」という間延びした通話終了を告げる音を廊下に響き渡らせる。

 この感情をなんと表現したら良いのだろうか。
 ただただ、悔しいと悲しいだけが心と頭の中でぐるぐると回る。
 一番聞きたくなかった言葉を聞いてしまった。


 私の好きな人が、和泉啓太が、……亡くなった、と。


                *


 私はホールの中をぐるっと見回す。

 他の事を考えていないと、どうにも自分がおかしくなってしまいそうな気がしたから思考を巡らすのに、その思案もままならない。
 たくさんの参列者がいる中で、やはり目立ったのは私と同じくらいの子どもの数だった。
 おそらく啓太は、私と違ってたくさんの友達がいたのだろう。
 みんなが涙を目に浮かべ、何もない天を仰いでいる。私もそのうちの一人だった。

 啓太の母から旅館の古びた黒電話に連絡が届いてから数日が経ち、私とお母さんは浜松で執り行われている啓太の葬式に来ていた。

 あまりにも突然の話だった。

 啓太の母から聞いた話だと、あの夏から病気の状態は徐々に悪化していったらしい。
 最初の頃はまだよかったもの、1ヶ月くらい前から病状が深刻化し、余命まで宣告されたが、そこに行き着くまでに疲れ果ててしまったみたいだ。

 啓太の母は元気なうちに私に伝えたかったと言ったが、悪化が早すぎて伝えるとかえってショックを受けるだろうからという心遣いがそこにはあった。
 その優しさに対して有り難いとも思った反面、できることなら啓太も辛かっただろうからそばにいてあげたかった。
――なんていうのはただ私がそばにいる言い訳でしかないのか。

 右隣に座っていた人が立ち上がり、前方へと進んで行く。
 私も流れに沿って焼香のために席を立ち上がる。
 前の人について焼香台までやってくる。

 床を見つめていた私の視線はふと上昇し、啓太の遺影が目にとまった。
 何度も見たあの笑顔。

 しかし、初めてこの遺影と同じ弾けんばかりの笑顔を見せたのは伊東で再会したときだった。
 入院中も笑顔を絶やさなかった啓太だが、私にはその笑顔が無理をしているように見えた。
 どこかぎこちなさが残る苦笑いのような、それでも一緒にゲームをしているときはその笑顔も少しは柔らかくなった気がした。

 病気が発見された当時から、長くは生きられない、と告げられていた啓太。

 それが奇跡的に三年の間なんとか耐え抜いてきた。
 啓太にとっては、いつ死んでもおかしくない状況で一日一日を迎えることがどんなに怖かったことだろうか。

 常に死の恐怖と向き合わなければならない十歳前後の少年の気持ちなんて、私には分からない。

 でも、もっと生きたかっただろうなということは、いくらなんでも私にも分かる。
 というよりか、私がもっと啓太に生きてもらいたかった。

 零れそうになる涙をぐっと堪えて、私は焼香を済ませる。

 ホールの中のどこを見ても、涙を流していない人がいなかった。
 それだけ、啓太が周りに与える力が大きかった事を表している。
 私だって、啓太が治療を頑張っていることを知っていたから頑張れたし、大人びている啓太にもっと近づきたいと一生懸命努力した。

 しかし、その私の努力は報われることはなかったし、これから一生報われないのだと実感した。

 私は啓太との日々を思い返す。

 病院で初めて出会ったあの日、啓太が内緒でこっそりと食べてくれた私の苦手なトマト、ゲームでようやく啓太に勝つことができたあの瞬間、私が退院するときに寂しそうに見せたあの笑顔……。

 そして、伊東の海で再会したときに見せた驚いた顔、私と小雪を追って見た花火、早朝の海でお互いに水浸しになったあの日、私の唇に触れた初めての柔らかい感触……。

 脳裏に焼き付いた、啓太との思い出が、私の初恋の全てがスライドショーのように次から次へと空っぽの心へと流れていく。

 私の心が勝手にひゅいひゅいと彷徨っている間に、口はただ「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱え続け、やがて通夜が終了した。
 その後のお坊さんの話は、左の耳から入り、そのまま右の耳へと抜けていった。

 啓太の母がわざわざ話しかけてくれたが何を言っていたか全く覚えておらず、いただいたお寿司の味も記憶がない。
 微かに汗のようなしょっぱい味がした気がする。


                *


 その晩は浜松市内のホテルに泊まって一夜を過ごした。
 私はホテルに着くなり、着の身着のままでベッドにダイブした。
 疲れがたまっているのだろう。
 眠たいようで寝付けない。先ほどの通夜の様子が思い出される。

 私は絶対に泣かないと心の中で決めていた。
 それは父の葬式の時から母が口にしていた言葉だ。

「泣いても何の供養にもならない。
 逆に不安になって安らかに眠れないでしょ。
 だから、泣いてる暇があったら、少しでも思い出を思い出す方が供養になるんだよ」

 その言葉を思い出した私は、急に目がかゆくなって擦った。
 腕には湿った感触があり、私はぎょっとした。

 絶対に泣かないと決めていたのに。
――でも、「心の中で」だから仕方ないのかも。

 しばらくして、途端に涙腺が大崩壊した。
 まるでぎりぎりまで我慢していたダムの水が一気に流れ出すかのようだった。

 私がうつ伏せで寝転がったベッドはみるみるうちに涙を含んで、あの日の私と啓太の服のようにびしょ濡れになった。
 永遠と出てくる涙、廊下にまで聞こえそうな程の鼻をすする音と嗚咽が響き渡る。
 後悔してもしきれない、悔やんでも悔やみきれない。ただその言葉だけが頭に浮かぶ。

 私は初めての失恋を「彼の死」で経験した。

 私の好きな人はもうこの世界にいないし、二度と現れることはない。
 両思いだったというのに私たちはまだ恋人にもなれなかったし、恋人のような何かもまだできなかった。

 啓太がくれたのはたった一つ綺麗な貝殻だけ。
 その貝殻も啓太亡き今、輝きは微塵も感じられなかった。
 中身がなくなってしまえば、人も貝も残るのはそのものを覆う殻だけだ。本質は外見だけでは分からない。

 外には雪が降っている。
 街には電気が灯っている。

 私の心は真っ暗で、涙がしとしとと気だるく降り注いでいる。
 そして、街の至る所にクリスマスのお祝いムードが満ちている。

 世界は私とは真逆に回っているようだ。

 私が前へ進めば、みんなが後ろに下がる。歩道を仲良く歩く恋人同士に目を取られ、私は世の中の不条理さを感じる。
 あっちへ行ったりこっちへ行ったりと目まぐるしく動き回る私の心を捕まえて、正気に戻ろうと試みる。

 右手にふと痛みを感じ、視線を落とす。
 私の意思に反して勝手に堅く握られた右の拳をゆっくりと開いてみると、粉々になった貝殻が身を露わにした。


                *


 翌日、私は怠い体を一生懸命に起こし、ベッドから立ち上がった。
 慣れないホテルで眠りが浅く、首はがちがちに寝違えている。
 目元は滝のように流れ出た涙がかさかさに乾燥していて、見るに堪えない形相をしている。
 素早く身支度を済ませ、朝食を目指して食堂へ移動する。

 私はお皿に薄切りの食パンを一枚と少々のサラダを盛り付け、テーブルを挟み母の前に座る。
 無心に食べ進めると、あっという間に皿の上は綺麗さっぱりになっていた。

 荷物を全て持って、忘れ物を確認して、私たちはホテルを後にする。
 暖かい館内から外に出た体に冷たい風が巻き付くように吹き、より一層寒く感じる。身を縮め、急いでタクシーに乗り込んだ。

 その日も葬儀、告別式……と淡々と時間が過ぎていった。

 出棺の時刻が迫り、棺の中に一人一人花を入れていく。

 これ以上涙を零したくなかった私は静かに逃げようとしたが、その前に啓太の母に花を持たされ、渋々もう動くことのない啓太の体に近づいた。
 啓太の顔を見た瞬間にまたもや涙が溢れ出てくる。

 棺に手をかけないと崩れ落ちてしまうくらい全身の力がふっと抜けた。
 眠るようなやさしい顔。
 私が何度も入院中にドッキリを仕掛けようとして見た顔だ。
 整った顔に自然と私の手が伸び、啓太に触れる。
 冷たい。
 そして、唇にもあのときの柔らかい感触はない。

 もうあの日々は戻らない。私はこみ上げてくる思いを抑えきることができなかった。


「大好きだよ。啓太! ずっとずっと、大好きだからね」


 その後の記憶はない。
 お母さんによると、しばらく声を上げて泣いた後、泣き疲れて寝てしまったという。
「もー大変だったんだからね」と母は恥ずかしげに言った。


                *


 それから四半世紀が経った。
 私は啓太が生きた時間の三倍もの時間を今生きているところだった。

「次の方、どうぞ」

 私はあれから必死に勉強して、医師になった。
 理由は単純明快。

 啓太のようにがんで亡くなる子どもを減らしたいと思ったからだ。
 そして、同じ思いで医師を目指していた啓太の遺志を継ぐためだ。
 だから、私は小児科医になった。

――もうあのときのような悲しい思いをする人を出したくない。
 私のためにも、啓太のためにもそれが一番だと思った。

 二人の子どもにも恵まれ、私は一般的に幸せと呼ばれる人生を送っていた。
 夫とは大学のサークルで出会い、それもまた医師になった。

 他から見れば全てが順風満帆に見えるだろう。
 しかし、啓太への思いが途絶えることはなかった。
 私の本当の愛する人は残念ながら夫ではない。それでも上手くやっている。

「優太、お母さん来たよ」

 夫の母が家にやって来た。
 そして、その人は同時に私の愛すべき啓太の母でもあった。
 今度、家族みんなで旅行をしようということになり、行き先を決めるところだった。

 義母も夫も四歳になる長男に「どこ行きたい?」「何したい?」と頻りに質問攻めする。
 近場でしか遊んだことのない長男は大きく広がる夢に一生懸命思案する。そして、口を開いた。

「僕、また伊東の海に行きたいな。ね、なっちゃん」

 伊東に行ったことのない長男が「また」なんて言葉を言い出した。
 父親譲りのその整った顔はまるであいつを連想させた。
 兄弟、親子揃って似たような美少年揃い。

 しかし、今回は似ているのが顔だけではなかったような。

 自分の息子に好きな人の影を重ねてしまうなんてと思いながら、長男から発せられるあいつと同じオーラを感じ取る。
 私がただ単に疲れているだけなのか、愛情が足りないだけなのか、あらゆる可能性を思い浮かべる。
 
 そして、最も可能性の低いある事象が頭の中に浮かぶ。
 私のあらゆる可能性が全て否定されるのならば、それはもしかして……。

 また好きな人に、啓太に会える方法がすぐ目の前に来ているのかも知れない。


「愛してるよ、菜月」


 口を開いた長男の隣には二本の足で立つ、真っ白な猫のような背中があった。

 小雪は一つ「にゃあ」と鳴いて、右手を高々と上げた。                       <了>