天徳三年――、世は村上帝の時代。
人の目の届かぬ闇は現代に比べてはるかに多く、それゆえにその闇に神秘は宿り人を害することもあった。
その年になって幾度か目の妖魔討伐の折、その将の一人であった蘆屋将監は、戦場で孤立して妖魔の群れに追われて逃走を余儀なくされていた。
追う妖魔の数は五十を数え、とても一人で相手できる数ではない。将監は自身の最後を覚悟し、都に残してきた妻を想った。
「ああ、せめて一度でも我が屋敷に戻って、我が妻に別れを告げることができれば……」
だがそんな想いも、迫る妖魔の気配と死の恐怖の前には脆く崩れ去る。
将監が絶望したその時、突然足元か崩れる。そこは崖の縁、そのまま将監の身体は崖下の川へと落下していった。
「なっ!?」
驚愕の声を上げる間もなく、やがて将監の姿は完全に見えなくなった。
そのまま将監の意識は闇へと没する。――その先に運命の出会いがあるとも知らず。
◆◇◆
ふっと目が覚める。
「ここは……?」
目覚めた場所は川の底ではなく、見知らぬ屋敷の一室の布団の中であった。
(私は……?)
将監は痛む頭を抱えて考える。――いったい自分は誰で、ここは何処なのであろうか?
そう思って自分の身体を見下ろした時、自分が裸であることに気づく。慌てて近くの衣を手に取り身にまとう。
そして改めて周囲を見ると、そこには一人の美しい少女がいた。
歳の頃はまだ十代半ばといったところだろうか? 輝くような銀髪を持つ、それはまるで物語の中から飛び出してきたかのような絶世の美少女だ。
その少女は将監が目覚めていることに気づいていないのか、こちらには背を向けたまま部屋の隅に座っている。
「あー……」
声をかけようとして、しかし何と言っていいかわからず言葉に詰まる。するとそれに気づいたかのように少女が振り向いた。
その顔を見て、思わず息を飲む。――なんという美しさだろう! 月光のような輝きを放つ銀の長髪に白磁のように白い肌、そして宝石のような蒼い瞳は見る者を吸い込むように引きつける魅力を放っていた。
「気がついたんですね!」
その可憐な唇を開いて、鈴の音を思わせる声で少女が言う。
「ああ、えっと……」
少女に見惚れながら、何を言えばいいのかわからずに口ごもる。
そんな将監の様子に首を傾げながらも、少女は安心させるような笑みを浮かべた。
「良かった。なかなか目を覚まさないから心配していたんですよ」
言って、将監の方へ歩み寄ってくる。
「えっと、君は……?」
「私ですか? 私はこの屋敷の主で葛の葉といいます」
「……葛の葉。それで……」
将監は困った表情で葛の葉に問う。
「私は誰なのでしょう?」
「!!」
そのある意味惚けた問に、驚いた表情を向ける葛の葉。――そう、将監はそれまでの記憶を失っていたのである。
「何も覚えていないんですか?」
「はい……。申し訳ありません」
「謝ることなんて無いですよ。妖魔に襲われた時に頭を打たれたのでしょうから」
「妖魔に襲われて……?」
「覚えていませんか? あなたは崖の下を流れる川に転落して、危うく溺れ死ぬところでしたよ?」
「そうだったのですか」
葛の葉の言葉を聞いて、将監は自分の置かれた状況を理解する。記憶はいまだにないのだが。
「では私がここに居るのは貴方のお陰ということですね?」
「まあ、本当は救うつもりはありませんでしたが」
「え?」
その言葉に将監は疑問を抱く。不審な目を受けた少女は小さく笑って言った。
「本当はわたくしは他人と深く関わってはいけない役目を持つのです」
「それはどういう……?」
「今は気にしないで下さい。それよりもお腹空いていませんか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「遠慮することはありませんよ。今食事を持ってきてもらいますから。……ああ、そうだ」
ふと思い出したように、葛の葉は懐に手を入れる。
「これ、お返ししますね」
差し出された手の上に載っていたものは一枚の布切れであった。それを目にした瞬間、将監の脳裏に何かが浮かびそうになったが激しい頭痛がそれを阻む。
それが、おそらく自分にとっての大事なものであることは理解できたが、それ以上の事はわからなかった。
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
将監はその布をじっと見つめていたが、やがて決心したようにそれを受け取る。
「ありがとう」
「礼など必要ありません。私は当然のことをしているだけですから」
言って微笑む葛の葉の顔を見ながら、将監はその向こうに何者かの面影を見ていた。
だがそれが誰なのかを思い出す前に、将監の意識は再び闇へと沈んでいった――。
◆◇◆
それから一か月余り――、傷が癒えるまでの間、将監は彼女の屋敷で生活することとなった。
初めはぎこちなくよそよそしかった彼女も、次第に将監に心を開き、そして――、
自然に二人はお互いを想いあう間柄となっていった。そう、彼女は、葛の葉は将監の妻となったのである。
「葛の葉……」
ある日の昼下がり、将監は庭に出て愛しい妻の姿を探す。しかしそこに葛の葉の姿はなかった。
いつもなら自分の姿を見つけるとすぐに駆け寄ってきてくれるはずの彼女が居ないことに不安を感じて、彼は屋敷の中を捜し始めた。
やがてたどり着いたのは将監と葛の葉の寝所であった。そこで将監はようやく目的の人物の姿を見付ける。
「何をやってるんだ?」
「あ……」
振り返った葛の葉の手には布が握られている。それはかつて何かを思い出しそうになった布。
「貴方は――」
葛の葉がいつになく悲しげな顔でその布を胸に抱く。
「帰るべきところに帰らねばなりません」
「帰る? いったいどこにだ?」
「……」
「葛の葉のいる此処以外に、帰るべきところなどないだろう?」
無言で顔を背ける葛の葉に、将監は一歩詰め寄る。
「その布の意味がなんだと? 俺は一体どこに帰れというのだ?」
「……」
「葛の葉っ!」
肩を掴み、こちらに振り向かせる。
「あ……」
振り向いた葛の葉の目には涙があった。その表情を見た瞬間、将監の頭の中に様々な光景がフラッシュバックする。
(これは……)
自分が妖魔討伐のための、都の将の一人であった事。妖魔に追われて川に落ちたこと。そして――、
(俺の記憶!?)
突然蘇ってきた記憶に混乱しながらも、将監はあることに気づいて愕然とした表情を浮かべる。
布の正体が――、都に残してきた妻が持たせてくれた物であったこと。
葛の葉は言う。
「本当は――あなたは早々に記憶を取り戻すはずでした。しかし、私がそれを望まなかった」
「どうして……」
「あなたは都に戻れば再び戦いに身を置くことになるでしょう。だから……」
「でも、もう思い出してしまった」
「はい……」
「葛の葉……」
「お願いです、帰ってください。私の愛する人……」
その言葉に、将監は葛の葉を強く抱きしめた。
「嫌だ! 俺は絶対に葛の葉の側を離れない!!」
「駄目です、貴方には本来愛している、そして帰りを待つ人がいるのですから……」
「それは……」
「私は大丈夫です……、貴方に大事なものをいただきました」
「葛の葉」
「将監様――、私の愛した人――、私は本当は――」
次の瞬間、葛の葉の身がまばゆく輝く。そして、その姿は美しい銀の毛並みの大狐となっていた。
「葛の葉――、白狐――」
あまりの事に将監は言葉を失う。
「さようなら将監様――、いつまでもあなたを想っています」
その姿は光と共に霞のごとく消えていく。
「葛の葉!」
将監はただその場で叫ぶほかはなかったのである。
人の目の届かぬ闇は現代に比べてはるかに多く、それゆえにその闇に神秘は宿り人を害することもあった。
その年になって幾度か目の妖魔討伐の折、その将の一人であった蘆屋将監は、戦場で孤立して妖魔の群れに追われて逃走を余儀なくされていた。
追う妖魔の数は五十を数え、とても一人で相手できる数ではない。将監は自身の最後を覚悟し、都に残してきた妻を想った。
「ああ、せめて一度でも我が屋敷に戻って、我が妻に別れを告げることができれば……」
だがそんな想いも、迫る妖魔の気配と死の恐怖の前には脆く崩れ去る。
将監が絶望したその時、突然足元か崩れる。そこは崖の縁、そのまま将監の身体は崖下の川へと落下していった。
「なっ!?」
驚愕の声を上げる間もなく、やがて将監の姿は完全に見えなくなった。
そのまま将監の意識は闇へと没する。――その先に運命の出会いがあるとも知らず。
◆◇◆
ふっと目が覚める。
「ここは……?」
目覚めた場所は川の底ではなく、見知らぬ屋敷の一室の布団の中であった。
(私は……?)
将監は痛む頭を抱えて考える。――いったい自分は誰で、ここは何処なのであろうか?
そう思って自分の身体を見下ろした時、自分が裸であることに気づく。慌てて近くの衣を手に取り身にまとう。
そして改めて周囲を見ると、そこには一人の美しい少女がいた。
歳の頃はまだ十代半ばといったところだろうか? 輝くような銀髪を持つ、それはまるで物語の中から飛び出してきたかのような絶世の美少女だ。
その少女は将監が目覚めていることに気づいていないのか、こちらには背を向けたまま部屋の隅に座っている。
「あー……」
声をかけようとして、しかし何と言っていいかわからず言葉に詰まる。するとそれに気づいたかのように少女が振り向いた。
その顔を見て、思わず息を飲む。――なんという美しさだろう! 月光のような輝きを放つ銀の長髪に白磁のように白い肌、そして宝石のような蒼い瞳は見る者を吸い込むように引きつける魅力を放っていた。
「気がついたんですね!」
その可憐な唇を開いて、鈴の音を思わせる声で少女が言う。
「ああ、えっと……」
少女に見惚れながら、何を言えばいいのかわからずに口ごもる。
そんな将監の様子に首を傾げながらも、少女は安心させるような笑みを浮かべた。
「良かった。なかなか目を覚まさないから心配していたんですよ」
言って、将監の方へ歩み寄ってくる。
「えっと、君は……?」
「私ですか? 私はこの屋敷の主で葛の葉といいます」
「……葛の葉。それで……」
将監は困った表情で葛の葉に問う。
「私は誰なのでしょう?」
「!!」
そのある意味惚けた問に、驚いた表情を向ける葛の葉。――そう、将監はそれまでの記憶を失っていたのである。
「何も覚えていないんですか?」
「はい……。申し訳ありません」
「謝ることなんて無いですよ。妖魔に襲われた時に頭を打たれたのでしょうから」
「妖魔に襲われて……?」
「覚えていませんか? あなたは崖の下を流れる川に転落して、危うく溺れ死ぬところでしたよ?」
「そうだったのですか」
葛の葉の言葉を聞いて、将監は自分の置かれた状況を理解する。記憶はいまだにないのだが。
「では私がここに居るのは貴方のお陰ということですね?」
「まあ、本当は救うつもりはありませんでしたが」
「え?」
その言葉に将監は疑問を抱く。不審な目を受けた少女は小さく笑って言った。
「本当はわたくしは他人と深く関わってはいけない役目を持つのです」
「それはどういう……?」
「今は気にしないで下さい。それよりもお腹空いていませんか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「遠慮することはありませんよ。今食事を持ってきてもらいますから。……ああ、そうだ」
ふと思い出したように、葛の葉は懐に手を入れる。
「これ、お返ししますね」
差し出された手の上に載っていたものは一枚の布切れであった。それを目にした瞬間、将監の脳裏に何かが浮かびそうになったが激しい頭痛がそれを阻む。
それが、おそらく自分にとっての大事なものであることは理解できたが、それ以上の事はわからなかった。
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
将監はその布をじっと見つめていたが、やがて決心したようにそれを受け取る。
「ありがとう」
「礼など必要ありません。私は当然のことをしているだけですから」
言って微笑む葛の葉の顔を見ながら、将監はその向こうに何者かの面影を見ていた。
だがそれが誰なのかを思い出す前に、将監の意識は再び闇へと沈んでいった――。
◆◇◆
それから一か月余り――、傷が癒えるまでの間、将監は彼女の屋敷で生活することとなった。
初めはぎこちなくよそよそしかった彼女も、次第に将監に心を開き、そして――、
自然に二人はお互いを想いあう間柄となっていった。そう、彼女は、葛の葉は将監の妻となったのである。
「葛の葉……」
ある日の昼下がり、将監は庭に出て愛しい妻の姿を探す。しかしそこに葛の葉の姿はなかった。
いつもなら自分の姿を見つけるとすぐに駆け寄ってきてくれるはずの彼女が居ないことに不安を感じて、彼は屋敷の中を捜し始めた。
やがてたどり着いたのは将監と葛の葉の寝所であった。そこで将監はようやく目的の人物の姿を見付ける。
「何をやってるんだ?」
「あ……」
振り返った葛の葉の手には布が握られている。それはかつて何かを思い出しそうになった布。
「貴方は――」
葛の葉がいつになく悲しげな顔でその布を胸に抱く。
「帰るべきところに帰らねばなりません」
「帰る? いったいどこにだ?」
「……」
「葛の葉のいる此処以外に、帰るべきところなどないだろう?」
無言で顔を背ける葛の葉に、将監は一歩詰め寄る。
「その布の意味がなんだと? 俺は一体どこに帰れというのだ?」
「……」
「葛の葉っ!」
肩を掴み、こちらに振り向かせる。
「あ……」
振り向いた葛の葉の目には涙があった。その表情を見た瞬間、将監の頭の中に様々な光景がフラッシュバックする。
(これは……)
自分が妖魔討伐のための、都の将の一人であった事。妖魔に追われて川に落ちたこと。そして――、
(俺の記憶!?)
突然蘇ってきた記憶に混乱しながらも、将監はあることに気づいて愕然とした表情を浮かべる。
布の正体が――、都に残してきた妻が持たせてくれた物であったこと。
葛の葉は言う。
「本当は――あなたは早々に記憶を取り戻すはずでした。しかし、私がそれを望まなかった」
「どうして……」
「あなたは都に戻れば再び戦いに身を置くことになるでしょう。だから……」
「でも、もう思い出してしまった」
「はい……」
「葛の葉……」
「お願いです、帰ってください。私の愛する人……」
その言葉に、将監は葛の葉を強く抱きしめた。
「嫌だ! 俺は絶対に葛の葉の側を離れない!!」
「駄目です、貴方には本来愛している、そして帰りを待つ人がいるのですから……」
「それは……」
「私は大丈夫です……、貴方に大事なものをいただきました」
「葛の葉」
「将監様――、私の愛した人――、私は本当は――」
次の瞬間、葛の葉の身がまばゆく輝く。そして、その姿は美しい銀の毛並みの大狐となっていた。
「葛の葉――、白狐――」
あまりの事に将監は言葉を失う。
「さようなら将監様――、いつまでもあなたを想っています」
その姿は光と共に霞のごとく消えていく。
「葛の葉!」
将監はただその場で叫ぶほかはなかったのである。