「……フェア?」
「そう。すごくフェアだよ。だってさ、私はもうすぐ死んじゃうけど、きみは長く生きるでしょう?」

 僕は、上手に返事ができなくて黙り込む。
 かまわずに、維麻はおだやかな口調で続けた。

「私が経験しないものを、きみはこれからたくさん経験する。私にとっては一生の思い出でも、きみにとってはそうじゃない可能性が高いじゃん。こうやって登山鉄道にだって、きみはこの先、違う誰かと一緒にまた乗っちゃうかもしれないでしょ? それって、ずるいじゃん」

 いつも歯切れがよくて、ぽんぽんと会話が弾む維麻とのやりとり。
 こんなに長々と喋る維麻は、なんだか新鮮だった。

「そんなことない、と思うけど」
「そんなこと、あるんだよ。きみは生きて、いろんな思い出を上書きしていってしまう。それってフェアじゃないじゃん」

 淀みなく紡がれる維麻の言葉は、きっと今まで心のなかで何度も何度も繰り続けていたものだ。

「この彗星だったらさ、東条維麻と見たぞって思い出だけが和也の中に残るでしょ?」

 それって、とってもフェアだと思う。

「……そうだね」

 僕は頷いた。
 この世界から途中下車してしまうことを、維麻は深く悲しんでいるのだ。
 ──僕が始発から終点まで電車を乗ることが好きなのは、途中下車するのが嫌だからだ。この先で見える景色や、電車が走るカーブ、何もかもを味わうことができないから。
 終点で降りるときにはいつも、満足感で足取りが軽くなる。

 けれど、維麻は。
 彼女はこの先、遠からず人生という名の電車から降りていく。
 どんなに悔しいか、悲しいか。
 けれど、維麻はそんなことをおくびにも出さずに僕の隣で微笑んでいて。
 激情によって悪化する病気を患う彼女は、感情をコントロールする術に長けている──そうすることで、今日までを生きてきたのだろう。

 スマホを握る維麻の手に、僕はそっと自分の手を重ねた。
 心臓が痛いほどに脈打っている。

「え、ちょ、和也?」
「わかった。八月の彗星、ぜったい維麻と一緒に見る」

 維麻の体温が、少し上がったのを感じる。
 ……これ、「感情の昂ぶり」じゃないよな?

 そっと、維麻の様子をうかがう。
 体調は悪くなさそうだ。
 本当はもっと、強く維麻の手を握りたい。
 けれど、どうしようもなく気恥ずかしくなってしまって、そっと手を離した。これ以上こうしていたら、僕の手がみっともないくらいに手が細かく震えていて汗ばんでいるのが、維麻にバレるような気がした。

「ご、ごめん」
「別に謝るようなこと、何もないじゃん」

 維麻はいつもの調子、に見える。
 いつも怖いくらいに白い維麻の肌が少しだけ紅潮しているように見えるのは、僕の自惚れじゃないといいなと、神様に祈った。

「僕の家にさ、兄貴の天体望遠鏡があるんだ。安いやつだけど」
「いいね、八月が楽しみだな」

 八月。二ヶ月先の約束。
 それが、維麻にとって現実的な約束なのかは、考えないようにした。

「うん。いいね、すごくいい」

 維麻はまた、僕にはわからない理屈の美しさに納得している。
 そんな姿は、なんだか僕よりもずっと年上に見えて。
 あるいは、とても幼い女の子のようにも見えて。

「やっぱり……、夏がいいよ」

 すぐにでも、維麻が遠くに行ってしまいそうで怖くなる。
 蒸し暑いはずなのに、ひやりと涼しい風が肌を撫でたような気がした。