「――さん、心優さん!」

 意識の遠くで、そう私を呼ぶ声がした。
 少し低くて、優しい声が耳元で聞こえる。
 アラームが鳴るより先に、そうして私は覚醒した。

 「うぅん、どうかしたの……?」

 重い瞼を持ち上げて、視界を開く。
 目の前――鼻先が触れそうなほどすぐ間近に、琉夏の綺麗な顔があった。

 「――きゃぁあ!?」

 驚いて変な声をあげてしまった。
 ばっと起き上がって離れようとすると、ベッドから落ちそうになる。
 慌てた琉夏に、後ろから抱き留められてしまった。

 「大丈夫ですか!?」

 「ごめん、大丈夫……。」

 いつも通り背を向けて寝たのに、目の前に琉夏がいて驚いてしまった。
 そりゃあ寝返りを打つこともあるし、琉夏はぴったりくっついているのだから、こうなることだってあり得る。
 何をしているんだ私は。過剰に驚いて、琉夏を心配させてしまった。

 「本当に、大丈夫ですか? 顔をぶつけたりしてませんか?」

 「してないよ。……大丈夫だから、ちょっと離してほしいなぁ、なんて。」

 ぎゅっと抱きしめたまま顔を覗き込んでくる琉夏に、顔を見ないまま頼む。
 顔が赤くなっている気がして隠しているだけで、どこもぶつけていない。

 「わかりました。驚かせたようで、すみません。」

 「大丈夫。過剰に驚いちゃったね、ごめん。」

 琉夏がそっと手を離してくれたので、ベッドから降りてスマホを手に取る。
 時刻は6時45分。スマホの画面を消して、琉夏の方に目を向けた。

 「ところで、どうかしたの?」

 「起きなくて大丈夫なのかな、と思いまして……。」

 「ああ、ごめんありがとう。」

 確かに、私はいつも6時半に起きている。
 今日はアラームも鳴らず、私も一向に起きなかったから、遅刻を心配してくれたのだろう。

 「今日は土曜だからいいんだよ。学校休みなんだ。」

 「そうだったんですか。起こしてしまってすみません。」

 私が笑ってスマホの画面を見せると、琉夏は申し訳なさそうに謝った。

 「いいよ。起こしてくれてありがとう。」

 言いながら窓の方へ行って、カーテンを開ける。
 大きな窓から光が差し込んで、部屋中が明るくなった。

 「早起きした方が、琉夏と沢山話せるしね。今日は何しようか!」

 「そう、ですね。おはようございます!」

 私が問いかけると、琉夏は思い出したように挨拶をしてくれる。
 私もニコリと笑って、「おはよう!」と返した。





 ――軽やかなピアノの音が響く。
 大きめの窓から入ってきた風が、音を拾って逃げていった。

 今日も琉夏は、昨日と同じ曲を弾いている。
 私が聴きたいと頼んだからだが、本人も楽しそうだ。

 私と話している時も、買い物をしている時も、掃除をしている時も、琉夏は楽しそうに微笑んでいる。
 それでもやっぱり、今が一番楽しそうに見える。

 それだけ、この曲が大好きなのだろう。
 琉夏がこの曲を愛しているから、こんなに素敵で、暖かい曲になるのだろう。

 演奏が終わり、琉夏が鍵盤から手を離す。
 私はすぐに、パチパチと手を叩いた。

 「……やっぱり何度聞いても素敵な曲。琉夏が弾くから、こんなに素敵に聴こえるんだろうね。」

 「それなら、琉莉が弾くともっと素敵になりますよ。」

 そして、この曲と同じくらい、いや、それ以上に琉莉さんのことが好きなのだろう。
 私にとって琉夏の演奏がそうであるように、琉夏にとっては、琉莉さんの演奏が何よりも素晴らしいんだ。
 少し複雑な気持ちになりながら、「そうだね。」と頷いた。

 「――心優さん。」

 「どうしたの?」

 少し沈黙があった後、琉夏が少し畏まって聞いてくる。
 どうしたんだろう、などと思いながら、首を傾げてみた。

 「昨日、感想や思いは人それぞれだと言いましたよね。」

 「うん。」

 確かに言った。それがどうかしたのだろうか。
 私がますます首を傾げると、琉夏は言い辛そうに口を開いた。

 「その……心優さんが、この曲をどう感じたのか、お聞きしてもいいですか?」

 「私が?」

 私が聴き返すと、琉夏は体ごと向き直って、真剣な表情で頷いた。

 「知りたいんです。心優さんがこの曲を、どう感じているのか。」

 琉夏は、わからないと言っていた。
 好きだと、素敵だと感じていても、それをどう表すのかがわからないと。

 「……好きだよ。雨音みたいで、暖かいから。」

 「雨音?」

 私が零すように答えると、琉夏は不思議そうに首を傾げた。
 ピアノの流れるような旋律と、ぽつぽつと聞こえる雨音は似ても似つかないかもしれない。

 「そう。私、雨音を聴くのが好きなんだ。」

 それでも私には、似たものに聞こえた。

 「聴いていると、心が温かくなるような優しい音。この曲も、同じ感じがする。」

 「……琉莉は、雨が苦手でした。濡れると冷たくなるから。」

 私が微笑んで返すと、琉夏が小さな声で言った。
 それもわかる。雨は一般的には、冷たいものとされるだろう。

 「僕が外に出るのは、よく晴れた日でした。だから雨に触れたのは、この間が初めてなんです。」

 わざわざ天気の悪い日に、アンドロイドを外に出したりはしないだろう。
 となると、琉夏にとって雨は、中々悲しいものになっているのではないか。
 あの日の大雨は、琉夏の涙代わりだったのかもしれない。

 「“共感もしてもらえないかもしれない”って言ったよ?」

 「いえ、共感できますよ。僕も琉莉と同じで、雨は冷たいんだな、と思いましたけど――」

 琉夏はそっと目を閉じて、自身の左胸辺りを押さえる。
 優しく細められた水色の瞳が、真っ直ぐに私を見た。

 「心優さんが声をかけてくれたので、暖かいです。」

 にこっと微笑む琉夏を、つい目を丸くして見てしまった。
 なんとなくドキッとしてしまって、慌てて目を逸らす。
 その視線こそが、暖かい。
 愛の籠ったその視線を、私に向けてくれることがあるなんて、思っていなかった。

 「……ちょっと、私もピアノ弾いてもいい?」

 「勿論です。どうぞ。」

 琉夏が立ち上がって、椅子を譲ってくれる。
 四角いピアノ椅子に座って、鍵盤に両手を添えた。
 琉夏の演奏が、耳の奥でまだ優しく響いている気がする。

 目を閉じて、そんな想像上の音に聴き入ってから、鍵盤を押し込んだ。

 後ろで見ていた琉夏が、息を呑んだ気がした。
 私が弾いたのは、琉夏がさっき引いたものと同じ曲。

 「――どうかな?」

 流石に、初めの方しか弾けなかった。
 途中で曲を止めて、琉夏の方を振り返ってみる。
 琉夏は驚いたように丸くした目で私を見ていた。

 「……知ってたんですか?」

 「ううん、琉夏のを聴いて、覚えてみた。」

 琉夏はぱちぱちと目を瞬いている。
 私がピアノを弾けることも言っていなかったので、余計驚いているのだろう。

 「連弾、したいなって。」

 「……はい! 僕も、是非やりたいです!」

 琉夏は嬉しそうに目を輝かせて返事をしてくれた。
 そのためには、私がちゃんと弾けるようにならなくては。

 「続きも頑張るから、教えてくれる?」

 「任せてください。隣失礼しますね。」

 私が椅子の端に寄ると、琉夏が一言断ってから隣に座った。
 長方形タイプのピアノ椅子だから2人でも座れるが、少し狭くて肩が触れる。

 「次はですね――」

 生き生きとした様子の琉夏の横顔は、綺麗で、それでいてどこか可愛らしい。
 私が弾けるようになったら、もっと喜んでくれるだろうか。

 頑張らないとな、と思って、琉夏の指先を見つめた。