乾重延(いぬいしげのぶ)

後の時代――、『呪法奇伝』本編において初登場する怨霊。
その時点では長野県砂和市にある蘆屋一族の傍流、天藤家の祖である天藤一成(てんどうかずなり)がその地で封じて、その魂を鎮めるために先祖代々祀られていた。
この『呪法奇伝ZERO』においては、第一章の時点でその悪事を道満と晴明に暴かれ、その後ろ盾であった藤原兼家にも見捨てられた挙げ句に、失意のうちに信濃国は砂和へと流されている。
それ以降の流れは『呪法奇伝』本編に描かれている通りであり――、恨みを持って復讐を誓った重延は、こともあろうに当時人工的な怨霊の制作法を研究していた死怨院乱道の口車に乗り、とある異能の少女を犠牲にして自ら怨霊となっている。
当然、彼本人はそもそも怨霊になるつもりはなかったが、頼った相手が死怨院乱道という最悪な人物であり、それに騙されて命を落とした形となる。
その後、どういう流れで雅辰と出会い、どのような形で平安京へと赴いたかはこれから判明するかもしれない。
その能力は、犠牲となった異能の少女の力を受け継ぎ炎を操ることとされているが、現状は直接炎を操る姿は見られずただ熱病の如き呪詛を周囲に振りまく事しかしてはいない。
この後、どのような流れで『呪法奇伝』本編に繋がるのかは、これから判ることであろう。

藤原兼家(ふじわらのかねいえ)/生没:929~990
平安時代中期の公卿であり、藤原北家・右大臣・藤原師輔の三男。後の時代にも悪名の轟く、かの有名な藤原道長の父親である。
兄である藤原兼通(ふじわらのかねみち)との確執を始めとして、様々な政治闘争の果てにその謀略によって花山天皇を廃位、摂関家の嫡流としての地位を確立して、それ以後、摂関は兼家の子孫が独占することとなる。
政治家としては極めて優秀な人物ではあるが、その野心は果てしなく、かの帝すら自身の出世の駒と見なすほどの野心家であり、多くの人々から恨みを買っている。
それでも、道長に続く一族の天下の基礎を築いた人物としてもあまりに優秀な政治家であり、それ故に安倍晴明は彼を平安京の平穏を守るために必要な存在とみなしている。

藤原為光(ふじわらのためみつ)/生没:942~992
異母兄の伊尹・兼通から可愛がられ、一時は兼家を越す地位を得たこともある公卿。
天元元年に兼家が復権した後は、その地位が再び逆転するが、後も摂関を巡って政争を繰り広げた。
仕えていた師貞親王(もろさだしんのう)が花山天皇として即位すると、その要望に従い藤原忯子を入内させ、彼自身も藤原伊尹の五男で花山天皇の叔父・藤原義懐(ふじわらのよしちか)と二人で帝を補佐した。
しかし、娘である藤原忯子が亡くなり、兼家の策謀で花山天皇が退位すると、それまでの野心は失われてそれ以降娘を弔うために生きた。
その後、権力争いを続けた兼家によって歴史の表舞台へと引き戻されるが、最後までその野心は失われたままであったという。

藤原頼忠(ふじわらのよりただ)/生没:924~989
藤原北家小野宮流の祖である藤原実頼の嫡男であり、最終的には関白太政大臣にまで登り詰めた人物。
藤原兼家の兄・兼通が晩年に重態に陥って伏していた時、当の兼家がその見舞いもせず自邸の門前を素通りした事に兼通は激怒し、そのために後継の関白に頼忠が指名される事となった。
それ以降、関白として帝を支えることになるが、帝との外戚関係が無いゆえにその政治的基盤は不安定でり、さらには源雅信(みなもとのまさのぶ)、後に復権する藤原兼家、そしてさらに後に藤原義懐(ふじわらのよしちか)すらも権力図に加わったことで政治権力が複雑化、政治の停滞を招いて頼忠以下諸大臣が天皇から糾弾される事態にすらなった。
彼は結局最後まで”よその人”と見なされ、完全な権力を握れずに兼家との政争に敗れ、かの『寛和の変』を切っ掛けに藤原義懐等とともにその政治権力を失って失意のうちに亡くなることとなる。

花山天皇(かざんてんのう)/生没:968~1008
永観ニ年に円融天皇(えんゆうてんのう)からの譲位を受けて十七歳で即位。しかし、在位はたったのニ年であった。
当時の政治は複雑化を極め停滞しており、何より花山天皇の即時退位を望む兼家との対立、さらには女性問題も手伝って平安京の政治が大きく変わるきっかけとなってしまう。
寵愛していた女御・藤原忯子が亡くなると深く嘆き悲しみ、出家すら考えるようになるが、それは彼の気性からすると一時的なものであったようで、退位を望まない義懐らによって出家しないように説得される。
――が、兼家の策謀によって、一時の迷いであるはずの出家願望を利用されて退位してしまい、それを止められなかった義懐らもまた彼に続いて出家し、かくして後の兼家一族による政治の掌握につながってしまう。

藤原忯子(ふじわらのよしこ)/生没:969~985
藤原為光の娘であり花山天皇に深く愛された女性。
帝より深い寵愛を受けた忯子は懐妊するが、寛和元年七月十八日に十七歳という若さで死去した。
これにショックを受けた帝は、僧の説教を聞いているうちに「出家して忯子の供養をしたい」と言い始めることとなり、それを兼家に利用されることとなる。
物静かで優しい性格であり、父である為光との間も良好で、とても父親想いの娘であった。そのため、その死は帝だけでなく、父である為光の心にすら影を落とし、それ以降為光は一切の政治的野心を失うこととなる。

懐仁親王(やすひとしんのう)=一条天皇/生没:980~1011
円融天皇の第一皇子にして、藤原兼家の孫。
兼家の陰謀によって花山天皇が早期退位すると、齢七歳という若さで一条天皇として即位することとなる。
無論、幼いゆえに摂政が立てられたが、当然のごとくそれは兼家本人であり、それ以降の兼家による政治支配の始まりとなってしまった。