蘆屋将監は苦しい想いを抱きつつ、配下の者と共に信田の森へと踏み込んだ。
 当然、彼はこの森に葛の葉という白狐がいることを知ってはいるが、それを積極的に探す気にはなれずやはり数日が無駄に過ぎていった。
 その消極的な様子に業を煮やした配下の者たちは、将監への不満を募らせていく。それも当然、都に家族を残しているからである。
 そのような事がさらに数日続き――ついに彼らは我慢の限界を迎えた。
 まず、ある男が言ったのだ。このままでは自分たちは使命を果たすことが出来ぬ――と。
 するとそれに同調する声が次々と上がり始める。そしてそれはやがて大きなうねりとなり、ついには彼らの中で抑えきれぬものとなっていったのである。
 その段になってやっと将監は自らの想いを振り切る決意をする。自分は左大将・橘元方の将なのだ――、その使命に殉じねばならぬ、と。
 無論、そう決心したところで何かが変わるわけでもない。彼はただ、その日も葛の葉が現れることを期待して信田の森を探索し続ける。
 その場の皆に諦めの空気が漂い始めたころ、不意に森の奥で見知った女の影を将監ははっきりと見たのであった。

「あれは……」
「どうされましたか?」

 突然足を止めた彼に、配下の者が不思議そうな顔を向けてくる。しかし、将監はそれを手で制すと、静かに口を開いた。

「しばし待て」

 それだけ言うと彼は目を閉じ、心の中で決意を繰り返す。そして――、目を見開くと同時に勢いよく走り出した。
 彼の視界の中、女の姿は少しずつ大きくなっていく。
 間違いない、あの後ろ姿は自分が探し続けていた相手だ――。
 将監は確信を持ってその後ろ姿を睨みつけた。だが同時に彼の中から湧き上がってくるものがある。
 それは恐怖――、このまま彼女を殺し、それによって彼女を失う恐怖である。

(ああ――、私はやはり――)

 そんな思いが頭をよぎる。
 何度も心の中で決意した誓いが崩れ去り、将監の心を恐怖が埋め尽くしていく。
 結局私は忠義に沿うことが――。そう頭に浮かぶよりも早く、彼女の姿が目の前に現れた。
 まるで彼を待っていたかのように立ち止まった彼女は、ゆっくりと振り返ると微笑んだ。
 ――美しい笑顔だった。

「将監さま――」
「葛の葉」

 その二人の視線が交差して沈黙が周囲を支配する。しかし――、

「いたぞ! あの女こそ白狐の化身よ!」

 そう叫ぶのは石川悪右衛門であった。
 その声に弾かれたように我を取り戻した将監は、慌てて手にしていた刀を構える。その切っ先は確かに震えていた。

「将監さま――」

 葛の葉は何かを悟ったかのように呟く。その言葉を聞いて将監は――、

「葛の葉――、逃げろ」

 そう言ってその刃を集う配下の者へと向けたのであった。

「魅入られたか! 蘆屋将監!」

 石川悪右衛門が叫ぶ。その叫びを聞きながら、将監の心の中に不思議なほど穏やかな気持ちが生まれ始めていた。

(葛の葉を殺すくらいならいっそ……)

 それは彼の心の奥底にあった願いであり、それが今叶おうとしているのである。
 彼は静かに笑った。

 「何を笑っておるか! 気でも狂うたか!?」

 悪右衛門の声などもはや耳に入ってはいなかった。

「葛の葉よ、生きろ――」

 ただ、それだけを言い残して彼は手に持つ刀を振るう。

「将監は女狐に魅入られたぞ!」

 先ほどまで共に探索をしていた配下の者の一人がそう叫ぶ。

「何としても白狐を討つのだ!!」

 他の者たちもそれに呼応し、一斉に刀を手に将監へと襲い掛かった。

「葛の葉よ、愛している――」

 血飛沫を上げながらもなおも振るわれる刀を前に、その場にいた全員が息を飲む。
 その光景をただ悲しげな眼で見つめる葛の葉。そして次の瞬間――、

「将監さま――」

 その瞳から一筋の涙を流すと、葛の葉はその身を振るわれる刃の真っただ中へと投じたのであった。
 ――それは一瞬の出来事であった。
 石川悪右衛門の振るう大太刀が、葛の葉の腹を突き抜け――、そして、

「葛……の葉」
「将……監さま」

 その背後にいる将監諸共串刺しにしていたのである。
 辺り一面に飛び散る鮮血。そして、力なく崩れ落ちる二人。
 それを前にして、ようやく事態を把握した配下の者達が慌てふためく。

「将監さま?!」

 その様子を苦し気な目で見る悪右衛門は、一つ舌打ちすると皆に言った。

「将監さまは狐に魅入られ、我らに刃を向けた……。これは仕方のないことだ」

 その言葉に周りの皆はただ黙って頷くほかはなかった。

「将監さま――」

 ――しかし、葛の葉には意識が残っていた。すぐにその身をひるがえすと、将監の身を抱えて森の奥へと駆けていく。
 その姿に、大いに慌てた悪右衛門達であったが――、すぐに葛の葉の姿は見えなくなってしまった。
 その場に残されたのは、葛の葉と将監の真っ赤な鮮血だけであった。


◆◇◆ 


「将監さま――」

 かつて将監と葛の葉が暮らした屋敷の奥、葛の葉は将監の身を抱えて歩みゆく。
 その部屋の奥に小さな布団が敷いてあり――、

「――将監さま、この子を」

 その布団の隣に葛の葉は将監を横たえる。その布団には、小さな生まれたばかりとわかる赤子が眠っていた。

「葛の葉よ……」

 突然、声を発した将監はゆっくりと目を開く。葛の葉の目には、弱々しくはあるがしっかりとした光が宿っているように見えた。

「私とあなたの子です――」

 葛の葉の言葉を聞いた将監の目は驚きに見開かれる。しかし――、その口元からは優しい笑みがこぼれ始めた。
 それを察したのか赤子が目を覚まして、将監を見て楽しげに笑い始める。

「そうか……、お前との――。なんとまあ――満月(みちたるつき)のような笑顔よ――」

 そう言うと将監は再び目を閉じた。

「ああ――、その行く”道”の先を――、見ることが出来ぬのは、なんと口惜しい――」

 その目から一筋の涙がこぼれる。そして――、

「葛の葉よ、私は幸せだったぞ――」

 そう言い残すと、将監の呼吸は徐々に小さくなり――、

「将監さま――」

 そのまま愛する女と自らの子に見守られながら、蘆屋将監はこの世を去ったのである。

 ――その夜、空に一筋の流星が走った。


◆◇◆


 播摩の国――、蘆屋将監の妹である花町の嫁ぎ先にて――。
 その夜、なぜか眠ることが出来なかった花町は、月夜の下、庭を何ともなしに眺めていた。
 すると――、

「貴方は――将監さまの妹様ですね?」

 不意に自分にどこからか声がかかる。花町が驚き見たその先に、真っ白な毛並みの大狐がいた。

「白狐――? 御仏の使い?」

 ただただ驚く花町をよそに、大狐はその口にくわえた赤子をその場にやさしく寝かせる。

「この子を――、将監さまの子を――、お救いください」
「なんと――兄の?!」
「お願いです――、もう私は――」

 その言葉を最後に、その身を霞のごとく薄くしていく大狐。

「待って! 貴方は?!」
「その子の母――、葛の葉」
「!」
「その子の名は――、”道”に、満月の”満”と書いて――、道満(みちたる)――と」

 その言葉に花町ははっきりと頷く。それをみた大狐は安心した様子で――、

「道満――、健やかに」

 その言葉を最後に消え去ったのであった。

 ――こうして月光の下、道満(みちたる)はその名を母よりいただく。
 それはまさしく満月の光条を示す名であった。