私が盗まれた翌朝、彼は『名前』をくれた。
『サフィー』。名前はこれまでは生きるのに必要なかったものだった。「お前」とか、優しい人なら「お嬢ちゃん」とか私を指すのに私だけの言葉はなかった。
胸にあたたかいものを感じながら、もらったパンを食べていると、ふと彼の名前を知らないことに気づいた。
「ねぇ、あなたは?」
「ん?」
「名前、教えて。」
「あ、そっか、オレはね、トム。トムって呼んで。」
そして私たちの生活が始まった。
トムは日中はスラムで仕事をし、夜も怪盗業のため、たまに出かけていた。神出鬼没なイメージの怪盗がいそいそと準備をしている姿はなんとも不思議な光景だった。私はというと、これまでしたことない家事をするので精一杯だった。トムはスラム街ではマシな生活と自分で言っていただけあって私が誘拐される前に住んでいた場所での生活とは全く違った。食べ物は腐っているものではないし、寝床はあたたかい。身体や髪を洗うのに石鹸も用意してくれた。
数日経つ頃には家事も要領良くできるようになった。朝ご飯を用意してトムを見送ってから洗濯をする。あたたかい日差しがあるうちに見える範囲に洗濯を干しておく。念のため、盗まれないように洗濯を見ながら、お昼ご飯を食べて、晩御飯用にクルミを割ったりして過ごした。
トムは優しい人だ。毎日せっせと働いて、帰ったら私と一緒にご飯を食べる。不便はないか気にしてくれて、その日の話をしながら私にそっと少し多めにスープを入れてくれる。怪盗業のある日は私が寝ていると、起こさないように静かに帰ってくるのだ。
あの夜、屋敷でトムに会えたのは私にとって幸運だった。だけど、本当にトムはあの夜、私を盗むのが目的だったのかな?そのことを聞くと何かが変わってしまいそうで、私は何も知らないふりをして幸せな生活を噛み締めていた。