――――夏も悪くない。

 そう思えたのも束の間、私はバス停を目指して歩く道中でやっぱり夏って最低だと考えを正した。
「ねぇ。何でこんなにバス停遠いの?」
「全く。小娘は文句しかたれんのう。最後の最後まで世話が焼けるとはまるでお主じゃな」
 二歩前で歩く葵が隣の千雨を見上げると、千雨は頬を掻きながら苦笑いした。
「ほれ。もうすぐじゃ。あそこに見えたぞ。ほれ頑張れ頑張れ」
 葵が指差す真っ直ぐ伸びた道の先に、小さく待ち合い小屋が見える。
「春乃。もうすぐだよ」
「わかってる。わかってるよもう」
 振り返って微笑む千雨に悪態をつくけど千雨はやっぱり怒らない。嫌な顔もしない。
 結局、最後の最後まで千雨は微笑みっぱなしだった。
「到着じゃな!」
「うん! 春乃! お疲れさま!」
 私は手を挙げて答えると、待ち合い小屋のベンチに傾れ込むように座った。
 相変わらずの夏真っ盛りなBGMは鳴り止む気配もない。夏はまだまだ続きそうだった。
「では。ワシは行くとするわい」
 葵は私と千雨に背を向けて顔だけ振り向かせる。行くと言ってもそっちには田んぼしかないんだけど。
「うん。今までありがとう。迷惑ばかりかけて申し訳ない」
「良い。部下の面倒は上司が見る。これは当たり前の事じゃ。まぁでも次の部下はせめてヒヨッ子を卒業してくれる者じゃと助かるがな」
 意地悪く笑う葵に千雨は頬を掻いて首を傾げる。その苦笑いが意味するものは良く分からなけど、葵がもう行っちゃうて事はわかった。
「小娘」
「何よ」
「貴様はこれぞと言っていい程のガキじゃったな」
「うっさい」
「ふん。まぁ良い。それで良いのじゃ。貴様はガキなんじゃからな。そのままで良い。それよりもこの世話を焼きたくなるワシの性格をどうにかせんとな。ついつい余計な事を口走ってしまう。まぁ良い勉強になったわい。顔が見れて、会えて良かったぞ」
 葵の体がまばゆく光を帯びだす。夏の音はいつの間にか止んでいた。
「千雨よ。貴様はヒヨッ子なりに良くやった。立派に弁離士の務めを果たしておったぞ。胸を張れ」
「うん。うん。こちらこそ最高の上司だったよ」
「知れた事を。それとな春乃よ」
「な、何よ」

 ――――願わくば、変わってくれるなよ。

 一瞬の出来事だった。一気に光を放った葵の体は次の瞬間にはもうなかった。
 でも、耳に残ったのは確か葵の言葉だった。
 春乃と呼ばれて、何となく身構えた私に伝えた最後の言葉は「変わるな」だった。
 私はやっぱり最後の最後まで葵の言っている事が上手く掴めないままお別れをしてしまった。あれだけ文句を言い合っていたのに変わるなって……実は結構、私の事気に入っていたのか?
「さーてと。僕ももうそろそろだ」
「え? 千雨も?」
 隣に腰を下ろす千雨の腕を掴む。まさか、こんな所で千雨ともお別れするなんて思いもしなかった。
 せめて、市街地に戻るまで一緒に居てはくれないのだろうか。流石にこんな所で置いてかれてしまったら、私も心細い。と言うより、どうしたらいいかわからない。
 バスがいつやって来るかもわからないのに
「さて、何から話そうかな」
 千雨は私の頭を撫でる。そんな状況じゃないのに。そんな事されている場合じゃないのに。私はその手を振り払えない。
 何だろうこの気持ち。
 悲しくて寂しくて、でもとても愛しいこの気持ちは何て言ったっけ。
「そうだな。じゃあまず哲さんの事なんだけど」
「え? 哲さん?」
 意外な名前が出てきて、つい顔を上げると千雨の優しい顔が飛び込んで来る。
 目が合うと、その顔は小さく頷いた。
「うん。葵が色々と頑張ってくれてね。特例として君の記憶だけは残る事になったから安心してくれ。だからまたいつでも会いに行けるよ。約束通りちゃんとまた顔見せてあげてね。あと何かあったら頼ると良い。別になんなら一緒に暮らしてもいいしね。あの人なら僕も安心だし」
「何言ってるのよ。突拍子もない」
「でも、ちょっと嬉しいだろ?」
「うん、まぁ良かったとは思ってる」
「そんな顔してるよ」
「うっさい」
「ふふふ。じゃあ本題に移ろう。そんなに時間も無いしね」
「そっか全部話すって約束だもんね」
「うん。春乃。実は君を助けたのは仕事じゃないんだ」
「え? どういう事?」
 私は体を起こして、千雨と視線を交わらせる。その顔は笑っていたけど寂しそうだった。
「今回、僕らの仕事は三件。実は初めに会った君は含まれていないんだ。つまり君に関わったのは仕事外の行動。そしてこれは本来、規定違反でね。まぁ簡単に説明すると下手に関係ない事象に干渉すると色々面倒な事になるから禁止されているんだけど。まぁ僕はそれを犯してしまったんだよ。だからその罰として僕は今回の仕事が終わると弁離士の資格を剥奪される。つまり成仏するんだ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 情報が多すぎて理解出来ないんだけど! 規定違反って何なの? 弁離士の資格を剥奪って。大丈夫なの? え、でも。あれ? じゃあ何で私の事、名前も知ってたし色々調べてあったのよ」
「そんなの……調べなくても知ってるよ。春乃。僕は君を守る為に弁離士になったんだから。だからいいんだこれで。何も後悔は無い。葵も最初から知っていて協力してくれたんだ」
「ね、ねぇ、ちょっと待ってよ! 何を言ってるの? どういう事? 私は千雨の事知らないわよ?」
「春乃。僕は君を知っている。君も僕を知っている。僕が弁離士になって記憶が無くなっちゃっているだけだ。僕はね、あの時、この先いつか来るかも知れない君のピンチに駆けつける為だけに弁離士になったんだ。だからさ、春乃。まだ弁離士の力が残っているうちに言うよ。今まで隠していてごめんね。本当は僕は君に」

 ――――さよならを言いに来たんだ。

 あるはずのなかった記憶が一気にパズルのように現れる。
 一瞬で、あたかも元からそこにあったかのように当たり前にそれらはあった。
 無かったのではなく気付かなかっただけ。
 いや、それも違う。もう少し別の感覚。だけど、何かそれを表す言葉が無い。
 でも、確かにそれはあったんだ。私は知っていた。知っていたんだ。ずっと前から今までずっと。

 ――――私はこの目の前の人を知っていた。


「お父……さん?」


「やっとそう呼んでくれた。大きくなったね。春乃」
「お……とう……さん。お父さん!」
 私はあの日、最後に見たままのお父さんに抱きついた。
 そうだ。あの事故は私から『両親』を奪ったのだ。母はギリギリ息を残していたけれど、助手席に座る母を守る為にハンドルを切ってカーブを曲がりきれずに飛び出した対向車に父はその身を差し出した。私は会わせてもらえなかった。死んだ父に。
 恐らく損傷がヒドかったのだろう。私への配慮だったんだと思う。恐らくその時にはまだ父は弁離士になっていなかったはずだ。母は父の事も話していたから。そうだ。そうなんだ。
 いつでも笑って私を許してくれるのはお母さんだけじゃなかった。お父さんもそうだった。
 きっとお父さんはずっと見守っていてくれたのだ。先に消えた母の代わりに。存在を全て引き換えにして、私の為だけに。
「春乃。ごめんね。つらい思いをさせてしまったね。でも、君ももう立派な高校生だ。ちゃんと分別がつく。まだまだ子供だけど、これからは自分の足で歩かなきゃならない。酷な事を言うけれど約束通り全部伝えるよ」
 お父さんは私の肩を掴んで、グッと体を離した。そして溢れる涙をそっと拭うとまたいつもの優しい笑顔を向けてくれた。
「いいかい。もうお母さんは成仏していない。どこにもいない。この世にもいなければ空から君を見守っても居ない。そして僕ももうすぐそうなってしまう。僕らはもう君を守れないんだ。見守る事すら出来ないんだ。だから何かあったら哲さんを頼りなさい。受けた恩はいつか返せば良い。だから遠慮はするな。きっとあの人も喜んで受け入れてくれるはずだから。だからもう一人じゃないんだよ春乃。どこにもいないけど、お父さんもお母さんも思い出として君の中に残っている。もう会えないけどいつだって思い出せるだろう? それでも寂しくなったら哲さんに笑い飛ばしてもらえば良い。あの人はまだまだ春乃に言っていない面白いエピソードが沢山あるんだ」
 私は後から後からあふれる涙を拭いもせずにただ真っ直ぐお父さんの目を見て何度も頷いた。
 もうすぐ、もうすぐお父さんも消えてしまう。
 突然、会えたお父さんがまた突然目の前から消えてしまう。
「春乃。君はお母さんに似て素直じゃないし、考えすぎる所があるけれど。悩む必要なんて無いんだよ。君の出そうとしている答えはまだどこにもないんだから。人生の意味は人それぞれだ。そしてそれを全うした時にようやく見つかる解なんだよ。だから生きる為の理由なんてもともと必要ないんだ。春乃。覚えてる?」
「な……にを?」
「お母さんの最後の言葉」
 私は首を横に振った。親不孝者な私は大事なその言葉を理解どころかそのものを忘れていた。
「お母さんは最後にこう言ったんだ『笑って過ごしてくれるのであればそれで良い』って」
 お父さんは私の頭を撫でて笑う。けど、その目からは涙が溢れていた。
「僕も同じ事を思っているよ。春乃。つまんなかったら……つらかったら……苦しかったら……いくらでも逃げて良い。何も気にする事は無いよ。何も恥じる事はないよ? 気にする事は一つもない。好きに生きていいんだ。笑って生きてくれさえすれば良い。春乃が生きる理由を探す必要なんて無い。そんなもの……探さなくていいんだ。ねぇ春乃。お母さんとお父さんが君を『生んだ理由』があるんだから。生きる理由は無くていい。僕たちが生んだ理由。それが君がここに生まれた理由なんだよ。意味なんだよ。君の笑った顔が見たい。たったそれだけの理由なんだけど、お母さんとお父さんにとっては何よりも大事なものだ。君が生まれた立派な立派な理由だ。ずっと君の笑顔を見ていたいんだよ。だからさ、深く考えなくていいんだよ。何も悩む必要なんて無いんだ。好きに……自由に生きなさい。春乃。大丈夫。君は僕たちの子供だ。自慢の娘だよ。春乃……大きくなったね。良くここまで立派に育ってくれたね。お父さんは嬉しいよ。あぁもっと沢山話したかったなぁ。もっといっぱいご飯食べさせてあげたかった。美味しかったね。あの中華料理屋さん。多分、春乃の事覚えたよね? あとさ、紅茶のシフォンケーキ。結局三つ食べちゃうんだもん。楽しかったなぁ。いっぱい笑った。沢山、沢山幸せをありがとうね。春乃。大好きだよ。春乃……元気でね。春乃……春乃」



 ――――さようなら。



 最後に見たお父さんの顔はとても幸せそうな笑顔だった。いつもの笑顔だった。
 でも、葵の時と違って光ったりもせずにまるで本当にそこに居たのか疑ってしまうくらいあっさり消えてしまったものだから、私は思わずお父さんの痕跡を探してしまう。
 さっきまで座っていたベンチにも温もりはない。
 畦道についた足跡も消えていた。
 周りにはお父さんがここに居たことを証明するものは何一つなかった。

 ――――どこにもいない。けど、思い出として君の中に残ってる。

 今さっき言われた言葉が浮かんで来る。
 私は足を止めて、深く息を吐きながらベンチに腰を下ろした。
 そっと頭を撫でてみる。あの感触。
「……本当だ」
 私は胸の奥に残った温度を確かめるように不思議な弁離士手伝いとしての日々を思い出しながら、空を見上げた。
 底知れぬ夏の青。
 障害物の雲は大小問わずゆっくりと漂っている。
 簡単じゃないこの気持ちに答え何かない。必要ない。
 複雑なんだ。複雑で良いんだ。そんなものよりもっと単純に簡単なものに目を向けよう。
 考え過ぎはお母さん譲り。
 紅茶味好きはお父さん譲り。
 人生の命題なんかより、私にとってはこんな簡単な事実の方がよっぽど意味がある。
 それで、十分じゃないか。

 空を見上げながら私は大きく伸びをして、そっと別れの言葉を呟いた。
「ありがとう」
 言葉は色も形も残さず、吸い込まれて行った。
 どこへも届かずただ、ゆらゆらと漂って行く。
 本当だ。答えは出た。問題は違ったけど、私は変われた。救われてしまったのだ。
 救ってくれたのだ。
 複雑だから簡単には説明出来ないけれど、ガキの私には言葉に出来ないけれど。

 この夏空の見え方がそれを証明していた。